ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:律令制

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 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出された日ですが、新暦では6月30日となります。
 浮浪・逃亡(ふろう・とうぼう)は、古代律令体制下で、農民などが戸籍・計帳に登録されている本籍地から離脱した状態にあることでした。厳密には、本籍地を離れた者の内で、他国にあっても課役をすべて負担している場合を浮浪、課役を負担していない場合を逃亡と言うとされています。
 すでに奈良時代初頭には、この実態が顕著になり、715年(霊亀元年5月1日)には、「浮浪の扱いに関する勅」で、諸国の朝集使に対して、浮浪の事実を追認して、3ヶ月を経過している者は、現地で把握して、調・庸を徴収するように命じました。717年(養老元年5月17日)には、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出され、これらの人民を王族・臣下が本籍地の役所を通さずに私的に使用することが禁止されていて、あらためて罰するように命じ、僧尼になるのも16歳以下の者が国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならないと厳命しています。
 その後も、この状況は続き、計帳を見るとその1割近くが浮浪・逃亡していたとされていました。しかし、後を絶たないので、8世紀末にはついに「浮浪人帳」を作成し、現地で把握して、調・庸を徴収するようにしています。
 これらのことは、律令制を揺るがせ、徐々に荘園制へと移っていくことにもなりました。
 以下に、『続日本紀』の卷第六霊亀元年(715年)5月1日の「浮浪の扱いに関する勅」と卷第七(元正紀一)養老元年(717年)5月の条の「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』卷第六(元明紀三) 霊亀元年(715年)5月1日「浮浪の扱いに関する勅」

<原文>

霊亀元年五月辛巳朔。勅諸国朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。経三月以上者。即云断輸調庸。随当国法。

<読み下し文>

霊亀元年五月辛巳朔。諸国の朝集使[1]に勅して日く、「天下の百姓[2]、多く本貫[3]に背きて、他郷に流宕[4]して課役[5]を規避[6]す。其の浮浪[7]逗留[8]して、三月以上を経たる者は、即ち土断[9]して調[10]庸[11]を輸さしむること、当国の法に随え。」

【注釈】

[1]朝集使:ちょうしゅうし=律令制で、四度の使いの一。国・群の公文書を中央に進上する役人。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]本貫:ほんがん=本籍・ 本籍地のこと。律令制下では戸籍に記された土地。
[4]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[8]逗留:とうりゅう=旅先などに一定期間とどまること。滞在。
[9]土断:どだん=移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせること。土着。
[10]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[11]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。

<現代語訳>

霊亀元年(715年)5月1日。諸国の朝集使に対して、天皇から命令が出された。「諸国の人民、多くが本籍地を離れて、他国に流浪のまますごして租税や労役を巧妙にのがれている。その本籍を離れて他国に流浪して一定期間とどまっていて、3ヶ月以上を経過した者は、すなわち移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせ調・庸を負担させることとし、その国の法に従わせよ。」と
 
〇『続日本紀』卷第七養老元年(717年)5月の条「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」

<原文>

丙辰。詔曰。率土百姓。浮浪四方。規避課役。遂仕王臣。或望資人。或求得度。王臣不經本属。私自駈使。囑請國郡。遂成其志。因茲。流宕天下。不歸郷里。若有斯輩。輙私容止者。揆状科罪。並如律令。又依令。僧尼取年十六已下不輸庸調者聽爲童子。而非經國郡。不得輙取。又少丁已上。不須聽之。

<読み下し文>

丙辰。詔して曰はく、「率土[1]の百姓[2]、四方[3]に浮浪[4]して、課役[5]を規避[6]し、遂に王臣[7]に仕えて、或は資人[8]を望み、或は得度[9]を求む。王臣[7]、本属[10]を経ずして、私に自ら駈使[11]し、国郡に嘱請[12]して、遂にその志を成す[13]。茲に因りて、天下に流宕[14]して、郷里に帰らず。若し斯の輩[15]有りて、輙く私に容止[16]せば、状を揆り[17]て罪を科せむこと、並に律令[18]の如くせよ。また、令に依るに、僧尼は年十六以下の庸[19]・調[20]を輸さぬ者を取りて童子[21]とすることを聴す。而れども国郡を経るに非ずは、輙く取ることを得じ。また、少丁[22]以上は聴すべからず。」と。

