ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:広島市

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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、広島県広島市に、「広島平和会館原爆記念陳列館」(現在の広島平和記念資料館本館)が開館した日です。
 広島平和記念資料館(ひろしまへいわきねんしりょうかん)は、広島県広島市中区の広島平和記念公園内にあり、広島に投下された原子爆弾による被害を示す資料を展示する施設です。昭和時代中期の1949年(昭和24)に、「広島平和記念都市建設法」が公布され、それに基づいて、1951年(昭和26)2月に「平和記念陳列館」(現在の平和記念資料館本館)として、丹下健三の設計により、建設工事に着手しました。
 1955年(昭和30)8月24日に「広島平和会館原爆記念陳列館」の名称で開館して、中央公民館の被爆資料が移されて展示・保管され、初代館長には長岡が就任します。1973~75年(昭和48~50)に、1回目の大改修が行われ、劣化したコンクリートの補修、赤外線を遮断する窓ガラスへの交換、収納庫の新設などがなされ、1991年(平成3)には、2回目の大改修が行われ、展示内容の見直し、改装が行われました。
 1994年(平成6)に、平和記念館を改築した際、旧来の平和記念資料館と併せて「平和記念資料館(東館・西館)」と呼ぶようになり、当初からの建物を西館、記念館跡地に新たに建設されたものを東館と称するようになります。1998年(平成10)に広島国際会議場と合わせて公共建築百選に指定され、1999年(平成11)には、広島ピースセンター(広島平和記念資料館および平和記念公園)として日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に指定されました。
 2006年(平成18)に、資料館西館(本館)が、同じく広島市内の世界平和記念聖堂とともに、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されます。2010年(平成22)に「平和記念資料館展示整備等基本計画」に基づき、建物の改装と展示の更新が計画され、2014年(平成26)にリニューアル工事に着手し、2017年(平成29)に東館が、2019年(平成31)には、西館(本館)がリニューアルオープンしました。
 2013年現在の収蔵品は、約2万1000点に及び、被爆者証言ビデオの制作や国内外への写真ポスター、映像資料などの貸出しも行うほか、インターネット上でも、常設展示の紹介に加え、収蔵資料の検索が可能な「平和データベース」を整備するなど、日本における原爆被害の発信、平和学習の拠点の一つとして多彩な活動を展開しています。

