
今日は、平安時代後期の1181年(養和元)に、平家により幽閉されていた後白河法皇が、平清盛の死去に伴い院政を再開した日ですが、新暦では2月2日となります。
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)や法皇(太上法皇)が院庁で政務を行う政治形態のことです。広義には、白河上皇に始まり、江戸時代の光格上皇まで断続するとされますが、狭義には、平安時代後期~鎌倉時代初期に至る白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇による政治を指すとされてきました。
特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。
しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。鎌倉時代後期にも、後高倉院,後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。
南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。
特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。
しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。鎌倉時代後期にも、後高倉院,後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。
南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。
〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?
第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。
1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。
〇平清盛(たいら の きよもり)とは?
平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。
1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。
☆院政を実施した上皇・法皇(鎌倉時代まで)
<平安時代後期~鎌倉時代初期>
・白河上皇
・鳥羽上皇
・後白河上皇
・後鳥羽上皇
<鎌倉時代後期>
・後高倉上皇
・後嵯峨上皇
・後宇多上皇
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1874年(明治7) | 民撰議院設立建白書が出される | 詳細 | |||||
| 1885年(明治18) | 思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日 | 詳細 | |||||
| 1943年(昭和18) | 戦費捻出目的でたばこが大幅値上げ(金鵄10銭→15銭、ひかり18銭→30銭、朝日25銭→45銭)される | 詳細 | |||||
| 1944年(昭和19) | 「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される | 詳細 | |||||
| 1988年(昭和63) | 西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の愛媛県今治市の伯方島と大島を結ぶ、伯方・大島大橋が供用開始する | 詳細 | |||||
| 1995年(平成7) | 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す | 詳細 | |||||
| 2017年(平成29) | 発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の命日 | 詳細 | |||||
| 2019年(平成31) | 物理学者米沢富美子の命日 | 詳細 | |||||



