ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:弁護士

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 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、法学者・弁護士於保不二雄の亡くなった日です。
 於保不二雄(おほ ふじお)は、明治時代後期の1908年(明治41)1月22日に、山口県下関市において生まれ、1928年(昭和3)に旧制第5高等学校文科甲類を卒業しました。その後、京都帝国大学法学部に進学し、1932年(昭和7)に卒業後、法学部助手となります。
 しかし、1933年(昭和8)の「滝川事件」で京都帝国大学を辞職し、立命館大学助教授となったものの、翌年には、京都帝国大学法学部助手として復帰しました。1935年(昭和10)に助教授(民刑事法専攻 民事法講座)に昇任、1943年(昭和18)には教授に昇任しています。
 1947年(昭和22)に京都帝国大学評議員(~1949年2月)となり、1949年(昭和24)に『相続法』、1950年(昭和25)に『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』、1951年(昭和26)に『民法総則講義』を刊行しました。1954年(昭和29)に再び、京都大学評議員(~1956年3月)となり、『財産管理権序説』を刊行します。
 翌年には、学位論文「財産管理権論序説」で、京都大学より、法学博士を授与されましたが、財産の帰属と管理を分離することを説き、賛否両論を巻き起こしたが受け入れられ、民法の各分野にわたる解釈体系を打ち立てました。1959年(昭和34)に京都大学法学部長(~1960年12月)となり、『債権総論』を刊行、1966年(昭和41)に谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』、1967年(昭和42)には、奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』も刊行しています。
 1971年(昭和46)に京都大学を退官し、名誉教授となり、『民法学の基礎的課題(上)』を刊行、弁護士となって活躍しました。1979年(昭和54)に勲二等旭日重光章を受章、1995年(平成7)には、文化功労者となったものの、1996年(平成8)1月14日に、京都府京都市の自宅において、肺癌のため、87歳で亡くなっています。

〇滝川事件(たきがわじけん)とは?

 昭和時代前期の1933年(昭和8)に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件です。京都帝国大学法学部教授だった滝川幸辰が、1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する事件が起きました。
 法学部教授会がこれに反対、教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示し、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。当時、京都帝国大学法学部助手であった於保不二雄も抗議辞職し、立命館大学助教授となりましたが、翌年京都帝国大学へ復帰しました。
 滝川幸辰は退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍します。太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となりました。

〇於保不二雄の主要な著作

・『相続法』(1949年)
・『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』(1950年)
・『民法総則講義』(1951年)
・『財産管理権序説』(1954年)
・『債権総論』(1959年)
・『物権法(上)』(1966年)
・谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』(1966年)
・奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』(1967年)
・『民法学の基礎的課題(上)』(1971年)

☆於保不二雄関係略年表

・1908年(明治41)1月22日 山口県下関市において、生まれる
・1928年(昭和3) 旧制第5高等学校文科甲類を卒業する
・1932年(昭和7) 京都帝国大学法学部を卒業後、法学部助手となる
・1933年(昭和8) 「滝川事件」で京都帝国大学を辞職し、立命館大学助教授となる
・1933年(昭和9) 京都帝国大学法学部助手として復帰する 
・1935年(昭和10) 京都帝国大学法学部助教授(民刑事法専攻 民事法講座)となる
・1943年(昭和18) 京都帝国大学法学部教授(民刑事法専攻 民事法講座)となる
・1947年(昭和22) 京都帝国大学評議員(~1949年2月)となる
・1949年(昭和24) 『相続法』を刊行する
・1950年(昭和25) 『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』を刊行する
・1951年(昭和26) 『民法総則講義』を刊行する
・1954年(昭和29) 京都大学評議員(~1956年3月)となり、『財産管理権序説』を刊行する
・1955年(昭和30) 学位論文「財産管理権論序説」で、京都大学より、法学博士を授与される
・1959年(昭和34) 京都大学法学部長(~1960年12月)となり、『債権総論』を刊行する
・1966年(昭和41) 谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』を刊行する
・1967年(昭和42) 奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』を刊行する
・1971年(昭和46) 京都大学を退官し、名誉教授となり、『民法学の基礎的課題(上)』を刊行、弁護士登録をする
・1979年(昭和54) 勲二等旭日重光章を受章する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・1996年(平成8) 京都府京都市の自宅において、肺癌のため、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

