ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平治の乱

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 今日は、平安時代後期の平治元年に、院近臣らの対立により発生した平治の乱が、源義朝、藤原信頼と平清盛とが六条河原などで戦うものの、平清盛側が勝利して終結した日ですが、新暦では1160年2月5日となります。
 平治の乱(へいじのらん)は、後白河院政開始後の藤原通憲(信西)の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱でした。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきます。
 藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきました。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展します。
 熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功しました。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗します。
 その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されました。翌年に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えます。しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきました。
 以下に、『平治物語』六波羅合戦の事と義朝敗北の事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『平治物語』六波羅合戦の事・義朝敗北の事

 六波羅合戦の事

 悪源太は、そのまま六波羅へ寄せらるるに、一人当千の兵ども、真前に進んで戦ひけり。金子十郎家忠(いへただ)は、保元の合戦にも、為朝(ためよし)の陣に駆け入り、高間の三郎兄弟を組んで討ち、八郎御曹子の矢先を逃れて名を上げけるが、今度も真つ先駆けて戦ひけり。矢種も皆射尽くし、弓も引き折り、太刀をも討ち折りければ、折れ太刀をひつ下げて、「あはれ太刀がな。今一つ合戦せん」と思ひて、駆け回(まは)るところに、同国の住人足立右馬允遠元(とほもと)馳せ来れば、「これ御覧候へ、足立殿。太刀を討ち折つて候ふ。御帯(は)き副(そ)へ候はば、御恩に蒙(かうぶ)り候はん」と申しければ、折節帯き副へなかりしかども、「御辺の乞ふがやさしきに」とて、前を討たせける郎等の太刀を取つて、金子にぞ与へける。家忠大きに喜んで、また駆け入つて敵数多(あまた)討つてけり。
 足立が郎等申しけるは、「日来より御前途に立つまじき者と思し召せばこそ、戦の中にて太刀を取つて人には給はるらめ。これほどは最後の御供とこそ存ぜしかども、これほどに見限られ奉ては、先立ち申しにしかじ」とて、すでに腹を斬らんと、上帯を押をし切ければ、遠元(とほもと)馬より飛むで下り、「汝が恨むるところもつとも理(ことはり)なり。しかれども金子が所望の黙(もだ)し難さに、御辺が太刀を取りつるなり。戦をするも主のため、討ち死にする傍輩に太刀を請はれて、与へぬものや侍らん。漢朝の季札(きさつ)も除君に剣を請はれては、惜しまずとこそ承(うけたまは)れ。しばらく待て」と言ふところに、敵三騎来て、足立を討たんと駆け寄せたり。遠元先づ真つ先に進みたる武者を、よつぴいてひやうど射る。その矢過(あやま)たず内兜に立て、馬より真倒に落ちければ、残り二騎は馬を惜しみて駆けざりけり。遠元やがて走り寄つて、帯たる太刀を引き切つておつ取り、「汝が恨み真中、くわ、太刀取らするぞ」とて、郎等に与へ、うち連れてこそまた駆けれ。
 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へ寄せて、門の中へ入らざるこそ口惜しけれ。進めや、者ども」とて、究竟(きうきやう)の兵五十余騎、錏(しころ)を傾(かたぶ)けて駆け入れば、平家の侍防ぎかね、ばつと引てぞ入りにける。義平(よしひら)先づ本意を遂げぬと喜んで、喚おめ)き叫んで駆け入り給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、戦下知して居ゐ)給ひけるが、妻戸の扉に、敵の射る矢雨の降る如くに当たりければ、清盛怒つてのたまひけるは、「防ぐ兵に恥ある侍がなければこそ、ここまで敵は近づくらめ。出で出で、さらば駆けん」とて、紺の直垂(ひたたれ)に黒糸縅の鎧着、黒漆(くろうるし)の太刀を履き、黒母衣(くろほろ)の矢負ひ、塗り籠め藤の弓持つて、黒き馬に黒鞍置(を)かせて乗り給へり。上より下まで大人しやかに、出たたれけるが、鐙(あぶみ)踏む張り大音上げて、「寄せての大将軍は誰人ぞ。かう申すは太宰大弐清盛なり。見参せん」とて、駆け出られければ、御曹子これを聞き給ひ、「悪源太義平ここにあり。得たりやおう」と叫びて駆く。平家の侍これを見て、筑後守父子・主馬判官、館親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、真前に馳せ塞がつて戦ひけり。
 源平互ひに入り乱れて、ここを最後ともみ合ふたり。孫子が秘せしところ、子房が伝ふところ、互ひに知れる道なれば、平家の大勢、陽に開いて囲まんとすれども囲まれず、陰に閉ぢて討たんとすれども討たれず、千変万化して、義平(よしひら)三方をまくりたて、面(おもて)も振らず斬つて回(まは)り給ひしかども、源氏は今朝よりの疲れ武者、息をもつかず攻め戦ひ、平家は新手(あらて)を入れ替へ入れ替へ、城にかかつて馬を休め、駆け出で駆け出で戦ひければ、源氏終(つゐ)に討ち負けて、門より外へ引き退き、やがて河をかけ渡し、河原を西へぞ引きたりける。

