ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平清盛

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 今日は、平安時代後期の1167年(仁安2)に、平清盛が厳島神社に参詣し、『平家納経』の一部とされる、自ら書写した『般若心経』1巻を奉納した日ですが、新暦では3月16日となります。
 『平家納経』(へいけのうきょう)は、平清盛が平家一門の繁栄を祈願して、安芸国の厳島神社に奉納した装飾経(装飾した写経)でした。1164年(長寛2年9月)の供養願文を持ち、『法華経』 28品、開経『無量義経』、結経『観普賢経』、さらに『阿弥陀経』、『般若心経』各1巻の32巻に願文を合せた、計33巻から成っています。
 平家の繁栄を祈り一族32人が一品一巻を分担して写経・製作したもので、各巻意匠を異にし、当代工芸技術の粋を集めていて、1167年(仁安2)には、全てが完成し、厳島神社への奉納が完了しました。平安時代に流行した装飾経の最高峰をなすものであり、大和絵の史料としても貴重であるとされています。
 1897年(明治30)に旧国宝指定され、1954年(昭和29)には、付属の経箱、経箱を納める唐櫃(からびつ)と共に、「平家納経 一具」として国宝に指定されました。

〇平清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

☆『平家納経』関係略年表

・1164年(長寛2年9月) 厳島神社に一部が奉納される
・1167年(仁安2年) 全てが完成し、厳島神社への奉納が完了する
・1602年(慶長7年) 福島正則が願主となって修理が行われる
・1648年(慶安元年) 浅野長晟が『平家納経』を重修(唐櫃蓋裏銘)する
・1882年(明治15年)10月 第1回内国絵画共進会にて、出展目録「廣島縣下安芸國 嚴島神社出品」に「古寫經及ヒ願文 丗三巻」名義で出品され、この機会に帝室学芸員の手で2年をかけて模写される
・1897年(明治30年)12月28日 旧国宝指定される
・1920年(大正9年)4月18日 大師会にて、厳島神社の高山昇宮司が高橋義雄と益田孝に『平家納経』副本制作を訴え、大倉喜八郎らがその場で協力を約束する
・1925年(大正14年) 田中親美が5年半をかけて副本2組を完成させ、1組を奉納、1組をさらなる副本制作の見本とする
・1954年(昭和29年)3月20日 法華経等33巻、金銀荘雲龍文銅製経箱、蔦蒔絵唐櫃が「平家納経 一具」として国宝に指定される
・1959年(昭和34年) 『薬草喩品』の表紙と見返しが安田靫彦による彩絵(だみえ)に改められる
・1985年(昭和60年) 松井正光らによる装飾金具の修復が始まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1576年(天正4)織田信長が岐阜から近江の安土城へ移る(新暦3月23日)詳細
1784年(天明4)筑前志賀島の百姓甚兵衛により、「漢倭奴國王」の金印発見される(新暦4月12日)詳細
1904年(明治37)「日韓議定書」に調印する詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)目指し、翼賛政治体制協議会が結成される詳細
1943年(昭和18)陸軍省が「撃ちてし止まむ」の戦時標語ポスター5万枚を全国に配布する詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争下の言論弾圧(竹槍事件)の原因となる、「毎日新聞」朝刊の戦局解説記事が掲載される詳細
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 今日は、平安時代後期の平治元年に、院近臣らの対立により発生した平治の乱が、源義朝、藤原信頼と平清盛とが六条河原などで戦うものの、平清盛側が勝利して終結した日ですが、新暦では1160年2月5日となります。
 平治の乱(へいじのらん)は、後白河院政開始後の藤原通憲(信西)の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱でした。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきます。
 藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきました。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展します。
 熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功しました。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗します。
 その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されました。翌年に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えます。しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきました。
 以下に、『平治物語』六波羅合戦の事と義朝敗北の事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『平治物語』六波羅合戦の事・義朝敗北の事

