ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:彫刻家

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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、彫刻家北村西望の生まれた日です。
 北村西望(きたむら せいぼう)は、明治時代前期の1884年(明治17)12月16日に、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれましたが、本名は「にしも」と読みます。。1900年(明治33)に、有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)されましたが、1901年(明治34)に母校の白木野小学校に転じて、代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめ、1902年(明治35)に、長崎師範学校に入学したものの、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養します。
 1903年(明治36)に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学しましたが、1907年(明治40)に卒業後、上京して東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。在学中の1908年(明治41)に第2回文展への出品作「憤闘」が初入選し、以来毎年出品するようになりました。
 1912年(明治45)に東京美術学校を首席で卒業、1915年(大正4)に第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められます。1916年(大正5)の第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成、翌年の第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめるようになりました。
 1919年(大正8)の第1回帝展以降審査員を務め、曠原社を結成、1921年(大正10)に東京美術学校塑造部教授となり、1922年(大正11)には、彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設します。1925年(大正14)に帝国美術院会員となり、1931年(昭和6)には、京都市立美術工芸学校教諭となりました。
 1944年(昭和19)の敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行ないます。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本芸術院会員、1949年(昭和24)に日展理事となり、1953年(昭和28)には、東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設しました。
 1955年(昭和30)に5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品し、1958年(昭和33)には、文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となります。1962年(昭和37)に武蔵野市名誉市民、日本彫塑会名誉会長となり、1969年(昭和44)に紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任、1972年(昭和47)には、島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設されました。
 1980年(昭和55)に東京都名誉都民、1981年(昭和56)に東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となったものの、1987年(昭和62)3月4日に、東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなっています。

〇北村西望の主要な作品

<彫刻>
・「憤闘」(1908年)第2回文展入選
・「怒濤」(1915年)第9回文展二等賞
・「晩鐘」(1916年)第10回文展特選 東京国立近代美術館蔵
・「燈臺」(1931年)東京銀座・数寄屋橋公園
・巨像「長崎平和祈念像」(1955年)長崎平和公園

