ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:後亀山天皇

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 今日は、室町時代の1392年(元中9/明徳3)の閏月に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って、南北朝動乱が終結して南北朝合一が実現し、北朝の元号「明徳」に統一された日ですが新暦では11月19日となります。
 南北朝動乱(なくぼくちょうどうらん)は、一般には、南北朝時代とも呼ばれてきました。1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、南北朝動乱が始まります。
 この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在し、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)に室町幕府第3代将軍足利義満によって、南北朝合一(明徳の和約)に至り、動乱は収まります。
 この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどりました。また、農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
 尚、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われてきました。
 
〇南北朝動乱関係略年表 (日付は旧暦です)

<正慶2/元弘3年(1333年)> 
・5月22日 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する 

<正慶2/元弘3年(1334年)> 
・1月 後醍醐天皇により建武の新政が行われる 

<建武2年(1335年)> 
・7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する 
・10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する 
・12月11日 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる 

<延元元/建武3年(1336年)> 
・5月25日 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する 
・5月29日 尊氏方に京都が占領される 
・8月15日 光明天皇が擁立される 
・10月13日 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る 
・11月7日 足利尊氏により「建武式目」が制定される 
・12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる 

<延元2/建武4年(1337年)> 
・3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる 

<延元3/暦応元年(1338年) 
・3月6日 越前金ヶ崎城が陥落する 
・5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる 
・閏7月2日 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる 
・8月11日 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く 

<延元4/暦応2年(1339年)> 
・8月16日 後醍醐天皇が吉野で亡くなり、後村上天皇が即位する 

<延元6/興国2年(1341年)> 
・12月 足利尊氏が天竜寺船を元に送ることを免許する 

<正平2/貞和3年(1347年)>
・11月 楠木正成の子正行、後村山天皇方の武将として、尊氏方をせめる 

<正平3/貞和4年(1348年)> 
・1月5日 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍) 
・6月 直義、尊氏の執事高師直と不和になる 

<正平4/貞和5年(1349年)> 
・9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる 

<正平5/観応元年(1350年)> 
・10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~1352年)) 

<正平6/観応2年(1351年)> 
・8月 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統) 

<正平7/観応3年(1352年)> 
・2月 南朝軍は約束を破って京都に侵入する 
・2月26日 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する 
・7月 「観応半済令」が出される 

<正平8/観応4年(1353年)> 
・6月 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平10/観応6年(1355年)> 
・1月 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平11/延文元年(1356年)> 
・8月23日 足利義詮が従三位に昇叙する 

<正平13/延文3年(1358年)> 
・4月30日 足利尊氏が亡くなる 
・12月18日 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 

<正平16/延文6年(1361年)> 
・細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る 
・南朝軍が入京する 

<正平17/康安2年(1362年)> 
・幕府・北朝側が京都を奪還する 
・7月 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される 

<正平18/貞治2年(1363年)> 
・1月28日 足利義詮が権大納言に転任する 
・大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、政権が安定化しはじめる 
・7月29日 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元 

<正平20/貞治4年(1365年)> 
・2月 足利義詮が三条坊門万里小路の新邸に移る 

<正平21/貞治5年(1366年)> 
・8月 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変) 

<正平22/貞治6年(1367年)> 
・1月5日 足利義詮が正二位に昇叙する 
・11月 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す 
・12月7日 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる 

<正平23/応安元年(1368年)> 
・3月11日 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・6月17日 「応安半済令」が出される 
・12月30日 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する 

<建徳2/応安4年(1371年)> 
・足利義満が今川了俊に九州統一を命じる 

<建徳3/応安5年(1372年)> 
・11月22日 足利義満が判始の式を行なう 

<天授4/永和4年(1378年)> 
・3月 足利義満が室町に新邸(花の御所)を造営して移住する 

<天授5/康暦元年(1379年)> 
・閏4月14日 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる 