 六波羅合戦の事

 悪源太は、そのまま六波羅へ寄せらるるに、一人当千の兵ども、真前に進んで戦ひけり。金子十郎家忠(いへただ)は、保元の合戦にも、為朝(ためよし)の陣に駆け入り、高間の三郎兄弟を組んで討ち、八郎御曹子の矢先を逃れて名を上げけるが、今度も真つ先駆けて戦ひけり。矢種も皆射尽くし、弓も引き折り、太刀をも討ち折りければ、折れ太刀をひつ下げて、「あはれ太刀がな。今一つ合戦せん」と思ひて、駆け回(まは)るところに、同国の住人足立右馬允遠元(とほもと)馳せ来れば、「これ御覧候へ、足立殿。太刀を討ち折つて候ふ。御帯(は)き副(そ)へ候はば、御恩に蒙(かうぶ)り候はん」と申しければ、折節帯き副へなかりしかども、「御辺の乞ふがやさしきに」とて、前を討たせける郎等の太刀を取つて、金子にぞ与へける。家忠大きに喜んで、また駆け入つて敵数多(あまた)討つてけり。
 足立が郎等申しけるは、「日来より御前途に立つまじき者と思し召せばこそ、戦の中にて太刀を取つて人には給はるらめ。これほどは最後の御供とこそ存ぜしかども、これほどに見限られ奉ては、先立ち申しにしかじ」とて、すでに腹を斬らんと、上帯を押をし切ければ、遠元(とほもと)馬より飛むで下り、「汝が恨むるところもつとも理(ことはり)なり。しかれども金子が所望の黙(もだ)し難さに、御辺が太刀を取りつるなり。戦をするも主のため、討ち死にする傍輩に太刀を請はれて、与へぬものや侍らん。漢朝の季札(きさつ)も除君に剣を請はれては、惜しまずとこそ承(うけたまは)れ。しばらく待て」と言ふところに、敵三騎来て、足立を討たんと駆け寄せたり。遠元先づ真つ先に進みたる武者を、よつぴいてひやうど射る。その矢過(あやま)たず内兜に立て、馬より真倒に落ちければ、残り二騎は馬を惜しみて駆けざりけり。遠元やがて走り寄つて、帯たる太刀を引き切つておつ取り、「汝が恨み真中、くわ、太刀取らするぞ」とて、郎等に与へ、うち連れてこそまた駆けれ。
 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へ寄せて、門の中へ入らざるこそ口惜しけれ。進めや、者ども」とて、究竟(きうきやう)の兵五十余騎、錏(しころ)を傾(かたぶ)けて駆け入れば、平家の侍防ぎかね、ばつと引てぞ入りにける。義平(よしひら)先づ本意を遂げぬと喜んで、喚おめ)き叫んで駆け入り給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、戦下知して居ゐ)給ひけるが、妻戸の扉に、敵の射る矢雨の降る如くに当たりければ、清盛怒つてのたまひけるは、「防ぐ兵に恥ある侍がなければこそ、ここまで敵は近づくらめ。出で出で、さらば駆けん」とて、紺の直垂(ひたたれ)に黒糸縅の鎧着、黒漆(くろうるし)の太刀を履き、黒母衣(くろほろ)の矢負ひ、塗り籠め藤の弓持つて、黒き馬に黒鞍置(を)かせて乗り給へり。上より下まで大人しやかに、出たたれけるが、鐙(あぶみ)踏む張り大音上げて、「寄せての大将軍は誰人ぞ。かう申すは太宰大弐清盛なり。見参せん」とて、駆け出られければ、御曹子これを聞き給ひ、「悪源太義平ここにあり。得たりやおう」と叫びて駆く。平家の侍これを見て、筑後守父子・主馬判官、館親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、真前に馳せ塞がつて戦ひけり。
 源平互ひに入り乱れて、ここを最後ともみ合ふたり。孫子が秘せしところ、子房が伝ふところ、互ひに知れる道なれば、平家の大勢、陽に開いて囲まんとすれども囲まれず、陰に閉ぢて討たんとすれども討たれず、千変万化して、義平(よしひら)三方をまくりたて、面(おもて)も振らず斬つて回(まは)り給ひしかども、源氏は今朝よりの疲れ武者、息をもつかず攻め戦ひ、平家は新手(あらて)を入れ替へ入れ替へ、城にかかつて馬を休め、駆け出で駆け出で戦ひければ、源氏終(つゐ)に討ち負けて、門より外へ引き退き、やがて河をかけ渡し、河原を西へぞ引きたりける。

