
しかし、1933年(昭和8)の「滝川事件」で京都帝国大学を辞職し、立命館大学助教授となったものの、翌年には、京都帝国大学法学部助手として復帰しました。1935年(昭和10)に助教授(民刑事法専攻 民事法講座)に昇任、1943年(昭和18)には教授に昇任しています。
1947年(昭和22)に京都帝国大学評議員(~1949年2月)となり、1949年(昭和24)に『相続法』、1950年(昭和25)に『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』、1951年(昭和26)に『民法総則講義』を刊行しました。1954年(昭和29)に再び、京都大学評議員(~1956年3月)となり、『財産管理権序説』を刊行します。
翌年には、学位論文「財産管理権論序説」で、京都大学より、法学博士を授与されましたが、財産の帰属と管理を分離することを説き、賛否両論を巻き起こしたが受け入れられ、民法の各分野にわたる解釈体系を打ち立てました。1959年(昭和34)に京都大学法学部長(~1960年12月)となり、『債権総論』を刊行、1966年(昭和41)に谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』、1967年(昭和42)には、奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』も刊行しています。
1971年(昭和46)に京都大学を退官し、名誉教授となり、『民法学の基礎的課題(上)』を刊行、弁護士となって活躍しました。1979年(昭和54)に勲二等旭日重光章を受章、1995年(平成7)には、文化功労者となったものの、1996年(平成8)1月14日に、京都府京都市の自宅において、肺癌のため、87歳で亡くなっています。
法学部教授会がこれに反対、教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示し、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。当時、京都帝国大学法学部助手であった於保不二雄も抗議辞職し、立命館大学助教授となりましたが、翌年京都帝国大学へ復帰しました。
滝川幸辰は退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍します。太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となりました。
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