ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:幸徳秋水

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長野県の機械工宮下太吉が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、大逆事件の検挙が始まった日です。
 大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治時代後期の1910年(明治43)に、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われています。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴しました。
 同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡されます。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら12名は、世界中の抗議のうちに1月24~25日処刑されました。
 実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞します。

〇幸徳秋水(こうとく しゅうすい)とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

☆大逆事件関係略年表

<1908年(明治41)> 
・明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強める

<1909年(明治42)>
・11月3日 長野県の機械工宮下太吉は長野県東筑摩郡中川手村大足(現在の長野県安曇野市)の大足山中で爆裂弾の爆破実験を行なう

<1910年(明治43)>
・5月21日 宮下太吉は、爆弾の材料を中川手村明科の明科製材所の工場に移す
・5月23日 長野県松本警察署長、宮下太吉に関わる「爆発物取締罰則」違反容疑の報告書を受け取る
・5月25日 宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反容疑で逮捕される
・5月31日 検事総長は、(旧)刑法73条(大逆罪)に該当すると判断する
・6月1日 幸徳秋水、管野スガらが湯河原で逮捕される
・11月12日 アナキストのエマ・ゴールドマンら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛に抗議文を送付する
・11月22日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会を開催する
・12月6日 フランスの社会主義者ら、在パリ日本大使館に抗議して大デモを行う
・12月10日 幸徳秋水ほか26人に関する大逆事件の大審院第1回公判(非公開)が開廷される
・12月12日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択する
・12月29日 大審院は16回目の公判を非公開で行ない、結審となる

<1911年(明治44)>
・1月18日 2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡される
・1月19日 死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑される
・1月24日 幸徳秋水、宮下太吉ら11が名が絞首刑となる
・1月25日 管野スガが絞首刑となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
1951年(昭和26)内閣が「人名用漢字別表」を告示し、人名用漢字92字を定める詳細
1955年(昭和30)岩波書店より新村出編『広辞苑』初版が刊行される詳細
1960年(昭和35)大修館書店が諸橋轍次著の『大漢和辞典』の最終巻を刊行する詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、徳富蘆花が旧制第一高等学校弁論部大会で「謀反論」を講演した日です。
 徳富蘆花の謀反論(とくとみろかのむほんろん)は、1911年(明治44)1月24~25日に、大逆事件被告幸徳秋水ら12名が処刑された一週間後に、徳富蘆花が旧制第一高等学校弁論部に招かれて行った講演でした。1910年(明治43)の大逆事件の際、徳富蘆花は幸徳秋水らの死刑を阻止するため、兄・蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願、さらに明治天皇宛の嘆願書を「朝日新聞」に送ったりしますが、幸徳秋水ら12名が処刑されてしまいます。
 そこで、旧制第一高等学校の新入生歓迎行事の一環として行われた弁論部講演会において、死刑に処した政府当局を弾劾し、精神の「自立自信、自化自発」を高らかに鼓吹しました。しかし、これを不敬演説だという非難が起こり、校長新渡戸稲造らが譴責処分とされることになります。
 この演説を聞いた、当時の弁論部員だった河合栄治郎(後の経済学者・社会思想家)は、「私共は息つく間もない位にひきずりこまれて、唯感心してしまった」と書き記し、英法・政治・経済・商科1年の矢内原忠雄(後の経済学者・東京大学総長)は、「演説終りて数秒始めて迅雷の如き拍手第一大教場の薄暗を破りぬ。吾人未だ嘗て斯の如き雄弁を聞かず。(略)殊に真摯なる演説者の肉声は健実にして真摯なる一高健児の胸に最も正当に共鳴し得るなり。」とその後述べました。
 以下に、「謀叛論(草稿)」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇徳富蘆花(とくとみ ろか)とは?

 明治時代後期から昭和時代前期に活躍した小説家です。1868年(明治元年10月25日)に、肥後国葦北郡水俣村(現在の水俣市)で代々惣庄屋、代官などを勤めた旧家の漢学者である父・徳富一敬、母・久子の次男としてうまれましたが、本名は健次郎といいました。
 熊本洋学校を経て、同志社英学校に学びましたが、いったん熊本に戻った1885年(明治18)にキリスト教を受洗し、再び同志社に復学します。しかし、新島襄の義姪との恋を反対されて出奔し、熊本へと戻りました。
 1889年(明治22)に上京して、兄の徳富蘇峰が経営する民友社の記者となり、『国民之友』、『国民新聞』、『家庭雑誌』に翻訳をしたり、種々の文章を書きます。1898年(明治31)に長編小説『不如帰(ほととぎす)』により、文壇に独自の地位を確立、同年『自然と人生』を刊行、翌年の『思出(おもいで)の記』と共にロングセラーとなりました。
 日清戦争を契機に、兄の蘇峰が平民主義から国家主義へと思想的立場を転じる中で、1903年(明治36)には民友社を去り、さらに長編小説『黒潮』第1編(1903年)で政界を批判して兄と決別します。1905年(明治38)8月、富士山頂で人事不省に陥り、これを神による警鐘と受け止めて回心し、翌年にエルサレム巡礼、トルストイ訪問の海外旅行に出ました。
 帰国後、東京郊外の北多摩郡千歳村(現在の東京都世田谷区)に隠遁して半農生活を始め、その中で、社会性に富む伝記小説『寄生木(やどりぎ)』(1909年)、随筆集『みゝずのたはこと』(1913年)、宗教文学の傑作とされる『新春』(1918年)を書きます。また、1911年(明治44)に、旧制第一高等学校弁論部大会で「謀反論」を講演し物議をかもしました。
 妻との共著のかたちで自伝的長編小説『冨士』(1925~28年)を書き始めましたが、1927年(昭和2)9月18日に、群馬県の伊香保温泉で58歳で亡くなり、同書は4巻で中絶します。