 義朝敗北の事

 平家追つ駆けて攻めければ、三条河原にて鎌田兵衛申しけるは、「頭殿(かうのとの)は思し召す旨あつて落ちさせ給ふぞ。よくよく防ぎ矢仕れ」と言ひければ、平賀四郎義宣(よしのぶ)、引つ返し散々に戦はれければ、義朝返(かへ)り見給ひて、「あつぱれ、源氏は鞭差しまでも、愚(をろ)かなる者はなきものかな。あたら兵、平賀討たすな。義宣討たすな」とのたまへば、佐々木の源三・須藤刑部・井沢四郎を始めとして、我も我もと真つ先に馳せ塞がつて防ぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎斬つて落とし、我が身も手負ひければ、近江を指して落ちにけり。須藤形部俊通(としみち)も、六条河原にて、滝口と共に討ち死にせんと進みしを、止(とど)め給ひしかども、ここにて敵三騎討ち取つて、終(つゐ)に討たれてけり。井沢四郎宣景のぶかげ)は、二十四差したる失をもつて、今朝の戦ひに敵十八騎討落とし、今の合戦によき敵四騎射殺したれば、箙(ゑびら)に二つぞ残りたる。その後打ち物になつて振る舞ひけるが、痛手負ふて引きにけり。東近江に落ちて傷療治し、弓うち切り杖につき、山伝ひに甲斐の井沢へぞ行きにける。
 かやうに面々戦ふ間に、義朝(よしとも)落ち延び給ひしかば、鎌田を召して、「汝に預(あづ)けし姫はいかに」とのたまへば、「私の女に申し置(を)き参らせて候ふ」と申せば、「戦に負けて落つると聞き、いかばかりの事か思らん。中々殺して帰(かへ)れ」とのたまへば、鞭を上げて、六条堀川の宿所に馳せ来てみければ、戦に恐れて人一人もなきに、持仏堂の中に人音しければ、行きて見るに、姫君仏前に経うち読みておはしけるが、政家(まさいへ)を御覧じて、「さてそも、戦はいかに」と問ひ給へば、「頭殿(かうのとの)は打ち負けさせ給ひて、東国の方へ御落ち候ふが、姫君の御事をのみ、悲しみ参らつさせ給ひ候ふ」と申せば、「さては我らもただ今敵に探し出だされ、これこそ義朝の娘(むすめ)よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ、貴きも賎しきも、女の身ほど悲しかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なれば戦に出でて、御供申し給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置(を)かれ、我が身の恥を見るのみならず、父の骸(むくろ)を汚さん事こそ悲しけれ。兵衛、先づ我を殺して、頭殿の見参に入れよ」とくどき給へば、「頭殿もその仰せにて候ふ」と申せば、「さてはうれしき事かな」とて、御経を巻き納め、仏に向かひ手を合はせ、念仏申させ給へば、政家つと参り、殺し奉らんとすれども、御産屋(うぶや)の内より抱き取り奉りし養君にて、今まで負ふし立て参らせたれば、いかでか哀れに泣かるべき。涙に暮れて、刀の立ち所も思えずして、泣き居(ゐ)たりければ、姫君、「敵や近付くらん、疾と)く疾く」と勧め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸をば深く納めて馳せ帰り、頭殿の見参に入れたりければ、ただ一目御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりに知り給へる僧の所へ、この御首を遣はして、「弔(とぶら)ひて賜(た)び給へ」とてぞ落ちられける。
 さるほどに、平家の軍兵馳せ散つて、信頼(のぶより)・義朝(よしとも)の宿所を始めて、謀反の輩(ともがら)の家々に、押(を)し寄せ押し寄せ火をかけて、焼き払ひしかば、その妻子眷属(けんぞく)、東西に逃げ惑ひ、山野に身をぞ隠しける。方々に落ち行く人々は、我が行く前は知らねども、跡の煙(けぶり)を返(かへ)り見て、敵は今や近付くらむ、急げ急げと身を揉みけり。比叡山には、信頼・義朝討ち負けて、大原口へ落つると沙汰しければ、西塔法師これを聞きて、「いざや落人討ち止とど)めん」とて、二三百人千束が崖(がけ)に待ちかけたり。義朝この由聞き及び、「都にてともかくもなるべき身の、鎌田が由なき申し状によつて、ここまで落ちて山徒の手にかかり、甲斐(かひ)なき死をせんずるこそ口惜しけれ」とのたまへば、斉藤別当申しけるは、「ここをば実盛さねもり)通(とを)し参らせ候はん」とて、馬より下り、兜を脱いで手に引つ提げ、乱れ髪を面に振りかけ、近付き寄つて言ひけるは、「右衛門督、左馬頭殿以下、御許(おもと)の人々は、皆大内・六波羅にて討ち死にし給ひぬ。これは諸国の借り武者どもが、恥をも知らず妻子を見んために、本国に落ち下り候ふなり。討ち止めて、罪作りに何かし給はん。具足を召されむためならば、物の具をば参らせ候はん。通して給はれ」と申しければ、「げにも大将たちにてはなかりけり。葉武者は討ちて何かせん。具足をだに脱ぎ捨てば、通されよかし」と詮議しければ、実盛重ねて、「衆徒は大勢おはします。