<著作>
・『百歳のかたつむり』

☆北村西望関係略年表

・1884年(明治17)12月16日 長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれる
・1892年(明治25) 白木野尋常小学校に入学する
・1896年(明治29) 有馬尋常高等小学校に進む
・1900年(明治33) 有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)される
・1901年(明治34) 母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると
・1902年(明治35) 長崎師範学校に入学したが、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養する
・1903年(明治36) 京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学する
・1907年(明治40) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する
・1908年(明治41) 第2回文展への出品作「憤闘」が初入選する
・1909年(明治42) 第3回文展で「雄風」が褒状を受賞する
・1911年(明治44) 第5回文展で「壮者」も褒状を受賞する
・1912年(明治45) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業する
・1915年(大正4) 第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められる
・1916年(大正5) 第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成する
・1917年(大正6) 第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめる
・1919年(大正8) 第1回帝展以降審査員を務め、曠原社(こうげんしゃ)を結成する
・1921年(大正10) 東京美術学校塑造部教授となる
・1922年(大正11) 彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設する
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となる
・1931年(昭和6) 京都市立美術工芸学校教諭となる
・1932年(昭和7) ロサンゼルスオリンピック芸術競技に「The Repose (Boxing)」を出品する
・1933年(昭和8) 2年前の1931年第12回帝展に出品した作品『燈臺』を震災記念碑として東京銀座・数寄屋橋公園に設置、東邦彫塑院顧問を務める
・1944年(昭和19) 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行なう
・1947年(昭和22) 日本芸術院会員となる
・1949年(昭和24) 日展理事となる
・1953年(昭和28) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設する
・1955年(昭和30) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となる
・1962年(昭和37) 武蔵野市名誉市民となり、日本彫塑会名誉会長となる
・1969年(昭和44) 紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任する
・1972年(昭和47) 島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設される
・1974年(昭和49) 日展名誉会長となる。
・1979年(昭和54) 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された
・1980年(昭和55) 東京都名誉都民となる
・1981年(昭和56) 東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となる
・1986年(昭和61) 12月より風邪を患い自宅静養となる
・1987年(昭和62)3月4日 東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始する(電話創業の日)詳細
1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1966年(昭和41)国際連合総会で「国際人権規約」が採択される詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
1988年(昭和63)洋画家小磯良平の命日詳細
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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、彫刻家長江録弥の生まれた日です。
 長江録弥(ながえ ろくや)は、愛知県瀬戸市上品野町で生まれましたが、幼少の頃から絵を描くことが好きで、次第に芸術に関心を持つようになりました。1943年(昭和18)に上京して、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)彫刻科に入学したものの、太平洋戦争下において、招集を受けます。
 戦後、学校に復帰、1948年(昭和23)に卒業し、この年の日展で初入選しました。1952年(昭和27)に神奈川県川崎市高津区に自宅兼アトリエを建てましたが、1955年(昭和30)に長女が誕生したものの、妻が入院し、生活が困窮します。
 1957年(昭和32)に日彫展に出品し、1964年(昭和39)に「芽」で、第7回日展特選、1965年(昭和40)に「乾漆作品の一」で、第8回日展特選と連続して栄誉を受けました。続いて、1966年(昭和41)に「憩ふ」で、第9回日展の菊花賞を受賞、1980年(昭和55)には、日展評議員となります。
 さらに、1984年(昭和59)に「倒れる」で、第3回高村光太郎大賞展で優秀賞、1986年(昭和61)に「思考」で、第18回日展文部大臣賞を受賞しました。1991年(平成3)に脱乾漆像「砂丘」で、日本芸術院賞を受賞、1992年(平成4)に日展理事に就任、1995年(平成7)には、日本芸術院会員となります。
 1996年(平成8) 日展常務理事となり、1997年(平成9)に神宮美術館に「猿田彦神」が収蔵され、1998年(平成10)には、瀬戸市名誉市民となり、日本彫刻会理事長に就任しました。1999年(平成11)に紺授褒章、翌年には勲三等瑞宝章を受章したものの、2005年(平成17)4月6日に、神奈川県川崎市高津区の自宅において、79歳で亡くなり、従四位を追贈されています。

〇長江録弥の主要な作品

・「芽」(1964年)第7回日展特選
・「乾漆作品の一」(1965年)第8回日展特選
・「憩ふ」(1966年)第9回日展菊花賞
・「倒れる」(1984年)第3回高村光太郎大賞展優秀賞
・「思考」(1986年)第18回日展文部大臣賞
・「砂丘」(1991年)日本芸術院賞
・「猿田彦神」(1997年)神宮美術館収蔵
・「裸婦」
・「薬師如来像」
・「老人」
・「吟遊詩人」