〇「謀叛論(草稿)」徳冨蘆花

 僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往(ゆ)くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互(たがい)に倶不戴天(ぐふたいてん)の仇敵で、安政の大獄(たいごく)に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨(おんえん)を消してしまって谷一重(ひとえ)のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎(じゅんこ)として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨(ごうこつ)の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟(ひっきょう)今日の日本を造(つく)り出さんがために、反対の方向から相槌(あいづち)を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享(う)くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。
 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を六十幾つに劃しき)って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限(ぶんげん)があり、法度(はっと)でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人(むほんにん)であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではないか。幸(さいわい)に世界を流るる一の大潮流は、暫く鎖(とざ)した日本の水門を乗り越え潜(くぐ)り脱(ぬ)けて滔々(とうとう)と我(わが)日本に流れ入って、維新の革命は一挙に六十藩を掃蕩し日本を挙げて統一国家とした。その時の快豁(かいかつ)な気もちは、何ものを以(もっ)てするも比すべきものがなかった。諸君、解脱(げだつ)は苦痛である。しかして最大愉快である。人間が懺悔して赤裸々(せきらら)として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸(すっぱだか)で立つ時、その雄大光明(ゆうだいこうみょう)な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々(ういうい)しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥(は)ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって行く明治初年の日本の意気は実に凄(すさ)まじいもので、五ヶ条の誓文(せいもん)が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投出す、えたが平民になる、自由平等革新の空気は磅礴(ほうはく)として、その空気に蒸された。日本はまるで筍(たけのこ)のように一夜の中にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜(よ)い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。とりもなおさず我先覚の諸士志士である。いわゆる〇〇(二字不明)多(おおし)で、新思想を導いた蘭学者(らんがくしゃ)にせよ、局面打破を事とした勤王(きんのう)攘夷(じょうい)の処士にせよ、時の権力からいえば謀叛人であった。彼らが千荊万棘(せんけいばんきょく)を蹈(ふま)えた艱難辛苦――中々一朝一夕(いっちょういっせき)に説き尽せるものではない。明治の今日に生を享(う)くる我らは維新の志士の苦心を十分に酌(く)まねばならぬ。
 僕は世田ヶ谷を通る度(たび)に然(しか)思う。吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本もはや明治となって四十何年、維新の立者(たてもの)多くは墓になり、当年の書生青二才も、福々しい元老もしくは分別臭い中老になった。彼らは老いた。日本も成長した。子供でない、大分大人(おとな)になった。明治の初年に狂気のごとく駈足(かけあし)で来た日本も、いつの間にか足もとを見て歩くようになり、内観するようになり、回顧もするようになり、内治のきまりも一先(ひとまず)ついて、二度の戦争に領土は広がる、新日本の統一ここに一段落を劃した観がある。維新前後志士の苦心もいささか酬いられたといわなければならぬ。しからば新日本史はここに完結を告げたか。これから守成の歴史に移るのか。局面回復の要はないか。最早志士の必要はないか。飛んでもないことである。五十歳前、徳川三百年の封建社会をただ一簸(あお)りに推流(おしなが)して日本を打って一丸とした世界の大潮流は、倦(う)まず息(やす)まず澎湃(ほうはい)として流れている。それは人類が一にならんとする傾向である。四海同胞の理想を実現せんとする人類の心である。今日の世界はある意味において五六十年前の徳川の日本である。どの国もどの国も陸海軍を拡げ、税関の隔てあり、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの短銃(ピストル)を握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時ではないか。しかしながら人類の大理想は一切の障壁を推倒(おしたお)して一にならなければ止や)まぬ。一にせん、一にならんともがく。国と国との間もそれである。人種と人種の間もその通りである。階級と階級の間もそれである。性と性の間もそれである。宗教と宗教――数え立つれば際限がない。部分は部分において一になり、全体は全体において一とならんとする大渦小渦鳴戸なると)のそれも啻(ただ)ならぬ波瀾の最中(さなか)に我らは立っているのである。この大回転大軋轢(あつれき)は無際限であろうか。あたかも明治の初年日本の人々が皆感激の高調に上って、解脱又解脱、狂気のごとく自己を擲(なげう)ったごとく、我々の世界もいつか王者その冠を投出し、富豪その金庫を投出し、戦士その剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁(ほうよう)握手(あくしゅ)抃舞(べんぶ)する刹那(せつな)は来ぬであろうか。あるいは夢であろう。夢でも宜(よ)い。人間夢を見ずに生きていられるものでない。――その時節は必ず来る。