
今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長野県の機械工宮下太吉が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、大逆事件の検挙が始まった日です。
大逆事件(たいぎゃくじけん)は、明治時代後期の1910年(明治43)に、明治政府が社会主義者に加えた大弾圧事件で、幸徳事件とも言われています。1908年(明治41)に、明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強め,1910年(明治43)5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件を契機として、翌月から全国の社会主義者数100名を検挙、内26名を明治天皇暗殺計画容疑として、「刑法」73条の大逆罪で起訴しました。
同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡されます。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら12名は、世界中の抗議のうちに1月24~25日処刑されました。
実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞します。
同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開で行い、翌年1月18日には、2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡されます。同日夜に死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑されたものの、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら12名は、世界中の抗議のうちに1月24~25日処刑されました。
実際の事件関係者は数名で、幸徳秋水以下大部分はでっちあげの犠牲者とみられますが、以後社会主義や労働運動は徹底的に弾圧され、一時沈滞します。
〇幸徳秋水(こうとく しゅうすい)とは?
明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。
子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。
子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、 同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。
1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。
1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。
また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。
その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。
しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。
著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。
☆大逆事件関係略年表
<1908年(明治41)>
・明治政府は赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強める
<1909年(明治42)>
・11月3日 長野県の機械工宮下太吉は長野県東筑摩郡中川手村大足(現在の長野県安曇野市)の大足山中で爆裂弾の爆破実験を行なう
<1910年(明治43)>
・5月21日 宮下太吉は、爆弾の材料を中川手村明科の明科製材所の工場に移す
・5月23日 長野県松本警察署長、宮下太吉に関わる「爆発物取締罰則」違反容疑の報告書を受け取る
・5月25日 宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反容疑で逮捕される
・5月31日 検事総長は、(旧)刑法73条(大逆罪)に該当すると判断する
・6月1日 幸徳秋水、管野スガらが湯河原で逮捕される
・11月12日 アナキストのエマ・ゴールドマンら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛に抗議文を送付する
・11月22日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会を開催する
・12月6日 フランスの社会主義者ら、在パリ日本大使館に抗議して大デモを行う
・12月10日 幸徳秋水ほか26人に関する大逆事件の大審院第1回公判(非公開)が開廷される
・12月12日 エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択する
・12月29日 大審院は16回目の公判を非公開で行ない、結審となる
<1911年(明治44)>
・1月18日 2名を除いて証拠のないままに、幸徳秋水、森近運平、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、大石誠之助ら24名に大逆罪で死刑、2名に爆発物取締罰則違反で有期懲役刑が言い渡される
・1月19日 死刑宣告を受けた者の内12名は明治天皇の「仁慈」により無期懲役に減刑される
・1月24日 幸徳秋水、宮下太吉ら11が名が絞首刑となる
・1月25日 管野スガが絞首刑となる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1336年(建武3) | 湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日) | 詳細 |
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1955年(昭和30) | 岩波書店より新村出編『広辞苑』初版が刊行される | 詳細 |
1960年(昭和35) | 大修館書店が諸橋轍次著の『大漢和辞典』の最終巻を刊行する | 詳細 |