☆長江録弥関係略年表

・1926年(大正15)1月2日 愛知県瀬戸市上品野町で生まれる
・1943年(昭和18) 上京して、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)彫刻科に入学する
・1948年(昭和23) 多摩帝国美術学校彫刻科を卒業し、日展で初入選する
・1952年(昭和27) 神奈川県川崎市高津区に自宅兼アトリエを建てる
・1955年(昭和30) 長女が誕生したが、妻が入院する
・1957年(昭和32) 日彫展に出品する
・1958年(昭和33) 長男眞弥が生まれる
・1964年(昭和39) 「芽」で、第7回日展特選となる
・1965年(昭和40) 「乾漆作品の一」で、第8回日展特選となる
・1966年(昭和41) 「憩ふ」で、第9回日展の菊花賞を受賞する
・1980年(昭和55) 日展評議員となる
・1984年(昭和59) 「倒れる」で、第3回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞する
・1986年(昭和61) 「思考」で、第18回日展文部大臣賞を受賞する
・1988年(昭和63) 川崎市立高津図書館新設にあたり、「読書」が川崎西ロータリークラブによって寄贈される
・1991年(平成3) 脱乾漆像「砂丘」で、日本芸術院賞を受賞する
・1992年(平成4) 日展理事に就任、川崎市高津区役所移転時に、陶壁「玉川」が川崎西ロータリークラブによって寄贈される
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 日展常務理事となる
・1997年(平成9) 神宮美術館に「猿田彦神」が収蔵される
・1998年(平成10) 瀬戸市名誉市民となり、日本彫刻会理事長に就任する
・1999年(平成11) 紺授褒章を受章する
・2000年(平成12) 勲三等瑞宝章を受章する
・2005年(平成17)4月6日 神奈川県川崎市高津区の自宅において、79歳で亡くなり、従四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1268年(文永5)蒙古の使者が来朝し、大宰府で「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」等を受け取る(新暦1月17日)詳細
1871年(明治4)蘭学者・医者伊東玄朴の命日(新暦2月20日)詳細
1912年(明治45)生理学者・東京慈恵会医科大学長名取礼二の誕生日詳細
1942年(昭和17)「興亜奉公日」に代えて毎月8日を「大詔奉戴日」とすることが閣議決定される詳細
1976年(昭和51)小説家・作詞家檀一雄の命日詳細
1991年(平成3)詩人・小説家野間宏の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、 彫刻家米原雲海の生まれた日ですが、新暦では9月27日となります。
 米原雲海(よねはら うんかい)は、出雲国安来(現在の島根県安来市)で漁業を営む木山家に生まれましたが、本名は幸太郎と言いました。小学校卒業後、宮大工に弟子入りし建築彫刻を学び、16歳の時に米原家の養子となります。
 京都や奈良の古仏に感銘を受けて彫刻家を志し、1890年(明治23)に上京して高村光雲に師事、また橋本雅邦からは画技を学びました。1892年(明治25)に光雲の代作をして日本美術協会展で『鸚鵡置物』が受賞、山崎朝雲と共に光雲門の双璧と称されるようになり、1894年(明治27)には、師光雲に因み雲海と号します。
 1895年(明治28)に『軍鶏』を第4回内国勧業博覧会に出品して妙技3等賞を受賞、同年には東京美術学校雇(1897年まで)となり、1897年(明治30)には、比例コンパスを利用した技術を用い『ジェンナー像』を制作しましたが、この技術は木彫界の革命と評されました。1903年(明治36)の第5回内国勧業博覧会に出品した『幼児と林檎』が入賞、1907年(明治40)には、岡倉天心の指導により平櫛田中、山崎朝雲らと日本彫刻会を結成します。
 同年の第1回東京勧業博覧会に出展した作品『清宵』は一等賞を受賞、この作品は1910年(明治43)にロンドンで行われた日英博覧会でも金賞となりました。1910年(明治43)以降、文展、帝展で審査員を務め、1913~19年(大正2~8)に、師光雲と共に長野県善光寺の仁王像の制作に従事、1920年(大正9)には、明治神宮造営にあたり、内殿に安置される狛犬を制作します。
 日本の伝統的木彫の正風を伝える理想主義的な作風として知られましたが、1925年(大正14)3月25日に、東京において、55歳で亡くなりました。

〇米原雲海の主要な作品

・『鸚鵡置物』高村光雲の代作(1892年)日本美術協会展入賞
・『軍鶏』(1895年)第4回内国勧業博覧会妙技3等賞受賞
・『ジェンナー像』(1897年)
・『幼児と林檎』(1903年)第5回内国勧業博覧会入賞
・『清宵』(1907年)第1回東京勧業博覧会一等賞、日英博覧会金賞
・『神来』(1907年)第1回文展3等賞受賞
・『寒山子』(1908年)第2回文展3等賞受賞
・『仙丹』(1910年)東京国立近代美術館蔵
・『旅人』(1914年)東京国立博物館蔵
・『竹取翁』(1921年)東京国立博物館蔵
・『仁王像』(1925年)高村光雲との合作 長野善光寺蔵 