我らは小勢なり。草摺を切つてもなほ及び難し。投げんに従ひ奪ひ取り給へ」と言へば、面(おもて)に進める若大衆、「もつともしかるべし」とて相あひ)集まる。後陣の老僧も、我劣らじと一所に寄つて、競(きほ)ひ争ふところに、実盛兜をかつぱと投げたりけり。我取らんとひしめきければ、敢へて敵の体をも見つくろはざりけるところに、三十二騎の兵、打ち物を抜きて、兜の錏(しころ)を傾(かたぶ)け、がはと駆け入り蹴散らして通りければ、大衆にはかに長刀を取り直なを)し、余すまじとて追つ駆ければ、実盛大童(わらは)にて、大の中差(なかざし)取つて継がひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんと思うはば寄れや。手柄のほど見せん」とて、取つて返せば、大衆の中に弓取りは少しもなし、敵はじとや思ひけん、皆引きてぞ帰りける。
 義朝(よしとも)八瀬(やせ)の松原を過ぎられけるに、後ろより、「やや」と呼ぶ声(こゑ)しければ、何者やらんと見給へば、はるかに前へぞ延べぬらんと思えつる信頼(のぶより)卿追ひ付きて、「もし戦に負けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れて下らんとこそ聞こえしか。心変はりかや」とのたまへば、義朝余りの憎さに腹を据へかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立つて、一つ戦だにせずして、我が身も滅び人をも失ふにこそ。面(おもて)つれなふ物をのたまふものかな」とて、持たれたる鞭をもつて、信頼の弓手(ゆんで)の頬先を、したたかに打たれけり。信頼この返事をばし給はず、まことに臆したる体にて、しきりに鞭目を押(を)し撫で押し撫でぞせられける。乳母子の式部大夫助吉(すけよし)これを見て、「何者なれば、督殿をばかうは申すぞ。和人(わひと)ども心の剛ならば、など戦には勝たずして、負けては国へ下るぞ」と言ひければ、義朝、「あの男に物な言はせそ。討ちて捨てよ」とのたまひければ、鎌田兵衛、「何条ただ今さる事の候ふべき。敵や続き候ふらん。延べさせ給へ」とて行くところに、また横河(よかは)法師上下四五百人、信頼・義朝の落つるなる、討ち止めんとて、竜華越に逆茂木引き、掻楯(かいだて)かいて待ち懸けたり。
 三十余騎の兵、各々(をのをの)馬より飛び下り飛び下り、手々に逆茂木をばものともせず、引き伏せ引き伏せ通(とを)るところに、衆徒の中より、差し詰め引き詰め散々に射たりければ、陸奥六郎義隆(よしたか)の首の骨を射られて、馬よりさかさまに落ちられてけり。中宮大夫進朝長(ともなが)も、弓手(ゆんで)の股をしたたかに射られて、鐙(あぶみ)を踏みかね給ひければ、義朝、「大夫は失に当たりつるな。常に鎧突(づ)きをせよ。裏かかすな」とのたまへば、その矢引つかなぐつて捨て、「さも候はず、陸奥六郎殿こそ痛手おはせ給ひ候つれ」とて、さらぬ体にて馬をぞ速められける。六郎殿討たれ給へば、首を取らせて義朝のたまひけるは、「弓矢取る身の習(なら)ひ、戦に負けて落つるは、常の事ぞかし。それを僧徒の身として、助くるまでこそなからめ、結句討ち止めんとし、物の具剥がんなどするこそ奇怪なれ。憎い奴ばら、後代の例(ためし)に一人も残さず討てや者ども」と、下知せられければ、三十余騎轡(くつばみ)を並べ、駆け入り割り付け追ひ回(まは)し、攻め詰め攻め詰め斬り付けられければ、山徒立ち所に三十余人討たれにければ、残る大衆、大略手負ひて、はうはう谷々へ帰(かへ)るとて、「この落人討ち止(とど)めんと言ふ事は、誰が言ひ出だせる事ぞ」とて、あれよこれよと論じけるほどに、同士戦をしいだして、また多(おほ)くぞ死にける。誠に出家の身として、落人討ち止め、物具奪ひ取らんなどして、わづかの落ち武者に駆けたてられ、多くの人を討たせ、また同士戦し出だして、数多(あまた)の衆徒を失ふ事、僧徒の法にも恥辱なり、武芸のためにも瑕瑾(かきん)なり。されば冥慮にも背き、神明にも放たれ奉りぬとぞ思えし。
 この敵をも追ひ散らしければ、竜華のふもとに皆下り居ゐて、馬を休められけるが、義朝(よしとも)、後藤兵衛真基(さねもと)を召して、「汝に預あづ)け置(を)きし姫はいかに」とのたまへば、「私の女によくよく申し含めて候へば、別の御事は候ふまじ」と申しけり。「さては心安けれども、汝これより都へ帰り上り、姫を育てて尼にもなし、義朝が後世菩提弔(とぶら)はせよ」とのたまへば、「先いづくまでも御供仕り、ともかくもならせ給はん御有様を見とつけ参らせてこそ帰り上り候はんずれ」と申せども、「存ずる旨あり。疾(と)く疾く」とのたまへば、力及ばず都へ帰り、姫君につき奉り、ここかしこに隠し置き参らせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保(よしやす)卿の北の方になし奉りけるなり。真基も鎌倉殿の御時に世に出でけるとぞ聞こえし。