【注釈】

[1]率土:そつど=陸地の続くかぎり。国の果て。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[4]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]王臣:おうしん=王の家来。天皇の臣下。 上級官僚である王族・臣下。
[8]資人:しじん=律令制における下級官人。親王や上級貴族に仕え,雑役・護衛にあたった。
[9]得度:とくど=剃髪して出家具戒すること。僧侶になること。古代では国家から許可されることによって出家となった。
[10]本属:ほんぞく=律令制で、その人の本籍の地の役所。また、その人の生まれ育った家や土地。
[11]駈使:くし=追いたてて使うこと。こき使うこと。「
[12]嘱請:しょくせい=頼み込むこと。
[13]志を成す:こころざしをなす=思い通りにする。
[14]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[15]輩:ともがら=同類の人々をさしていう語。仲間。
[16]容止:ようし=かくまうこと。
[17]揆り:はかり=はかり考え。やり方や方法を考え。
[18]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令で、律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[19]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。
[20]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[21]童子:どうじ=寺院へ入ってまだ得度剃髪せずに、仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年。
[22]少丁:しょうてい=大宝令制で、17歳以上20歳以下の男子の称。正丁の四分の一の税を負担した。

<現代語訳>

5月17日。詔の中で次のように述べられた。「国の果てまでの人民が、本籍を離れて諸国に流浪して、租税や労役を巧妙にのがれ、ついには王族・臣下に仕え、あるいは下級官人を望み、あるいは僧侶になることを求めている。王族・臣下の方でも、本籍の地の役所を通さずに、私的に自ら追い使い、国司や郡司に頼み込んで、ついにその思い通りにしてしまう。このために、世間に流浪のまま過ごして、郷里に帰らなくなってしまう。もしこのような連中がいて、軽々しく私的にかくまうならば、状況をはかり考え、罪を科すこと、律令のごとくにせよ。また、令によると、僧尼は16歳以下の庸・調を出さない者から選んで、寺院に入って修行する者とすることが許されている。けれども国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならない。また、少丁(17歳以上20歳以下の男子)以上の者は許されるものではない。」と。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する詳細
1890年(明治23)府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される

詳細

 「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される詳細
1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細


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 今日は、平安時代中期の967年(康保4)に、律令政治の基本細則「延喜式」が施行された日ですが、新暦では8月17日となります。
 「延喜式(えんぎしき)」は、律令の施行細則を取捨・集大成したもので、「弘仁式」、「貞観式」と共に三代格式の一つとされてきました。905年(延喜5)に醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らによって編集を開始し、「弘仁式」、「貞観式」とその後の式を取捨編集、927年(延長5)に完成して撰進されます。
 その後も改訂を重ね、967年(康保4年7月9日)より施行されましたが、のちの律令政治の基本法となりました。
 全50巻、約3300条からなり、巻1~巻10は神祇官関係の式(そのうち神名式は神名帳ともよばれる)、巻11~巻40は太政官八省関係の式、巻41~巻49はそれ以外の官庁関係の式、巻50は雑式となっていて、全巻がほぼ完全な形で伝わっているため、古代政治を把握するうえで貴重な史料となっています。
 以下に、その構成と927年(延長5年12月26日)に、藤原忠平が天皇に奏上した完成報告書「上延喜格式表」、および延喜式の沿革と意義、編集者名、苦労を綴った「延喜式序」を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「延喜式」の構成

<神祇官関係の式(神祇式)>巻1~巻10
 巻1・巻2 - 定例祭 (通称:四時祭、四時祭式など)
 巻3 - 臨時祭 (通称:四角祭・四角祭式、四境祭・四境祭式、四角四堺祭など)
 巻4 - 大神宮
 巻5 - 斎宮
 巻6 - 斎院
 巻7 - 踐祚大嘗祭
 巻8 - 祝詞
 巻9・巻10 - 神名帳(通称:延喜式神名帳)
<太政官八省関係の式>巻11~巻40
 巻11 - 太政官
 巻12~17 - 中務省
 巻18~20 - 式部省
 巻21 - 治部省
 巻22~27 - 民部省
 巻28 - 兵部省
 巻29 - 刑部省
 巻30 - 大蔵省
 巻31~40 - 宮内省
<その他の官司関係の式>巻41~巻49
 巻41 - 弾正台
 巻42 - 京職
 巻43 - 春宮
 巻44 - 勘解由使
 巻45 - 近衛府
 巻46 - 衛門府
 巻47 - 兵衛府
 巻48 - 馬寮
 巻49 - 兵庫寮
<雑式>巻50
 巻50 - 雑式