☆米原雲海関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1869年(明治2年8月22日) 出雲国安来(現在の島根県安来市)の漁業を営む木山家に生まれる
・1885年(明治18年) 16歳の時、米原家の養子となる
・1890年(明治23年) 上京して高村光雲に師事する
・1892年(明治25年) 光雲の代作をして日本美術協会展で『鸚鵡置物』が受賞する
・1894年(明治27年) 師光雲に因み雲海と号する
・1895年(明治28年) 『軍鶏』を第4回内国勧業博覧会に出品して妙技3等賞を受賞する
・1895年(明治28年) 東京美術学校雇(1897年まで)となる
・1897年(明治30年) 比例コンパスを利用した技術を用い『ジェンナー像』を制作する
・1903年(明治36年) 第5回内国勧業博覧会に出品した『幼児と林檎』が入賞する
・1907年(明治40年) 平櫛田中、山崎朝雲らと日本彫刻会を結成する
・1907年(明治40年) 『神来』が第1回文展3等賞を受賞する
・1907年(明治40年) 『清宵』が第1回東京勧業博覧会一等賞を受賞する
・1910年(明治43年) 『清宵』を日英博覧会に出品し金賞を受賞する
・1910年(明治43年) 文展審査員となる
・1919年(大正8年) 長野善光寺の仁王像を光雲との合作により完成させる
・1920年(大正9年) 明治神宮造営にあたり、内殿に安置される狛犬を制作する
・1925年(大正14年)3月25日 東京において、55歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)劇作家・小説家長谷川時雨の命日詳細
1943年(昭和18) 詩人・小説家島崎藤村の命日(藤村忌)詳細
1944年(昭和19)沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件詳細


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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、彫刻家澤田政廣の亡くなった日です。
 澤田政廣(さわだ せいこう)は、明治時代後期の1894年(明治27)8月22日に、静岡県熱海町で廻船業「亀屋」を営む父・澤田小兵衛、母・とくの三男として生まれましたが、本名は寅吉と言いました。1913年(大正2)に旧制韮山中学校(現在の韮山高校)を中退し、上京して木彫家高村光雲の高弟、山本瑞雲に師事、1918年(大正7)には、太平洋画会研究所に入り彫刻を学びます。
 1921年(大正10)に第3回帝展で「人魚」が初入選、1924年(大正13)の第5回帝展では「銀河の夢」特選となり、東京美術学校彫刻科別科へ入学し、朝倉文夫の指導を受けました。1926年(大正15)に卒業後、第8回帝展の「白日の夢」(1927年)、第9回帝展の「七姫」(1928年)、第10回帝展の「白鳳」(1929年)で3回連続特選となり、無鑑査に推挙されます。
 1931年(昭和6)に日本木彫会が結成され、同会会員となり、帝展審査員ともなり、以後官展の審査員を歴任しました。1940年(昭和15)に日本木彫会を脱退し、三木宗策らと正統木彫会を結成、新文展でも活躍します。
 太平洋戦争後は、日展に出品し、日展参事、審査員となり、1951年(昭和26)に「五木の精」で芸術選奨文部大臣賞、翌年の「三華」で芸術院賞を受賞しました。1956年(昭和31)から号を「政廣」とし、1962年(昭和37)に日本芸術院会員、1964年(昭和39)に日本陶彫会会長、翌年には日展常務理事となります。
 1970年(昭和45)から日本彫塑家連盟理事長を務め、1973年(昭和48)に文化功労者として顕彰され、1979年(昭和54)には、文化勲章を受章しました。木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作してきましたが、1988年(昭和63)5月1日に、東京において、急性肺炎により93歳で亡くなっています。
 尚、1983年(昭和58)に新潟県糸魚川市に「谷村美術館(澤田政廣作品展示館)」が設立され、1987年(昭和62)には郷里の熱海市に「市立澤田政廣記念館」が開設されました。

〇澤田政廣の主要な作品

・「銀河の夢」(1924年)第5回帝展特選
・「白日夢」(1927年)第8回帝展特選
・「七姫」(1928年)第9回帝展特選
・「白鳳」(1929年)第10回帝展特選
・「五木の精」(1951年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「三華」(1952年)第9回日本芸術院賞受賞
・「連如上人像」(1977年)
・「大聖不動明王」(1987年)
・「出山の釈迦」
・「吉祥天」