☆平治の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<平治元年> 

・12月4日 平清盛が熊野詣に出発する
・12月9日 三条殿および信西邸が焼き討ちに合う
・12月10日 信西の子ら解官、流刑となる
・12月14日 源義朝らが昇進、任官する
・12月15日 信西の遺骸が源光保に発見される
・12月17日 信西の首が梟首される、同日、平清盛が帰京する
・12月中旬 内大臣・藤原公教を中心に、二条天皇六波羅行幸の計画が練られる
・12月25日 平清盛、藤原信頼に名簿を提出する(臣下の礼を取る)、同日夜、後白河上皇の内裏脱出と、二条天皇の六波羅行幸が実行される
・12月26日 六波羅合戦で平清盛側が勝利する、同日、藤原信頼が仁和寺に出頭する
・12月27日 藤原信頼が処刑される
・12月29日 尾張国の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって源義朝が殺害される、平重盛、平頼盛ら乱平定功労者に恩賞が与えられる

<平治2年>

・時期不明 藤原経宗・藤原惟方、後白河上皇が御所としていた藤原顕長邸の桟敷の回りに板を打ち付けて視界をさえぎるという狼藉を行なう
・1月26日 近衛天皇の皇后であった藤原多子が二条天皇のもとに入内する
・2月9日 源頼朝が捕縛される
・2月20日 後白河上皇の命により藤原経宗・藤原惟方が平清盛の郎党によって内裏で捕縛される
・2月22日 信西の子らが赦免される
・2月28日 藤原経宗・藤原惟方が解官される
・3月11日 藤原経宗・藤原惟方・源師仲・源頼朝・源希義が流刑に処される
・6月14日 源光保が流刑に処される
・6月20日 平清盛、正三位に叙される
・7月9日 藤原公教が死去する
・8月11日 平清盛、参議となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
2004年(平成16)詩人石垣りんの命日詳細
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 今日は、平安時代後期の長寛2年に、後白河天皇(当時は上皇)が、平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要が行なわれた日ですが、新暦では1165年1月30日となります。
 蓮華王院(れんげおういん)は、京都府京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗山門派の寺院です。後白河院の勅願によって、その居住地だった法住寺殿の西側に、平清盛が堂舎、丈六の本尊、等身の千体観音像を造営し、平安時代後期の1165年1月30日(長寛2年12月17日)に落慶法要が行なわれました。
 しかし、1249年(建長元年)の建長の大火で建物や仏像のほとんどを焼失し、1254年(建長6)に湛慶により、木造千手観音坐像(中尊)が完成、1266年(文永3)には、後嵯峨上皇によって、本堂(三十三間堂)のみが再建されます。この建物は、鎌倉時代の代表的な建築様式和様で、1952年(昭和27)に国宝に指定されました。
 その中には、本尊の木造千手観音坐像(寄木造)をはじめ、木造千手観音立像(1,001躯)、木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像(いずれも国宝)など、鎌倉時代の仏像が多数並んでいて、圧巻です。また、江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となったことで知られてきました。
 尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の構成要素として、世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇蓮華王院(三十三間堂)関係略年表

・長寛2年12月17日(1165年1月30日) 後白河院の勅願を受けて、平清盛が堂舎、丈六の本尊、等身の千体観音像を造営し、落慶法要が営まれる
・建長元年(1249年) 建長の大火で建物や仏像のほとんどを焼失する
・建長6年(1254年) 湛慶により、千手観音坐像(中尊)が完成する
・文永3年(1266年) 後嵯峨上皇によって、本堂(三十三間堂)のみが再建される
・永享5年(1433年) 5年をかけての本堂や仏像の本格的な修復が開始される
・慶長5年(1600年) 豊臣秀頼により、南大門が建立される
・慶長6年(1601年) 豊臣秀頼により、西大門(現在の東寺南大門)が建立される
・貞享3年(1686年) 紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となる
・天明8年(1788年) 天明の大火では、三十三間堂の立地する洛東地域は、焼亡を免れる
・寛政10年(1798年) 隣接する方広寺大仏殿に落雷があって方広寺の伽藍が焼失したが、三十三間堂は無事だった
・明治28年(1895年) 西大門が東寺に移築され南大門(重要文化財)となる
・明治30年(1897年) 蓮華王院本堂(三十三間堂)が旧国宝に指定される
・明治33年(1900年) 木造二十八部衆立像(現在は国宝)、南大門(現在は国指定重要文化財)が旧国宝に指定される
・明治41年(1908年) 木造風神・雷神像が旧国宝に指定される
・昭和10年(1935年) 木造千手観音立像(蓮華王院本堂安置)1,001体が旧国宝に指定される
・昭和12年(1937年) 20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1,001体の仏像の修理が行われる
・昭和27年(1952年) 蓮華王院本堂(三十三間堂)が国宝に指定される
・昭和30年(1955年) 木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像が国宝に指定される
・昭和36年(1961年) 東大門と回廊が建立される
・昭和48年(1973年) 美術院国宝修理所によって全1,001体の修理が開始される
・昭和63年(1988年) 鐘楼が再建される
・平成6年(1994年) 「古都京都の文化財」の構成要素として、世界遺産(文化遺産)に登録される
・平成29年(2017年) 45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了する
・平成30年(2018年) 木造千手観音立像(蓮華王院本堂安置)1,001体が国宝に指定される

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇平 清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)第114代の天皇とされる中御門天皇の誕生日(新暦1702年1月14日)詳細
1709年(宝永6)第113代の天皇とされる東山天皇の命日(新暦1710年1月16日)詳細
1902年(明治35)小学校教科書の採定をめぐる府県担当官と教科書会社の贈収賄事件(教科書疑獄事件)が発覚する詳細
1938年(昭和13)日本画家小川芋銭の命日詳細
1947年(昭和22)国家地方警察と自治体警察を設置する「旧警察法」が公布(施行は翌年3月6日)される詳細
1957年(昭和32)恩賜上野動物園内に常設では日本初のモノレールが開業する詳細
 
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市兵庫区)への行幸(福原遷都)を決行した日ですが、新暦では6月26日となります。
 福原遷都(ふくはらせんと)は、平清盛が京都から摂津の福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区・中央区付近)に一時的に都を移したことでした。1179年(治承3)に、清盛はクーデターを実行し、後白河院を幽閉して実権を握り、自ら軍事的独裁政治を開始しましたが、比叡山延暦寺の衆徒を強く刺激します。
 翌年には、源頼政が以仁王 の令旨を諸国の源氏に伝えて決起を促したものの、宇治川の戦いに敗れ、鎮圧されました。しかし、この影響が広がる中で、突然に安徳天皇、高倉上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行したものです。
 遷都後は、延暦寺の衆徒の蜂起が起き、平宗盛など一門の主張もあって、都城造営も進まぬうちに、同年11月には、再び京都(平安京)に都を戻さざるをえませんでした。この遷都は、平氏政権の威信を下げるものになったとされています。
 以下に、このことを描いた『方丈記』の福原遷都の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』福原遷都