〇上延喜格式表

 臣忠平等言。竊以天覆地載,聖帝則之育民,陰慘陽舒,明王象之馭俗。雖則朴盡雕至,馳騖之跡,古今不同。然而立法垂規,勸誡之道,夷隆一致。
 嵯峨太上皇,化周天壤,澤覃淵泉,制格式之明文,貽簡冊於昆季。六典群其綱紀,百寮無所依違。斯固納軌之楷模,經國之准的者也。貞觀先帝,繼受寶命,誕膺洪基。救百王之澆醨,導萬民於富壽。憲章所可以疊矩,凡例由其重規。暨乎年代稍遐,質文遞起,莫不變通之道,南北分岐;號令之流,淺深別泒。
 皇帝陛下,道四三皇,德六五帝,灑甘雨以遍普天之澤,扇淳風而拂率士之塵。重賞輕刑,雲鷹之翮忘鶩,省傜薄賦,野鹿之群不驚。然猶恐惠化未周,頑民陷法。遂降沖旨,彌繕隄防。增損徃策之科條,裨補前脩之殘缺。臣等謹奉綸命,忽屢薄冰。於是搜古典於周室,擇舊儀於漢家。取捨弘仁、貞觀之弛張,因脩永徽、開元之沿革。勒成二部,名曰延喜格式。但格十二卷,筆削早成,往年奏御。式五十卷,撰集纔畢,今日上聞。臣等識非老彭老聃,勤在祖述。聊窺其腠理,寧達彼膏肓。伏願洪慈,曲降照鑒,特垂允容,謹詣闕拜表以聞。臣忠平等,誠惶誠恐,頓首頓首,謹言。

 延長五年十二月廿六日

 左大臣正二位兼行左近衛大將皇太子傅臣藤原朝臣忠平
 大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝臣清貫
 從四位上行神祇伯臣大中臣朝臣安則
 從五位上行勘解由次官兼大外記紀伊權介臣伴宿禰久永
 外從五位下行左大史臣阿刀宿禰忠行等上表

