ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:建築家

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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、建築家・工学博士内井昭蔵が生まれた日です。
 内井昭蔵(うちい しょうぞう)は、1933年(昭和8)2月20日に、東京市神田区において、建築家の父・内井進の子として生まれ、旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の県立熊谷高校)を経て、1956年(昭和31)に、早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業し、工学研究科修士課程に進みました。1958年(昭和33)に修士課程修了後、菊竹清訓建築設計事務所に勤務したものの、1967年(昭和42には辞めて独立し、内井昭蔵建築設計事務所を設立しています。
 1971年(昭和46)に、「桜台コートビレッジ」で、第22回日本建築学会賞作品賞、翌年には、神奈川県建築コンクール優秀賞を受賞、また、「宮崎台ビレジ」で、神奈川県建築コンクール佳作賞を受賞、日本建築家協会理事(~1974年)となりました。1979年(昭和54)に日本建築家協会副会長(~1981年)となり、1982年(昭和57)には、アメリカ建築家協会名誉会員となっています。
 1988年(昭和63)に新日本建築家協会副会長・広報委員長(~1990年)となり、1989年(平成元)には、第45回日本芸術院賞(世田谷美術館)を受賞しました。1993年(平成5)に京都大学工学部教授に就任、1996年(平成8)に退官後は、滋賀県立大学環境科学部教授となります。
 戦後の日本建築史を代表する建築家の一人とされ、数々の賞を受賞しましたが、2002年(平成14)8月3日に、東京都大田区の病院において、69歳で亡くなり、勲三等旭日章を受章しました。尚、著書には、『健康な建築 - イマジネイティブな生活空間を求めて』(1985年)、『内井昭蔵のディテール 生活空間としての美術館・世田谷美術館』(1987年)、『ロシアビザンチン - 黄金の環を訪ねて(建築巡礼)』(1991年)などがあります。

〇内井昭蔵の主要な建築設計作品・著書

<建築設計>
・「桜台コートビレッジ」(1971年)第22回日本建築学会賞作品賞、神奈川県建築コンクール優秀賞、第1回BELCA賞LLB部門、第4回横浜まちなみ景観賞受
・「宮崎台ビレジ」(1972年)神奈川県建築コンクール佳作賞受賞
・「川島テキスタイルスクール」(1975年)第16回BCS賞受賞
・「銀座対鶴館ビル」(1976年)日本サインデザイン協会賞銀賞受賞
・「身延山久遠寺宝蔵」(1977年)第18回BCS賞、第24回レイノルズ賞 (A.I.A)受賞
・「東京YMCA野辺山青少年センター」(1978年)第3回吉田五十八賞受賞
・「西谷の家 小倉邸」(1978年)神奈川県建築コンクール優秀賞受賞
・「新発田市民文化会館・公民館」(1981年)第22回BCS賞受賞
・「世田谷美術館」(1986年)第27回毎日芸術賞、第18回BCS賞、第45回日本芸術院賞受賞
・「修養団捧誠会御霊所」(1986年)第27回毎日芸術賞受賞
・「浦添市立図書館」(1988年)第4回日本図書館協会建築賞特定賞受賞
・「一宮市博物館」(1988年)第20回中部建築賞、一宮市建築賞、第4回公共建築賞中部地区優秀賞受賞
・「栄四郎瓦本社屋」(1990年)第1回へきなん都市デザイン文化賞大賞受賞
・「浦添市美術館」(1990年)全建賞受賞
・「福野文化創造センターヘリオス」(1991年)第22回富山県建築賞受賞
・「熊本県テクノポリスセンター」(1992年)第3回公共建築賞行政施設部門受賞
・「桂坂の住宅 東CED・中央CED」(1992年)第16回ひろば作品賞受賞
・「石川県金沢港大野からくり記念館」(1996年)金沢都市美文化賞、第18回石川県建築賞、第8回公共建築賞/北陸地区優秀賞受賞
・「国際日本文化研究センター」(2000年)第7回公共建築賞/近畿地区優秀賞受賞
・「大分市美術館」(2001年)第3回大分市建築大賞受賞
・「森の詩幼稚園」(2002年)彩の国さいたま景観賞受賞

<著書>
・『健康な建築 - イマジネイティブな生活空間を求めて』(1985年)
・『内井昭蔵のディテール 生活空間としての美術館・世田谷美術館』(1987年)
・『ロシアビザンチン - 黄金の環を訪ねて(建築巡礼)』(1991年)
・『建築家のドローイング1 世田谷美術館』(1993年)
・『モダニズム建築の軌跡 - 60年代のアヴァンギャルド』(2000年)
・仙田満との共著『続モダニズム建築の軌跡 - 環境へ』(2003年)
・『装飾の復権 - 空間に人間性を』(2003年)
・『再び健康な建築 - 生活空間に倫理を求めて』(2003年)
・『装飾の復権 - 空間に人間性を』(2003年)

