ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:建築家

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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、建築家吉田五十八の亡くなった日です。
 吉田五十八(よしだ いそや)は、明治時代中頃の1894年(明治27)12月19日に、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれました。1897年(明治30)に父・太田信義が亡くなり、1909年(明治42)には、母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗るようになります。
 東京開成中学校(現在の開成学園)を経て、1915年(大正4)に、東京美術学校図案科第2部に入学し、岡田信一郎に学び、在学中から住宅や店舗の設計を手がけました。1923年(大正12)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業後、欧米留学に出発し、ヨーロッパの古典建築について学び、1925年(大正14)に帰国します。
 その後、設計活動に入り、伝統的な数寄屋建築を現代化した独自の作風を確立しました。1941年(昭和16)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任し、1944年(昭和19)に東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任して後進の指導に当たりつつ、住宅以外の劇場、美術館、寺院などの大規模建造物を手がけました。それらの功績により、1952年(昭和27)に日本芸術院賞を受賞、1954年(昭和29)には、日本芸術院会員となっています。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学を退官以後は設計活動に専念し、翌年に皇居新宮殿造営顧問となり、1964年(昭和39)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に皇居新宮殿造営顧問を辞め、アメリカ建築家協会名誉会員となったものの、1974年(昭和49)3月24日に、東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇吉田五十八の主要な作品

・「小林古経邸」(1934年)
・「杵屋六左衛門別邸」(1936年)
・「新喜楽」(1940年)
・「東京歌舞伎(かぶき)座」改修(1951年)
・「山口蓬春画室」(1954年)
・「明治座」復興増改築(1958年)
・「梅原龍三郎邸」(1958年)
・「日本芸術院会館」(1958年)
・「五島美術館」(1960年)
・「大和文華館」(1960年)
・ローマの「日本文化会館」(1962年)
・「岸信介邸」(1969年)

☆吉田五十八関係略年表

・1894年(明治27)12月19日 東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれる
・1897年(明治30) 父・太田信義が亡くなる
・1909年(明治42) 母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗る
・1915年(大正4) 東京美術学校図案科第2部に入学する
・1923年(大正12) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業、欧米留学に出発する
・1925年(大正14) 欧米留学から帰国する
・1937年(昭和12) 結婚する
・1941年(昭和16) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任する
・1944年(昭和19) 東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てる
・1946年(昭和21) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任する
・1952年(昭和27) 日本芸術院賞を受賞する 
・1954年(昭和29) 日本芸術院会員となる
・1962年(昭和37) 東京芸術大学を退官する
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿造営顧問となる
・1964年(昭和39) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿造営顧問を辞める、アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1974年(昭和49)3月24日 東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1972年(昭和47)に、元東京帝国大学総長・建築家で、日本の建築構造学の父と言われた内田祥三の亡くなった日です。
 内田祥三(うちだ よしかず)は、明治時代前期の1885年(明治18)2月23日に、東京・深川において生まれましたが、4歳の時に父を亡くしました。旧制開成中学を経て、1901年(明治34)に、旧制第一高等学校に入学、1904年(明治37)には、東京帝国大学工科大学建築学科へ進みます。
 在学中に三菱ビジネス街で建築実習し、1907年(明治40)に卒業後、三菱合資地所部(現三菱地所)に入社して13号館などオフィスビル等の建設に従事しました。1910年(明治43)に東京帝国大学に戻って大学院に進み、佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究します。
 1911年(明治44)に東京帝国大学講師(嘱託)、陸軍経理学校講師となりました。1916年(大正5)に東京帝国大学助教授となり、1918年(大正7)には、論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与されます。
 1921年(大正10)に東京帝国大学工学部教授に昇進し、1923年(大正12)には、東京帝国大学営繕課長を兼務、関東大震災後のキャンパス復興を指導しました。1924年(大正13)に財団法人同潤会理事(中之郷アパートメントを設計)となり、1925年(大正14)に東京帝国大学安田講堂(岸田日出刀と共同)、1930年(昭和5)に上海自然科学研究所、1933年(昭和8)には、旧制第一高等学校本館を設計します。
 1935年(昭和10)に日本建築学会会長、1942年(昭和17)に東京帝国大学工学部長、1943年(昭和18)には、東京帝国大学第14代総長ともなりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に総長を辞め、1951年(昭和26)には、東京帝国大学名誉教授、文化財保護委員会委員長となります。
 1956年(昭和31)に藍綬褒章受章、1957年(昭和32)に日本学士院会員、1972年(昭和47)には文化勲章受章と数々の栄誉に輝きました。日本の鉄筋コンクリート・鉄骨構造学の基礎を築き、「日本の建築構造学の父」とも言われましたが、1972年(昭和47)12月14日に、東京において、87歳で亡くなっています。