☆澤田政廣関係略年表

・1894年(明治27)8月22日 静岡県熱海町で廻船業「亀屋」を営む父・澤田小兵衛、母・とくの三男として生まれる
・1913年(大正2) 19歳、旧制韮山中学校(現在の韮山高校)を中退、木彫家高村光雲の高弟、山本瑞雲に師事する
・1918年(大正7) 24歳、太平洋画会研究所に入る。神田台所町に次兄と共に住む
・1921年(大正10) 27歳、第3回帝展に「人魚」初入選、本名の寅吉で出品する
・1922年(大正11) 28歳、第4回帝展に「沃土」出品する
・1923年(大正12) 29歳、矢の下とみと結婚、本郷区動坂に住む、関東大震災のため帝展は中止となる
・1924年(大正13) 30歳、第5回帝展で「銀河の夢」特選となり、東京美術学校彫刻科別科へ入学し、朝倉文夫の指導を受ける
・1925年(大正14) 31歳、第6回帝展に「太陽に向って」を出品する
・1926年(大正15) 32歳、第7回帝展に「影」を出品、東京美術学校彫刻別科を卒業する
・1927年(昭和2) 33歳、第8回帝展で「白日夢」が特選となる、このころ号を「寅」とする
・1928年(昭和3) 34歳、第9回帝展で「七姫」が特選となり、帝展無鑑査に推挙される
・1929年(昭和4) 35歳、第10回帝展で「白鳳」が特選となる
・1930年(昭和5) 36歳、第11回帝展に「伊呂古の宮」を出品する
・1931年(昭和6) 37歳、第12回帝展に「白夜飛星」を出品、同審査員をつとめる、日本木彫会の結成に参加し同会会員となる
・1932年(昭和7) 38歳、第13回帝展で「華炎」出品、政府買上となる、このころ号を「晴廣」とする
・1933年(昭和8) 39歳、第14回帝展に「春の女神」を出品する
・1934年(昭和9) 40歳、第15回帝展に「白光」を出品、同審査員をつとめる
・1935年(昭和10) 41歳、太平洋美術学校の講師となる
・1936年(昭和11) 42歳、文部省展覧会に「光明仏身」「善魔魚身」を出品する
・1937年(昭和12) 43歳、この年、世田谷区玉川田園調布に居をかまえる
・1938年(昭和13) 44歳、第2回新文展に「護持結身」を出品する
・1939年(昭和14) 45歳、第3回新文展に「聖観世音菩薩」を出品、日本木彫会に「春風」を出品する
・1940年(昭和15) 46歳、日本木彫会を脱退し、「正統木彫家協会」 を結成する
・1941年(昭和16) 47歳、第4回新文展に「神通」を出品する
・1943年(昭和18) 49歳、第6回新文展に「救世太子」を出品する
・1944年(昭和19) 50歳、第7回新文展に「天彦」を出品する
・1946年(昭和21) 52歳、第2回日展に「赤童子」を出品、政府買上となる
・1947年(昭和22) 53歳、第3回日展に「降魔」を出品する
・1948年(昭和23) 54歳、第4回日展に「男習作」を出品する
・1949年(昭和24) 55歳、第5回日展に「釈迦誕生」を出品する
・1950年(昭和25) 56歳、第6回日展に「十一面観音」出品、同審査員をつとめ、日展参事となる。
・1952年(昭和27) 58歳、第7回日展(1951年)出品作「五木之精」にて、芸術選奨文部大臣賞を受ける
・1953年(昭和28) 59歳、第8回日展(1952年)出品作「三華」にて、日本芸術院賞を受ける
・1955年(昭和30) 61歳、三嶋大社の「矢田部盛治像」を制作する
・1956年(昭和31) 62歳、第12回日展に「黄泉のしこめ」を出品。この年から号を「政廣」とする
・1961年(昭和36) 63歳、熱海仏舎利塔日本山妙法寺の「釈迦牟尼世尊像」を制作する
・1962年(昭和37) 68歳、日本芸術院会員となる
・1963年(昭和38) 69歳、平塚市に「海の讃歌」を制作
・1964年(昭和39) 70歳、霊友会弥勒山(東伊豆町大川)に「弥勒菩薩像」を制作、「名取栄一像」(元沼津市長)を制作する
・1965年(昭和40) 71歳、第8回社団法人日展に「稜風」を出品、日展常務理事となる
・1967年(昭和42) 73歳、「勝又春一像」(初代御殿場市長)を制作
・1969年(昭和44) 75歳、改組第1回日展に「人魚」を出品、 高野山金剛峰寺金堂に「金剛王菩薩」を制作する
・1970年(昭和45) 76歳、霊友会本尊「釈迦如来像」を制作(高さ7.58メートル)、第2回日展に「長嶋選手像」を出品する
・1971年(昭和46) 77歳、熱海親水公園の「釜鳴屋平七像」を制作、永平寺持仏、「普賢菩薩」、「文珠菩薩」を制作、第1回新日彫展「釈迦」を出品する
・1973年(昭和48) 79歳、日本橋三越で「彫刻60年の歩み・澤田政廣展」を開催、文化功労者として顕彰される
・1974年(昭和49) 80歳、熱海市名誉市民として顕彰される
・1975年(昭和50) 81歳、澤田家菩提寺、中野区宝仙寺の天井画「天人」と壁画を制作する
・1977年(昭和52) 83歳、東本願寺難波別院に「蓮如上人像」を制作する
・1979年(昭和54) 85歳、身延山久遠寺祖師堂に「日蓮上人像」を制作、文化勲章を受章する
・1981年(昭和56) 87歳、奈良の薬師寺西塔の尊像仏四体を制作する
・1981年(昭和56) 88歳、東京都世田谷区名誉区民として顕彰される
・1983年(昭和58) 89歳、新潟県糸魚川市に「谷村美術館・澤田政廣作品展示館」が開館する
・1987年(昭和62) 93歳、「熱海市立澤田政廣記念館」が開館する、第19回改日展「大聖不動明王」を出品する
・1988年(昭和63)4月 93歳、日本橋三越で「澤田政廣記念館開館記念・澤田政廣展」を開催する
・1988年(昭和63)5月1日 東京において、急性肺炎により93歳で亡くなり、従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追賜される
・1988年(昭和63)5月21日 本葬儀を東京都中野区宝仙寺にて行う
・1988年(昭和63)5月24日 熱海市葬を熱海市観光会館にて行う
・2004年(平成16)11月3日 館名を「熱海市立澤田政廣記念美術館」に改称する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1275年(建治元)歌人・公卿藤原為家の命日(新暦5月27日)詳細
1999年(平成11)本四連絡橋・尾道今治ルートの新尾道大橋、多々羅大橋、来島海峡大橋が開通する詳細
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hirakushidenchyuu01

