ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平民社

nishikawakoujirou01
 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、社会主義者西川光二郎が亡くなった日です。
 西川光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月29日に、兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市)において、父・西川林蔵、母・たつ の3男と生まれました。中学時代にキリスト教に入信し、札幌農学校で新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受けます。
 1896年(明治29)に上京して、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、社会学を学んで、在学中に社会問題に関心を持ち、1897年(明治30)には、片山潜と共に労働組合期成会の雑誌「労働世界」を発刊しました。1899年(明治32)に東京専門学校英語政治科を卒業後、毎日新聞社で社会労働問題に取り組みます。
 1900年(明治33)に社会主義協会の結成に参加、翌年の社会民主党創立にも参加しましたが2日後に結社禁止となり、片山潜との共著『日本の労働運動』を労働新聞社から刊行しました。1903年(明治36)に平民社に入って、「平民新聞」の編集にあたり、社会主義・非戦論を主張して日露戦争に反対します。
 1905年(明治38)の平民社解散後は、「光」を創刊し、同年創立された日本社会党の機関紙も手掛けました。1906年(明治39)に日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わり、東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われます。
 1907年(明治40)に社会主義が幸徳派と片山派に分裂すると後者に属し、1908年(明治41)には、東京市電値上反対事件において大審院で有罪(重禁錮2年)が確定して下獄しました。幸徳秋水の直接行動論に反対し、1910年(明治43)の大逆事件後、社会主義陣営を離脱して「実践道話活動」という道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進、『心懐語』を警醒社書店より刊行します。
 1914年(大正3)に自働道話社を興して「自働道話」を発刊し、孔子学舎を主宰して、全国で巡講を行いました。1940年(昭和15)に、北海道巡講中に病で倒れ、急きょ帰京し、10月22日に東京の帝国大学病院において、64歳で亡くなっています。

〇西川 光二郎の主要な著作

・片山潜との共著『日本の労働運動』(1901年)
・『人道の戦士社会主義の父カールマルクス』(1902年)
・『心懐語』(1910年)
・『改革者の心情』

☆西川 光二郎関係略年表

・1876年(明治9)4月29日 兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市)において、父・西川林蔵、母・たつ の3男と生まれる
・1896年(明治29) 上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、社会学を学ぶ
・1897年(明治30) 在学中に社会問題に関心を持ち、片山潜と共に労働組合期成会の雑誌「労働世界」を発刊する
・1899年(明治32) 東京専門学校英語政治科を卒業する
・1900年(明治33) 社会主義協会の結成に参加する
・1901年(明治34) 社会民主党創立に参加、片山潜との共著『日本の労働運動』を労働新聞社から刊行する
・1902年(明治33) 『人道の戦士社会主義の父カールマルクス』を中庸堂より刊行する
・1903年(明治36) 平民社に入り、『平民新聞』の編集にあたり、社会主義・非戦論を主張して日露戦争に反対する
・1904年(明治37) 横浜に行き、相生座で開かれた社会主義演説会で、「弱者勝つ」を演説する
・1905年(明治38) 平民社が解散し、「光」を創刊する
・1906年(明治39) 日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わり、東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われる(東京市電値上反対事件)
・1907年(明治40) 社会主義が幸徳派と片山派に分裂すると後者に属する
・1908年(明治41) 東京市電値上反対事件において大審院で有罪(重禁錮2年)が確定する
・1910年(明治43) 大逆事件後、社会主義陣営を離脱して「実践道話活動」という道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進、『心懐語』を警醒社書店より刊行する
・1914年(大正3) 自働道話社を興して「自働道話」を発刊する
・1940年(昭和15)10月22日 東京の帝国大学病院において、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
2010年(平成22)囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

heiminshinbunhaikan01

 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、週刊「平民新聞」第64号が全紙赤刷りで発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となった日です。
 「平民新聞(へいみんしんぶん)」は、明治時代後期の1903年(明治36)11月15日に幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞でした。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えます。
 しかし、1904年11月6日付の第52号(教育特集号)が、社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヶ月、西川光二郎が同七ヶ月、罰金それぞれ50円の刑に処せられた上、 印刷機械も没収されました。次いで、11月13日付の第53号(新聞創刊1周年記念号)に「共産党宣言」を訳載したところ、これも発売禁止で没収されます。
 こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くのしかかり、財政がひっ迫して、経営が困難となり、自発的廃刊が決定され、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。そこで、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで、全紙赤刷りとし、「終刊の辞」を掲載して終止符が打たれています。
 この間、1年2ヶ月にわたり、計64号で延べ20万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割を果たしたとされてきました。その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなっています。
 以下に、週刊平民新聞第64号(1905年1月29日付)に掲載された「終刊の辞」を全文載せておきますので、ご参照下さい。

〇平民社とは?

 明治時代後期の日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。
 そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。
 11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。
 しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。
 ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。

