ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平家物語

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 今日は、平安時代末期の治承4年に、平清盛が平重衡に命じ東大寺・興福寺等を焼き払った(南都焼討)日ですが、新暦では、1181年1月15日となります。
 南都焼討(なんとやきうち)は、平清盛の命により、平重衡らの平氏軍が、奈良(南都)の東大寺・興福寺等の仏教寺院を焼き討ちにした事件でした。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の一つとされ、平氏政権に対して反抗的な態度を取り続ける奈良(南都)勢力の東大寺・興福寺等に対する戦闘です。
 平清盛の命を受けた平重衡を総大将とした平氏軍は、治承4年12月25日に奈良(南都)へ向かい、28日には奈良坂・般若寺に城郭を築いて待ちかまえる衆徒を突破して奈良へ攻め入りました。激戦が繰り広げられた後、夜になって火がかけられ、その戦火が興福寺や東大寺等にも拡大し、奈良の大仏や多くの寺院が焼失、『平家物語』では、大仏殿の二階に逃げ込んだ人たちはじめ、計3千5百余人が焼死したとしています。
 また、奈良(南都)勢力の戦死者は千余人と記されました。この戦火によって、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院の多くが焼失しましたが、春日神社や新薬師寺などは免れたとされます。
 以下に、この事件を記した『平家物語』巻第五の奈良炎上の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「平家物語」巻第五 奈良炎上