☆内井昭蔵関係略年表

・1933年(昭和8)2月20日 東京市神田区において、建築家の父・内井進の子として生まれる
・1956年(昭和31) 早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する
・1958年(昭和33) 早稲田大学大学院工学研究科修士課程を修了、菊竹清訓建築設計事務所に勤務する
・1967年(昭和42) 菊竹清訓建築設計事務所を辞めて独立し、内井昭蔵建築設計事務所を設立する
・1971年(昭和46) 第22回日本建築学会賞作品賞(桜台コートビレッジ)
・1972年(昭和47) 日本建築家協会理事(~1974年)となり、神奈川県建築コンクール優秀賞(桜台ビレジ)、神奈川県建築コンクール佳作賞(宮崎台ビレジ)を受賞する
・1975年(昭和50) 第16回BCS賞(川島テキスタイルスクール)を受賞する
・1976年(昭和51) 日本サインデザイン協会賞銀賞(銀座対鶴館ビル)を受賞する
・1977年(昭和52) 第18回BCS賞(身延山久遠寺宝蔵)を受賞する
・1978年(昭和53) 第3回吉田五十八賞(東京YMCA野辺山青少年センター)・神奈川県建築コンクール優秀賞(西谷の家 小倉邸)を受賞する
・1979年(昭和54) 日本建築家協会副会長(~1981年)となる
・1980年(昭和55) 第24回レイノルズ賞 (A.I.A)(身延山久遠寺宝蔵)を受賞する
・1981年(昭和56) 第22回BCS賞(新発田市民文化会館・公民館)を受賞する
・1982年(昭和57) アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1986年(昭和61) 第27回毎日芸術賞(修養団捧誠会御霊所・世田谷美術館)・第18回BCS賞(世田谷美術館)を受賞、昭和60年度横浜市優良建築設計者となる
・1988年(昭和63) 新日本建築家協会副会長・広報委員長(~1990年)となり、第4回日本図書館協会建築賞特定賞(浦添市立図書館)・第20回中部建築賞(一宮市博物館)を受賞する
・1989年(平成元) 第45回日本芸術院賞(世田谷美術館)を受賞する
・1990年(平成2) 第1回へきなん都市デザイン文化賞大賞(栄四郎瓦本社屋)・全建賞(浦添市美術館)を受賞する
・1991年(平成3) 一宮市建築賞(一宮市博物館)・第22回富山県建築賞(福野文化創造センターヘリオス)を受賞する
・1992年(平成4) 学位論文「住宅の集合形態に関する実践的研究」で、京都大学より工学博士を得る、第1回BELCA賞LLB部門(桜台コートビレッジ)・第4回横浜まちなみ景観賞(桜台コートビレッジ)・第3回公共建築賞行政施設部門(熊本県テクノポリスセンター)・第16回ひろば作品賞(桂坂の住宅 東CED・中央CED)を受賞する
・1993年(平成5) 京都大学工学部教授に就任、第4回公共建築賞中部地区優秀賞(一宮市博物館)を受賞する
・1995年(平成7) 第13回京都府文化賞を受賞する
・1996年(平成8) 京都大学工学部教授を退官し、滋賀県立大学環境科学部教授となり、金沢都市美文化賞(石川県金沢港大野からくり記念館)を受賞する
・1997年(平成9) 第18回石川県建築賞(石川県金沢港大野からくり記念館)、平成9年度京都新聞五大賞 第41回文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 公共建築百選(世田谷美術館・滋賀県立大学・世田谷美術館・高岡市美術館・富山県産業創造センター・蕗谷虹児記念館)を受賞する
・2000年(平成12) 第7回公共建築賞/近畿地区優秀賞(国際日本文化研究センター)を受賞、京都市文化功労者となる
・2001年(平成13) 第3回大分市建築大賞( 大分市美術館)を受賞する
・2002年(平成14) 滋賀県立大学環境科学部教授を辞め、第8回公共建築賞/北陸地区優秀賞(石川県金沢港大野からくり記念館)・彩の国さいたま景観賞(森の詩幼稚園)を受賞する
・2002年(平成14)8月3日 東京都大田区の病院において、69歳で亡くなり、勲三等旭日章を受章する
・2006年(平成18)  DOCOMOMO Japan「日本におけるモダン・ムーブメントの建築2005年度選定建築物15選」(桜台コートビレッジ)に選定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1886年(明治19)歌人石川啄木の誕生日詳細
1913年(大正2)大正2年東京神田三崎町の大火で、家屋全焼2,376戸、半焼54戸を出す詳細
1928年(昭和3)改正「衆議院議員選挙法」(普通選挙法)により第16回衆議院議員総選挙の投票が行われる詳細
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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、建築家・建築構造学者武藤清の亡くなった日です。
 武藤清(むとう きよし)は、明治時代後期の1903年(明治36)1月29日に、茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において生まれました。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に入学します。
 在学中の1923年(大正12)に、関東大震災を経験し、耐震建築の研究を志すようになり、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行いました。1927年(昭和2)に東京帝国大学工学部助教授となり、1931年(昭和6)には、臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤め、1933年(昭和8)には、世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成します。
 1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部教授に昇任し、1938年(昭和13)には、「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞し、太平洋戦争末期には松代大本営の造営に関与しました。1960年(昭和35)に東京大学工学部長となり、1961年(昭和36)には、「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞します。
 1962年(昭和37)に千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務め、1963年(昭和38)に東京大学を退官後、鹿島建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長ともなりました。1964年(昭和39)に「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞、1966年(昭和41)には、『超高層建築へのアプローチ』を刊行します。
 コンピューターによるシミュレーション法を開発し、その成果は「柔構造」理論として、1968年(昭和43)には、霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受けました。1969年(昭和44)に武藤構造力学研究所所長となり、1970年(昭和45)に「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となっています。
 1979年(昭和54)に文化功労者となり、1980年(昭和55)に「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞、1983年(昭和58)には、文化勲章を受章しました。1984年(昭和59)に米国地震工学会特別賞を受賞しましたが、1989年(平成元)3月12日に、東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなっています。