<原文>

また、治承四年[1]水無月の比[2]、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京[3]のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇[4]の御時、都と定まりにけるより後、既に四百余歳[5]と経たり。ことなるゆゑ[6]なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことはりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて[7]、帝[8]より始め奉りて、大臣・公卿[9]みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思ひをかけ、主君のかげ[10]を頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ[11]世に余されて[12]期する所なきもの[13]は愁へながら止まり居り、軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて[14]淀河に浮び[15]、地は目のまへに畠となる。人の心みな改りて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし[16]。西南海[17]の所領を願ひて、東北[18]の庄園を好まず。その時、おのづから事の便りありて、津の国[19]の今の京[20]に至れり。所のありさまを見るに、その地、程狭くて条里を割る[21]に足らず。北は山に沿ひて高く南は海に近くて下れり `波の音常にかまびすしく[22]て塩風殊にはげしく内裏は山の中なればかの木丸殿[23]もかくやとなかなか様変はりて優なるかたも侍りき。日々に毀ち川もせきあへず運びくだす家はいづくに作れるにかあらん。なほ空しき地は多く作れる家は少なし。古京[24]はすでに荒れて、新都[25]はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひ[26]をなせり。もとよりこの処に居たる者は地を失ひて愁へ今移り住む人は土木の煩ひあることを嘆く。道の辺[27]を見れば車に乗るべきは馬に乗り衣冠布衣[28]なるべきは直垂[29]を著たり。都のてぶり[30]忽ちに改りてただ鄙びたる[31]武士に異ならず。これは世の乱るる瑞相[32]とか聞きおけるもしるく日を経つつ世の中浮き立ちて人の心も治まらず民の愁へ遂に空しからざりければ同じ年の冬なほこの京[3]に帰り給ひにき。されど毀ち渡せりし家どもはいかになりにけるにか。悉くもとのやうにも作らず。ほのかに伝へ聞くにいにしへの賢き御代[33]には憐みをもて国を治め給ふ。即ち御殿に茅を葺きて軒をだに整へず[34]。煙の乏しき[35]を見給ふ時は限りある貢物[36]をさへ免されき、これ民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中の有様昔になぞらへて知りぬべし。

【注釈】

[1]治承四年:ちしょうよねん=1180年のこと。
[2]水無月の比:みなづきのころ=6月2日。
[3]この京:このきょう=平安京(京都)のこと。
[4]嵯峨の天皇:さがのてんのう=桓武天皇の誤り。
[5]四百余歳:よんひゃくよねん=正確には平安遷都後386年で、多少誇張しているか。
[6]ことなるゆゑ:ことなるゆえ=特別な根拠。
[7]いふかひなくて:いうかいなくて=言っても始まらないので。
[8]帝:みかど=安徳天皇のこと。
[9]大臣・公卿:だいじん・くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官と三位以上の有位者の貴族のこと。
[10]主君のかげ:しゅくんのかげ=主君の威光。
[11]時を失ひ:ときをうしない=出世の機会を失う。
[12]世に余されて:よにあまされて=世間から取り残されて。
[13]期する所なきもの:ごするところなきもの=将来に希望の持てない人。
[14]こぼたれて=取り壊されて。
[15]淀河に浮び:よどがわにうかび=家を壊した木材が筏となって淀川を流れ下って、福原まで運ばれたことを表現している。
[16]牛・車を用する人なし:うしくるまをようするひとなし=(公家風に)牛や車を使用する人がいない。
[17]西南海:せいなんかい=再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)のことで、平氏の勢力範囲だった。
[18]東北:とうほく=東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)のことで、源氏の勢力範囲だった。
[19]津の国:つのくに=摂津国のこと。
[20]今の京:いまのきょう=福原京のこと。
[21]条里を割る:じょうりをわる=土地の区画をする。
[22]かまびすしく=やかましく。騒々しく。うるさく。
[23]木丸殿:きのまろどの=削ったりみがいたりしない質素な丸木造りの宮殿。黒木造りの御所。とくに福岡県朝倉郡朝倉町にあった斉明天皇の行宮のこと。
[24]古京:こきょう=平安京(京都)のこと。
[25]新都:しんと=福原京のこと。
[26]浮雲の思ひ:うきぐものおもい=落ち着かない気持ち。
[27]道の辺:みちのべ=道のほとり。道ばた。また、道。
[28]衣冠布衣:いかんほい=公家男子の服装の一種。
[29]直垂:ひたたれ=武士の服装。
[30]てぶり=ならわし。風習。風俗。
[31]鄙びたる:ひなびたる=いなかふうになる。いなかくさく、やぼったくなる。いなかびる。
[32]瑞相:ずいそう=きざし。前兆。
[33]賢き御代:かしこきみよ=賢帝が治めていた時代。
[34]軒をだに整へず:のきをだにととのえず=軒さえ切り揃えなかった。
[35]煙の乏しき:けむりのとぼしき=民のかまどから上がる煙が少ない。
[36]貢物:くもつ=支配者に差出されるみつぎ物。領主に納入する年貢。