<主要な著作>

・『都市計画の施設に就て~都市と公園』(1924年)
・『鉄筋コンクリートの理論と実際』(1925年)
・『建築構造汎論』(1949年)
・『木造都市と防火都市』(1951年)

〇内田祥三の代表的な建築作品

・所沢飛行船格納庫 (1912年) 
・旧東京海上ビル (1913年) 
・中之郷アパート(1924年)
・東京帝国大学安田講堂(1925年)岸田日出刀と共同設計
・上海自然科学研究所 (1930年) 
・旧制第一高等学校本館 (1933年) 

☆内田祥三関係略年表

・1885年(明治18)2月23日 東京・深川において生まれる
・1889年(明治22) 4歳の時に父を亡くす
・1901年(明治34) 旧制開成中学を卒業し、旧制第一高等学校に入学する
・1904年(明治37) 東京帝国大学工科大学建築学科入学。在学中に三菱ビジネス街で建築実習。
・1907年(明治40) 東京帝国大学工科大学建築学科卒業、三菱合資地所部(現三菱地所)に入社し、13号館などオフィスビル等の建設に従事する
・1910年(明治43) 東京帝国大学大学院に進み、佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究する
・1911年(明治44) 東京帝国大学講師(嘱託)、陸軍経理学校講師となる
・1912年(明治45) 所沢飛行船格納庫を設計する
・1916年(大正5) 東京帝国大学助教授となる
・1918年(大正7) 論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与される
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学営繕課長を兼務、関東大震災後のキャンパス復興を指導する
・1924年(大正13) 財団法人同潤会理事(中之郷アパートメントを設計)となる
・1925年(大正14) 東京帝国大学安田講堂を岸田日出刀と共同設計する
・1930年(昭和5) 上海自然科学研究所を設計する
・1933年(昭和8) 旧制第一高等学校本館を設計する
・1935年(昭和10) 日本建築学会会長となる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部長となる
・1943年(昭和18) 東京帝国大学第14代総長となる
・1945年(昭和20)12月 東京帝国大学第14代総長を辞める
・1951年(昭和26) 東京帝国大学名誉教授、文化財保護委員会委員長となる
・1956年(昭和31) 藍綬褒章を受章する
・1957年(昭和32) 日本学士院会員となる
・1972年(昭和47) 文化勲章を受章する
・1972年(昭和47)12月14日 東京において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)江戸時代の文人画家谷文晁の命日(新暦1841年1月6日)詳細
1949年(昭和24)小説家・翻訳家森田草平の命日詳細
1955年(昭和30)洋画家安井曾太郎の命日詳細
1960年(昭和35)国連教育科学文化機関(ユネスコ)第11回総会で、「教育差別禁止条約」が採択される詳細
第15回国連総会で、アジア・アフリカ43ヶ国の提案による「植民地独立付与宣言」が採択される詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、建築家・文筆家谷口吉郎の生まれた日です。
 谷口吉郎(たにぐち よしろう)は、金沢市片町の九谷焼窯元「谷口金陽堂」を営む父・谷口吉次郎、母・直江の長男として生まれました。石川県師範学校附属小学校、石川県立第二中学校、第四高等学校を経て、1925年(大正14)に、東京帝国大学工学部建築学科に入学します。
 1928年(昭和3)に東京帝国大学工学部建築学科卒業後、同大学大学院へ進み、1930年(昭和5)に東京帝国大学大学院を修了し、東京工業大学講師となり、翌年には、助教授に昇任しました。1938年(昭和13)に、駐独日本大使館の日本庭園建設のため、外務省嘱託としてドイツのベルリンに出張し、翌年帰国します。
 1942年(昭和17)に、「建造物に作用する風圧の研究」により日本建築学会賞学術賞を受賞、翌年には、東京工業大学より工学博士を授与され、同大学教授となりました。太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に、藤村記念堂、慶應義塾大学4号館・学生ホールの設計により日本建築学会賞作品賞を受賞、1952年(昭和27)に、文化財専門審議会専門委員となり、1956年(昭和31)には、秩父セメント第2工場の設計により再び日本建築学会賞作品賞を受賞しています。
 また、文筆家としても知られ、1940年(昭和15)に木下杢太郎らと「花の書の会」を始め、機関紙「花の書」に創刊号から随筆を発表、1944年(昭和19)より雑誌「文藝」に随筆『雪あかり日記』を書き始め、1947年(昭和22)に東京出版より刊行、1957年(昭和32)には、著書『修学院離宮』により毎日出版文化賞を受賞しました。1961年(昭和36)に、「東宮御所」設計その他の業績により日本芸術院賞を受賞、1962年(昭和37)に日本芸術院会員となり、1964年(昭和39)には、土川元夫・名鉄社長の協力を得て、博物館明治村を開館し、初代館長に就任しています。
 1965年(昭和40)に東京工業大学を定年退官、名誉教授となり、1968年(昭和43)に、文化庁文化財保護審議会委員に就任、1973年(昭和48)には、文化功労者として顕彰され、文化勲章も受章しました。1977年(昭和52)に、産業考古学会が創立され、初代会長となり、翌年には、金沢市名誉市民第一号ともなりましたが、1979年(昭和54)2月2日に、東京において、74歳で亡くなっています。