 義朝敗北の事

 平家追つ駆けて攻めければ、三条河原にて鎌田兵衛申しけるは、「頭殿(かうのとの)は思し召す旨あつて落ちさせ給ふぞ。よくよく防ぎ矢仕れ」と言ひければ、平賀四郎義宣(よしのぶ)、引つ返し散々に戦はれければ、義朝返(かへ)り見給ひて、「あつぱれ、源氏は鞭差しまでも、愚(をろ)かなる者はなきものかな。あたら兵、平賀討たすな。義宣討たすな」とのたまへば、佐々木の源三・須藤刑部・井沢四郎を始めとして、我も我もと真つ先に馳せ塞がつて防ぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎斬つて落とし、我が身も手負ひければ、近江を指して落ちにけり。須藤形部俊通(としみち)も、六条河原にて、滝口と共に討ち死にせんと進みしを、止(とど)め給ひしかども、ここにて敵三騎討ち取つて、終(つゐ)に討たれてけり。井沢四郎宣景のぶかげ)は、二十四差したる失をもつて、今朝の戦ひに敵十八騎討落とし、今の合戦によき敵四騎射殺したれば、箙(ゑびら)に二つぞ残りたる。その後打ち物になつて振る舞ひけるが、痛手負ふて引きにけり。東近江に落ちて傷療治し、弓うち切り杖につき、山伝ひに甲斐の井沢へぞ行きにける。
 かやうに面々戦ふ間に、義朝(よしとも)落ち延び給ひしかば、鎌田を召して、「汝に預(あづ)けし姫はいかに」とのたまへば、「私の女に申し置(を)き参らせて候ふ」と申せば、「戦に負けて落つると聞き、いかばかりの事か思らん。中々殺して帰(かへ)れ」とのたまへば、鞭を上げて、六条堀川の宿所に馳せ来てみければ、戦に恐れて人一人もなきに、持仏堂の中に人音しければ、行きて見るに、姫君仏前に経うち読みておはしけるが、政家(まさいへ)を御覧じて、「さてそも、戦はいかに」と問ひ給へば、「頭殿(かうのとの)は打ち負けさせ給ひて、東国の方へ御落ち候ふが、姫君の御事をのみ、悲しみ参らつさせ給ひ候ふ」と申せば、「さては我らもただ今敵に探し出だされ、これこそ義朝の娘(むすめ)よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ、貴きも賎しきも、女の身ほど悲しかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なれば戦に出でて、御供申し給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置(を)かれ、我が身の恥を見るのみならず、父の骸(むくろ)を汚さん事こそ悲しけれ。兵衛、先づ我を殺して、頭殿の見参に入れよ」とくどき給へば、「頭殿もその仰せにて候ふ」と申せば、「さてはうれしき事かな」とて、御経を巻き納め、仏に向かひ手を合はせ、念仏申させ給へば、政家つと参り、殺し奉らんとすれども、御産屋(うぶや)の内より抱き取り奉りし養君にて、今まで負ふし立て参らせたれば、いかでか哀れに泣かるべき。涙に暮れて、刀の立ち所も思えずして、泣き居(ゐ)たりければ、姫君、「敵や近付くらん、疾と)く疾く」と勧め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸をば深く納めて馳せ帰り、頭殿の見参に入れたりければ、ただ一目御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりに知り給へる僧の所へ、この御首を遣はして、「弔(とぶら)ひて賜(た)び給へ」とてぞ落ちられける。