允恭天皇42年第19代の天皇とされる允恭天皇の命日詳細
1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1906年(明治39)分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の誕生日詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
1978年(昭和53)ジャーナリスト・編集者・装幀家・「暮しの手帖」編集長だった花森安治の命日詳細

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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、法学者・弁護士戒能通孝の生まれた日です。
 戒能 通孝(かいのう みちたか)は、長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれました。1927年(昭和2)に旧制第五高等学校を卒業、東京帝国大学法学部へ入学し、在学中にセツルメント法律相談部に参加します。
 1930年(昭和5)に卒業後、法学部助手となり、民法、法社会学を専攻、サビニー、イェーリング、ギールケらの古典を研究する一方で、1939年(昭和14)には、中国農村慣行調査などに参加し、法を民衆のために役だてる精神を培いました。法社会学の立場から農村の土地問題、歴史と現実の研究に打ち込み、1943年(昭和18)には、『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞します。
 太平洋戦争後は、極東国際軍事裁判の弁護人として活躍、1946年(昭和21)に民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加、翌年には、川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となりました。1949年(昭和24)に早稲田大学教授となり、翌年には、「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得ます。
 1954年(昭和29)に東京都立大学教授となり、1956年(昭和31)に国際民主法律家協会大会に参加、1958年(昭和33)には、憲法問題研究会結成にも参加しました。1963年(昭和38)に日本学術会議会員となり、弁護士登録し、翌年には、岩手県一戸町小繫(こつなぎ)地区の農民の入会闘争(小繫事件)弁護のため東京都立大学を辞任します。
 1968年(昭和43)に金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受け、翌年には、東京都公害研究所初代所長となりました。公害の研究・行政面でも貢献しましたが、1975年(昭和50)3月22日に、東京において、66歳で亡くなっています。

〇戒能通孝の主要な著作

・『入会(いりあい)の研究』(1943年)第1回毎日出版文化賞受賞
・『法律の階級性』(1950年)
・『法社会学の課題』(1951年)
・『裁判』(1951年)
・『法廷技術』(1952年)
・『法律講話』(1952年)
・『市民の自由 基本的人権と公共の福祉』(1952年)
・『民法学概論』(1956年)
・『民主主義』(1956年)
・『小繋事件』(1964年)
・『公害の法社会学』(1971年)

☆戒能通孝関係略年表

・1908年(明治41)5月30日 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれる
・1927年(昭和2) 旧制第五高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部へ入学する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学法学部を卒業後、法学部助手となる
・1939年(昭和14) 中国農村慣行調査に参加する
・1943年(昭和18) 『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞する
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加する
・1947年(昭和22) 川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となる
・1949年(昭和24) 早稲田大学教授となる
・1950年(昭和25) 「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得る
・1954年(昭和29) 東京都立大学教授となる
・1956年(昭和31) 国際民主法律家協会大会に参加する
・1958年(昭和33) 憲法問題研究会結成に参加する
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員となり、弁護士登録する
・1964年(昭和39) 小繫(こつなぎ)事件弁護のため都立大学を辞任する
・1968年(昭和43) 金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受ける
・1969年(昭和44) 東京都公害研究所初代所長となる
・1975年(昭和50)3月22日 東京において、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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 今日は、明治時代中頃の1891年(明治24)に、刑法学者・弁護士小野清一郎の生まれた日です。
 小野清一郎(おの せいいちろう)は、岩手県盛岡市で、盛岡小野組の一族であった、父・小野房二郎の長男として生まれました。盛岡中学校(盛岡一高の前身)を経て、旧制第一高校(東京大学教養学部の前身)を卒業し、東京帝国大学法科大学独法科へ進みます。
 在学中に、主観的犯罪論にたつ牧野英一から教えを受け、1917年(大正6)に首席で卒業後、補東京地方裁判所検事の検事職、予備検事となりました。1919年(大正8)に司法官補に任命され、東京帝国大学法科大学助教授を兼ね、1922年(大正11)には、東京帝国大学法学部教授に昇任します。
 刑法および刑事訴訟法を講じましたが、客観主義の刑法学者として、主観主義刑法学を唱える恩師の牧野英一と対峙しました。道義的責任の観念を重視し、旧派の刑法理論を体系的に展開し、日本特有の法理を説きます。
 1933年(昭和8)に博士論文「刑法に於ける名誉の保護」によって、東京帝国大学より法学博士を得、欧米留学へ出発、1936年(昭和11)に帰国しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に戦時下の言論活動のため、公職追放により免官、教職不適格教授指定を受け、翌年に弁護士登録して、1948年(昭和23)の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、海軍側被告人の弁護人を務めます。
 1955年(昭和30)に東京第一弁護士会会長となり、1956年(昭和31)には、法務省特別顧問、刑法改正準備会会長ともなりました。1957年(昭和32)に愛知学院大学教授となり、1958年(昭和33)には、東京大学名誉教授、日本学士院会員ともなります。
 1965年(昭和40)に勲一等瑞宝章、1971年(昭和46)に仏教伝道文化賞、1972年(昭和47)には、文化勲章を受章するなど数々の栄誉にも輝きました。1974年(昭和49)に、法制審議会刑事法特別部会で「改正刑法草案」を答申しますが、立法化には至っていません。
 一方で、仏教や民俗学にも造詣が深く、『仏教と現代思想』(1926年)、『歎異抄講話』(1975年)などの著作も成しましたが、1986年(昭和61)3月9日に、東京において、95歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇小野清一郎の主要な著作