〇谷口吉郎の主要な作品
<建築物>
・「慶応義塾日吉寄宿舎」(1938年)
・「藤村記念館」(1948年)日本建築学会賞作品賞受賞
・「秩父セメント第二工場」(1956年)日本建築学会賞作品賞受賞
・「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」(1959年)
・「東宮御所」(1961年)日本芸術院賞受賞
・「帝国劇場」(1966年)
・「東京国立博物館東洋館」(1968年)
・「東京国立近代美術館」(1969年)

<著書>
・随筆集『雪あかり日記』(1947年)
・『修学院離宮』(1957年)毎日出版文化賞受賞
・『清らかな意匠』(1948年)
・随筆集『せせらぎ日記』(1983年)
・『建築に生きる』

☆谷口吉郎関係略年表

・1904年(明治37)6月24日 金沢市片町の九谷焼窯元「谷口金陽堂」を営む父・谷口吉次郎、母・直江の長男として生まれる
・1911年(明治44) 石川県立師範学校附属小学校に入学する
・1918年(大正7) 石川県立第二中学校に入学する
・1922年(大正11) 第四高等学校に入学する
・1925年(大正14) 第四高等学校卒業し、東京帝国大学工学部建築学科に入学する
・1928年(昭和3) 東京帝国大学工学部建築学科卒業し、同大学大学院へ進む
・1930年(昭和5) 東京帝国大学大学院を修了し、東京工業大学講師となる
・1931年(昭和6) 東京工業大学助教授となる
・1932年(昭和7) 「東工大水力実験室」を設計する
・1935年(昭和10) 洗足に自邸を建設する
・1938年(昭和13) 駐独日本大使館の日本庭園建設のため、外務省嘱託としてドイツのベルリンに出張する
・1939年(昭和14) ドイツのベルリンから帰国する
・1940年(昭和15) 木下杢太郎らと「花の書の会」を始め、機関紙「花の書」に創刊号から随筆を発表する
・1942年(昭和17) 「建造物に作用する風圧の研究」により日本建築学会賞学術賞を受賞する
・1943年(昭和18) 学位論文「建築物の風圧に関する研究」により東京工業大学より工学博士を得る、東京工業大学教授となる
・1944年(昭和19) 11月頃より雑誌「文藝」に随筆『雪あかり日記』を書き始める
・1947年(昭和22) 随筆集『雪あかり日記』を東京出版より刊行する
・1948年(昭和23) 『清らかな意匠』を自装で朝日新聞社から刊行する
・1949年(昭和24) 藤村記念堂、慶應義塾大学4号館・学生ホールの設計により日本建築学会賞作品賞を受賞する
・1952年(昭和27) 文化財専門審議会専門委員となる、石川県繊維会館が竣工する
・1956年(昭和31) 秩父セメント第2工場の設計により日本建築学会賞作品賞を受賞する
・1957年(昭和32) 著書「修学院離宮」により毎日出版文化賞を受賞する
・1959年(昭和34) 石川県美術館、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が竣工する
・1961年(昭和36) 「東宮御所」設計その他の業績により日本芸術院賞を受賞する
・1962年(昭和37) 日本芸術院会員となる、ホテルオークラが竣工する
・1964年(昭和39) 博物館明治村初代館長に就任する
・1965年(昭和40) 東京工業大学を定年退官、名誉教授となる
・1968年(昭和43) 文化庁文化財保護審議会委員となる、東京国立博物館東洋館が竣工する
・1973年(昭和48) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1974年(昭和49) 迎賓館赤坂離宮和風別館が竣工する
・1977年(昭和52) 産業考古学会が創立され、初代会長となる