<現代語訳>

また、治承4年(1180年)6月の頃、急に遷都が行われた。とても予想外の事であった。だいたい、平安京の始まりを聞いていることには、嵯峨天皇の時代に、都として定まったより後、すでに400余年を経ている。特別な根拠もなくて、軽々しく変更すべきものでもないので、これを世間の人が不安に思って心配し合ったのも、実に当然の事であった。しかし、とやかく言っても始まらないので、安徳天皇をはじめ、大臣・公卿の全員がすべて移転してしまった。朝廷に仕えるほどの人であったならば、誰一人旧都に残るであろうか。`官位の昇進に望みをかけ、主君の威光を頼みとするほどの人は、一日でも早く移ろうと励み、出世の機会を失い世間から取り残されて将来に希望の持てない人は、愁えながら旧都に留まっていた。軒を並べていた人家は、日を経るごとに荒れていった。家は取り壊されて、家を壊した木材が筏となって淀川に浮かび、宅地は見る見るうちに畠となってしまった。人の考え方もみな改って、ただ(武家風に)馬・鞍ばかりが重宝とされている。(公家風の)牛や車を使用する人はいない。再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)の所領を願って、東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)の庄園は好まれない。その時、私(鴨長明)はたまたま用事のついでに、摂津国の福原京に行ってみた。その所の有様を見ると、その土地は、狭くて土地の区画をするのに足らない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。波の音は常に騒々しくて、塩風はとりわけ激しく、内裏は山の中なので、かの筑前朝倉に斉明天皇の造った行宮ももこうであったかと、なかなかに風変わりな情趣も感じられた。日々壊して、淀川もいっぱいになるほどに筏にして運び下す家は、どこに再建されたのであろうか。尚、空地は多く、建てられている家は少ない。平安京はすでに荒れて、福原京はいまだ完成されていない。ありとあらゆる人々は、みな落ち着かない気持ちでいた。以前からこの地にいる者は、土地を失って悲しみ、今移り住んできた人々は普請の煩わしさを嘆く。道路を見れば今までは牛車に乗るはずの公家が馬に乗り、公家男子の服装であるべき者は武士の服装を著ている。都の風俗はまたたく間に改まって、ただ田舎くさい武士に異ならない。これは世の中の乱れる前兆と聞いていたが全くそのとおり、日を経るにつれて世の中は騒がしくなり、人の心も動揺し、民衆の愁えはとうとう現実となったため、同じ年の冬、ついに平安京に還都された。しかし、破壊してしまった家々はどうなったのか。ことごとく元のように再建されたわけではなかった。わずかに伝え聞くところによれば、古代の賢帝が治めていた時代には、愛情をもって国を治められたという。すなわち、御殿に茅を葺いても、軒さえ切り揃えなかった。民のかまどから上がる煙が少ないをご覧になった時は、決められた税をさえ免ぜられた、これは、民に恩恵を与え、世を救済されたいとの思いからである。今の世の有様は、昔と比べて理解すべきである。

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 今日は、平安時代末期の治承4年に、平清盛が平重衡に命じ東大寺・興福寺等を焼き払った(南都焼討)日ですが、新暦では、1181年1月15日となります。
 南都焼討(なんとやきうち)は、平清盛の命により、平重衡らの平氏軍が、奈良(南都)の東大寺・興福寺等の仏教寺院を焼き討ちにした事件でした。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の一つとされ、平氏政権に対して反抗的な態度を取り続ける奈良(南都)勢力の東大寺・興福寺等に対する戦闘です。
 平清盛の命を受けた平重衡を総大将とした平氏軍は、治承4年12月25日に奈良(南都)へ向かい、28日には奈良坂・般若寺に城郭を築いて待ちかまえる衆徒を突破して奈良へ攻め入りました。激戦が繰り広げられた後、夜になって火がかけられ、その戦火が興福寺や東大寺等にも拡大し、奈良の大仏や多くの寺院が焼失、『平家物語』では、大仏殿の二階に逃げ込んだ人たちはじめ、計3千5百余人が焼死したとしています。
 また、奈良(南都)勢力の戦死者は千余人と記されました。この戦火によって、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院の多くが焼失しましたが、春日神社や新薬師寺などは免れたとされます。
 以下に、この事件を記した『平家物語』巻第五の奈良炎上の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「平家物語」巻第五 奈良炎上