〇延喜式序

 左大臣正二位行左近衛大將皇太子傅臣藤原朝臣忠平等奉敕撰
 蓋聞:「蒼精黃神之聖,觀人文以化天下。伊川嬀水之靈,則乾象而垂法度。」故百官以理,自有高枕之君,萬民以治,乃見擊壤之叟。弘仁聖主,德照龜圖,化隆鳥運。君唱臣和,風雲之契斯得,上安下樂,漁水之符克諧。爰降綸言,作諸司式四十卷。所謂國之權衡,民之轡策者也。貞觀天朝,亦降睿旨,商權古今,撰式廿卷。新舊兩存,本枝相得。然猶後式攸鐐,事多漏略。今上陛下,體元履正,御斗提衡。以為貞觀十二年以來,炎涼已久,文案差積。加以前後之式,專條既同,卷軸斯異。諸司觸事,撿閱多岐。因玆延喜五年秋八月,詔左大臣從二位兼行左近衛大將藤原朝臣時平,遣從三位守大納言兼行右近衛大將春宮大夫陸奧出羽按察使藤原朝臣定國、中納言從三位兼行民部卿藤原朝臣有穗、參議大藏卿正四位下兼行播磨權守平朝臣惟範、參議左大辨從四位上兼行讚岐權守紀朝臣長谷雄、從四位下行式部大輔兼春宮亮備前守藤原制臣菅根、從四位下行文章博士兼備中權守三善朝臣清行、民部大輔正五位下兼行勘解由次官但馬守大藏朝臣善行、權左少辨正五位下兼行勘解由次官藤原朝臣道明、從五位上行神祇大副臣大中臣朝臣安則、從五位下行大內記兼周防介三統宿禰理平、外從五位下行明法博士惟宗朝臣善經等,準據開元、永徽式例,併省兩式,削成一部。撰定未畢之間,公卿大夫,頻年薨卒。仍同十二年春二月,敕從三位守大納言兼右近衛大將行春宮大夫臣藤原朝臣忠平、從四位下守右大辨兼勘解由長官橘朝臣澄清等,共隨先業,促其裁成。至延長三年秋八月,重遣大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝臣清貫,與前奉詔者大中臣朝臣安則,及從五位上行勘解由次官兼大外記臣伴宿禰久永、外從五位下行左大史臣阿刀宿禰忠行等,同催撰纘,責其成功。爰蒙明制,參詳斟討。搜符案於官曹,摭文記於臺閣。究本尋源,編新隸舊。至如祭祀宴饗之禮、朝會蕃客之儀,大小流例,內外常典,事存儀式,不更載斯。我后留情庶官,屬想眾務。論王道之興衰,驗時俗之厚薄,屈大陽之洪暉,照高問於螢爝,枉溟渤之巨浪,酌下言於牛涔。有利於人可舉行者,有害於物可革去者,悉以制置,垂範來裔。凡起弘仁舊式,至延喜新定,前後綴敘,筆削甫就。惣編五十卷、號曰延喜式。庶使百川之流皆歸於海,萬目之紀俱理於綱。臣等勤非簡要,道謝清通。雖猥銜慈繪,陶淳風於甲令。然恐潛嚴制,致肅霜於秋官。謹序。
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 今日は、奈良時代の723年(養老7)に、開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布された日ですが、新暦では5月25日となります。
 これは、律令制の下で、班田収授法に関わって、出された田地開墾の奨励法です。口分田不足が生じてきている中で、自力で池溝(灌漑施設)を造って田地を開墾した者に三世の間、また古くからの池溝(灌漑施設)を利用して田地を開墾した者は、その身一代の間はその墾田の占有を許したものでした。
 しかし、収公の期限が近づくと耕作の意欲が低下し、それによって荒廃する田地もでてきます。そこで、743年(天平15)に「墾田永年私財法」を定め、墾田はいつまでも私財として収公しないことになり、荘園を発生させ、徐々に班田収授法が崩れていくことになりました。

〇三世一身法 (全文) 723年(養老7年4月17日)

養老七年四月辛亥
太政官奏。頃者。百姓漸多。田池窄狭。望請。勧課天下。開闢田疇。其有新造溝池。営開墾者。不限多少。給伝三世。若逐旧溝池。給其一身。奏可之。

                        『続日本紀』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

養老七年四月辛亥
太政官奏すらく[1]、『頃者百姓漸く多く、田池搾狭[2]なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇[3]を開闢かしめむ[4]。其れ新たに溝池[5]を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して、三世[6]に伝へしめむ。若し旧き溝池を逐はば[7]、其の一身に給せむ』と。奏してこれを可そす。

【注釈】
[1]太政官奏すらく:だじょうかんそうすらく=太政官の合議を奏上して天皇の裁可を求めること。
[2]窄狭:さくきょう=せまいこと。
[3]田疇:でんちゅう=田地。
[4]開闢かしめむ:ひらかしめむ=開墾させたい。
[5]溝池:こうち=用水路やため池などの灌漑施設。
[6]三世:さんぜ=三代目のこと。
[7]旧き溝池を逐はば:ふるきこうちをおはば=既設の灌漑施設を利用したならば。

<現代語訳> 三世一身法

養老七年四月辛亥(十七日)
太政官から次のように元正天皇に奏上された。「近頃,人口がしだいに増え、班給する田や池が不足しています。よって、天下の人民に田地の開墾を奨励したいと思います。その場合、新しく灌漑用の溝や池を造って開墾をした者があれば、その面積の多少にかかわらず、三代の間の所有を認めたいと思います。もし、既設の灌漑用の溝や池を利用して開墾した者については、本人一代に限って所有を認めたいと思います。」この上奏は許可された。
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