無論それが終局ではない、人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達するを得(え)ば、長い長い旅の辛苦も償われて余(あまり)あるではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつある。我らの衷心(ちゅうしん)が然(しか)囁くのだ。しかしながらその愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖(あがな)わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋はいすいひ)を夜窃(ひそか)に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢(あふ)れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然(がぜん)鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい勢いきおい)を以(もっ)て瞬(またた)く間に総崩れに陥(お)ち込んでしまった、ということが書いてある。旧組織が崩れ出したら案外速(すみやか)にばたばたいってしまうものだ。地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来(きた)すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉田松陰らは出て来るに違いない。僕はかく思いつつ常に世田ヶ谷を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭(へきとう)において、我々は早くもここに十二名の謀叛人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である。
 諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに尽ことごとく真剣に大逆(たいぎゃく)を行やる意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真(まこと)で、はずみにのせられ、足もとを見る暇いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂(しにものぐるい)になって、天皇陛下と無理心中を企(くわだ)てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜(いちむこ)を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企(くわだて)があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を喜ぶと同時に、彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為(ゆうい)の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献(ささ)げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂(きょう)に近いとも、その志は憐あわれ)むべきではないか。彼らはもと社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐(こわ)い? 世界のどこにでもある。しかるに狭量神経質の政府は、ひどく気にさえ出して、ことに社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うるとにわかに圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者はとうとう犬猿の間となってしまった。諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘るる様な帽子である。最上の政府は存在を忘れらるる様な政府である。帽子は上にいるつもりであまり頭を押つけてはいけぬ。我らの政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君らの頭にひどく重く感ぜられて、とうとう彼らは無政府主義者になってしもうた。無政府主義が何が恐い? それほど無政府主義が恐いなら、事のいまだ大ならぬ内に、下僚ではいけぬ、総理大臣なり内務大臣なり自ら幸徳と会見して、膝詰(ひざづめ)の懇談すればいいではないか。しかし当局者はそのような不識庵流(ふしきあんりゅう)をやるにはあまりに武田式家康式で、かつあまりに高慢である。得意の章魚(たこ)のように長い手足で、じいとからんで彼らをしめつける。彼らは今や堪えかねて鼠は虎に変じた。彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企(くわだて)がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でもない、賊子でもない、志士である。皇天その志を憐んで、彼らの企はいまだ熟せざるに失敗した。彼らが企の成功は、素志の蹉跌(さてつ)を意味したであろう。皇天皇室を憐み、また彼らを憐んで、その企を失敗せしめた。企は失敗して、彼らは擒とらえられ、さばかれ、十二名は政略のために死一等を減(げん)ぜられ、重立(おもだち)たる余の十二名は天の恩寵によって立派に絞台の露と消えた。十二名――諸君、今一人、土佐で亡くなった多分自殺した幸徳の母君あるを忘れてはならぬ。
 かくのごとくして彼らは死んだ。死は彼らの成功である。パラドックスのようであるが、人事の法則、負くるが勝である、死ぬるが生きるのである。彼らはたしかにその自信があった。死の宣告を受けて法廷を出る時、彼らの或者が「万歳! 万歳!」と叫んだのは、その証拠である。彼らはかくして笑(えみ)を含んで死んだ。悪僧といわるる内山愚童の死顔(しにがお)は平和であった。かくして十二名の無政府主義者は死んだ。数えがたき無政府主義者の種子(たね)は蒔(ま)かれた。彼らは立派に犠牲の死を遂げた。しかしながら犠牲を造れるものは実に禍(わざわい)なるかな。