 都にはまた、「南都三井寺同心して、あるひは宮受け取り参らせ、あるひは御迎ひに参る条、これもつて朝敵なり。しからば奈良をも攻めらるべし」と聞こえしかば、大衆大きに蜂起す。関白殿より、「存知の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」とて、右官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起こつて、「乗り物より捕つて引き落とせ、髻切れ」とひしめく間、忠成色を失ひて逃げ上る。次に右衛門の督親雅を下されたりけれども、これをも、「髻切れ」とひしめきければ、取るものも取り敢へず、急ぎ都へ上られけり。その時は勧学院の雑色二人が髻切られてけり。南都にはまた大きなる球打の玉を作りて、これこそ入道相国の首と名付けて、「打て、踏め」などぞ申しける。「言葉の洩らし易きは、災を招く仲立ちなり。言葉の慎まざるは、敗れを取る道なり」と言へり。懸けまくも忝く、この入道相国は、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えし。
 入道相国、且つ且つ先づ南都の狼藉を鎮めんとて、妹尾の太郎兼康を、大和の国の検非所に補せらる。兼康五百余騎で馳せ向かふ。「相構へて、衆徒は狼藉をいたすとも、汝らはいたすべからず。物の具なせそ、弓箭な帯せそ」とて遣はされたりけるを、南都の大衆、かかる内儀をば知らずして、兼康が余勢六十余人搦め捕つて、一々に首を斬つて、猿沢の池の傍にぞ掛け並べたりける。入道相国大き怒りて、「さらば南都をも攻めよや」とて、大将軍には、頭の中将重衡、中宮の亮通盛、都合その勢四万余騎、南都へ発向す。南都にも老少嫌はず七千余人、兜の緒を締め、奈良阪、般若寺、二箇所の道を掘り切つて、掻楯掻き、逆茂木曳いて待ちかけたり。平家四万余騎を二手に分かつて、奈良阪、般若寺、二箇所の城郭に押し寄せて、時をどつとぞ作りける。大衆は徒立ち打ち物なり。官軍は馬にて駆け回まはし駆け回し攻めければ、大衆数を尽くして討たれにけり。卯の刻より矢合はせして、一日戦ひ暮らし、夜に入りければ、奈良阪、般若寺、二箇所の城郭ともに敗れぬ。落ち行く衆徒の中に、坂の四郎永覚と言ふ悪僧あり。これは力の強さ、弓矢打ち物取つては、七大寺十五大寺にも勝れたり。萌黄威の鎧に、黒糸威の腹巻二両重ねてぞ着たりける。帽子兜に五枚兜の緒を締め、茅の葉の如くに反つたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀、左右の手に持つままに、同宿十余人前後左右に立て、転害の門より討つて出でたり。これぞしばらく支へたる。多くの官兵ら馬の脚薙がれて、多く亡びにけり。されども官軍は大勢にて、入れ替へ入れ替へ攻めければ、永覚が防ぐところの同宿皆討たれにけり。永覚心は猛う思へども、後ろ疎らになりしかば、力及ばず、ただ一人南を指してぞ落ち行きける。
 夜戦になつて、大将軍頭の中将重衡、般若寺の門の前にうつ立つて、暗さは暗し、「火を出だせ」とのたまへば、播磨の国の住人、福井の庄の下司、次郎大夫友方と言ふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞかけたりける。頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻ばかりのことなれば、折節風は激し、火元は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。およそ恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良阪にて討ち死にし、般若寺にして討たれにけり。行歩に適へる者は、吉野十津川の方へぞ落ち行きける。歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修学者、稚児ども女童部は、もしや助かると、大仏殿の二階の上、山階寺の内へ、我先にとぞ逃げ入りける。大仏殿の二階の上には、千余人登り上がり、敵の続くを上せじとて、橋を引きてげり。猛火は正しう押しかけたり。喚き叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無限阿鼻、炎の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹を交へし二階の楼、九輪空に輝きし二基の塔、たちまちに煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏と思し召し準へて、聖武皇帝、手づから自ら磨きたて給ひし金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高く顕はれて、半天の雲に隠れ、白毫新たに拝まれさせ給へる満月の尊容も、御首は焼け落ちて大地にあり、御身は沸き合ひて山の如し。八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしう十悪の風にただよひ、煙は中天に満ち満ちて、炎は虚空に隙もなし。まのあたり見奉る者はさらに眼をあてず、かすかに伝へ聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法文聖教、すべて一巻も残らず。我が朝は申すに及ばず、天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしとも思えず。優填大王の紫磨金を磨き、毘首羯磨が赤栴檀を刻みしも、わづかに等身の御仏なり。いはんやこれは南閻浮提の内には、唯一無双の御仏、永く朽損の期あるべしとも思はざりしに、今毒縁の塵に交はつて、久しく悲しみを残し給へり。梵釈四王、竜神八部、冥官冥衆も、驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなることをか思しけん、されば春日の野露も色変はり、三笠山の嵐の音も怨むる様にぞ聞こえける。炎の中にて焼け死ぬる人数を数へたれば、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、具に記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の門に斬り懸けさせ、少々は首ども持つて都へ上られけり。明くる二十九日、頭の中将重衡、南都滅して北京へ帰り入らる。およそは入道相国ばかりこそ、憤いきどほり晴れて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇は、「たとひ悪僧をこそ亡ぼさめ、多くの伽藍を破滅すべきやは」とぞ御嘆きありける。日頃は衆徒の首大路を渡いて、獄門の木に懸けらるべしと、公卿詮議ありしかども、東大寺興福寺の滅びぬる浅ましさに、何の沙汰にも及ばず。ここやかしこの溝や堀にぞ捨て置きける。聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せんこと、疑ひなしとぞ見えたりける。浅ましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。

  流布本『平家物語』巻第五より

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