〇広島平和記念資料館関係略年表

・1945年(昭和20)8月6日午前8時15分 広島市に原爆が投下され、壊滅的な被害を受ける
・1949年(昭和24) 「広島平和記念都市建設法」が公布され、被ばく関係資料が、広島市中央公民館の一角に設置された「原爆参考資料陳列室」に展示される
・1951年(昭和26)2月 「平和記念陳列館」(現在の平和記念資料館本館)建設工事に着手する
・1955年(昭和30)8月24日 「広島平和会館原爆記念陳列館」の名称で開館して、中央公民館の被爆資料が移されて展示・保管され、初代館長には長岡が就任する
・1956年(昭和31) 日本を巡回していた原子力平和利用博覧会の会場に使われ、展示物は一時的に近くの公民館に移される
・1958年(昭和33) 広島復興大博覧会が開催され、「原子力科学館」として一部の展示物が展示される
・1967年(昭和42)5月 原子力平和利用の展示が撤去される
・1971年(昭和46) 本通の住友銀行広島支店から「人影の石」移設される
・1973~75年(昭和48~50) 1回目の大改修が行われ、劣化したコンクリートの補修、赤外線を遮断する窓ガラスへの交換、収納庫の新設などがなされる
・1991年(平成3) 2回目の大改修が行われ、展示内容の見直し、改装が行われる
・1994年(平成6) 平和記念館を改築した際、旧来の平和記念資料館と併せて「平和記念資料館(東館・西館)」と呼ぶようになり、当初からの建物を西館、記念館跡地に新たに建設されたものを東館と称する
・1998年(平成10) 広島国際会議場と合わせて公共建築百選に指定される
・1999年(平成11) 広島ピースセンター(広島平和記念資料館および平和記念公園)として日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に指定される
・2001年(平成13) NPO法人である「広島からの地球平和監視を考える会」によって、地球平和監視時計が設置される
・2006年(平成18) 資料館西館(本館)が、同じく広島市内の世界平和記念聖堂とともに、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定される
・2010年(平成22) 「平和記念資料館展示整備等基本計画」に基づき、建物の改装と展示の更新が計画される
・2012年(平成24)11月 附属展示施設として「シュモーハウス」を広島市中区江波二本松一丁目に開館する
・2014年(平成26)3月 東館、本館のリニューアル工事に着手する
・2017年(平成29)4月26日 東館がリニューアルオープンする
・2019年(平成31)4月25日 本館がリニューアルオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1620年(元和6)伊達政宗の使節(慶長遣欧使節)としてスペインに赴いた支倉常長が7年ぶりに帰国する(新暦9月20日)詳細
1776年(安永5)国学者平田篤胤の誕生日(新暦10月6日)詳細
1885年(明治18)歌人若山牧水の誕生日詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員運動遂行のため、第一次近衛内閣により「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和22)国鉄八高線多摩川鉄橋において八高線列車正面衝突事故が起き、死者105人、負傷者約150人を出す詳細
1956年(昭和31)映画監督溝口健二の命日詳細
1962年(昭和37)三宅島(東京都三宅村)の雄山が22年ぶりに大噴火(三宅島1962年噴火)する詳細
2005年(平成17)つくばエクスプレス(TX)が、秋葉原駅~つくば駅間で開業する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、詩人・峠三吉が『原爆詩集』をガリ版刷りにより発行した日です。
 「原爆詩集」(げんばくししゅう)は、詩人・峠三吉が広島・長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人や全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧げらた詩集でした。出版社による発行が出来なかったために、広島において、自家版として、ガリ版刷り(500部)で発行されています。
 著者が、広島市内翠町の自宅で被爆後、体に刺さったガラス片や下痢、原爆症に悩まされながらも、知人を求めて焼け跡をさまよい、その克明なメモをもとに、この詩集をまとめたもので、広島市への原子爆弾投下を題材に戦争の皮肉さを訴えた作品で、ベルリン世界青年学生平和祭参加作品でもありました。翌1952年(昭和27)6月には、5篇が追加されたものが青木書店から刊行されています。
 序と24編の詩とあとがきで構成されていますが、特に、“ちちをかえせ ははをかえせ”で始まる『序』は名高く、『にんげんをかえせ』という題でも知られてきました。その後、2016年(平成28)7月15日に、岩波書店から文庫版して発行され、大江健三郎とアーサー・ビナードが解説を寄せています。

〇峠三吉(とうげ さんきち)とは?

 昭和時代に活躍した詩人です。大正時代の1917年(大正6)2月19日に、大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・峠嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれましたが、まもなく父の故郷広島市に転居しました。
 1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。
 1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事。翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。
 1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。
 1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。同年11月に国立広島療養所へ入院し、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。
 1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
 1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。

☆「原爆詩集」の作品構成

・序
・八月六日
・死
・炎
・盲目
・仮繃帯所にて
・眼
・倉庫の記録
・としとったお母さん
・炎の季節
・ちいさい子
・墓標
・影
・友
・河のある風景
・朝
・微笑
・一九五〇年の八月六日
・夜
・巷にて
・ある婦人へ
・景観
・呼びかけ
・その日はいつか
・希い――「原爆の図」によせて――
・あとがき

☆「原爆詩集」(抜粋)

――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧おしつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ
満員電車はそのまま焦こげ
涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿のうしょうを踏み
焼け焦こげた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏いかだへ這はいより折り重った河岸の群も
灼やけつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光かこうの中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠へいきしょうの床の糞尿ふんにょうのうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭いしゅうのよどんだなかで
金かなダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩がんかが
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

(以下略)

   「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
1943年(昭和18)農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の命日詳細
1945年(昭和20)「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(勅令第542号)が公布・施行される(ポツダム命令)詳細
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