
武藤清(むとう きよし)は、明治時代後期の1903年(明治36)1月29日に、茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において生まれました。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に入学します。
在学中の1923年(大正12)に、関東大震災を経験し、耐震建築の研究を志すようになり、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行いました。1927年(昭和2)に東京帝国大学工学部助教授となり、1931年(昭和6)には、臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤め、1933年(昭和8)には、世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成します。
1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部教授に昇任し、1938年(昭和13)には、「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞し、太平洋戦争末期には松代大本営の造営に関与しました。1960年(昭和35)に東京大学工学部長となり、1961年(昭和36)には、「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞します。
1962年(昭和37)に千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務め、1963年(昭和38)に東京大学を退官後、鹿島建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長ともなりました。1964年(昭和39)に「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞、1966年(昭和41)には、『超高層建築へのアプローチ』を刊行します。
コンピューターによるシミュレーション法を開発し、その成果は「柔構造」理論として、1968年(昭和43)には、霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受けました。1969年(昭和44)に武藤構造力学研究所所長となり、1970年(昭和45)に「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となっています。
1979年(昭和54)に文化功労者となり、1980年(昭和55)に「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞、1983年(昭和58)には、文化勲章を受章しました。1984年(昭和59)に米国地震工学会特別賞を受賞しましたが、1989年(平成元)3月12日に、東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなっています。
在学中の1923年(大正12)に、関東大震災を経験し、耐震建築の研究を志すようになり、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行いました。1927年(昭和2)に東京帝国大学工学部助教授となり、1931年(昭和6)には、臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤め、1933年(昭和8)には、世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成します。
1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部教授に昇任し、1938年(昭和13)には、「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞し、太平洋戦争末期には松代大本営の造営に関与しました。1960年(昭和35)に東京大学工学部長となり、1961年(昭和36)には、「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞します。
1962年(昭和37)に千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務め、1963年(昭和38)に東京大学を退官後、鹿島建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長ともなりました。1964年(昭和39)に「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞、1966年(昭和41)には、『超高層建築へのアプローチ』を刊行します。
コンピューターによるシミュレーション法を開発し、その成果は「柔構造」理論として、1968年(昭和43)には、霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受けました。1969年(昭和44)に武藤構造力学研究所所長となり、1970年(昭和45)に「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となっています。
1979年(昭和54)に文化功労者となり、1980年(昭和55)に「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞、1983年(昭和58)には、文化勲章を受章しました。1984年(昭和59)に米国地震工学会特別賞を受賞しましたが、1989年(平成元)3月12日に、東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなっています。
〇武藤清の主要な著作
・共著『構造力学』高等建築学第5巻(1934年)
・『耐震設計シリーズ』全5巻(1963~67年)
・『超高層建築へのアプローチ』(1966年)
☆武藤清関係略年表
・1903年(明治36)1月29日 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において、生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行う
・1927年(昭和2) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1931年(昭和6) 臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤める
・1933年(昭和8) 世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1938年(昭和13) 「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞する
・1960年(昭和35) 東京大学工学部長となる
・1961年(昭和36) 「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞する
・1962年(昭和37) 千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務める
・1963年(昭和38) 東京大学を退官後、鹿島(かじま)建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長となる
・1964年(昭和39) 「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『超高層建築へのアプローチ』を刊行する
・1968年(昭和43) 霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受ける
・1969年(昭和44) 武藤構造力学研究所所長となる
・1970年(昭和45) 「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞する
・1975年(昭和50) 日本学士院会員となる
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 米国地震工学会特別賞を受賞する
・1989年(平成元)3月12日 東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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