 諸君、我々の脈管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである。天皇陛下は剛健質実、実に日本男児の標本たる御方である。「とこしへに民安かれと祈るなる吾代わがよ)を守れ伊勢の大神(おおかみ)」。その誠(まこと)は天に逼(せま)るというべきもの。「取る棹(さお)の心長くも漕(こ)ぎ寄せん蘆間小舟(あしまのおぶね)さはりありとも」。国家の元首として、堅実の向上心は、三十一文字に看取される。「浅緑り澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」。実に立派な御心(おんこころ)がけである。諸君、我らはこの天皇陛下を有(も)っていながら、たとえ親殺しの非望を企てた鬼子(きし)にもせよ、何故(なにゆえ)にその十二名だけ宥(ゆる)されて、余(よ)の十二名を殺してしまわなければならなかったか。陛下に仁慈の御心がなかったか。御愛憎があったか。断じて然(そう)ではない――たしかに輔弼(ほひつ)の責(せめ)である。もし陛下の御身近く忠義鯁骨(こうこつ)の臣があって、陛下の赤子(せきし)に差異はない、なにとぞ二十四名の者ども、罪の浅きも深きも一同に御宥し下されて、反省改悟の機会を御与え下されかしと、身を以て懇願する者があったならば、陛下も御頷(おんうなず)きになって、我らは十二名の革命家の墓を建てずに済(す)んだであろう。もしかような時にせめて山岡鉄舟がいたならば――鉄舟は忠勇無双の男、陛下が御若い時英気にまかせやたらに臣下を投げ飛ばしたり遊ばすのを憂(うれ)えて、ある時イヤというほど陛下を投げつけ手剛(てごわ)い意見を申上げたこともあった。もし木戸松菊がいたらば――明治の初年木戸は陛下の御前、三条、岩倉以下卿相(けいしょう)列座の中で、面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、すでに外国には君王を廃して共和政治を布しきたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凜然(りんぜん)として言上(ごんじょう)し、陛下も悚然(しょうぜん)として御容(おんかたち)をあらため、列座の卿相皆色を失ったということである。せめて元田宮中顧問官でも生きていたらばと思う。元田は真に陛下を敬愛し、君を堯(ぎょう)舜(しゅん)に致すを畢生(ひっせい)の精神としていた。せめて伊藤さんでも生きていたら。――否(いな)、もし皇太子殿下が皇后陛下の御実子であったなら、陛下は御考(おかんがえ)があったかも知れぬ。皇后陛下は実に聡明恐れ入った御方である。「浅しとてせけばあふるゝ川水(かわみず)の心や民の心なるらむ」。陛下の御歌は実に為政者の金誡である。「浅しとてせけばあふるゝ」せけばあふるる、実にその通りである。もし当局者が無暗(むやみ)に堰(せ)かなかったならば、数年前の日比谷焼打事件はなかったであろう。もし政府が神経質で依怙地(えこじ)になって社会主義者を堰かなかったならば、今度の事件も無かったであろう。しかしながら不幸にして皇后陛下は沼津に御出になり、物の役に立つべき面々は皆他界の人になって、廟堂にずらり頭を駢(なら)べている連中には唯一人の帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく、あたら君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇(せんざいいちぐう)の大切なる機会を見す見す看過し、国家百年の大計からいえば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種を播いてしもうた。忠義立(ちゅうぎだて)として謀叛人十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された十二名はかえって死を以て我皇室に前途を警告し奉った真忠臣となってしもうた。忠君忠義――忠義顔する者は夥(おびただ)しいが、進退伺(しんたいうかがい)を出して恐懼(きょうく)恐懼(きょうく)と米つきばったの真似をする者はあるが、御歌所に干渉して朝鮮人に愛想をふりまく悧口者はあるが、どこに陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ玉うように希(こいねが)う真の忠臣があるか。どこに不忠の嫌疑を冒(おか)しても陛下を諫(いさ)め奉り陛下をして敵を愛し不孝の者を宥(ゆる)し玉う仁君となし奉らねば已(や)まぬ忠臣があるか。諸君、忠臣は孝子の門に出ずで、忠孝もと一途である。孔子は孝について何といったか。色難(いろかたし)。有事弟子服其労(ことあればていしそのろうにふくし)、有酒食先生饌(しゅしあればせんせいにせんす)、曾以是為孝乎(すなわちこれをもってこうとなさんや)。行儀の好いのが孝ではない。また曰(い)うた、今之孝者是謂能養(いまのこうはこれよくやしのうをいう)、至犬馬皆能有養(けんばにいたるまでみなよくやしのうあり)、不敬何以別乎(けいせざればなにをもってかわかたん)。体ばかり大事にするが孝ではない。孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事のごときこそ真忠臣が禍(わざわい)を転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本にも無政府党が出て来た。恐ろしい企をした、西洋では皆打殺す、日本では寛仁大度(かんじんたいど)の皇帝陛下がことごとく罪を宥(ゆる)して反省の機会を与えられた――といえば、いささか面目が立つではないか。皇室を民の心腹に打込むのも、かような機会はまたと得られぬ。しかるに彼ら閣臣の輩(やから)は事前(じぜん)にその企を萌きざ)すに由よしなからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括ひっくくって、二進(にっちん)の一十(いんじゅう)、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して――もし二十五人であったら十二人半宛(ずつ)にしたかも知れぬ、――二等分して、格別物にもなりそうもない足の方だけ死一等を減じて牢屋に追込み、手硬(てごわ)い頭だけ絞殺して地下に追いやり、あっぱれ恩威並(ならび)行われて候と陛下を小楯(こだて)に五千万の見物に向って気どった見得(みえ)は、何という醜態であるか。啻(ただ)に政府ばかりでない、議会をはじめ誰も彼も皆大逆の名に恐れをして一人として聖明のために弊事(へいじ)を除かんとする者もない。出家僧侶、宗教家などには、一人位は逆徒の命乞(いのちごい)する者があって宜いではないか。しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽(だいろうばい)で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものがないとは、何という情ないことか。幸徳らの死に関しては、我々五千万人斉(ひと)しくその責(せめ)を負わねばならぬ。しかしもっとも責むべきは当局者である。