 さるほどに、平家の軍兵馳せ散つて、信頼(のぶより)・義朝(よしとも)の宿所を始めて、謀反の輩(ともがら)の家々に、押(を)し寄せ押し寄せ火をかけて、焼き払ひしかば、その妻子眷属(けんぞく)、東西に逃げ惑ひ、山野に身をぞ隠しける。方々に落ち行く人々は、我が行く前は知らねども、跡の煙(けぶり)を返(かへ)り見て、敵は今や近付くらむ、急げ急げと身を揉みけり。比叡山には、信頼・義朝討ち負けて、大原口へ落つると沙汰しければ、西塔法師これを聞きて、「いざや落人討ち止とど)めん」とて、二三百人千束が崖(がけ)に待ちかけたり。義朝この由聞き及び、「都にてともかくもなるべき身の、鎌田が由なき申し状によつて、ここまで落ちて山徒の手にかかり、甲斐(かひ)なき死をせんずるこそ口惜しけれ」とのたまへば、斉藤別当申しけるは、「ここをば実盛さねもり)通(とを)し参らせ候はん」とて、馬より下り、兜を脱いで手に引つ提げ、乱れ髪を面に振りかけ、近付き寄つて言ひけるは、「右衛門督、左馬頭殿以下、御許(おもと)の人々は、皆大内・六波羅にて討ち死にし給ひぬ。これは諸国の借り武者どもが、恥をも知らず妻子を見んために、本国に落ち下り候ふなり。討ち止めて、罪作りに何かし給はん。具足を召されむためならば、物の具をば参らせ候はん。通して給はれ」と申しければ、「げにも大将たちにてはなかりけり。葉武者は討ちて何かせん。具足をだに脱ぎ捨てば、通されよかし」と詮議しければ、実盛重ねて、「衆徒は大勢おはします。我らは小勢なり。草摺を切つてもなほ及び難し。投げんに従ひ奪ひ取り給へ」と言へば、面(おもて)に進める若大衆、「もつともしかるべし」とて相あひ)集まる。後陣の老僧も、我劣らじと一所に寄つて、競(きほ)ひ争ふところに、実盛兜をかつぱと投げたりけり。我取らんとひしめきければ、敢へて敵の体をも見つくろはざりけるところに、三十二騎の兵、打ち物を抜きて、兜の錏(しころ)を傾(かたぶ)け、がはと駆け入り蹴散らして通りければ、大衆にはかに長刀を取り直なを)し、余すまじとて追つ駆ければ、実盛大童(わらは)にて、大の中差(なかざし)取つて継がひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんと思うはば寄れや。手柄のほど見せん」とて、取つて返せば、大衆の中に弓取りは少しもなし、敵はじとや思ひけん、皆引きてぞ帰りける。
 義朝(よしとも)八瀬(やせ)の松原を過ぎられけるに、後ろより、「やや」と呼ぶ声(こゑ)しければ、何者やらんと見給へば、はるかに前へぞ延べぬらんと思えつる信頼(のぶより)卿追ひ付きて、「もし戦に負けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れて下らんとこそ聞こえしか。心変はりかや」とのたまへば、義朝余りの憎さに腹を据へかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立つて、一つ戦だにせずして、我が身も滅び人をも失ふにこそ。面(おもて)つれなふ物をのたまふものかな」とて、持たれたる鞭をもつて、信頼の弓手(ゆんで)の頬先を、したたかに打たれけり。