・1978年(昭和53) 金沢市名誉市民第一号となる
・1979年(昭和54)2月2日 東京において、74歳で亡くなり、従三位勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1361年(正平16/康安元)南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震が発生し、津波も起こり、大きな被害を出す詳細
1839年(天保10)蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
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 今日は、明治時代後期の1891年(明治25)に、建築家村野藤吾の生まれた日です。
 村野藤吾(むらの とうご)は、佐賀県東松浦郡満島村(現在の唐津市)において、代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれましたが、本名は藤吉(とうきち)と言いました。生後まもなく乳母の元に預けられ12歳頃まで育てられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(現在の北九州市八幡東区 )で養育されます。
 1910年(明治44)に福岡県小倉工業学校(現在の小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社しましたが、翌年から2年間従軍しました。1913年(大正2)に早稲田大学理工学部電気工学科に入学したものの、1915年(大正4)には建築学科へ転学します。
 1918年(大正7)に早稲田大学建築学科卒業後、阪の渡辺節建築事務所に入り、日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等、チーフ・デザイナーとして多くの設計を手がけました。1929年(昭和4)に独立して、大阪に村野建築事務所を開設、翌年には、欧米に遊学します。
 1931年(昭和6)に森五商店東京支店、1935年(昭和10)に大阪の十合百貨店、1937年(昭和12)に宇部市民会館などを手掛けて注目されましたが、日中戦争~太平洋戦争中は実作の機会は少なく、不遇の時期を過ごしました。戦後は、1949年(昭和24)に村野建築事務所を村野・森建築事務所と改称、1952年(昭和27)に日本芸術院賞、1953年(昭和28)に日本建築学会賞作品賞、1954年(昭和29)に大阪府芸術賞を受賞し、1955年(昭和30)には、世界平和記念聖堂で日本建築学会賞作品賞を受賞、日本芸術院会員に推挙されます。
 古典に近代感覚を自由に盛り込んだ作風と、熟達した実務派として高い評価を得て、1958年(昭和33)に藍綬褒章を受章、1962年(昭和37)に日本建築家協会会長となり、1967年(昭和42)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)から迎賓館本館(旧赤坂離宮)の改修も手がけるなど、数々の作品をつくり、多くの栄誉にも輝いたものの、1984年(昭和59)11月26日に兵庫県宝塚市において、93歳で亡くなっています。
 尚、2005年(平成17)に宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)が村野の作品として初めて国の重要文化財に指定され、翌年には、世界平和記念聖堂(1953年築)が戦後建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定されました。