〇週刊平民新聞第64号「終刊の辞」1905年(明治38)1月29日付

 吾人[1]は涙を揮ふて[2]、茲に[3]平民新聞の廃刊を宣言す
 夫れ平民新聞が、天下同志の公有の機関たるは、久しく既に誓盟[4]せし所也、而して其命脉[5]の幾度か絶えんとして絶へず、能く今日に至れる者、亦天下同志が一致協同の力に依れるは、吾人[1]の深く銘肝[6]する所也、而も今や突如[7]として敢て廃刊の事を言ふ、吾人[1]が天下同志に負くの罪、甚だ軽からざるを覚ゆ
 然れども吾人[1]の目的は、元より一個平民新聞てふ名に非ずして、社会主義運動てふ実に在らざる可らず、而して今の平民新聞が実際如何[8]の境遇滾転[9]し、如何[8]の運命に翻弄[10]せられつゝあるかを見たるの同志は、必ずや社会主義運動が、最早平民新聞の舞台に限局[11]す可らずして、更に別個の方面に向つて、一展開を要するに至れることを悟らん、而して今日、本紙廃刊の事を以て、甚だ吾人[1]を責めざる可きを信ず、然り、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きて其守を失へり、又天下同志が活動の堡塞[12]たること能はざる也事此に至る、瓦燃せんよりは寧ろ玉砕[13]す可のみ
 回顧すれば本紙創刊以来一年と二個月吾人[1]の性迀[14]にして計拙[15]なる、所期の万一を達する能はざりしと雖も、而も猶ほ吾人[1]は吾人[1]の言ひ得る所を言へり、吾人[1]の為し得る所を為せり、即ち全力を之が為めに注ぎて一毫[16]も自ら欺く所なく、初志を点検して甚だ疚しき[17]所なきは、吾人[1]之を公言するに躊躇[18]せず、而して此間に於て自然[19]の気運[20]、世界の大勢は急転直下して、社会主義運動は、実に偉大の発展を為し、一年の前を想ふに殆ど隔世[21]の感あるは、吾人[1]の窃かに[22]愉快とする所也、嗚呼平民新聞は如此にして生き、如此にして死す、又憾み無る可き也、否な平民新聞の名は惜しからざるに非ず、社会主義運動は更に之よりも重きを奈何[23]せん、盖し聞く蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く[24]と、今は断ずべきの秋[25]也、故に吾人[1]は涙を揮ふて[2]茲に[3]廃刊を宣言す
 但だ平民新聞の刊行は廃すと雖も、社会主義の運動は是より益々活潑[26]ならしめざる可らず、壮烈[27]ならしめざる可らず、鞏固[28]ならしめざる可らず、有力ならしめざる可らず、平民新聞は一粒の麦種となつて死す、多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず[29]、而て之を為すこと如何、同志の団結なかる可らず、中心の機関なかる可らず、運動の資金なかる可らず
 然らば則ち平民新聞廃刊の後、同志の団結は如何[8]にして保維[30]さる可き乎、中心の機関は何れの処に現出す可き乎、運動資金は如何[8]にして得らる可き乎、吾人[1]は同志諸君と別に講究[31]する所あらん、否な是れ諸君の既に黙会[32]する所也
 嗚呼、我平民新聞、短かくして且つ多事なりし生涯よ、誰か創刊の当時に於て爾く[33]多事にして爾く[33]短き生涯なるを想はんや、独座[34]燭を剪て[35]終刊の辞を艸すれば[36]天寒く夜長くして、風気[37]蕭索[38]たり

   「週刊平民新聞」第64号より

 ※縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に変換してあります。

【注釈】

[1]吾人:ごじん=わたくし。われわれ。
[2]揮ふて:ふるって=振ってすっかり出す。
[3]茲に:ここに=このときに。この場合に。目の前に。
[4]誓盟:せいめい=誓うこと。固く約束すること。また、その約束。
[5]命脉:めいみゃく=命脈。いのち。生命。生命のつながり。
[6]銘肝:めいかん=心に刻みつけて忘れないこと。銘記。
[7]突如:とつじょ=何の前触れもなく物事が起こるさま。だしぬけであるさま。突然。
[8]如何:いかが=疑わしい。おぼつかない。不安である。どうですか。どのよう。
[9]滾転:こんてん=ころがること。また、ころがすこと。
[10]翻弄:ほんろう=思うままにもてあそぶこと。手玉にとること。
[11]限局:げんきょく=内容や意味などを狭く限ること。局限。
[12]堡塞:ほうさい=要所に設けた敵を防ぐための小城やとりで。堡塁(ほうるい)。
[13]玉砕:ぎょくさい=玉のように美しくくだけ散ること。全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと。
[14]迀:だぶ=ことば、文などがまわりくどいさまである。屈折する。また、動作などがものなれない。
[15]拙:せつ=つたないこと。へたなこと。巧者でないこと。また、そのさま。
[16]一毫:いちごう=一本の細い毛筋。転じて、わずかなもの。ほんの少し。寸毛。寸毫。
[17]疚しき:やましきところ=良心に恥じる。うしろぐらい。気がとがめる。うしろめたい。
[18]躊躇:ちゅうちょ=あれこれ迷って決心できないこと。ためらうこと。
[19]自然:じねん=おのずから。ひとりでに。
[20]気運:きうん=物事がある方向に進もうとする傾向。時のなりゆき。「
[21]隔世:かくせい=時代・世代がへだたっていること。時代が違うこと。かくせ。
[22]窃かに:ひそかに=自分の心の中で、人知れず、思ったり、考えたりするさま。内々。
[23]奈何:いかが=どう。どのように。どうして。どんなに。
[24]蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く:ふくだてをさせばそうしうでをとく=(故事)ぐずぐずしていれば、生命が危ないときには、害の他に及ぶことを憂えて、勇気をもってその本を断つの意味。
[25]秋:とき=特に重要なことのある時期。
[26]活潑:かっぱつ=活発。生き生きとしているさま。勢いのよいさま。
[27]壮烈:そうれつ=意気が盛んで激しいこと。勇ましくて立派なこと。また、そのさま。
[28]鞏固:きょうこ=強固。強くしっかりして、ゆるがないさま。
[29]一粒の麦種となつて死す、多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず=新約聖書ヨハネ伝「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」に由来し、人を幸福にするためにみずからを犠牲にする行為の意味。
[30]保維:ほい=保って維持すること。
[31]講究:こうきゅう=物事を深く調べ、その意味や本質を説き明かすこと。
[32]黙会:もっかい=暗黙のうちに会得すること。ひそかに悟ること。
[33]爾く:しかく=そのように。さように。
[34]独座:どくざ=ひとりで座っていること。孤座。
[35]燭を剪て:しょくをきりて=蠟燭(ろうそく)の芯を切って明るくすること。
[36]艸すれば:そうすれば=下書きをつくれば。原稿を書けば。
[37]風気:ふうき=空気。また、吹く風。
[38]蕭索:しょうさく=もの寂しいさま。うらぶれた感じのするさま。蕭条。