信頼この返事をばし給はず、まことに臆したる体にて、しきりに鞭目を押(を)し撫で押し撫でぞせられける。乳母子の式部大夫助吉(すけよし)これを見て、「何者なれば、督殿をばかうは申すぞ。和人(わひと)ども心の剛ならば、など戦には勝たずして、負けては国へ下るぞ」と言ひければ、義朝、「あの男に物な言はせそ。討ちて捨てよ」とのたまひければ、鎌田兵衛、「何条ただ今さる事の候ふべき。敵や続き候ふらん。延べさせ給へ」とて行くところに、また横河(よかは)法師上下四五百人、信頼・義朝の落つるなる、討ち止めんとて、竜華越に逆茂木引き、掻楯(かいだて)かいて待ち懸けたり。
 三十余騎の兵、各々(をのをの)馬より飛び下り飛び下り、手々に逆茂木をばものともせず、引き伏せ引き伏せ通(とを)るところに、衆徒の中より、差し詰め引き詰め散々に射たりければ、陸奥六郎義隆(よしたか)の首の骨を射られて、馬よりさかさまに落ちられてけり。中宮大夫進朝長(ともなが)も、弓手(ゆんで)の股をしたたかに射られて、鐙(あぶみ)を踏みかね給ひければ、義朝、「大夫は失に当たりつるな。常に鎧突(づ)きをせよ。裏かかすな」とのたまへば、その矢引つかなぐつて捨て、「さも候はず、陸奥六郎殿こそ痛手おはせ給ひ候つれ」とて、さらぬ体にて馬をぞ速められける。六郎殿討たれ給へば、首を取らせて義朝のたまひけるは、「弓矢取る身の習(なら)ひ、戦に負けて落つるは、常の事ぞかし。それを僧徒の身として、助くるまでこそなからめ、結句討ち止めんとし、物の具剥がんなどするこそ奇怪なれ。憎い奴ばら、後代の例(ためし)に一人も残さず討てや者ども」と、下知せられければ、三十余騎轡(くつばみ)を並べ、駆け入り割り付け追ひ回(まは)し、攻め詰め攻め詰め斬り付けられければ、山徒立ち所に三十余人討たれにければ、残る大衆、大略手負ひて、はうはう谷々へ帰(かへ)るとて、「この落人討ち止(とど)めんと言ふ事は、誰が言ひ出だせる事ぞ」とて、あれよこれよと論じけるほどに、同士戦をしいだして、また多(おほ)くぞ死にける。誠に出家の身として、落人討ち止め、物具奪ひ取らんなどして、わづかの落ち武者に駆けたてられ、多くの人を討たせ、また同士戦し出だして、数多(あまた)の衆徒を失ふ事、僧徒の法にも恥辱なり、武芸のためにも瑕瑾(かきん)なり。されば冥慮にも背き、神明にも放たれ奉りぬとぞ思えし。
 この敵をも追ひ散らしければ、竜華のふもとに皆下り居ゐて、馬を休められけるが、義朝(よしとも)、後藤兵衛真基(さねもと)を召して、「汝に預あづ)け置(を)きし姫はいかに」とのたまへば、「私の女によくよく申し含めて候へば、別の御事は候ふまじ」と申しけり。「さては心安けれども、汝これより都へ帰り上り、姫を育てて尼にもなし、義朝が後世菩提弔(とぶら)はせよ」とのたまへば、「先いづくまでも御供仕り、ともかくもならせ給はん御有様を見とつけ参らせてこそ帰り上り候はんずれ」と申せども、「存ずる旨あり。疾(と)く疾く」とのたまへば、力及ばず都へ帰り、姫君につき奉り、ここかしこに隠し置き参らせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保(よしやす)卿の北の方になし奉りけるなり。真基も鎌倉殿の御時に世に出でけるとぞ聞こえし。