総じて幸徳らに対する政府の遣口(やりくち)は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追立て、引ひっ)かかるが最期網をしめる、陥穽(おとしあな)を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋(ふた)をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも暗中(あんちゅう)にやってのけて――諸君、議会における花井弁護士の言を記臆せよ、大逆事件の審判中当路の大臣は一人もただの一度も傍聴に来なかったのである――死の判決で国民を嚇(おど)して、十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の十二名はほとんど不意打の死刑――否(いな)、死刑ではない、暗殺――暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位は持っても宜(よ)いではないか。それにあの執念な追窮しざまはどうだ。死骸の引取り、会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、死体の解剖すら大学ではさせぬ。できることならさぞ十二人の霊魂も殺してしまいたかったであろう。否(いな)、幸徳らの躰を殺して無政府主義を殺し得たつもりでいる。彼ら当局者は無神無霊魂の信者で、無神無霊魂を標榜(ひょうぼう)した幸徳らこそ真の永生(えいせい)の信者である。しかし当局者も全(まった)く無霊魂を信じきれぬと見える、彼らも幽霊が恐いと見える、死後の干渉を見ればわかる。恐いはずである。幸徳らは死ぬるどころか活溌溌地に生きている。現に武蔵野の片隅に寝ていたかくいう僕を曳きずって来て、ここに永生不滅の証拠を見せている。死んだ者も恐ければ、生きた者も恐い。死減一等の連中を地方監獄に送る途中警護の仰山(ぎょうさん)さ、始終短銃を囚徒の頭に差つけるなぞ、――その恐がりようもあまりひどいではないか。幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府を以てして、数うるほどもない、しかも手も足も出ぬ者どもに対する怖(おび)えようもはなはだしいではないか。人間弱味がなければ滅多(めった)に恐がるものでない。幸徳ら瞑(めい)すべし。政府が君らを締め殺したその前後の遽(あわ)てざまに、政府の、否(いな)、君らがいわゆる権力階級の鼎かなえの軽重は分明に暴露されてしもうた。
 こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。諸君、我らは決して不公平ではならぬ。当局者の苦心はもとより察せねばならぬ。地位は人を縛り、歳月は人を老いしむるものである。廟堂の諸君も昔は若かった、書生であった、今は老成人である。残念ながら御(お)ふるい。切棄(きりす)てても思想は皦々(きょうきょう)たり。白日の下に駒を駛(は)せて、政治は馬上提灯の覚束(おぼつか)ないあかりにほくほく瘠馬(やせうま)を歩ませて行くというのが古来の通則である。廟堂の諸君は頭の禿げた政治家である。いわゆる責任ある地位に立って、慎重なる態度を以て国政を執(と)る方々である。当路に立てば処士横議(しょしおうぎ)はたしかに厄介なものであろう。仕事をするには邪魔も払いたくなるはず。統一統一と目ざす鼻先に、謀叛の禁物は知れたことである。老人の※むね[#「匈/月」、53-8]には、花火線香も爆烈弾の響(ひびき)がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一(せいいつとういつ)は美観である。小学校の運動会に小さな手足の揃(そろ)うすら心地好いものである。「一方に靡(なび)きそろひて花すゝき、風吹く時そ乱れざりける」で、事ある時などに国民の足並の綺麗に揃うのは、まことに余所目(よそめ)立派なものであろう。しかしながら当局者はよく記臆せなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すはすなわち生命を殺すのである。今度の事件でも彼らは始終皇室のため国家のためと思ったであろう。しかしながらその結果は皇室に禍(わざわい)し、無政府主義者を殺し得ずしてかえって夥(おびただ)しい騒擾の種子を蒔いた。諸君は謀叛人を容(い)るるの度量と、青書生に聴くの謙遜がなければならぬ。彼らの中には維新志士の腰について、多少先輩当年の苦心を知っている人もあるはず。よくは知らぬが、明治の初年に近時評論などで大分政府に窘(いじ)められた経験がある閣臣もいるはず。窘められた嫁が姑(しゅうとめ)になってまた嫁を窘める。古今同嘆である。当局者は初心を点検して、書生にならねばならぬ。彼らは幸徳らの事に関しては自信によって涯分を尽したと弁疏するかも知れぬ。冷(ひやや)かな歴史の眼から見れば、彼らは無政府主義者を殺して、かえって局面開展の地を作った一種の恩人とも見られよう。吉田に対する井伊をやったつもりでいるかも知れぬ。しかしながら徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平しょうへいの四十四年に十二名という陛下の赤子、しかのみならず為(な)すところあるべき者どもを窘めぬいて激さして謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じてこれが責任を負わねばならぬ。麻を着、灰を被(かぶ)って不明を陛下に謝し、国民に謝し、死んだ十二名に謝さなければならぬ。死ぬるが生きるのである、殺さるるとも殺してはならぬ、犠牲となるが奉仕の道である。――人格を重んぜねばならぬ。負わさるる名は何でもいい。事業の成績は必ずしも問うところでない。最後の審判は我々が最も奥深いものによって定まるのである。これを陛下に負わし奉るごときは、不忠不臣のはなはだしいものである。
 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂(たましい)を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えらえたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸(ぬす)んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも脱(ぬ)ぎ棄てねばならぬ時がある、それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは政治上に謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓に縋(すが)りついてはならぬ。「もし爾(なんじ)の右眼爾を礙(つまず)かさば抽出(ぬきだ)してこれをすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我らは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰いう、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。
 諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研(みが)くことを怠ってはならぬ。