・『刑事訴訟法講義』(1924年)
・『仏教と現代思想』(1926年)
・『刑法講義各論』(1928年)
・『法理学と“文化”の概念』(1928年)
・『刑事訴訟法』(1928年)
・『刑法講義総論』(1932年)
・『刑法に於ける名誉の保護』(1934年) 
・『日本法理の自覚的展開』(1942年) 
・『刑法概論』(1952年)
・『犯罪構成要件の理論』(1953年)
・『刑法と法哲学』(1971年)
・『歎異抄講話』(1975年)

☆小野清一郎関係略年表

・1891年(明治24)1月10日 岩手県盛岡市で、小野房二郎の長男として生まれる
・1917年(大正6) 東京帝国大学法科大学独法科を首席で卒業し、補東京地方裁判所検事の検事職、予備検事となる
・1919年(大正8) 久札田益喜や岸井寿郎と共に司法官補に任命され、東京帝国大学法科大学助教授を兼ねる
・1922年(大正11) 東京帝国大学法学部教授となる
・1933年(昭和8) 博士論文「刑法に於ける名誉の保護」によって、東京帝国大学より法学博士を得、欧米留学へ出発する
・1936年(昭和11) 欧米留学から帰国する
・1946年(昭和21) 公職追放により免官、教職不適格教授指定を受ける
・1947年(昭和22) 弁護士登録する
・1948年(昭和23) 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、海軍側被告人の弁護人を務める
・1951年(昭和26) 公職追放が解除される
・1955年(昭和30) 東京第一弁護士会会長となる
・1956年(昭和31) 法務省特別顧問、刑法改正準備会会長となる
・1957年(昭和32) 愛知学院大学教授となる
・1958年(昭和33) 東京大学名誉教授、日本学士院会員となる
・1965年(昭和40) 勲一等瑞宝章を受章する
・1971年(昭和46) 仏教伝道文化賞を受賞する
・1972年(昭和47) 文化勲章を受章する
・1974年(昭和49) 法制審議会刑事法特別部会で改正刑法草案を答申する
・1977年(昭和52) 愛知学院大学教授を辞める
・1980年(昭和55) 刑法改正準備会会長を辞める
・1986年(昭和61)3月9日 東京において、95歳でなくなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人島村抱月の誕生日(新暦2月28日)詳細
1920年(大正9)東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が筆禍事件(森戸辰男事件)により休職処分を受ける詳細
1922年(大正11)政治家・教育者大隈重信の命日詳細
1947年(昭和22)小説家織田作之助の命日詳細
1951年(昭和26)「日本の現代物理学の父」とも言われる物理学者仁科芳雄の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、弁護士・社会運動家布施辰治が亡くなった日です。
 布施辰治(ふせ たつじ)は、明治時代前期の1880年(明治13)11月13日に、宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市蛇田)の農家である父・栄治郎、母・きえの次男として生まれました。189年9(明治32)に、「哲学」を勉強するため上京、蛇田でキリスト教に遭い、神田のニコライ堂の学僕となり、明治法律学校(明治大学の前身)へ入学します。
 1902年(明治35)に卒業後、判事検事試験登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任したものの、翌年には辞任(挂冠の辞を発表)しました。1904年(明治37)に、東京小石川初音町に弁護士事務所を開くものの、半年で解散、翌年には、東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開きます。
 1906年(明治39)に、電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護、社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件となりました。1917年(大正6)に普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催し、翌年には、米騒動事件の弁護活動を行っています。
 1921年(大正10)に神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して、山崎今朝弥、片山哲らと自由法曹団を創立、翌年には、借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱、個人雑誌『生活運動』を発行しました。1923年(大正12)の関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(亀戸事件)において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走します。
 また、台湾農民組合騒擾事件、木崎村小作争議をはじめ、各地の小作争議の弁護・救援にもあたりました。1928年(昭和3)の第16回衆議院議員選挙(最初の普通選挙)に労働農民党の公認候補として出馬しましたが落選、解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となります。
 1929年(昭和4)に日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴され、1930年(昭和5)には、「新聞紙法」違反、「郵便法」違反の容疑で東京区裁判所にも起訴されました。1932年(昭和7)に弁護士資格を失った後、翌年に皇太子誕生恩赦で復活、赤色弁護士団事件に関連して、他の日本労農弁護士団員と共に検挙され、1939年(昭和14)には「治安維持法」違反で懲役2年の判決が確定、翌年の紀元2600年恩赦で出獄しています。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に自由法曹団を再結成し、顧問に推され、弁護士活動を再開、憲法改正の私案も発表しました。1946年(昭和21)に食糧メーデーのプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張、1948年(昭和23)には、日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出されています。
 1949年(昭和24)に三鷹事件の弁護団長、松川事件の弁護人となり、1952年(昭和27)の血のメーデー事件の弁護を行なうなど、一貫して人権擁護のために尽力してきましたが、翌年9月13日に、東京において、73歳で亡くなりました。