☆平治の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<平治元年> 

・12月4日 平清盛が熊野詣に出発する
・12月9日 三条殿および信西邸が焼き討ちに合う
・12月10日 信西の子ら解官、流刑となる
・12月14日 源義朝らが昇進、任官する
・12月15日 信西の遺骸が源光保に発見される
・12月17日 信西の首が梟首される、同日、平清盛が帰京する
・12月中旬 内大臣・藤原公教を中心に、二条天皇六波羅行幸の計画が練られる
・12月25日 平清盛、藤原信頼に名簿を提出する(臣下の礼を取る)、同日夜、後白河上皇の内裏脱出と、二条天皇の六波羅行幸が実行される
・12月26日 六波羅合戦で平清盛側が勝利する、同日、藤原信頼が仁和寺に出頭する
・12月27日 藤原信頼が処刑される
・12月29日 尾張国の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって源義朝が殺害される、平重盛、平頼盛ら乱平定功労者に恩賞が与えられる

<平治2年>

・時期不明 藤原経宗・藤原惟方、後白河上皇が御所としていた藤原顕長邸の桟敷の回りに板を打ち付けて視界をさえぎるという狼藉を行なう
・1月26日 近衛天皇の皇后であった藤原多子が二条天皇のもとに入内する
・2月9日 源頼朝が捕縛される
・2月20日 後白河上皇の命により藤原経宗・藤原惟方が平清盛の郎党によって内裏で捕縛される
・2月22日 信西の子らが赦免される
・2月28日 藤原経宗・藤原惟方が解官される
・3月11日 藤原経宗・藤原惟方・源師仲・源頼朝・源希義が流刑に処される
・6月14日 源光保が流刑に処される
・6月20日 平清盛、正三位に叙される
・7月9日 藤原公教が死去する
・8月11日 平清盛、参議となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
2004年(平成16)詩人石垣りんの命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1143年(康治2)に、第78代の天皇とされる二条天皇が生まれた日ですが、新暦では7月31日となります。
 二条天皇(にじょうてんのう)は、雅仁親王(後の後白河天皇)の長男(生母は藤原経実の娘懿子)として生まれましたが、名は守仁(もりひと)と言いました。母は産褥死し、鳥羽天皇の皇后美福門院得子に養育され、9歳の時に僧侶となるために覚性法親王のいる仁和寺に入ります。
 その後、1155年(久寿2)に近衛天皇が亡くなり、父・雅仁親王(後白河天皇)が皇位を継いだため、女院の推輓により、還俗して皇太子となります。このことが、叔父・崇徳上皇の怒りを誘い、1156年(保元元)の保元の乱の導因となりました。
 しかし、この乱で叔父・崇徳上皇方を父・後白河天皇方が破ったため、1158年(保元3)には、父・後白河天皇の譲位を受けて、第78代の天皇として即位しましたが、父が院政を敷きます。ところが、院政を否定して天皇親政の実をあげようとしたので、軋轢を深めました。
 これが、後白河上皇、信西らの院政派との併立を生み、1159年(平治元)の平治の乱へと発展、藤原信頼・源義朝らにより後白河院と共に幽閉されてしまいます。この時、平清盛らの助けで脱出、清盛の六波羅邸に入り、乱後には清盛らに官爵を与えてこれを賞しました。
 1164年(長寛2)に待望の男子である順仁親王が誕生したものの、翌年には病に倒れ、わずか二歳の皇太子順仁親王(六条天皇)に譲位、1165年(永万元年7月28日)には、京都の押小路東洞院において、数え年23歳で亡くなっています。
 尚、和歌を好み、内裏で百首歌や歌会をしばしば催し、藤原清輔に詞花集に次ぐ勅撰集『続詞花和歌集』の撰進を命じましたが、完成を見ることはありませんでした。自信の和歌は、『千載和歌集』初出後、勅撰集への入集は十六首に及んでいます。

