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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、 彦根藩主・井伊直弼が江戸幕府大老に就任した日ですが、新暦では6月4日となります。
 井伊直弼(いい なおすけ)は、幕末の大老・彦根藩第15代藩主です。江戸時代後期の1815年(文化12年10月29日)に、近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれましたが、幼名は鉄之介、のち鉄三郎と言いました。
 1831年(天保2)の父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。1846年(弘化3)に兄である第14代藩主直亮の養子となり、1850年(嘉永3)に、直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。
 藩政改革に努め、1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たします。開国和親を主張し、尊王攘夷派の阿部正弘・徳川斉昭などと対立、将軍継嗣問題でも血統論から紀伊の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す尊王攘夷派と対峙しました。
 老中堀田正睦らの要請で、1858年(安政5)4月23日に幕府の大老に就任し、勅許を得ないまま同年6月19日に「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買います。さらに、同年​10月25日には、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功しました。
 この中で翌年にかけて、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とする、いわゆる「安政の大獄」が起こります。このため恨みを買って、1860年(万延元年3月3日)の桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺されました。
 尚、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶道では石州流を学んで自ら一派を立てるほどで、『茶湯一会集(いちえしゅう)』を著しています。

〇井伊直弼関係略年表

・1815年(文化12年10月29日) 近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれる
・1831年(天保2年) 父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。
・1846年(弘化3年) 兄である第14代藩主直亮の養子となる
・1847年(弘化3年12月16日) 従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任される
・1850年(嘉永2年12月16日) 左近衛権少将に任ぜられる(玄蕃頭兼任)
・1850年(嘉永3年11月21日) 兄・直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称する
・1851年(嘉永3年12月2日) 家中に向けて8箇条の書付を出す
・1851年(嘉永3年12月27日) 玄蕃頭から掃部頭に遷任(権少将如旧)される
・1852年(嘉永5年) 丹波亀山藩主・松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶とる
・1853年(嘉永6年) ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たす
・1856年(安政2年12月16日) 左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する
・1858年(安政4年12月16日) 従四位上に昇叙、左近衛権中将掃部頭は留任する
・1858年(安政5年4月23日) 幕府の大老に就任する
・1858年(安政5年6月19日) 勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買う
・1858年(安政5年​10月25日) 一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功する
・1860年(安政6年12月15日) 正四位上に昇叙、左近衛権中将掃部頭は留任する
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺される

☆安政の大獄(あんせいのたいごく)とは?

 江戸時代後期の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対する弾圧です。井伊直弼が、安政の五か国条約の調印に勅許を得ず、将軍継嗣問題(徳川家茂を14代将軍に定めたこと)に対しても諸侯の意見を求めることなく専断を行ないました。
 朝廷がこの専断措置に憤激し、同年8月に水戸藩に攘夷の密勅(戊午の密勅)を下したことから、井伊直弼の尊王攘夷派、ひいては一橋派に対する弾圧が開始されるに至ります。これにより、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とし、水戸藩主徳川斉昭父子、越前藩主松平慶永らも処罰されました。
 この事件は、尊王攘夷運動を狂熱化させ、1860年(安政7)に井伊直弼が江戸城外で水戸浪士等18名により暗殺された、桜田門外の変の契機となります。

☆桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)とは?

 幕末の1860年(安政7年3月3日)に、江戸幕府の大老井伊直弼が、水戸浪士等18名により、江戸城の桜田門外で暗殺された事件です。井伊直弼が勅許を得ずに、日米修好通商条約に調印したことと安政の大獄で、尊皇派を弾圧したことに水戸浪士等が憤激して起こしました。
 この事件で、幕府の衰退が明らかになり、鎖国攘夷を主張する朝廷や諸雄藩の非難をさらに受けて危機が深まったのです。

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