〇布施辰治関係略年表

・1880年(明治13)11月13日 宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市蛇田)の農家である父・栄治郎、母・きえの子として生まれる
・189年9(明治32) 「哲学」を勉強するため上京、蛇田でキリスト教に遭い、神田のニコライ堂の学僕となり、明治法律学校(明治大学の前身)へ入学する
・1902年(明治35) 明治法律学校を卒業、判事検事試験登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任する
・1903年(明治36) 宇都宮地方裁判所検事代理となったものの、8月に辞任(挂冠の辞を発表)する
・1904年(明治37) 東京小石川初音町に弁護士事務所を開くものの、半年で解散する
・1905年(明治38) 東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開き、平沢光子と結婚する
・1906年(明治39) 電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護、社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件となる
・1917年(大正6) 普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催す
・1918年(大正7) 米騒動事件の弁護活動を行う
・1919年(大正8) 東京の朝鮮基督教青年会館で朝鮮人学生が集会を開き、「独立宣言」を発表して60余名が警察に検挙され、9名が起訴された事件の弁護に加わる
・1920年(大正9) 個人雑誌『法廷より社会へ』を発行し、「自己革命の告白」を発表する
・1921年(大正10) 神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して、山崎今朝弥、片山哲らと自由法曹団を創立する
・1922年(大正11) 借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱、個人雑誌『生活運動』を発行する
・1923年(大正12) 朝鮮独立運動の義烈団事件弁護のため朝鮮へ渡る、関東大震災下の朝鮮人虐殺事件において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走する
・1924年(大正13) 香川県太田村伏石の小作争議の弁護をする
・1925年(大正14) 群馬県世良田村襲撃事件の弁護、朝鮮水害罹災民救援運動、小樽高商軍事教練への抗議運動をする
・1926年(大正15) 日本労働組合総連合会長となり、朴烈、金子文子大逆事件の大審院特別法廷の弁護をする
・1927年(昭和2) 台湾二林蔗糖農民組合騒擾事件弁護のため渡台、渡朝する
・1928年(昭和3) 第1回普通選挙に労働農民党の公認候補として出馬したが落選、解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となる
・1929年(昭和4) 日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴される
・1930年(昭和5) 「新聞紙法」違反、「郵便法」違反の容疑で東京区裁判所に起訴される
・1931年(昭和6) 全農全国会議弁護士団結成、幹事長となる
・1932年(昭和7) 大審院の懲戒裁判所で弁護士除名の判決が確定する
・1933年(昭和8) 解放運動犠牲者救援弁護士団と全農全国会議弁護士団が合併して日本労農弁護士団となり、「新聞紙法」違反容疑事件、上告棄却となり「禁固3ヵ月」が確定、東京豊多摩刑務所へ下獄、日本労農弁護士団の治安維持法違反容疑に連座して検挙、拘置されるも、皇太子誕生恩赦により弁護士資格が復活する
・1934年(昭和9) 治安維持法違反容疑で起訴される
・1935年(昭和10) 保釈され、前進座から演劇研究所建設について相談を受ける
・1937年(昭和12) 仙台弁護士会に弁護士登録し、岩手山村の入会権事件の解決に尽力する
・1939年(昭和14) 治安維持法違反容疑事件が上告棄却となり「懲役2年、未決算入200日」が確定、仙台弁護士会の弁護士登録抹消、千葉刑務所へ下獄する
・1940年(昭和15) 神式紀元2600年記念恩赦により減刑され、出獄する
・1944年(昭和19) 三男・杜生が治安維持法違反容疑で京都刑務所にて獄死する
・1945年(昭和20) 自由法曹団再結成し、顧問に推され、弁護士活動を再開、憲法改正の私案も発表する
・1946年(昭和21) 食糧メーデーのプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張する