<代表的な歌>

・「雲はみな 峯のあらしに はらはせて さやけく月の 澄みのぼるかな」(続詞花和歌集)
・「雪つもる 嶺にふぶきや わたるらむ 越のみ空に まよふ白雲」(千載和歌集)
・「いかでわれ 人を忘れむ 忘れゆく 人こそかくは 恋しかりけれ」(風雅和歌集)
・「空はれし 豊のみそぎに 思ひ知れ なほ日の本の くもりなしとは」(玉葉和歌集)

〇二条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1143年(康治2年6月18日)  雅仁親王(後の後白河天皇)の長男(生母は懿子)として生まれる
・1151年(仁平元年) 9歳で僧侶となるために覚性法親王のいる仁和寺に入る
・1155年(久寿2年7月23日) 近衛天皇が亡くなり、女院の推輓により後白河天皇の皇太子となる
・1156年(保元元年) 保元の乱が起きる
・1158年(保元3年8月11日) 父・後白河天皇の譲位を受けて践祚する
・1158年(保元3年9月23日) 親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子する
・1158年(保元3年12月9日) 元服する
・1159年(平治元年) 藤原清輔より『袋草紙』を献上される
・1159年(平治元年3月5日) 美福門院の皇女・姝子内親王、のち徳大寺実能の女育子を中宮とする
・1159年(平治元年12月) 平治の乱が起き、藤原信頼・源義朝らにより後白河院とともに幽閉される
・1164年(長寛2年) 待望の男子である順仁親王(のちの六条天皇)が誕生する
・1165年(長寛3年2月) 太政大臣の藤原伊通が亡くなり、自らも病に倒れる
・1165年(永万元年6月25日) 病により譲位し、二歳の皇太子順仁親王(六条天皇)が即位する
・1165年(永万元年7月28日) 京都の押小路東洞院において、数え年23歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