 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、彫刻家平櫛田中の生まれた日ですが、新暦では2月23日となります。
 平櫛 田中(ひらくし でんちゅう)は、岡山県後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の田中家に生まれましたが、本名は倬太郎(たくたろう)と言いました。1882年(明治15)、10歳の時に広島県沼隈郡今津村(現在の福山市今津町)の平櫛家の養子となり、1893年(明治26)には、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし、木彫の手ほどきを受けます。
 1897年(明治30)に上京し、台東区の長安寺に寄宿、翌年に高村光雲に師事、また西山禾山の臨済録の提唱を聞き、影響を受けました。1901年(明治34)に日本美術協会美術展に『唱歌君ヶ代』を出品して銀牌を受賞、翌年に三々会会員となり、1907年(明治40)には、米原雲海,山崎朝雲らと日本彫刻会を結成します。
 1907年(明治40)に文部省美術展覧会(文展)第1回展に『姉ごころ』を出品し入選、翌年には日本彫刻会第1回展に『活人箭』を出品して、岡倉天心に認められました。1910年(明治43)の第5回文展で『維摩一黙』が3等となり、1914年(大正3)に再興第1回院展に西山禾山をモデルとした『禾山笑』等を出品、同人に推挙され、院展彫刻の中心作家として活躍します。
 1942年(昭和17)に第2回野間美術賞を受賞、文展審査員ともなり、1944年(昭和19)には東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授、帝室技芸員ともなりました。太平洋戦争後は、1953年(昭和28)に日展審査員、1954年(昭和29)に文化功労者となり、1958年(昭和33)には22年の歳月をかけた彩色木像『鏡獅子』を完成させます。
 1958年(昭和33)に日本美術院理事、1962年(昭和37)に文化勲章受章、1965年(昭和40)には東京芸術大学名誉教授など数々の栄誉を受けました。1970年(昭和45)に東京都小平市学園西町に転居、1972年(昭和47)には小平市名誉市民となりましたが、1979年(昭和54)12月30日に自宅において、107歳で亡くなっています。
 尚、1969年(昭和44)に「井原市立田中美術館」が設立され、翌年から平櫛田中賞が設けられ、また、1984年(昭和59)には、晩年を過ごした邸宅を公開する形で、「小平市平櫛田中館」が開館しました。