<弘和2/永徳2年(1382年)> 
・1月26日 足利義満が左大臣となる 
  足利義満が開基として相国寺の建立を開始する 

<弘和3/永徳3年(1383年)> 
・1月14日 足利義満が准三后宣下を受ける 

<元中3/至徳3年(1386年)> 
・7月10日 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする 

<元中5/嘉慶2年(1388年)> 
・足利義満が東国の景勝遊覧に出かける 

<元中7/明徳元年(1390年)> 
・閏3月 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される 

<元中8/明徳2年(1391年)> 
・12月 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される 

<元中9/明徳3年(1392年)> 
・10月27日 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する 
・閏10月5日 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、北朝の元号「明徳」に統一される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、室町時代の1424年(応永31)に、第99代(南朝第4代)の天皇とされる後亀山天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月10日となります。
 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の1350年(正平5/観応元)頃?に、第97代(南朝第2代)の天皇とされる後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれましたが、名は熙成(ひろなり)と言いました。1368年(正平23/応安元)に立太子し、皇太弟として既に兄の長慶天皇の政務を補佐していたとされます。
 和歌を能くし、1375年(天授元/永和元)に『五百番歌合』に「源資氏」、1376年(天授2/永和2)に『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進したのではと考えられてきました。1392年(元中9/明徳3)に、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉が始められ、翌年閏10月に、①譲位の儀をもって神器を北朝の後小松天皇へ授けること、②皇統は両統迭立たること、③国衙領は大覚寺統の領地とすること、④長講堂領は持明院統の領地とすることを条件として、南北両朝合一によって京都へ還幸し、退位します。1394年(応永元)に京都・天竜寺においてはじめて室町幕府第3代将軍足利義満と面会、太上天皇の尊号が贈進されることとなりました。しかし、1397年(応永4)に、尊号および兵仗を辞退し、出家して金剛心と号し、隠遁生活に入ります。
 1408年(応永15)の義満没後は、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、1410年(応永17)には、突如嵯峨を出奔、吉野山に入りました。続いて、伊勢国司北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったものの、1415年(応永22)に、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立し、1416年(応永23)には、広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還します。
 その後、1424年(応永31年4月12日)に、京都の大覚寺でおよそ数え年75歳で亡くなり、御陵は同寺近くの嵯峨小倉陵(現在の京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町)とされました。

<後亀山天皇の代表的な和歌>

・「いかがせむ しぐれて渡る 冬の日の みじかき心 くもりやすきを」(後亀山院千首和歌)

〇後亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1350年(正平5年/観応元年)? 後村上天皇の第2皇子(母は阿野実為の娘)として生まれる
・1365年(正平20年/貞治4年) 『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として詠進する
・1368年(正平23年/応安元年) 立太子する
・1375年(天授元年/永和元年) 『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進する
・1376年(天授2年/永和2年) 『千首和歌』に「光長朝臣」の隠名で詠進する
・1383年(弘和3年/永徳3年)冬 長慶天皇の譲位を受けて践祚する
・1392年(元中9年/明徳3年) 和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して南北朝合一の下交渉を始める
・1393年(元中9年/明徳3年閏10月) 南北両朝合一によって退位する
・1394年(応永元年2月6日) 天竜寺においてはじめて義満と面会する
・1394年(応永元年2月23日) 天皇に太上天皇の尊号が贈進される
・1397年(応永4年11月27日) 尊号および兵仗を辞退する
・1410年(応永17年11月27日) 突如嵯峨を出奔、吉野山に入る
・1412年(応永19年) 称光天皇が践祚する
・1415年(応永22年) 称光天皇践祚に反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するが、説成親王の調停によって幕府との和睦が成立する
・1416年(応永23年9月) 広橋兼宣らの仲介で京都へ帰還する
・1424年(応永31年4月12日) 京都の大覚寺で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1573年(元亀4)戦国大名武田信玄の命日(新暦5月13日)詳細
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