746年(天平18)法相宗の僧玄昉の命日(新暦7月15日)詳細
1723年(享保8)徳川吉宗が人材登用のための「足高の制」を制定(新暦7月19日)詳細
1877年(明治10)アメリカの動物学者モースの誕生日及び初来日の日(考古学出発の日)詳細
1988年(昭和63)朝日新聞のスクープによってリクルート事件が発覚する詳細
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 今日は、鎌倉時代初期の1192年(建久3)に、第77代の天皇とされる後白河天皇の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
 後白河天皇(ごしらかわてんのう)平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。
 1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。
 1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後六条、高倉、安徳、後鳥羽と4朝30余年にわたる)を始めました。1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。
 その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。
 また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇後白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1127年(大治2年9月11日) 京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれる
・1127年(大治2年11月14日) 親王宣下を受けて「雅仁」と命名される
・1129年(大治4年) 曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始される
・1139年(保延5年12月27日) 12歳で元服して二品に叙せられる
・1141年(永治元年12月7日) 崇徳天皇に譲位により、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)する
・1143年(康治2年) 最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する
・1155年(久寿2年7月24日) 近衛天皇が崩御すると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となる
・1155年(久寿2年10月) 藤原公能の娘である藤原忻子が入内する
・1156年(保元元年) 鳥羽法皇が亡くなると保元の乱が発生する
・1158年(保元3年) 守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1159年(平治元年) 平治の乱が起きて信西を失い、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められる
・1160年(永暦元年10月) 焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる
・1161年(永暦2年4月13日) 完成した御所に移り住む
・1161年(永暦2年9月3日) 滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産する
・1161年(永暦2年9月15日) 憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される
・1161年(永暦2年12月17日) 藤原育子が入内する
・1162年(応保2年2月19日) 育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となる
・1162年(応保2年3月) 配流されていた大炊御門経宗が帰京を許される
・1162年(応保2年6月23日) 実長の密告により二条天皇呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となる
・1164年(長寛2年12月17日) 多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する
・1165年(永万元年6月25日) 子の二条天皇は病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位する
・1165年(永万元年7月28日) 子の二条天皇が亡くなる
・1165年(永万元年12月25日) 後白河院は憲仁に親王宣下を行い、平清盛を親王勅別当とする
・1166年(永万2年7月26日) 基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられる
・1166年(永万2年10月10日) 平清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する
・1167年(仁安2年1月19日) 御所の拡張で法住寺南殿が新しく建て替えられる
・1167年(仁安2年5月10日) 平清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す
・1168年(仁安3年2月) 平清盛が病に倒れる
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇が譲位し、憲仁親王(高倉天皇)が即位する
・1169年(仁安4年1月) 12度目の熊野詣に向かう
・1169年(嘉応元年) 出家して法皇となる
・1169年(嘉応元年12月23日) 延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)
・1170年(嘉応2年4月19日) 東大寺で受戒するために奈良に御幸する
・1170年(嘉応2年9月20日) 福原に御幸して宋人と会う
・1170年(嘉応2年10月21日) 参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こる
・1170年(嘉応2年12月9日) 藤原基房が太政大臣となる
・1171年(嘉応3年1月3日) 摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、高倉天皇元服の儀式が執り行われる
・1171年(嘉応3年12月14日) 平徳子が後白河院の猶子として高倉天皇に入内する
・1172年(承安2年9月) 宋から後白河院と清盛に供物が届けられる
・1173年(承安3年3月3日) 左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになる
・1173年(承安3年6月25日) 興福寺が多武峯を襲撃して、藤原鎌足の御影堂までも焼き払う
・1173年(承安3年11月3日) 興福寺は強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求する
・1176年(安元2年) 建春門院が亡くなると、近臣と平氏の争いが激化する
・1177年(治承元年) 院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰される(鹿ヶ谷事件)
・1179年(治承3年11月) 平清盛によって鳥羽殿に幽閉される
・1180年(治承4年4月9日) 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・1180年(治承4年4月22日) 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・1180年(治承4年5月26日) 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・1180年(治承4年6月22日) 平氏が福原遷都を強行する
・1180年(治承4年8月17日) 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・1180年(治承4年9月7日) 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4年10月20日) 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4年11月17日) 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・1180年(治承4年12月28日) 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
・1181年(養和元年閏2月4日) 平清盛が病没する
・1183年(寿永2年5月11日) 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・1183年(寿永2年7月28日) 源(木曽)義仲が、京都に入る
・1183年(寿永2年10月14日) 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
・1184年(寿永3年1月20日) 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1184年(寿永3年1月26日) 平宗盛追討の宣旨を出す
・1184年(寿永3年2月7日) 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・1185年(元暦2年2月19日) 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・1185年(元暦2年3月24日) 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・1185年(元暦2年7月9日) 京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊する(文治地震)
・1185年(文治元年8月28日) 八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸し、大仏の開眼供養をする
・1185年(文治元年11月28日) 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
・1187年(文治3年2月) 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・1189年(文治5年閏4月30日) 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・1189年(文治5年9月18日) 源頼朝が、奥州を平定する
・1190年(建久元年11月9日) 源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面を果たす
・1191年(建久2年3月22日) 17ヶ条の新制を発布する
・1192年(建久3年2月18日) 後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する
・1192年(建久3年3月13日) 京都において、数え年66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)江戸開城を巡って、西郷隆盛と勝海舟が江戸で会談を始める(新暦4月5日)詳細
1988年(昭和63)青函トンネルが開通する詳細
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 今日は、平安時代後期の平治元年に、院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きた日ですが、新暦では1160年1月19日となります。
 平治の乱(へいじのらん)は、後白河院政開始後の藤原通憲 (信西) の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱でした。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきます。
 藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきました。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展します。
 熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功しました。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗します。
 その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されました。翌年に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えます。
 しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきました。

〇源平合戦とは?