<現代語訳>

 我々は涙を振り払って、ここに平民新聞の廃刊を宣言する。
 それ平民新聞が、天下同志の公有の機関であるのは、以前から既に固く約束した所である、そうして、その命脈が幾度か絶えようとして絶へず、よく今日に至ったのは、また天下同志の一致協同の力によるというのは、我々の深く銘記する所で、しかも今や突然としてあえて廃刊の事を言うのは、我々が天下同志に負うことの罪が、はなはだ軽くないことを自覚しているものである。
 けれども我々の目的は、元より一つの平民新聞という名にあるのではなく、社会主義運動という実にしなければならないことで、それに加えて今の平民新聞が実際不安な境遇をころがり、おぼつかない運命にもてあそばれつゝあるのを見た同志は、必ずや社会主義運動が、もはや平民新聞の舞台に限定されるものではなく、さらに別個の方面に向って、一展開を要するに至っていることを悟っているであろう、そうして今日、本紙廃刊の事実をもって、特に我々を責めないことを信じる、しかり、微力なる平民新聞は既に刀折れ矢尽きてそれを守ることを出来なくしてしまった、また天下同志が活動のとりでとなっていることができない状態に至ってしまった、瓦が燃えるよりはむしろ玉砕するだけだ。
 回顧してみれば本紙創刊以来一年と二ヶ月我々の性分がものなれず、計画が稚拙であり、所期の万分の一を達成することもできないと言っても、しかもなお我々は我々の言うべき事を言い、我々の出来得る事をやり、すなわち全力をこの為めに注力して少しも自ら欺く所がなく、初志を点検して特に良心に恥じる所がないのは、我々はこれを公言するにはばからない、そうしてこの間において自ずからの事の成り行き、世界の大勢は急転直下して、社会主義運動は実に偉大の発展をとげ、一年前を考えるとほとんど隔世の感があるのは、我々の密かに愉快とする所である、ああ平民新聞は同じようにここにして生き、同じようにここにして死ぬ、また恨みを言うべきである、いや平民新聞の名は惜しむべきものではなく、社会主義運動はさらにこれよりも重きを持つようになっていくであろう、まさしく聞く「蝮蛇手を螫せば、壮士腕を解く」の故事のようにぐずぐずしていれば、生命が危ないときには、害の他に及ぶことを憂えて、勇気をもってその本を断つと、今は断言すべき特に重要な時期である、従って我々は涙を振り払って、ここに平民新聞の廃刊を宣言する。
 ただ平民新聞は廃刊すると言っても、社会主義の運動はこれより益々活発になっていかなければならず、意気盛んになっていかなければならず、強固になっていかなければならず、有力になっていかなければならず、平民新聞は人を幸福にするためにみずからを犠牲にするものであり、そしてこれを行うことはどうであろう、同志の団結がなくてはならない、中心の機関がなくてはならない、運動の資金がなくてはならないのである。
 それならばすなわち平民新聞廃刊の後、同志の団結はどのようにして保って維持されるべきか、中心の機関は何れのところに作られるべきか、運動資金はどのようにして得られるべきか、我々は同志諸君と別に物事を深く調べ、その真実を解き明かしていかなければならない、いやこれは諸君の既に暗黙の内に了解していることであろう。
 ああ、わが平民新聞、短かくして色々なことがあった生涯であった、誰が創刊の当時においてこのように色々なことがあり、このように短き生涯なると考えたであろうか、一人で座って蠟燭(ろうそく)の芯を切って明るくし、終刊の辞の原稿を書けば、天寒く夜長くして、吹く風もうらぶれた感じのするものである。

☆週刊平民新聞の主要記事一覧

・第1号(1903年11月15日付)
 「平民社設立宣言」 
 「発刊の序」幸徳秋水、堺利彦
・第2号(1903年11月22日付)
 「労働問題の将来」片山潜
・第3号(1903年11月29日付)
 「君主観」 木下尚江
 「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる  
・第8号(1904年1月3日付)
 「歌碑の娯楽」幸徳秋水
・第10号(1904年1月17日付)
 「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論) 
・第11号(1904年1月24日付)
 「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「道徳の理想」  
・第13号(1904年2月7日付)
 社説「和戦を決する者」幸徳秋水
・第14号(1904年2月14日付)
 「戦争来」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「兵士を送る」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
 「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)幸徳秋水
・第18号(1904年3月13日付)
 社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する)幸徳秋水
・第19号(1904年3月20日付)
 「戦争と小学児童」幸徳秋水
・第20号(1904年3月24日付) 発禁処分を受ける
 「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)幸徳秋水
・第24号(1904年4月24日付)
 「バベフ氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
 「恋愛と教育」木下尚江
・第26号(1904年5月8日付)
 「フーリエー氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第28号(1904年5月22日付)
 「プルードン氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第31号(1904年6月11日付)
 「ラサーレ氏(社會黨の偉人)」幸徳秋水
・第33号(1904年6月25日付)
 「女学生に贈る」 
・第36号(1904年7月17日付)
 「朝鮮併呑論を評す」幸徳秋水
・第40号(1904年8月7日付)
 「トルストイ翁の非戦論を評す」幸徳秋水
・第52号(1904年11月6日付)<教育特集号>発禁処分を受ける
 「小学教師に告ぐ」石川三四郎
 「戦争に対する教育者の態度」無価珍子
 「小学修身書漫評」 堺利彦
 「社会主義者の教育観」西川光次郎
・第53号(1904年11月13日付)<新聞創刊1周年記念号>
 『共産党宣言』幸徳秋水・堺利彦共訳
・第64号(1905年1月29日付) この号で廃刊のため全紙面を赤字で印刷
 「終刊の辞」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

heiminshya0

 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、平民社から週刊「平民新聞」が発刊された日です。
 「平民新聞(へいみんしんぶん)」は、幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞です。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。
 また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。
 その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなります。
 以下に、創刊号に掲載された「発刊の序」と「平民社設立宣言」を全文掲載しておきますのでご参照下さい。

〇平民社とは?