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす詳細
1895年(明治28)京都市(塩小路東洞院通~伏見町下油掛間)で日本初の路面電車が営業開始する詳細
1903年(明治36)当時日本一の長さの鉄道トンネルだった、中央本線笹子トンネル(単線)が開通する詳細
1922年(大正10)軍人・政治家で元老の筆頭格山県有朋の命日詳細
1938年(昭和13)有沢広巳、大内兵衛、美濃部亮吉ら教授陣や佐々木更三を含む38人が検挙される(第二次人民戦線事件)詳細
1984年(昭和59)国鉄が「エキゾチック・ジャパン」キャンペーンを開始する詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、大逆事件によって、幸徳秋水ら11名の処刑が行われた日です。
 大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治時代後期の1910年(明治43)に、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われてきました。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴します。
 同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡しました。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、世界中の抗議の内に、1月24日に幸徳秋水、宮下太吉ら11名、25日に管野スガが処刑されます。
 実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞しました。

〇幸徳 秋水(こうとく しゅうすい)とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
 子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
 1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
 1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
 また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
 その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
 しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
 著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

☆大逆事件判決理由書 (抄文)  1911年(明治44)1月18・19日判決言い渡し

主文

右幸徳伝次郎外二十五名に対する刑法第七十三条の罪に該当する被告事件審理を遂げ、判決すること左の如し。
被告幸徳伝次郎、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、坂本清馬、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、松尾卯一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎、内山愚童、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治を各死刑に処し、被告新田融を有期懲役十一年に処し、被告新村善兵衛を有期懲役八年に処す。
差押物件中、鉄葉整小鑵二個、同切包一個、同紙包二個、鉄製小鑵一個、鶏冠石紙包一個、同鑵入一個、調合剤二十三匁、塩酸加里九十二匁は之を没収す。
公訴に関する訴訟費用の全部は、被告人共之を連帯負担すべし。
没収に係らざる差押物件は、各差出人に還付す。

理由

被告幸徳伝次郎は別に社会主義を研究して明治三十八年北米合衆国に遊び、深く其の地の同主義者と交り、遂に無政府共産主義を奉ずるに至る。其帰朝するや専ら力を同主義の伝播に致し、頗る同主義者の間に重ぜられて隠然其首領たる観あり。管野スガは数年前より社会主義を奉じ、一転して無政府共産主義に帰するや漸く革命思想を懐き1908年世に所謂錦輝館赤旗事件に坐して入獄し、無罪の判決を受けたりと雖も、忿伊恚の情禁じ難く心ひそかに報復を期し、一夜その心事を幸徳に告げ、幸徳は協力事を挙げんことを約し、且つ夫妻の契りを結ぶに至る。その他の被告人もまた概ね無政府共産主義をその信条となす者、若しくは之を信条となすに至らざるもその臭味を帯びる者にして、其中幸徳を崇拝し若しくは之と親交を結ぶ者多きに居る。
明治四十一年六月廿二日、「錦輝館赤旗事件」と称する官吏抗拒及び治安警察法違反被告事件発生し、数人の同主義者獄に投ぜられ、遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察吏の処置と裁判とに平ならず、其報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈々盛にして、秘密出版の手段に依る過激文書相次で世に出で、当局の警戒注視益々厳密を加うるの已むを得ざるに至る。是に於て被告人被告人共の中、深く無政府共産主義に心酔する者、国家の権力を破壊せんと欲せば先ず元首を除くに若くなしとなし、凶逆を逞うせんと欲し、中道にして兇謀発覚したる顛末は即ち左の如し。