・1948年(昭和23) 日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出される
・1949年(昭和24) 三鷹事件の弁護団長、松川事件の弁護人となる
・1952年(昭和27) 血のメーデー事件の弁護を行う
・1953年(昭和28)9月13日 東京において、73歳で亡くなり、日比谷公会堂で告別式が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1948年(昭和23)昭和電工事件で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕される詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争)詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細
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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、政治家・思想家・弁護士・社会運動家大井憲太郎の亡くなった日です。
 大井憲太郎(おおい けんたろう)は、1843年(天保14年8月10日)に、豊後国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)で、農民だった父・高並彦郎と母・サノの三男として生まれましたが、幼名は彦六と言いました。1852年(嘉永5)に豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学び、1862年(文久2)には、長崎で蘭学、舎密学(化学)を学びます。
 1863年(文久3)に大井卜新とともに大阪へ行き、親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗り、1865年(慶応元)に幕府開成所でフランス語、化学を学び始め、翌年には開成所舎密局の世話心得となりました。1868年(明治元)の戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦い、翌年に箕作麟祥に師事し、フランス学を学び、1870年(明治3)には、名を大井憲太郎と改めます。
 1871年(明治4)に兵部省に出仕、1873年(明治6)に陸軍省八等に出仕、1874年(明治7)には、通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行いました。1875年(明治8)に元老院少書記となったものの、翌年免官され、愛国社創立に参画、その後は弁護士(当時は代言人)として活動します。
 1877年(明治10)には、大井卜新の養子となり、北畠道竜らと私塾「構法学社」を開き、その後分離独立させて「明法学社」を開きました。1880年(明治13)に国会期成同盟に加わり、翌年に自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に出て急進派として活動、1884年(明治17)には、秩父の借金党(秩父困民党)を指導します。
 1885年(明治18)に朝鮮の内政改革運動の大阪事件を起こして逮捕され、禁錮9年の刑を受けましたが、1889年(明治22)の大赦令で出獄し、新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となりました。1890年(明治23)に板垣退助と共に自由党を再興し、立憲自由党に改組して常議員となり、「あづま新聞」を創刊したものの、翌年廃刊となります。
 1892年(明治25)に立憲自由党を脱党、東洋自由党を結成し、普通選挙を唱えましたが、翌年解散しました。1894年(明治27)の第3回衆議院議員総選挙に大阪より立候補して初当選、1898年(明治31)には、東京で南洋貿易商会を営み、自由党、進歩党の合同に尽くし憲政党総務となります。
 1899年(明治32)に普通選挙期成同盟会(後の普通選挙同盟)を片山潜らと結成、大日本労働協会や小作条例期成同盟会も組織し、社会運動の先駆けをなしました。1905年(明治38)に満州に渡り、労働者保護事業に従事したものの、1917年(大正6)に病のため満州より帰国します。
 その後も、1919年(大正8)に普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱したりしましたが、1922年(大正11)10月15日に、東京牛込二十騎町(現座主の東京都新宿区)において、数え年80歳で亡くなりました。

