ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平家納経

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 今日は、平安時代後期の1167年(仁安2)に、平清盛が厳島神社に参詣し、『平家納経』の一部とされる、自ら書写した『般若心経』1巻を奉納した日ですが、新暦では3月16日となります。
 『平家納経』(へいけのうきょう)は、平清盛が平家一門の繁栄を祈願して、安芸国の厳島神社に奉納した装飾経(装飾した写経)でした。1164年(長寛2年9月)の供養願文を持ち、『法華経』 28品、開経『無量義経』、結経『観普賢経』、さらに『阿弥陀経』、『般若心経』各1巻の32巻に願文を合せた、計33巻から成っています。
 平家の繁栄を祈り一族32人が一品一巻を分担して写経・製作したもので、各巻意匠を異にし、当代工芸技術の粋を集めていて、1167年(仁安2)には、全てが完成し、厳島神社への奉納が完了しました。平安時代に流行した装飾経の最高峰をなすものであり、大和絵の史料としても貴重であるとされています。
 1897年(明治30)に旧国宝指定され、1954年(昭和29)には、付属の経箱、経箱を納める唐櫃(からびつ)と共に、「平家納経 一具」として国宝に指定されました。

〇平清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

☆『平家納経』関係略年表

・1164年(長寛2年9月) 厳島神社に一部が奉納される
・1167年(仁安2年) 全てが完成し、厳島神社への奉納が完了する
・1602年(慶長7年) 福島正則が願主となって修理が行われる
・1648年(慶安元年) 浅野長晟が『平家納経』を重修(唐櫃蓋裏銘)する
・1882年(明治15年)10月 第1回内国絵画共進会にて、出展目録「廣島縣下安芸國 嚴島神社出品」に「古寫經及ヒ願文 丗三巻」名義で出品され、この機会に帝室学芸員の手で2年をかけて模写される
・1897年(明治30年)12月28日 旧国宝指定される
・1920年(大正9年)4月18日 大師会にて、厳島神社の高山昇宮司が高橋義雄と益田孝に『平家納経』副本制作を訴え、大倉喜八郎らがその場で協力を約束する
・1925年(大正14年) 田中親美が5年半をかけて副本2組を完成させ、1組を奉納、1組をさらなる副本制作の見本とする
・1954年(昭和29年)3月20日 法華経等33巻、金銀荘雲龍文銅製経箱、蔦蒔絵唐櫃が「平家納経 一具」として国宝に指定される
・1959年(昭和34年) 『薬草喩品』の表紙と見返しが安田靫彦による彩絵(だみえ)に改められる
・1985年(昭和60年) 松井正光らによる装飾金具の修復が始まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1576年(天正4)織田信長が岐阜から近江の安土城へ移る(新暦3月23日)詳細
1784年(天明4)筑前志賀島の百姓甚兵衛により、「漢倭奴國王」の金印発見される(新暦4月12日)詳細
1904年(明治37)「日韓議定書」に調印する詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)目指し、翼賛政治体制協議会が結成される詳細
1943年(昭和18)陸軍省が「撃ちてし止まむ」の戦時標語ポスター5万枚を全国に配布する詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争下の言論弾圧(竹槍事件)の原因となる、「毎日新聞」朝刊の戦局解説記事が掲載される詳細
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 今日は、平安時代後期の1181年(治承5)に、平安時代末期の武将・公卿平清盛が亡くなった日ですが、新暦では3月20日となります。
 平清盛(たいら の きよもり)は、1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

〇平清盛関係略年表(日付は旧暦です)

・1118年(治承5)1月18日 伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれる
・1129年(大治4)1月6日 従五位下となる
・1129年(大治4)1月24日 左兵衛佐となる
・1131年(大治6)1月5日 従五位上となる
・1135年(長承4)1月5日 正五位下となる
・1135年(長承4)8月21日 従四位下となる
・1136年(保延2)4月7日 中務大輔となる
・1137年(保延3)1月30日 肥後守兼任となる
・1140年(保延6)11月14日 従四位上となる
・1146年(久安2)2月1日 正四位下となる
・1146年(久安2)2月2日 安芸守兼任、肥後守任替となる
・1153年(仁平3)1月15日 父忠盛が死没する
・1156年(保元元)7月6~11日 保元の乱が起こる
・1156年(保元元)7月11日 播磨守となる
・1158年(保元3)8月10日 大宰大弐となる
・1159年(平治元)12月9~26日 平治の乱が起こる
・1160年(永暦元)6月20日 正三位となる
・1160年(永暦元)8月11日 参議、大宰大弐如元となる
・1160年(永暦元)9月2日 右衛門督兼任となる
・1160年(永暦元)12月30日 大宰大弐を辞任する
・1161年(永暦2)1月23日 検非違使別当兼職、近江権守兼任となる
・1161年(永暦2)9月13日 権中納言、検非違使別当・右衛門督如元となる
・1162年(応保2)1月9日 検非違使別当・右衛門督両官職を辞任する
・1162年(応保2)閏2月9日 検非違使別当・右衛門督兼職となる
・1162年(応保2)4月7日 皇太后宮権大夫兼任となる
・1162年(応保2)8月20日 従二位となる
・1162年(応保2)9月 検非違使別当・右衛門督両官職を辞任する
・1164年(長寛2) 平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納める
・1165年(長寛3)1月23日 兵部卿兼任となる
・1165年(長寛3)8月17日 権大納言、兵部卿・皇太后権大夫如元となる
・1166年(永万2)6月6日 正二位となる
・1166年(永万2)10月1日 春宮大夫兼任、兵部卿・皇太后宮権大夫両官を止む
・1166年(永万2)11月11日 内大臣となる
・1167年(仁安2)2月11日 従一位太政大臣となる
・1167年(仁安2)5月17日 太政大臣を辞任する
・1168年(仁安3)2月11日 法名を静(浄)海として出家する
・1168年(仁安3)3月20日 高倉天皇が即位する
・1169年(仁安4)6月17日 後白河上皇が出家し法皇となる
・1171年(承安元)12月14日 娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させる
・1177年(治承元)6月 鹿ケ谷の陰謀が起こる
・1178年(治承2)11月12日 娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産する
・1179年(治承3)閏7月29日 清盛の嫡子重盛が病死する
・1179年(治承3)11月 後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握する(治承三年の政変)
・1180年(治承4)4月22日 安徳天皇が即位する
・1180年(治承4)4月 以仁王が平氏追討の令旨を発する
・1180年(治承4)6月2日 京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれる
・1180年(治承4)6月10日 准三宮宣下
・1180年(治承4)8月17日 源頼朝が伊豆で挙兵する
・1180年(治承4)9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4)10月20日 富士川の戦いで、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4)12月28日 平重衡ら平氏軍が東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼討にする(南都焼討)
・1181年(養和元)閏2月4日 熱病に冒され薨去する
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