 明治時代後期の日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。
 日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。
 社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。
 また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。
 尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。
 ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。

〇「平民新聞発刊の序」 1903年(明治36)11月15日付

発刊の序

平民新聞は、人類同胞をして、他年一日平民主義[1]、社会主義、平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関に供せんが為めに創刊す、編輯[2]は予等二人専ら之に任じ庶務は挙げて社会主義協会の一員山根吾一君に托せり
夫れ階級的思想の牢固[3]として抜く可らざること今の如く、黄金の勢力流天[4]に滔する[5]こと今の如く、好戦の情熱朝野[6]を顛狂[7]せしむること今の如きの時に在て、正義、人道、平和を主張し絶[口斗](注:偏が口で旁が斗の漢字)[8]するは、極めて不利にして俣甚だ危険の事ならずんばあらず、而して是れ実に智者の難しとする所、況や貧寒[9]にして才なく学なき予等の如きをや、果然、曩き[10]には之が為めに朝報社[11]と合わずして其職を失ひ、忽ち米薪の計[12]に窮せり、迂拙[13]世と与に推移する能はずして、徒らに当世才子[14]の嗤笑[15]を買へるは予等固より之を知る
而も飜つて思ふ、夫の正義、人道、平和を主張し絶[口斗][8]するの甚だ不利にして且つ危険なる所以の者は、却つて是れ之を主張し絶[口斗][8]するの益々急要なることを証する者に非ずや、既に急要なることを知る、是れ豈に志士[16]の益を奮つて其不利危険を冒して顧みざるべきの秋[17]に非ずや、然り予等一片の耿々[18]は遂に予等の袖手[19]沈黙を許さゞる也、於是乎予等は自ら為す可く且つ為し得可き最良の方法として、平民新聞の発行てふ一事を選択するに至れり但其企画の初めに方りてや、予等の迂拙[13]なる、果して何の処より手を着くべきかに就て頗る望洋の歎[20]なき能はざりき
幸ひにして予等の心事を諒とせり、予等は義侠[21]なる親友を有せり、彼等は予等の微力を憐れめり、彼等は其金錢を以て、或は其文筆を以て、或は其他の技能を以て、交々予等の事業を援助し、更に多大の有益なる教導[22]と懇切なる奨励を与へられたり、如此にして予等の朝報社[11]を去りてより、奔走[23]僅に三十余日にして、茲に[24]平民新聞第一号を発行することを得たり、是れ予等自身に在ては寧ろ意料[25]の外にして我同志及親友諸君に向つて深く感謝する所也
故に平民新聞の物たる、其編輯[2]は予等之に任ずと雖も、予等は決して之を以て予等の私有と為さずして、満天下[26]の同主義者が公有の機関と為さんことを望む、其社務は予等之を処理すと雖も、予等は満天下[26]の同主義者を遇するに皆我社員を以てせんことを欲す、而して其紙面は常に満天下[26]の同主義者の為めに、忠実なる代弁者たり、通信者たり、更に能ふ可くんば其助言者たり、指導者たるに至らんことを期す、而して予等は更に正直に忠告するを要する一事あり、何ぞや、他なし、予等が平民新聞に依て衣食せんことを欲する是也、予等今や別に衣食を得んが為めに其精力の一半を費さゞる可らざるの境遇に在り若し予等にして将来幸ひに平民新聞の収益に衣食しつゝ全力を此事業に尽すを得ば予等の満足之に過ぐる者あらざるなり、予等は我同志が之を以て甚だ予等を罪せざる可きを信ず、而して天若し我同志の主義に祐ひせば、予等は平民新聞の収益が独り予等を養ふに足るのみならず、更に多数の同志を養ふに足るに至らんことを信ず、之を序と為す

     堺  枯川
     幸徳 秋水

   「平民新聞」1903年11月15日付創刊号より

 ※縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に変換してあります。

【注釈】

[1]平民主義:へいみんしゅぎ=地位や身分の差別がなく、平等の個人によって成立する社会の実現をめざす主義。
[2]編輯:へんしゅう=編集。書籍、雑誌、新聞などを刊行するさい、企画からその原稿の依頼、入手、整理、割付け、校正、装丁などを含む一連の作業。
[3]牢固:ろうこ=かたくて頑丈なこと。かたくてしっかりしているさま。また、しっかりとかためること。
[4]流天:るてん=移り変わってやむことがないこと。
[5]滔する:とうする=みなぎりあふれる。勢いよく広がる。
[6]朝野:ちょうや=世間。天下。全国。
[7]顛狂:てんきょう=気がくるうこと。ものぐるい。狂気。
[8]絶[口斗]:ぜっと=口から吐き出す。
[9]貧寒:ひんかん=貧しく、さむざむとしていること。また、中身が乏しいこと。
[10]曩き:さき=以前。
[11]朝報社:ちょうほうしゃ=「万朝報」を発行していた新聞社で、かつて堺利彦や幸徳秋水が勤めていた。
[12]米薪の計:まいしんのけい=米と薪の計画、つまり、生計のこと。
[13]迂拙:うせつ=うかつで世渡りのへたなこと。愚かでまずいこと。また、そのさま。
[14]才子:さいし=才知にすぐれ、頭の働きのすばやい人。多く男についていう。才人。才物。
[15]嗤笑:ししょう=あざけり笑うこと。嘲笑。
[16]志士:しし=高い志を持った人。国家・社会のために献身しようとする人。
[17]秋:とき=特に重要なことのある時期。
[18]耿々:こうこう=気にかかることがあって、心が安らかでないさま。
[19]袖手:しゅうしゅ=手を袖に入れていること。ふところで。転じて、自分から手をくだして事を行なわないこと。
[20]望洋の歎:ぼうようのたん=偉大な人物や深遠な学問に対し、自分の力のなさを嘆くこと。
[21]義侠:ぎきょう=正義を重んじて、強い者をくじき、弱い者を助けること。おとこだて。
[22]教導:きょうどう=教え導くこと。教えを説いて導くこと。教道。
[23]奔走:ほんそ=忙しく走り回ること。物事が順調に運ぶようにあちこちかけまわって努力すること。
[24]茲に:ここに=このときに。この場合に。目の前に。
[25]意料:いりょう=思いはかること。想像すること。また、その内容。
[26]満天下:まんてんか=この世に満ちていること。また、この世の中全体。天下全体。全世界。