〇大井憲太郎の主要な著作

・翻訳『仏国政典』
・翻訳『仏国民選議院選挙法』
・『自由略論』
・『時事要論』

☆大井憲太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1843年(天保14年8月10日) 豊後国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)で、農民だった父・高並彦郎と母・サノの三男として生まれる
・1852年(嘉永5年) 豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学ぶ
・1862年(文久2年) 長崎で蘭学、舎密学(化学)を学ぶ
・1863年(文久3年) 大井卜新とともに大阪へ行き、親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗る
・1865年(慶応元年) 幕府開成所でフランス語、化学を学び始める
・1866年(慶応2年) 幕府開成所舎密局の世話心得となる
・1868年(明治元年) 戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う
・1869年(明治2年) 箕作麟祥に師事し、フランス学を学ぶ
・1870年(明治3年) 名を大井憲太郎と改める
・1871年(明治4年) 兵部省に出仕する
・1873年(明治6年) 陸軍省八等に出仕する
・1874年(明治7年) 通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行う
・1875年(明治8年)5月 元老院少書記となる
・1876年(明治9年) 元老院少書記を免官され、愛国社創立に参画する
・1877年(明治10年) 大井卜新の養子となり、北畠道竜らと私塾「構法学社」を開き、その後分離独立させて「明法学社」を開く
・1880年(明治13年) 国会期成同盟に加わる
・1881年(明治14年) 自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に出る
・1884年(明治17年) 秩父の借金党を指導する
・1885年(明治18年) 朝鮮の内政改革運動の大阪事件を起こして逮捕され、禁錮9年の刑を受ける
・1889年(明治22年) 大赦令で出獄し、新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となる
・1890年(明治23年)2月 板垣退助とともに自由党を再興し、立憲自由党に改組して常議員となる
・1890年(明治23年)12月 「あづま新聞」を創刊する
・1891年(明治24年) 「あづま新聞」が廃刊となる
・1892年(明治25年)2月 立憲自由党を脱党する
・1892年(明治25年)11月 東洋自由党を結成、普通選挙を唱える
・1893年(明治26年) 東洋自由党が解散となる
・1894年(明治27年)3月 第3回衆議院議員総選挙に大阪より立候補し、初当選する
・1898年(明治31年) 東京で南洋貿易商会を営み、自由党、進歩党の合同に尽くし憲政党総務となる
・1899年(明治32年) 普通選挙期成同盟会(後の普通選挙同盟)を片山潜らと結成する
・1899年(明治32年)6月 大日本労働協会、小作条例期成同盟会を組織する
・1900年(明治33年) 中村太八郎らが活動する普通選挙同盟会の評議員となる
・1901年(明治34年)5月 大日本労働協会、小作条例期成同盟会を解散する
・1905年(明治38年) 満州に渡り、労働者保護事業に従事する
・1917年(大正6年) 病のため満州より帰国する
・1919年(大正8年) 普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱する
・1922年(大正11年)10月15日 東京牛込二十騎町(現座主の東京都新宿区)において、数え年80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)聖武天皇が「大仏建立の詔」(東大寺大仏建立)を発する(新暦11月5日)詳細
1872年(明治5)小説家・劇作家岡本綺堂の誕生日(新暦11月15日)詳細
1956年(昭和31)天竜川中流に佐久間ダムが竣工し、完成式が行われる詳細
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