〇武藤清の主要な著作

・共著『構造力学』高等建築学第5巻(1934年)
・『耐震設計シリーズ』全5巻(1963~67年)
・『超高層建築へのアプローチ』(1966年)

☆武藤清関係略年表

・1903年(明治36)1月29日 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)において、生まれる
・1925年(大正14) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大学に残って、佐野利器の元で建築構造の研究を行う
・1927年(昭和2) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1931年(昭和6) 臨時帝室博物館造営課の嘱託を勤める
・1933年(昭和8) 世界的な耐震計算法である「横力分布係数法」を完成する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1938年(昭和13) 「材端に剛域を有するラーメンの地震力に依る応力の略算法」で、日本建築学会賞(学術賞)を受賞する
・1960年(昭和35) 東京大学工学部長となる
・1961年(昭和36) 「わが国地震工学の国際的高揚」で、日本建築学会賞(学術高揚)を受賞する
・1962年(昭和37) 千葉工業大学建築学科創設に携わり、講師を務める
・1963年(昭和38) 東京大学を退官後、鹿島(かじま)建設副社長に就任、国際地震工学会初代会長となる
・1964年(昭和39) 「耐震構造に関する研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『超高層建築へのアプローチ』を刊行する
・1968年(昭和43) 霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させ、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受ける
・1969年(昭和44) 武藤構造力学研究所所長となる
・1970年(昭和45) 「耐震工学に関する研究」で、日本建築学会大賞を受賞する
・1975年(昭和50) 日本学士院会員となる
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 「複合隙間壁体構造を用いた柔構造物の発明」で、全国発明表彰(恩賜発明賞)を受賞する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) 米国地震工学会特別賞を受賞する
・1989年(平成元)3月12日 東京都新宿区の自宅において、急性心不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲で中心街が消失し、105,093人が罹災、死者519人人、負傷者734人を出す詳細
1946年(昭和21)日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の命日詳細
将棋棋士・十三世名人関根金次郎の命日詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、建築家・建築史学者伊東忠太が生まれた日ですが、新暦では11月21日となります。
 伊東忠太(いとう ちゅうた)は、出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれました。1871年(明治4)に米沢藩藩学・興譲館へ入学したものの、1873年(明治6年)に父が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学します。
 1878年(明治11)に、父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入し、1879年(明治12)には、旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)へ入学しました。1881年(明治14)に東京外国語学校独逸語科へ入学したものの、1885年(明治18)に同校の廃止により第一高等中学校へ編入、一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になります。
 1892年(明治25)に帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学、1893年(明治26)には、東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表し、日本建築史研究の端緒となりました。1896年(明治29)に古社寺保存会委員、1897年(明治30)に帝国大学工科大学講師、1898年(明治31)には、造神宮技師兼内務技師となります。
 1899年(明治32)に帝国大学工科大学助教授となり、1901年(明治34)には、東京帝国大学より工学博士を得ました。1902年(明治35)に建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発し、雲崗の石窟を発見、1905年(明治38)には、欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となります。
 1923年(大正12)に明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力し、1924年(大正13)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1928年(昭和3)に帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になります。
 1930年(昭和5)に帝都復興記念章を受章、1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1943年(昭和18)には、建築界で初めて、文化勲章を受章しました。1951年(昭和26)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、米沢市名誉市民・第1号となったものの、4月7日に東京において、87歳で亡くなっています。