〇平櫛田中の主要な作品

・『唱歌君ヶ代』(1901年)日本美術協会美術展銀牌受賞
・『姉ごころ』(1907年)第1回文部省美術展覧会(文展)入選
・『活人箭』(1908年)日本彫刻会第1回展出品
・『維摩一黙』(1910年)第5回文展3等
・『禾山笑』(1914年)再興第1回院展出品
・『五浦釣人』(1930年)第17回再興院展出品
・『鶴しょう』(1942年)東京国立近代美術館蔵
・彩色木像『鏡獅子』(1958年)東京国立近代美術館蔵

☆平櫛田中関係略年表(明治5年の日付は旧暦です)

・1872年(明治5年1月15日) 岡山県後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の田中家に生まれる
・1882年(明治15) 広島県沼隈郡今津村(現在の福山市今津町)の平櫛家の養子となる
・1893年(明治26) 大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし、木彫の手ほどきを受ける
・1897年(明治30) 上京し、台東区の長安寺に寄宿する
・1898年(明治31) 高村光雲に師事する
・1898年(明治31) 西山禾山の臨済録の提唱を聞き、影響を受ける
・1901年(明治34) 日本美術協会美術展に『唱歌君ヶ代』を出品、銀牌を受賞する
・1902年(明治35) 三々会会員となる
・1907年(明治40) 米原雲海,山崎朝雲らと日本彫刻会を結成する
・1907年(明治40) 文部省美術展覧会(文展)第1回展に『姉ごころ』を出品、入選する
・1908年(明治41) 日本彫刻会第1回展に『活人箭』を出品。岡倉天心の推奨を受ける
・1910年(明治43) 第5回文展で『維摩一黙』が3等となる
・1914年(大正3) 再興第1回院展に西山禾山モデルの『禾山笑』等を出品、日本美術院同人に推挙される
・1922年(大正11) 日本画家の横山大観、下村観山、木村武山の尽力で台東区上野桜木町に住宅を建てる
・1930年((昭和5) 日本美術院の経営者に加わる。第17回再興院展に『五浦釣人』を出品する
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となる
・1942年(昭和17) 第2回野間美術賞を受賞する
・1942年(昭和17) 文展審査員となる
・1944年(昭和19) 東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授となる
・1944年(昭和19)7月1日 帝室技芸員となる
・1953年(昭和28) 日展審査員となる
・1954年(昭和29) 文化功労者となる
・1958年(昭和33) 昭和11年の制作開始から22年の歳月をかけて『鏡獅子』を完成させる
・1958年(昭和33) 日本美術院理事となる
・1962年(昭和37) 文化勲章を受章する
・1965年(昭和40) 東京芸術大学名誉教授となる
・1969年(昭和44) 「井原市立田中美術館」が設立される
・1970年(昭和45) 平櫛田中賞が設けられる
・1970年(昭和45) 作品集『尋牛 平櫛田中作品集』が刊行される
・1970年(昭和45) 東京都小平市学園西町に転居する
・1972年(昭和47) 小平市名誉市民に推戴される
・1979年(昭和54)12月30日 小平市の自宅において、107歳で亡くなる
・1984年(昭和59)10月25日 晩年を過ごした邸宅を公開する形で、「小平市平櫛田中館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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