〇村野藤吾の主要な建築作品

・大阪の十合(そごう)百貨店(1935年)
・宇部市民会館(1937年)
・世界平和記念聖堂(1953年)
・東京のそごう読売会館(1957年)
・大阪新歌舞伎座(1958年)
・横浜市庁舎(1959年)
・京都都ホテル佳水園(1959年)
・早稲田大学文学部校舎(1962年)
・日本生命日比谷(ひびや)ビル(1963年)
・千代田生命本社(1966年)
・宝塚カトリック教会(1967年)
・兵庫県立近代美術館(1970年)
・日本ルーテル神学大学(1970年)
・箱根プリンスホテル(1978年)
・新高輪プリンスホテル(1982年)
・谷村美術館(1983年)

☆村野藤吾関係略年表

・1891年(明治25)5月15日 佐賀県東松浦郡満島村(現在の唐津市)において、代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれる
・1910年(明治44) 福岡県小倉工業学校(現在の小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社する
・1911年(明治45) 2年間にわたり従軍する
・1913年(大正2) 早稲田大学理工学部電気工学科に入学する
・1915年(大正4) 早稲田大学理工学部建築学科へ転学する
・1918年(大正7) 早稲田大学建築学科卒業後、阪の渡辺節建築事務所に入る
・1929年(昭和4) 大阪に村野建築事務所を開設する
・1930年(昭和5) 欧米に遊学する
・1949年(昭和24) 村野建築事務所を村野・森建築事務所と改称する
・1952年(昭和27) 日本芸術院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 丸栄百貨店で日本建築学会賞作品賞を受賞する
・1954年(昭和29) 大阪府芸術賞を受賞する
・1955年(昭和30) 世界平和記念聖堂で日本建築学会賞作品賞を受賞、日本芸術院会員に推挙される
・1958年(昭和33) 藍綬褒章を受章する
・1962年(昭和37) 日本建築家協会会長となる
・1964年(昭和39) 日本生命日比谷ビルで日本建築学会賞作品賞を受賞する
・1967年(昭和42) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 迎賓館本館(旧赤坂離宮)の改修も手がけ始める
・1970年(昭和45) アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員となる
・1971年(昭和46) 箱根樹木園休息所で日本建築学会建築大賞を受賞する
・1972年(昭和47) ローマ法王庁グレゴリオ勲章を受章する
・1973年(昭和48) 早稲田大学名誉博士号を受ける
・1977年(昭和52) 小山敬三美術館で毎日芸術賞を受賞する
・1980年(昭和55) 第6回明治村賞を受賞する
・1984年(昭和59)11月26日 兵庫県宝塚市において、93歳で亡くなる
・2005年(平成17) 宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)が村野の作品として初めて国の重要文化財に指定される
・2006年(平成18) 世界平和記念聖堂(1953年築)が戦後建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日)詳細
1615年(慶長20)武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日)詳細
1884年(明治17)群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件)詳細
1932年(昭和7)五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される詳細
1972年(昭和47) 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、詩人・建築家立原道造の亡くなった日です。
 立原道造(たちはら みちぞう)は、大正時代の1914年(大正3)7月30日に、東京市日本橋区橘町で、荷造り用の木箱製造を家業とする父・立原貞治郎、母・トメの次男として生まれました。1919年(大正8)に父の死去により家督を相続しましたが、家業は母が取り仕切り、後に弟達夫が継ぎます。
 1921年(大正10)に久松小学校に入学しましたが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で家が焼失し、一時千葉県東葛飾郡新川村(現流山市)豐島方に避難しました。1927年(昭和2)に久松小学校卒業後、東京府立第三中学校に入学、詩作等に興味を持ち、「學友會誌」に発表などしています。
 中学校卒業後、1931年(昭和6)に第一高等学校理科甲類へ入学、一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に連続して投稿、堀辰雄の面識を得て、以後兄事しました。1932年(昭和7)に、同人誌『こかげ』を創刊、一高文芸部の編集委員に選任され、手づくり詩集『さふらん』、『日曜日』、『散歩詩集』を制作します。
 1934年(昭和9)に東京帝国大学工学部建築学科へ入学、同人雑誌「偽画」を創刊、小説『間奏曲』を発表、堀辰雄、三好達治らの詩誌「四季」の同人となり、詩を発表、また堀の紹介で室生犀星に教えを乞いました。この頃、初めて信州追分に滞在、この地の風光を愛し、詩の背景とするようになり、翌年同人誌「未青年」を創刊します。
 一方で、課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞、以後卒業まで、3年連続して受賞し、建築家としての才能も示し、卒業後は石本建築事務所に入社し、建築家として将来を嘱望されます。同年に信州追分での恋愛体験をソネット形式でうたった第一詩集『萱草に寄す』、第二詩集『暁と夕の詩』を出し、音楽的美感に貫かれた繊細な神経で青春の痛みを歌いました。
 しかし、1938年(昭和13)夏に、肺尖カタルのため休職し、大森の室生犀星邸、信濃追分油屋で療養することになります。帰京後、東京市立療養所に入所、1939年(昭和14)に第1回中原中也賞を受賞しましたが、3月29日に病状急変し、24歳の若さで亡くなりました。
 尚、没後の1947年(昭和22)に堀辰雄により、第三詩集『優しき歌』が刊行されています。