第一

明治四十一年六月二十二日錦輝館赤旗事件の獄起るや、被告幸徳伝次郎は時に帰省して高知県幡多郡中村町に在り、当局の処置を憤慨して其後図を為さんと欲し、其訳する所の無政府共産主義者ペートル・クロポトキン原著『パンの略取』と題する稿本を携え、七月上京の途に就き、被告大石誠之助を迂路和歌山県東牟婁新宮町に訪ひ、誠之助及び被告成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一と会見して、政府の迫害甚しきに由り反抗の必要なることを説き、越へて八月新宮を去りて、被告内山愚童を箱根林泉寺に訪ひ、赤旗事件報復の必要なることを談じ、帰京の後、東京府豊多摩郡淀橋町柏木に卜居し、尋て同府北豊多摩郡巣鴨町に転住して、同主義者に対し常に暴力の反抗必要なる旨を唱道せり。
同年九月、被告森近運平、坂本清馬上京して伝次郎の宅に客居す。初運平は無政府共産主義を奉じ、大阪に在りて『大阪平民新聞』或は『日本平民新聞』と称したる社会主義の新聞を発刊し、又定時茶話会を開き無政府共産説を鼓吹す。偶々被告宮下太吉心を同主義に傾けたるも、皇室前途の解決に付て惑ふ所あり、明治四十年十二月十三日、運平を大阪平民社に訪うて之を質す。運平、即ち帝国紀元の史実信するに足らざることを説き、自ら太吉をして不臣の念を懐くに至らしむ。其後太吉は内山愚童出版の『入獄紀念・無政府共産』と題する暴慢危激の小冊子を携へ、東海道大府駅に到り、行幸の鹵簿(ろぼ)を拝観する群集に頒与し、且之に対して過激の無政府共産説を宣伝するや、衆皆傾聴するの風あれども、言一たび皇室の尊厳を冒すや、復耳を仮す者なきを見て心に以為く、帝国の革命を行んと欲すれば、先ず大逆を犯し、以て人民忠愛の信念を殺ぐに若かずと。是に於て太吉は爆裂弾を造り大逆罪を犯さんことを決意し、明治四十一年十一月十三日其旨を記し、且つ
一朝東京に事あらば直ちに起て之に応ずべき旨を記したる書面を運平に送り、運平は之を伝次郎に示し、且つ太吉の意思強固なることを推奨したるに、伝次郎は之を聴て喜色あり。是時に当り被告大石誠之助上京して被告伝次郎及び被告菅野すがを診察し伝次郎の余命永く保つべからざることを知る。伝次郎之を聞て心大に決する所あり。十一月十九日誠之助の伝次郎を訪ふや伝次郎は運平、誠之助に対し、赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪の財を奪ひ貧民を賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ宮城に迫りて大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平、誠之助は之に同意したり。同月中、被告松尾卯一太も亦事を以て出京し一日伝次郎を訪問して、伝次郎より前記の計画あることを聴て、均しく之に同意したり。
是に於て被告伝次郎は更に其顛末を被告新村忠雄及び清馬に告げ、特に清馬に対しては各地に遊説して決死の士を募るべきことを勧告したり。忠雄は伝次郎より無政府共産主義の説を聴て之を奉じ、深く伝次郎を崇信す。曽て群馬県高崎市に於て『東北評論』と称する社会主義の新聞を発行し、其印刷人となりて主義の鼓吹に努め、信念最も熱烈なり。又清馬は明治四十年春頃より 無政府共産説を信じて、伝次郎方に出入し、其後熊本評論社に入り、同社発行の『熊本評論』に過激の論説を掲載して、主義の伝播に力め、赤旗事件発生の後上京して、伝次郎方に寄食し、前示伝次郎の勧説に接するや其逆謀に同意し奮て決死の士を募らんことを快諾したり。然れども其後事を以て伝次郎と隙を生じ遂に伝次郎方を去りて宮崎県に往き、或は熊本県に入りて松尾卯一太方に寄食し、卯一太及び被告飛松与次郎等に対し暴慢危激の言を弄し、更に各地に放浪したる。明治四十三年三月に至り、佐藤庄太郎を東京市下谷区万年町2丁目の寓居に訪ふて、爆裂弾の製法を問へり。
同年十二月、被告伝次郎は『パンの略取』を出版す。又被告すがは、近日当局の同主義者に対する圧抑益甚しと為して之を憤激し、爆裂弾を以て大逆罪を犯し、革命の端を発せんと欲する意思を懐き、一夜伝次郎を巣鴨町に訪うて之を図る。伝次郎は喜んで之に同意し、協力事を挙げんことを約し、且告ぐるに宮下太吉が爆裂弾を造りて、大逆を行はんとする計画あること、及び事起るときは紀州と熊本とに決死の士出づべきことを以てせり。
明治四十二年一月十四日、被告愚童は上京して伝次郎を訪ふ。伝次郎は欧字新聞に載せたる爆裂弾図を愚童に貸与し、清馬と共に之を観覧せしむ。翌日愚童は転じて東京府豊多摩軍淀橋町柏木に往きすがを訪ふ、すがは之に対して、若し爆裂弾あらば直に起て一身を犠牲に供し革命運動に従事すべき旨を告げ愚童の賛否を試む。
同年二月十三日被告太吉は上京して、被告伝次郎を訪ひ予定の逆謀を告ぐ。当時伝次郎は未だ深く太吉を識らざりしを以て故らに不得要領の答を為し、其去るに及んで之をすが及び忠雄に語り、太吉の決意を賞揚しすがは聴て大に之を喜び忠雄は感奮して心に自ら其挙に加らんことを誓ふ。又太吉は当時運平が伝次郎方を去りて巣鴨町に寓居したるを訪ひ、逆謀を告ぐ。運平は家に係累者ありて実行に加ふること能はざるを概し、且被告古河力作が曾て桂総理大臣を刺さんと欲し、単身匕首を懐にして、其官邸を覗ひたる事実を語り、其軀幹矮小なれども胆力は以て事を共にするに足るべしと賞揚して暗に推薦の意を諷したり。越へて五月中被告太吉は愛知県知多郡亀崎町に在りて松原徳重なる者より、爆裂薬は塩酸加里十匁、鶏冠石五匁の割合を以て配合すべき旨を聞きたるに因り、爆裂薬の製法を知り得たるを以て、主義の為めに斃るべき旨を伝次郎に通信す時に、被告すがは伝次郎と同棲し、其旨を承けて太吉に成功を喜ぶ旨返信し、且附記するに自己も同一の決心あることを以てしたり。
同年六月被告太吉は亀崎町より長野県東筑摩郡中川手村明科所在長野大林区署明科製材所に転勤の途次東京に出づ、是より先伝次郎は再び居を東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町に移す。六日・七日の両日太吉は、伝次郎を訪ひ、伝次郎及びすがに対して逆謀の経路を詳説し、伝次郎・すがの両人は忠雄及び力作は各勇敢の人物なることを説き、之を太吉に推薦したり。
(以下略)

 ※縦書きの原文を横書きにし、句読点を付してあります。

      「日本政治裁判史録」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1865年(元治2)長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1942年(昭和17)「国民錬成所官制」により、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとされる詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に日本社会党[明治期]の第1回党大会が開催され、結成届けを提出して受理されて日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生した日です。
 日本社会党[明治期](にほんしゃかいとう)は、明治時代に結成された日本で最初の合法社会主義政党でした。2月24日の第1回党大会(於:東京京橋区・平民病院)で、党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とし、評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人として発足し、結党以前から刊行されていた『光』が機関紙となります。
 その後、東京市電値上反対運動や普通選挙運動、足尾鉱毒事件などの闘いを展開しました。同年6月23日に、幸徳秋水がアメリカから急遽帰国すると議会政策派と直接行動派の対立を招き、翌年1月15日に創刊された日刊『平民新聞』紙上で、論争が展開されます。
 同年2月17日に開催された第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、党則第1条の文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改めました。その結果、2月22日に内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となります。