 都にはまた、「南都三井寺同心して、あるひは宮受け取り参らせ、あるひは御迎ひに参る条、これもつて朝敵なり。しからば奈良をも攻めらるべし」と聞こえしかば、大衆大きに蜂起す。関白殿より、「存知の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」とて、右官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起こつて、「乗り物より捕つて引き落とせ、髻切れ」とひしめく間、忠成色を失ひて逃げ上る。次に右衛門の督親雅を下されたりけれども、これをも、「髻切れ」とひしめきければ、取るものも取り敢へず、急ぎ都へ上られけり。その時は勧学院の雑色二人が髻切られてけり。南都にはまた大きなる球打の玉を作りて、これこそ入道相国の首と名付けて、「打て、踏め」などぞ申しける。「言葉の洩らし易きは、災を招く仲立ちなり。言葉の慎まざるは、敗れを取る道なり」と言へり。懸けまくも忝く、この入道相国は、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えし。
 入道相国、且つ且つ先づ南都の狼藉を鎮めんとて、妹尾の太郎兼康を、大和の国の検非所に補せらる。兼康五百余騎で馳せ向かふ。「相構へて、衆徒は狼藉をいたすとも、汝らはいたすべからず。物の具なせそ、弓箭な帯せそ」とて遣はされたりけるを、南都の大衆、かかる内儀をば知らずして、兼康が余勢六十余人搦め捕つて、一々に首を斬つて、猿沢の池の傍にぞ掛け並べたりける。入道相国大き怒りて、「さらば南都をも攻めよや」とて、大将軍には、頭の中将重衡、中宮の亮通盛、都合その勢四万余騎、南都へ発向す。南都にも老少嫌はず七千余人、兜の緒を締め、奈良阪、般若寺、二箇所の道を掘り切つて、掻楯掻き、逆茂木曳いて待ちかけたり。平家四万余騎を二手に分かつて、奈良阪、般若寺、二箇所の城郭に押し寄せて、時をどつとぞ作りける。大衆は徒立ち打ち物なり。官軍は馬にて駆け回まはし駆け回し攻めければ、大衆数を尽くして討たれにけり。卯の刻より矢合はせして、一日戦ひ暮らし、夜に入りければ、奈良阪、般若寺、二箇所の城郭ともに敗れぬ。落ち行く衆徒の中に、坂の四郎永覚と言ふ悪僧あり。これは力の強さ、弓矢打ち物取つては、七大寺十五大寺にも勝れたり。萌黄威の鎧に、黒糸威の腹巻二両重ねてぞ着たりける。帽子兜に五枚兜の緒を締め、茅の葉の如くに反つたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀、左右の手に持つままに、同宿十余人前後左右に立て、転害の門より討つて出でたり。これぞしばらく支へたる。多くの官兵ら馬の脚薙がれて、多く亡びにけり。されども官軍は大勢にて、入れ替へ入れ替へ攻めければ、永覚が防ぐところの同宿皆討たれにけり。永覚心は猛う思へども、後ろ疎らになりしかば、力及ばず、ただ一人南を指してぞ落ち行きける。
 夜戦になつて、大将軍頭の中将重衡、般若寺の門の前にうつ立つて、暗さは暗し、「火を出だせ」とのたまへば、播磨の国の住人、福井の庄の下司、次郎大夫友方と言ふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞかけたりける。頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻ばかりのことなれば、折節風は激し、火元は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。およそ恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良阪にて討ち死にし、般若寺にして討たれにけり。行歩に適へる者は、吉野十津川の方へぞ落ち行きける。歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修学者、稚児ども女童部は、もしや助かると、大仏殿の二階の上、山階寺の内へ、我先にとぞ逃げ入りける。大仏殿の二階の上には、千余人登り上がり、敵の続くを上せじとて、橋を引きてげり。猛火は正しう押しかけたり。喚き叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無限阿鼻、炎の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹を交へし二階の楼、九輪空に輝きし二基の塔、たちまちに煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏と思し召し準へて、聖武皇帝、手づから自ら磨きたて給ひし金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高く顕はれて、半天の雲に隠れ、白毫新たに拝まれさせ給へる満月の尊容も、御首は焼け落ちて大地にあり、御身は沸き合ひて山の如し。八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしう十悪の風にただよひ、煙は中天に満ち満ちて、炎は虚空に隙もなし。まのあたり見奉る者はさらに眼をあてず、かすかに伝へ聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法文聖教、すべて一巻も残らず。我が朝は申すに及ばず、天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしとも思えず。優填大王の紫磨金を磨き、毘首羯磨が赤栴檀を刻みしも、わづかに等身の御仏なり。いはんやこれは南閻浮提の内には、唯一無双の御仏、永く朽損の期あるべしとも思はざりしに、今毒縁の塵に交はつて、久しく悲しみを残し給へり。梵釈四王、竜神八部、冥官冥衆も、驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなることをか思しけん、されば春日の野露も色変はり、三笠山の嵐の音も怨むる様にぞ聞こえける。炎の中にて焼け死ぬる人数を数へたれば、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、具に記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の門に斬り懸けさせ、少々は首ども持つて都へ上られけり。明くる二十九日、頭の中将重衡、南都滅して北京へ帰り入らる。およそは入道相国ばかりこそ、憤いきどほり晴れて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇は、「たとひ悪僧をこそ亡ぼさめ、多くの伽藍を破滅すべきやは」とぞ御嘆きありける。日頃は衆徒の首大路を渡いて、獄門の木に懸けらるべしと、公卿詮議ありしかども、東大寺興福寺の滅びぬる浅ましさに、何の沙汰にも及ばず。ここやかしこの溝や堀にぞ捨て置きける。聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せんこと、疑ひなしとぞ見えたりける。浅ましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。