〇伊東忠太の主要な作品

<建築物>

・平安神宮(1895年)
・明治神宮(1920年)
・大倉集古館(1927年)
・震災祈念堂(1930年)
・東京都復興記念館(1931年)
・築地(つきじ)本願寺(1934年)

<著書>

・『伊東忠太建築文献』
・『支那(しな)建築装飾』
・『日本建築の美』
・『伊東忠太見聞野帖―清国』
・時事漫画集『阿修羅帖』

☆伊東忠太関係略年表

・1867年(慶応3年10月26日) 出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれる
・1871年(明治4年) 米沢藩藩学・興譲館へ入学する
・1873年(明治6年) 父・伊東祐順が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学する
・1878年(明治11年) 父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入する
・1879年(明治12年) 旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)入学する
・1881年(明治14年) 東京外国語学校独逸語科へ入学する
・1885年(明治18年) 同校の廃止により第一高等中学校編入。一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になる
・1892年(明治25年) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学する
・1893年(明治26年) 東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表する
・1896年(明治29年) 古社寺保存会委員となる
・1897年(明治30年) 帝国大学工科大学講師となる
・1898年(明治31年) 造神宮技師兼内務技師となる
・1899年(明治32年) 帝国大学工科大学助教授となる
・1901年(明治34年) 東京帝国大学より工学博士を得る
・1902年(明治35年) 建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発する
・1905年(明治38年) 欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となる
・1921年(大正10年) 正四位となる
・1923年(大正12年) 明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力する
・1924年(大正13年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 従三位となる
・1928年(昭和3年) 帝国大学を定年退官し、東京帝国大学名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になる
・1930年(昭和5年) 帝都復興記念章を受章する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1943年(昭和18年) 建築界で初めて、文化勲章を受章する
・1951年(昭和26年) 文化功労者となる
・1954年(昭和29年) 米沢市名誉市民・第1号となるが、4月7日に東京において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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yoshimurajyunzou01
 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、建築家吉村順三が生まれた日です。
 吉村順三(よしむら じゅんぞう)は、東京市本所区緑町において、呉服商の家に生まれましたが、東京府立三中(現在の都立両国高校)在学中の1921年(大正10)に建築雑誌「住宅」誌主催「小住宅設計懸賞」に2案応募して入選、選外佳作となりました。東京府立三中卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)建築科で学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れます。
 1931年(昭和6)に同校を卒業後、アントニン・レーモンドに師事し、レイモンド建築設計事務所に勤め、モダニズム建築を体得、一方でレーモンドに日本建築を教授しました。1931年(昭和6)に帰米したアントニン・レーモンドに呼ばれ、アメリカに渡り、1940年(昭和15)に帰国、翌年には、吉村順三設計事務所を開設します。
 1945年(昭和20)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の助教授となり、1949年(昭和24)の学制改革後、東京芸術大学建築科助教授となりました。1956年(昭和31)に国際文化会館(共同設計)で建築学会賞、ニューヨークの一連の作品でパーソン賞を受賞、1960年(昭和35)には、皇居新宮殿の設計者に選定され、基本設計を任されます。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学建築科教授に昇任し、和風と近代様式を折衷したモダニズム住宅を多く手掛け、多くの建築家を育てたものの、1970年(昭和45)には、東京芸術大学を退官し名誉教授となりました。1972年(昭和47)にジャパンハウスで、ニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞、1975年(昭和50)に奈良国立博物館で、芸術院賞を受賞、1982年(昭和57)には、勲三等旭日中綬章を受章します。
 1989年(平成元)に八ケ岳高原音楽教室で、第30回毎日芸術賞を受賞、1990年(平成2)に日本芸術院会員となりました。1994年(平成6)には、文化功労者ともなりましたが、1997年(平成9)4月11日に、東京都杉並区において、88歳で亡くなり、勲二等瑞宝章を追贈されています。

〇吉村順三の主要な建築設計作品

・佐倉厚生園サナトリウム(1953年)
・国際文化会館住宅(1955年)
・自邸〈南台町の家〉(1957年)
・軽井沢の山荘(1962年)
・東京のNCRビル(1963年)
・「浜田山の家」(1964年)
・愛知県立芸術大学(1971年)
・ニューヨークのジャパン・ハウス(1972年)
・奈良国立博物館新館(1973年)
・ポカンティコヒルの家(1974年)
・八ヶ岳高原音楽堂(1988年)