<現代語訳>

 平民新聞は、人類同胞をして、将来のある日、平民主義、社会主義、平和主義の理想郷に到達させるため、一つの目的を達成する手段として設けた組織に供するがために創刊する、編集はわたしたち二人(幸徳秋水・堺利彦)が専門にこれを担当し、庶務は残らず社会主義協会の一員である山根吾一君に託する
 そもそも階級的思想はしっかりと固められていて除き去ることが出来ないこと現在の通りで、金持ち勢力は移り変わりながらも、勢いよく広がること現在の通りで、戦争へと向かう情熱は世間を狂気させていること現在の通りの時節にあって、正義、人道、平和を主張し絶叫するのは、極めて不利であって、またとても危険な事でないことはない、そうしてこれは実に知恵のある者でも難しいとする所、まして中身が乏しくて才能も学識もない私たちの如きにはなおさらである、果たして、以前には、このために朝報社と意見が合わずしてその職を失い、たちまち生計に窮してしまい、うかつで世渡りの下手なため世間とともに移り変わることができないで、いたずらに当世の才能のある人の嘲笑をかっていることは、私たちはもとよりこれを知っている。
 それでもなお、これとは反対に思う、その正義、人道、平和を主張し絶叫するのはなはだ不利にして、さらに危険である理由は、かえってこれは、これを主張し絶叫することのますます急要であることを証明するものではないのか、すでに急要であることを知る、これどうして高い志を持った人の益を奮ってその不利危険を冒して顧みざるべきの特に重要な時期ではないのか、然り私たちの一片の気にかかることは遂に予等の袖手[19]沈黙を許さゞる也、於是乎予等は自ら為す可く且つ為し得可き最良の方法として、平民新聞の発行という一事を選択するに至った、ただその企画の初めにあたって、私たちのうかつで世渡り下手であって、果してどこから着手するべきかについて、いささか自分の力のなさを嘆かないわけではない。
 幸いなことに私たちの心事をもっともであるとする、義侠心のある親友を持っている、彼等は私たちの微力を憐れんで、彼らはその金錢をもって、あるいはその文筆をもって、あるいはその他の技能をもって、かわるがわる私たちの事業を援助し、さらに多大の有益なる教え導きと懇切なる奨励を与えられている、そのとおりここにして私たちは朝報社を去ってから、あちこちかけまわって努力することわずかに30余日で、ここに平民新聞第一号を発行することが出来た、これ私たち自身にあってはむしろ思いの外のことであって、我同志および親友諸君に向って深く感謝する所である。
 従って、平民新聞の物たる、その編集は私たちがこれを担当するといっても、私たちは決してこれをもって私たちの私有とするものではなくて、全世界の同主義者が公有の機関とすることを望む、その社務は私たちがこれを処理すといっても、私たちは全世界の同主義者を待遇するのにみな我社員とすることを願う、そうして、その紙面は常に全世界の同主義者のための、忠実なる代弁者であり、通信者であり、さらに出来るならばその助言者であり、指導者であることに到達すべきことを期待する、そうして、私たちはさらに正直に忠告するを要する一事あり、何ぞや、他なし、私たちが平民新聞によって生計を立てることを希望することである、私たちは今や別に生計を得るためにその精力の半分を費すことができない境遇にあり、もし私たちにして将来幸ひに平民新聞の収益に衣食しつゝ全力をこの事業に尽力することができれば、私たちの満足はこれに過ぎるものはない、私たちは我同志がこれをもって特に私たちを罪せざることを信じる、そうして天もし我同志の主義に祐ひせば、私たちは平民新聞の収益が独り私たちを養うに足るだけでなく、さらに多数の同志を養うに足るに到達することを信じ、これを序とする。

〇「平民社設立宣言」 1903年(明治37)11月15日付

宣言

一、自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義[1]也。

一、吾人[2]は人類の自由を完からしめんがために平民主義を奉持[3]す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し一切の圧制束縛を除去 せんことを欲す。

一、吾人[2]は人類をして博愛の道を尽さしめんが為に社会主義を主張す。故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理に社会全体の 為にせんことを要す。

一、吾人[2]は人類をして博愛の道を尽さしめんが為に平和主義を唱導[4]す。故に人種を区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を 撤去し、戦争を禁絶せんことを期す[5]。

一、吾人[2]既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の輿論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可からず、夫の暴動に訴えて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す。

  平民社同人

   「平民新聞」1903年11月15日付創刊号より

【注釈】
 [1]要義:ようぎ=重要な意義。物事の根本となることわり。大切な趣旨。また、それを記したもの。
 [2]吾人:ごじん=わたくし。われわれ。
 [3]奉持:ほうじ=両方の手でさしあげて持つ。また、うやうやしい態度で持つ。捧げ持つこと。
 [4]唱導:しょうどう=ある思想・主張を唱えて人を導くこと。
 [5]期す:きす=期待する。予期する

<現代語訳>

宣言

一、自由、平等、博愛は人生が世に存在する理由の三つの重要な意義である。

一、我々は人類の自由を確かなものとするために平民主義を奉持する、したがって門閥の高下、財産の多寡、男女の別によって生ずる階級を打ち破って、一切の圧制と束縛を取り除くことを要望する。

一、我々は人類において博愛の道に尽力するために社会主義を主張する。したがって社会において生産、分配、交通の機関を共有させて、その経営処理には社会全体の為に行われることが必要である。

一、我々は人類において博愛の道に尽力するために平和主義を唱える。したがって人種の区別、政治体制の違いを問はず、世界を挙げて軍備を取り除いて、戦争をなくすことを期待する。

一、我々はすでに多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とする。したがってこれを実現するための手段も、また国の法律の許す範囲において多数人類の世論を喚起し、多数人類の一致協同を獲得しなければならないもので、その暴動に訴えて快を一時に取るようなことは、我々は絶対にこれを認めない。

  平民社同人

☆平民社関係略年表

<1903年(明治36)>
・10月27日 幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成する
・11月15日 週刊『平民新聞』第1号を発刊、「平民社設立宣言」と堺利彦と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載される
・11月22日 週刊『平民新聞』第2号に、片山潜の「労働問題の将来」が掲載される
・11月29日 週刊『平民新聞』第3号から、「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる

<1904年(明治37年)>
・1月17日 週刊『平民新聞』第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」という日露戦争への反戦論を掲載する
・2月14日 週刊『平民新聞』第14号に、日露戦争開戦を受けて、幸徳秋水の3つの論説、「戦争来」、「兵士を送る」、「戦争の結果」が掲載される
・3月5日 平民社同人編『社会主義入門』が平民文庫第1巻として刊行される
・3月9日 エドワード・ベラミー原著堺枯川抄訳の社会主義理想小説『百年後の世界』が平民文庫として刊行される
・3月13日 週刊『平民新聞』第18号に、社説「与露国社会党書」を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する
・3月24日 週刊『平民新聞』第20号に、日露戦争に反対する「嗚呼増税!」を載せ、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する
・3月27日 「嗚呼増税」の掲載により、発禁処分を受ける
・4月20日 「嗚呼増税」の掲載により、堺利彦が2ヶ月の禁固刑となる
・5月10日 木下尚江著小説『火の柱』が平民文庫として刊行される
・5月20日 石川旭山著『消費組合(一名購買組合)之話』が平民文庫として刊行される
・5月28日 安倍磯雄著『地上の理想国 瑞西』が平民文庫として刊行される
・6月12日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・9月1日 幸徳秋水著『社会民主党建設者ラサール』が平民文庫として刊行される
・9月10日 西川光二郎著『土地国有論』が平民文庫として刊行される
・9月11日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・10月1日 田添鉄二著『経済進化論』が平民文庫として刊行される
・11月6日 週刊『平民新聞』第52号(教育特集号)に、石川三四郎執筆の「小学教師に告ぐ」が載り、国家主義教育を批判する
・11月9日 教育特集号が「新聞紙条例」に抵触したとされ内務大臣の命令で発禁処分となり、編集発行人の西川光次郎と印刷人の幸徳秋水は「新聞紙条例」の朝憲紊乱罪で起訴される
・11月13日 週刊『平民新聞』第53号に、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載され、発送禁止となる。創刊1周年記念の絵葉書が出される。
・11月19日 第1審で西川・幸徳の両名とも禁錮5ヶ月、罰金50円の刑に処される
・12月20日 木下尚江著『良人の自白』上編が平民社より刊行される
・12月25日 平民社忘年会が催される
・12月28日 西川光二郎と松崎源吉が足尾銅山遊説を行う

<1905年(明治38)>
・1月8日 開化亭で「平民社新年会」が開かれ100余人が集まる
・1月23日 西川光二郎著『富の圧制』が平民文庫として刊行される
・1月29日 週刊『平民新聞』第64号で、廃刊のやむなきに至り、全紙面を赤字で印刷し、「終刊の辞」を掲載する
・2月 西川光二郎著『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が平民文庫として刊行される
・4月9日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・5月13日 平民社同人編『革命婦人』が平民文庫として刊行される
・6月4日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・7月7日 木下尚江著『良人の自白』中編が平民社より刊行される
・10月9日 政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため解散することになる

<1907年(明治40)>
・1月15日 石川三四郎、西川光二郎、幸徳秋水、堺利彦、竹内兼七が提携しふたたび平民社がおこされ、日刊『平民新聞』が発刊される
・4月14日 社内で議会政策派と直接行動派の分裂がみられたうえ、政府の弾圧はいっそう厳しくなり、日刊『平民新聞』は廃刊、平民社も再び解散する

☆週刊「平民新聞」主要記事

・第1号(1903年11月15日) 「平民社設立宣言」と幸徳秋水と堺利彦の署名のある「発刊の序」
・第2号(1903年11月22日) 片山潜「労働問題の将来」
・第3号(1903年11月29日) 木下尚江「君主観」
・第3号(1903年11月29日)から 「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる
・第8号(1904年1月3日) 幸徳秋水「歌碑の娯楽」
・第10号(1904年1月17日) 「吾人は飽くまで戦争を非認す」という日露戦争への反戦論
・第11号(1904年1月24日) 幸徳秋水「戦争と道徳」、「道徳の理想」
・第13号(1904年2月7日) 社説「和戦を決する者」(幸徳秋水)
・第14号(1904年2月14日) 日露戦争開戦を受けて、幸徳秋水の3つの論説、「戦争来」、「兵士を送る」、「戦争の結果」
・第18号(1904年3月13日) 社説「与露国社会党書」(幸徳秋水)を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する
・第19号(1904年3月20日) 幸徳秋水「戦争と小学児童」
・第20号(1904年3月24日) 日露戦争に反対する「嗚呼増税!」(幸徳秋水)を載せ、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する
・第24号(1904年4月24日) 幸徳秋水「バベフ氏(社會黨の偉人)」、木下尚江「恋愛と教育」
・第26号(1904年5月8日) 幸徳秋水「フーリエー氏(社會黨の偉人)」
・第28号(1904年5月22日) 幸徳秋水「プルードン氏(社會黨の偉人)」
・第31号(1904年6月11日) 幸徳秋水「ラサーレ氏(社會黨の偉人)」
・第33号(1904年6月25日) 「女学生に贈る」
・第36号(1904年7月17日) 幸徳秋水「朝鮮併呑論を評す」
・第40号(1904年8月7日) 幸徳秋水「トルストイ翁の非戦論を評す」
・第52号(1904年11月6日) 教育特集号として、石川三四郎「小学教師に告ぐ」、無価珍子「戦争に対する教育者の態度」、堺利彦「小学修身書漫評」、西川光次郎「社会主義者の教育観」が載り、国家主義教育を批判する
・第53号(1904年11月13日) 新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳での『共産党宣言』
・第64号(1905年1月29日) 廃刊のやむなきに至り、全紙面を赤字で印刷し、「終刊の辞」を掲載する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1653年(承応2)歌人・歌学者・俳人・貞門俳諧の祖松永貞徳の命日(新暦1654年1月3日)詳細
1867年(慶応3)京都で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される(新暦12月10日)詳細
1872年(明治5)国立銀行条例」が制定される(新暦12月15日)詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

heiminshya0

 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、平民社が最初に解散した日です。
 平民社(へいみんしゃ)は、明治時代後期の日露戦争開始の危機にあたり、非戦論を核心として結成された社会主義結社でした。日露戦争を前にして日刊新聞『万朝報』は非戦論を主張していましたが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社します。
 そして、1903年(明治36)10月27日に、幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成しました。社会主義・平民主義・平和主義の三主義を標榜し、安部磯雄、片山潜らの支持を得て、社会主義、反戦運動の拠点となります。
 11月15日には週刊『平民新聞』を発刊し、日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。また、同紙第53号で『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られています。しかし、度々の政府による弾圧のため、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。
 尚、社会主義協会とも提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、山口孤剣著『社会主義と婦人』、木下尚江著小説『火の柱』、幸徳秋水著『ラサール』など15冊の平民文庫も出版されました。ところが、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため1905年(明治38)10月9日解散することになります。
 その後、1907年(明治40)1月15日に再興され、日刊『平民新聞』も発刊されましたが、社内不和と政府の弾圧強化により、同年4月14日に廃刊となり、平民社も解散されました。