〇立原道造の主要な著作

・第一詩集『萱草に寄す』(1937年)
・第二詩集『暁と夕の詩』(1937年)
・第三詩集『優しき歌』(1947年)
・初期作品集『詩人の出発』(1961年)

☆立原道造関係略年表

・1914年(大正3)7月30日 東京市日本橋区橘町で、荷造り用の木箱製造を家業とする父・立原貞治郎、母・トメの次男として生まれる
・1919年(大正8) 父の死去により家督を相続するが、家業は母が取り仕切り、後に弟達夫が継ぐ
・1921年(大正10) 東京市久松尋常小学校入学。在学中首席を通す
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災で家が焼失し、一時千葉県東葛飾郡新川村(現流山市)豐島方に避難する
・1924年(大正13) この夏から一高卒業まで、御岳山での避暑をほぼ恒例とする。
・1927年(昭和2) 東京府立第三中学校入学、作歌を始め、北原白秋を訪問し、口語自由律短歌を「学友会誌」に発表する
・1931年(昭和6) 第一高等学校理科甲類入学、一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の「詩歌」に投稿、秋に堀辰雄の面識を得、兄事する
・1932年(昭和7) 同人誌『こかげ』創刊、一高文芸部の編集委員となり活躍、手づくり詩集『さふらん』を制作する
・1933年(昭和8) 手づくり詩集『日曜日』、『散歩詩集』を制作する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学工学部建築学科入学、同人誌「偽画」を創刊、室生犀星、萩原朔太郎を識る、第2次「四季」創刊参加、編集同人となり、組詩「村ぐらし」「詩は」を発表する
・1935年(昭和10)  課題設計「小住宅」により辰野賞を受賞、同人誌「未成年」を創刊、詩人として活躍する
・1936年(昭和11)  シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出し、処女出版する、卒業論文「方法論」を提出する
・1937年(昭和12)  東大卒業後、石本建築事務所に入社し、建築家として将来を嘱望される、第一詩集『萱草に寄す』、第二詩集『暁と夕の詩』を出版する
・1938年(昭和13)  夏、肺尖カタルのため休職し、大森の室生犀星邸、信濃追分油屋で療養する、帰京後、東京市立療養所に入所する
・1939年(昭和14)  第1回中原中也賞受賞、3月29日に病状急変し24歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1933年(昭和8)米穀統制法」が公布される詳細
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