☆吉村順三関係略年表

・1908年(明治41)9月7日 東京市本所区緑町において、呉服商の家に生まれる
・1921年(大正10) 建築雑誌「住宅」誌主催「小住宅設計懸賞」に2案応募して入選、選外佳作となる
・1923年(大正12) 東京府立第3中学校を卒業、関東大震災で本所付近が全壊する
・1926年(昭和元) 東京美術学校建築科を卒業後、アントニン・レーモンドに師事し、レイモンド建築設計事務所に勤める
・1931年(昭和6) 帰米したアントニン・レーモンドに呼ばれ、アメリカに渡る
・1940年(昭和15) アメリカから帰国する
・1941年(昭和16) 吉村順三設計事務所を開設する
・1945年(昭和20) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)の助教授となる
・1949年(昭和24) 東京芸術大学建築科助教授となる
・1956年(昭和31) 国際文化会館(共同設計)で建築学会賞、ニューヨークの一連の作品でパーソン賞を受賞する
・1960年(昭和35) 皇居新宮殿の設計者に選定され、基本設計を任される
・1962年(昭和37) 東京芸術大学建築科教授となる
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿の建築にあたる
・1970年(昭和45) 東京芸術大学を退官し名誉教授となる
・1972年(昭和47) ジャパンハウスで、ニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞を受賞する
・1975年(昭和50) 奈良国立博物館で、芸術院賞を受賞する
・1982年(昭和57) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1989年(平成元) 八ケ岳高原音楽教室で、第30回毎日芸術賞を受賞する
・1990年(平成2) 日本芸術院会員となる
・1994年(平成6) 文化功労者となる
・1997年(平成9)4月11日 東京都杉並区において、88歳で亡くなり、勲二等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、建築家吉田五十八の亡くなった日です。
 吉田五十八(よしだ いそや)は、明治時代中頃の1894年(明治27)12月19日に、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれました。1897年(明治30)に父・太田信義が亡くなり、1909年(明治42)には、母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗るようになります。
 東京開成中学校(現在の開成学園)を経て、1915年(大正4)に、東京美術学校図案科第2部に入学し、岡田信一郎に学び、在学中から住宅や店舗の設計を手がけました。1923年(大正12)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業後、欧米留学に出発し、ヨーロッパの古典建築について学び、1925年(大正14)に帰国します。
 その後、設計活動に入り、伝統的な数寄屋建築を現代化した独自の作風を確立しました。1941年(昭和16)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任し、1944年(昭和19)に東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任して後進の指導に当たりつつ、住宅以外の劇場、美術館、寺院などの大規模建造物を手がけました。それらの功績により、1952年(昭和27)に日本芸術院賞を受賞、1954年(昭和29)には、日本芸術院会員となっています。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学を退官以後は設計活動に専念し、翌年に皇居新宮殿造営顧問となり、1964年(昭和39)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に皇居新宮殿造営顧問を辞め、アメリカ建築家協会名誉会員となったものの、1974年(昭和49)3月24日に、東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇吉田五十八の主要な作品

・「小林古経邸」(1934年)
・「杵屋六左衛門別邸」(1936年)
・「新喜楽」(1940年)
・「東京歌舞伎(かぶき)座」改修(1951年)
・「山口蓬春画室」(1954年)
・「明治座」復興増改築(1958年)
・「梅原龍三郎邸」(1958年)
・「日本芸術院会館」(1958年)
・「五島美術館」(1960年)
・「大和文華館」(1960年)
・ローマの「日本文化会館」(1962年)
・「岸信介邸」(1969年)

☆吉田五十八関係略年表

・1894年(明治27)12月19日 東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれる
・1897年(明治30) 父・太田信義が亡くなる
・1909年(明治42) 母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗る
・1915年(大正4) 東京美術学校図案科第2部に入学する
・1923年(大正12) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業、欧米留学に出発する
・1925年(大正14) 欧米留学から帰国する
・1937年(昭和12) 結婚する
・1941年(昭和16) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任する
・1944年(昭和19) 東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てる
・1946年(昭和21) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任する
・1952年(昭和27) 日本芸術院賞を受賞する 
・1954年(昭和29) 日本芸術院会員となる
・1962年(昭和37) 東京芸術大学を退官する
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿造営顧問となる
・1964年(昭和39) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿造営顧問を辞める、アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1974年(昭和49)3月24日 東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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