〇平民社関係略年表

<1903年(明治36)>
・10月27日 幸徳秋水と堺利彦が東京有楽町の社屋を構えて、平民社を結成する
・11月15日 週刊『平民新聞』第1号を発刊、「平民社設立宣言」と堺利彦と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載される
・11月22日 週刊『平民新聞』第2号に、片山潜の「労働問題の将来」が掲載される
・11月29日 週刊『平民新聞』第3号から、「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる

<1904年(明治37年)>
・1月17日 週刊『平民新聞』第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」という日露戦争への反戦論を掲載する
・2月14日 週刊『平民新聞』第14号に、日露戦争開戦を受けて、幸徳秋水の3つの論説、「戦争来」、「兵士を送る」、「戦争の結果」が掲載される
・3月5日 平民社同人編『社会主義入門』が平民文庫第1巻として刊行される
・3月9日 エドワード・ベラミー原著堺枯川抄訳の社会主義理想小説『百年後の世界』が平民文庫として刊行される
・3月13日 週刊『平民新聞』第18号に、社説「与露国社会党書」を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する
・3月24日 週刊『平民新聞』第20号に、日露戦争に反対する「嗚呼増税!」を載せ、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する
・3月27日 「嗚呼増税」の掲載により、発禁処分を受ける
・4月20日 「嗚呼増税」の掲載により、堺利彦が2ヶ月の禁固刑となる
・5月10日 木下尚江著小説『火の柱』が平民文庫として刊行される
・5月20日 石川旭山著『消費組合(一名購買組合)之話』が平民文庫として刊行される
・5月28日 安倍磯雄著『地上の理想国 瑞西』が平民文庫として刊行される
・6月12日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・9月1日 幸徳秋水著『社会民主党建設者ラサール』が平民文庫として刊行される
・9月10日 西川光二郎著『土地国有論』が平民文庫として刊行される
・9月11日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・10月1日 田添鉄二著『経済進化論』が平民文庫として刊行される
・11月6日 週刊『平民新聞』第52号(教育特集号)に、石川三四郎執筆の「小学教師に告ぐ」が載り、国家主義教育を批判する
・11月9日 教育特集号が「新聞紙条例」に抵触したとされ内務大臣の命令で発禁処分となり、編集発行人の西川光次郎と印刷人の幸徳秋水は「新聞紙条例」の朝憲紊乱罪で起訴される
・11月13日 週刊『平民新聞』第53号に、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載され、発送禁止となる。創刊1周年記念の絵葉書が出される。
・11月19日 第1審で西川・幸徳の両名とも禁錮5ヶ月、罰金50円の刑に処される
・12月20日 木下尚江著『良人の自白』上編が平民社より刊行される
・12月25日 平民社忘年会が催される
・12月28日 西川光二郎と松崎源吉が足尾銅山遊説を行う

<1905年(明治38)>
・1月8日 開化亭で「平民社新年会」が開かれ100余人が集まる
・1月23日 西川光二郎著『富の圧制』が平民文庫として刊行される
・1月29日 週刊『平民新聞』第64号で、廃刊のやむなきに至り、全紙面を赤字で印刷し、「終刊の辞」を掲載する
・2月 西川光二郎著『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が平民文庫として刊行される
・4月9日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・5月13日 平民社同人編『革命婦人』が平民文庫として刊行される
・6月4日 平民社で社会主義婦人講演が開かれる
・7月7日 木下尚江著『良人の自白』中編が平民社より刊行される
・10月9日 政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため解散することになる

<1907年(明治40)>
・1月15日 石川三四郎、西川光二郎、幸徳秋水、堺利彦、竹内兼七が提携しふたたび平民社がおこされ、日刊『平民新聞』が発刊される
・4月14日 社内で議会政策派と直接行動派の分裂がみられたうえ、政府の弾圧はいっそう厳しくなり、日刊『平民新聞』は廃刊、平民社も再び解散する

〇週刊「平民新聞」主要記事

・第1号(1903年11月15日) 「平民社設立宣言」と幸徳秋水と堺利彦の署名のある「発刊の序」
・第2号(1903年11月22日) 片山潜の「労働問題の将来」
・第3号(1903年11月29日) 木下尚江の「君主観」
・第3号(1903年11月29日)から 「余は如何にして社会主義者となりにし乎」の連載が始まる
・第10号(1904年1月17日) 「吾人は飽くまで戦争を非認す」という日露戦争への反戦論
・第13号(1904年2月7日) 社説「和戦を決する者」(幸徳秋水)
・第14号(1904年2月14日) 日露戦争開戦を受けて、幸徳秋水の3つの論説、「戦争来」、「兵士を送る」、「戦争の結果」
・第18号(1904年3月13日) 社説「与露国社会党書」(幸徳秋水)を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する
・第20号(1904年3月24日) 日露戦争に反対する「嗚呼増税!」(幸徳秋水)を載せ、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する
・第24号(1904年4月24日) 幸徳秋水の「バベフ氏(社會黨の偉人)」
・第26号(1904年5月8日) 幸徳秋水の「フーリエー氏(社會黨の偉人)」
・第28号(1904年5月22日) 幸徳秋水の「プルードン氏(社會黨の偉人)」
・第31号(1904年6月11日) 幸徳秋水の「ラサーレ氏(社會黨の偉人)」
・第36号(1904年7月17日) 幸徳秋水の「朝鮮併呑論を評す」
・第40号(1904年8月7日) 幸徳秋水の「トルストイ翁の非戦論を評す」
・第52号(1904年11月6日) 教育特集号として、石川三四郎執筆の「小学教師に告ぐ」が載り、国家主義教育を批判する
・第53号(1904年11月13日) 新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳での『共産党宣言』
・第64号(1906年1月29日) 廃刊のやむなきに至り、全紙面を赤字で印刷し、「終刊の辞」を掲載する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