 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

 <保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原などで戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致に謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

 <文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細


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 今日は、平安時代後期の1181年(治承5)に、平安時代末期の武将・公卿平清盛が亡くなった日ですが、新暦では3月20日となります。
 平清盛(たいら の きよもり)は、1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

〇平清盛関係略年表(日付は旧暦です)

・1118年(治承5)1月18日 伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれる
・1129年(大治4)1月6日 従五位下となる
・1129年(大治4)1月24日 左兵衛佐となる
・1131年(大治6)1月5日 従五位上となる
・1135年(長承4)1月5日 正五位下となる
・1135年(長承4)8月21日 従四位下となる
・1136年(保延2)4月7日 中務大輔となる
・1137年(保延3)1月30日 肥後守兼任となる
・1140年(保延6)11月14日 従四位上となる
・1146年(久安2)2月1日 正四位下となる
・1146年(久安2)2月2日 安芸守兼任、肥後守任替となる
・1153年(仁平3)1月15日 父忠盛が死没する
・1156年(保元元)7月6~11日 保元の乱が起こる
・1156年(保元元)7月11日 播磨守となる
・1158年(保元3)8月10日 大宰大弐となる
・1159年(平治元)12月9~26日 平治の乱が起こる
・1160年(永暦元)6月20日 正三位となる
・1160年(永暦元)8月11日 参議、大宰大弐如元となる
・1160年(永暦元)9月2日 右衛門督兼任となる
・1160年(永暦元)12月30日 大宰大弐を辞任する
・1161年(永暦2)1月23日 検非違使別当兼職、近江権守兼任となる
・1161年(永暦2)9月13日 権中納言、検非違使別当・右衛門督如元となる
・1162年(応保2)1月9日 検非違使別当・右衛門督両官職を辞任する
・1162年(応保2)閏2月9日 検非違使別当・右衛門督兼職となる
・1162年(応保2)4月7日 皇太后宮権大夫兼任となる
・1162年(応保2)8月20日 従二位となる
・1162年(応保2)9月 検非違使別当・右衛門督両官職を辞任する
・1164年(長寛2) 平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納める
・1165年(長寛3)1月23日 兵部卿兼任となる
・1165年(長寛3)8月17日 権大納言、兵部卿・皇太后権大夫如元となる
・1166年(永万2)6月6日 正二位となる
・1166年(永万2)10月1日 春宮大夫兼任、兵部卿・皇太后宮権大夫両官を止む
・1166年(永万2)11月11日 内大臣となる
・1167年(仁安2)2月11日 従一位太政大臣となる
・1167年(仁安2)5月17日 太政大臣を辞任する
・1168年(仁安3)2月11日 法名を静(浄)海として出家する
・1168年(仁安3)3月20日 高倉天皇が即位する
・1169年(仁安4)6月17日 後白河上皇が出家し法皇となる
・1171年(承安元)12月14日 娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させる
・1177年(治承元)6月 鹿ケ谷の陰謀が起こる
・1178年(治承2)11月12日 娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産する
・1179年(治承3)閏7月29日 清盛の嫡子重盛が病死する
・1179年(治承3)11月 後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握する(治承三年の政変)
・1180年(治承4)4月22日 安徳天皇が即位する
・1180年(治承4)4月 以仁王が平氏追討の令旨を発する
・1180年(治承4)6月2日 京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれる
・1180年(治承4)6月10日 准三宮宣下
・1180年(治承4)8月17日 源頼朝が伊豆で挙兵する
・1180年(治承4)9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4)10月20日 富士川の戦いで、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4)12月28日 平重衡ら平氏軍が東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼討にする(南都焼討)
・1181年(養和元)閏2月4日 熱病に冒され薨去する
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