〇日本社会党[明治期]関係略年表

<1905年(明治38)>
・11月20日 西川光次郎、山口孤劔らか凡人社を設立して、半月刊誌『光』を発刊する

<1906年(明治39)>
・1月7日 西園寺公望内閣が誕生し、内務大臣は原敬となり、「社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきである」との社会主義取り締まりの新方針を発表する
・1月14日 『光』派の社会主義者は、「普通選挙の期成を図るを目的とする」を綱領に日本平民党の結社届を提出して、受理される
・1月28日 堺利彦らは、日本社会党の結社届を提出して、受理される
・2月24日 堺利彦・西川光二郎らは、第1回党大会を開催、日本平民党と日本社会党が合同して、日本社会党の結成届けを提出して受理され、日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生する
 ①党則第1条を「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」とする
 ②評議員は、片山潜・幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二・大杉栄ら13人、党員は200人となる
・3月1日 東京市内の東京市街鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の3会社が各3銭均一の電車賃を3社共通5銭均一に値上げする申請を府知事と警視総監に提出、値上げ反対の世論が高まる
・3月15日、日本社会党の直接行動派は、東京市電値上げ反対運動を組織して、1,600人が市庁・電鉄会社を襲撃し、軍隊が出動して鎮圧され、西川光二郎・大杉栄ら10人が逮捕・起訴されたものの、市電の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議案が東京市会で可決される
・6月23日 幸徳秋水は、アメリカから急遽帰国する
・6月28日 幸徳秋水は、日本社会党の帰国歓迎会で、議会主義か直接行動かの問題を提示し、党内対立のきっかけとなる

<1907年(明治40)>
・1月15日 日刊『平民新聞』が創刊される
・2月5日 幸徳秋水は、日刊『平民新聞』で、「真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」と直接行動を主張する
・2月7日 足尾銅山で大暴動がおこり、事務所など65棟が破壊され、軍隊が出動し、600人を検挙する
・2月10日 堺利彦は、日刊『平民新聞』で「社会党運動の方針」を発表し、「議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」と直接行動を議会主義には必要な手段であるという併用論を主張する
・2月12日 福田英子・菅野スガらは、「治安警察法」第5条改正案(女子の政治結社・集会への参加を認める)を衆議院に提出、衆議院で可決され、貴族院で否決される
・2月14日 田添鉄二は、日刊『平民新聞』で「議会政策論」を発表し、直接行動を批判する
・2月17日 第2回党大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争、採決の結果、20票対2票で、綱領の「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張し」という文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改める
・2月20日 日刊『平民新聞』第28号が告発される
・2月22日 内務大臣は「安寧秩序ニ妨害アリト認ムル」として、「治安警察法」の適用による結社禁止を命令し、これに伴い解散となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
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1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、大逆事件で起訴された幸徳秋水ら24名に死刑判決が出された日です。
 大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われてきました。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴します。
 同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡されました。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら12名は、世界中の抗議のうちに1月24~25日処刑されています。
 実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞しました。
 以下に、「大逆事件判決理由書」の主文と理由の一部を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大逆事件判決理由書」(抄文) 1911年(明治44)1月18・19日判決言い渡し

主文

右幸徳伝次郎外二十五名に対する刑法第七十三条の罪に該当する被告事件審理を遂げ、判決すること左の如し。
被告幸徳伝次郎、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、坂本清馬、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、松尾卯一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎、内山愚童、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治を各死刑に処し、被告新田融を有期懲役十一年に処し、被告新村善兵衛を有期懲役八年に処す。
差押物件中、鉄葉整小鑵二個、同切包一個、同紙包二個、鉄製小鑵一個、鶏冠石紙包一個、同鑵入一個、調合剤二十三匁、塩酸加里九十二匁は之を没収す。
公訴に関する訴訟費用の全部は、被告人共之を連帯負担すべし。
没収に係らざる差押物件は、各差出人に還付す。

理由

被告幸徳伝次郎は別に社会主義を研究して明治三十八年北米合衆国に遊び、深く其の地の同主義者と交り、遂に無政府共産主義を奉ずるに至る。其帰朝するや専ら力を同主義の伝播に致し、頗る同主義者の間に重ぜられて隠然其首領たる観あり。管野スガは数年前より社会主義を奉じ、一転して無政府共産主義に帰するや漸く革命思想を懐き1908年世に所謂錦輝館赤旗事件に坐して入獄し、無罪の判決を受けたりと雖も、忿伊恚の情禁じ難く心ひそかに報復を期し、一夜その心事を幸徳に告げ、幸徳は協力事を挙げんことを約し、且つ夫妻の契りを結ぶに至る。その他の被告人もまた概ね無政府共産主義をその信条となす者、若しくは之を信条となすに至らざるもその臭味を帯びる者にして、其中幸徳を崇拝し若しくは之と親交を結ぶ者多きに居る。
明治四十一年六月廿二日、「錦輝館赤旗事件」と称する官吏抗拒及び治安警察法違反被告事件発生し、数人の同主義者獄に投ぜられ、遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察吏の処置と裁判とに平ならず、其報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈々盛にして、秘密出版の手段に依る過激文書相次で世に出で、当局の警戒注視益々厳密を加うるの已むを得ざるに至る。是に於て被告人被告人共の中、深く無政府共産主義に心酔する者、国家の権力を破壊せんと欲せば先ず元首を除くに若くなしとなし、凶逆を逞うせんと欲し、中道にして兇謀発覚したる顛末は即ち左の如し。
(以下略)

   「日本政治裁判史録」より
 ※縦書きの原文を横書きにし、句読点を付してあります。

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