641年(舒明天皇13)第34代の天皇とされる舒明天皇の命日(新暦11月17日)詳細
1874年(明治7)万国郵便連合(最初は一般郵便連合)が発足する(世界郵便デー)詳細
1897年(明治32)小説家大佛次郎の誕生日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

fukudaeiko01

 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、社会運動家・女性解放運動の先駆者福田英子の亡くなった日です。
 福田英子(ふくだ ひでこ)は、幕末の1865年(慶応元年10月5日)に、備前国野田屋町(現在の岡山県岡山市)で、岡山藩の下級武士だった父・景山確と母・楳子(うめこ)の次女としてとして生まれました。幼時より利発で、母の勧めで漢学を学び、1880年(明治13)に小学校卒業後、母校の助教員に任じられます。
 1882年(明治15)に岡山で開催された演説会で岸田(中村)俊子の演説を聞き、触発されて女権拡張に目覚め、岡山女子懇親会を結成して、自由民権運動に参加、翌年に民権闘士小林樟雄と婚約し、母と共に私塾「蒸紅(じょうこう)学舎」を設立しました。しかし、1884年(明治17)に「集会条例」によって「蒸紅学舎」が閉鎖されて上京し、1885年(明治18)には、大井憲太郎らと朝鮮改革のクーデターを計画、失敗し投獄(大阪事件)されます。
 1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦令で出獄、翌年に大井との間で男子(憲邦)を出生したものの、離別しました。1892年(明治25)にアメリカ帰りの自由主義者・福田友作と結婚、3子を設けましたが貧窮生活が続き、1900年(明治33)に夫と死別、キリスト教に入信します。
 1901年(明治34)に角筈女子工芸学校と日本女子恒産会を設立し、実業教育を通して女性解放のために尽力、1903年(明治36)には、石川三四郎と親交を結び、「平民社」に出入りするようになりました。自伝『妾の半生涯』(1904年)、小説『わらはの思出』(1905年)を出版、1906年(明治39)には、「平民社」の婦人を中心に「社会主義同志婦人会」を設立します。
 1907年(明治40)に雑誌『世界婦人』を発刊、主筆として「婦人解放」の論陣を張り、その第6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書くなどしました。1908年(明治41)に石川三四郎と同棲、翌年に『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄、1913年(大正2)に石川は英子を置いて一人ベルギーに亡命します。
 同年に『青踏』に「婦人問題の解決」を寄稿、婦選獲得、足尾鉱毒事件の谷中村民支援を続けました。晩年は不遇で呉服行商で生活を支えましたが、1927年(昭和2)5月2日に、東京において63歳で亡くなっています。

〇福田英子の主要な著作

・自伝『妾の半生涯』(1904年) 
・小説『わらはの思出』(1905年)
・『婦人問題の解決』(1913年)

☆福田英子関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1865年(慶応元年10月5日) 備前国野田屋町(現在の岡山県岡山市)で岡山藩の下級武士だった父・景山確と母・楳子(うめこ)の次女としてとして生まれる
・1868年(慶応4年) 4歳の時、明治維新の大変革が遂行され、父確は、武士階級の解体に伴って巡査となる
・1876年(明治9年) 岡山県立研智小学校に入学する
・1880年(明治13年) 小学校卒業後、母校の助教員に任じられる
・1882年(明治15年)5月 岡山で開催された演説会で岸田(中村)俊子の演説を聞く
・1883年(明治16年) 19歳で民権闘士小林樟雄と婚約する
・1883年(明治16年) 母と共に、私塾「蒸紅(じょうこう)学舎」を設立する
・1884年(明治17年) 「集会条例」によって「蒸紅学舎」が閉鎖され、上京する
・1885年(明治18年) 大井憲太郎らと朝鮮改革のクーデターを計画、失敗し大阪事件に連座、投獄される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦令で出獄する
・1890年(明治23年)3月 大井との間で男子(憲邦)を出生する
・1892年(明治25年) アメリカ帰りの自由主義者・福田友作と結婚する
・1900年(明治33年) 夫と死別、キリスト教に入信する
・1901年(明治34年) 角筈女子工芸学校と日本女子恒産会を設立する
・1903年(明治36年) 石川三四郎と親交を結び、「平民社」に出入りする
・1904年(明治37年) 自伝『妾の半生涯』を出す
・1905年(明治38年) 小説『わらはの思出』を出す
・1906年(明治39年) 平民社の婦人を中心に「社会主義同志婦人会」を設立する
・1907年(明治40年) 雑誌『世界婦人』を発刊する
・1907年(明治40年)3月15日 『世界婦人』6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書く
・1908年(明治41年) 石川三四郎と同棲する
・1909年(明治42年) 『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄する
・1913年(大正2年) 石川は英子を置いて一人ベルギーに亡命する
・1913年(大正2年)2月 『青踏』に「婦人問題の解決」を寄稿するが、発禁となる
・1914年(大正3年) この頃から、雑誌発刊と生活費のため、呉服の行商をはじめる
・1914年(大正3年)2月 東京府下滝野川へ転居する
・1914年(大正3年)7月7日 『読売新聞』婦人附録に英子の訪問記がのる
・1927年(昭和2年) 『婦選』に往年の活動の思い出「自由民権時代の婦人の政治運動」を寄稿する
・1927年(昭和2年)4月初旬 風邪がもとで、生来の心臓病を併発する
・1927年(昭和2年)5月2日 東京において63歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じる(新暦5月30日)詳細
756年(天平勝宝8)聖武天皇の命日(新暦6月4日)詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