  流布本『平家物語』巻第五より

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 今日は、平安時代末期の1177年(安元3)に、京都で安元の大火(太郎焼亡)が起こった日ですが、新暦では6月3日となります。
 安元の大火(あんげんのたいか)は、この日の夜半に、樋口富小路(現在の京都市下京区万寿寺通富小路)付近で発生し、折からの南東の強風にあおられて、北西方面に扇状に延焼しました。その結果、焼失範囲は、東は富小路、西は朱雀大路、千本通、南は六条大路、北は大内裏までのおよそ180余町(約180万㎡)に及び、2万余家が焼亡し、死者も数千人にのぼったとされています。
 愛宕太郎坊天狗(愛宕山の天狗)が引き起こしたと噂されて、太郎焼亡(たろうじようもう)とも呼ばれてきました。主要な建物では、大極殿を含む八省院全部と朱雀門・応天門・神祇官など大内裏南東部、大学寮・勧学院、関白藤原基房ら公卿の邸宅14家などを焼失しています。
 平安京大内裏の大極殿の焼亡は、876年(貞観18)、1058年(天喜6)に次いで三度目でしたが、以後再建されることはありませんでした。『玉葉』、『愚昧記』、『清獬眼抄』、『方丈記』、『平家物語』などにこの大火の記載がされています。
 以下に、鴨長明著『方丈記』と『平家物語』の安元の大火に関する記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『方丈記』鴨長明著の安元の大火に関する記述

<原文>

予ものの心を知れりし[1]より、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議[2]を見る事ややたびたびになりぬ。去 安元三年[3]四月廿八日かとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時[4]ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには朱雀門[5] 大極殿[6] 大学寮[7] 民部省[8]などまで移りて、一夜のうちに塵灰[9]となりにき。火元は樋口富の小路[10]とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。
吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を、地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて[11]、あまねく[12]紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔飛ぶがごとくして、一二町[13]を越えつつ移りゆく。その中の人現し心[14]あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれて[15]たちまちに死ぬ。或は身ひとつからうじてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍[16]万宝さながら[17]灰燼となりにき。その費[18]いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外数へ知るに及ばず。惣て[19]都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬牛のたぐひ辺際[20]を知らず。
人のいとなみ皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家を作るとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなく[21]ぞ侍る。

【注釈】

[1]ものの心を知れりし:もののこころをしれりし=物事がわかりはじめてから。大人の考えていることがわかりだす年齢以後。十代の後半期から。
[2]世の不思議:よのふしぎ=現実の世界では予想できない事態。
[3]安元三年:あんげんさんねん=1177年のこと。
[4]戌の時:いぬのとき=午後八時。
[5]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[6]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[7]大学寮:だいがくりょう=朱雀門外にあり、式部省に属して中央官庁の官吏養成に関する教育と事務を管掌した機関。
[8]民部省:みんぶしょう=大内裏の内、諸国の戸口・戸籍・山川・道路・租税・賦役などに関する事務をつかさどった。
[9]塵灰:じんかい/ちりはひ=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[10]樋口富の小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[11]映じて:えいじて=光や影が映って見えて。照り映えて。
[12]あまねく=残る所なく行き渡っている。
[13]町:ちょう=距離の単位を表し、1町は60間(約110m)となる。
[14]現し心:うつしごころ=平常普通の精神状熊。平常心。
[15]まぐれて=目がくらくらして。目がくらんで。
[16]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいう。
[17]さながら=そっくり全部。
[18]費:ついえ=損害。被害。
[19]惣て:そうじて=おおよそ。だいたい。一般に。
[20]辺際:へんさい=はて、かぎり。
[21]あぢきなく=つまらなく。努力のかいがなく。

<現代語訳>

私が物事がわかりはじめてから、四十余年の月日が経過する内に、現実の世界では予想できない事態を目の当たりにすることが、時と共に度重なった。去る安元3年(1177年)の4月28日のことだったか、風が激しく吹き、ちっとも静かにならない夜、午後8時頃、都の東南から出火して、西北方向へ延焼していった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などにまで燃え広がり、一晩で灰となってしまった。火元は樋口富の小路だとか言うことだ。舞人を泊めていた仮屋から失火したという。
吹き迷う風によって、あちこちに燃え移るうちに、まるで扇を広げたかのごとくに拡散した。遠くの家では煙にむせ、近辺ではさかんに炎を地に吹きつけていた。その風が空に灰を吹き上げていたので、火の光に照らし出され、一面をを赤く染める中、風に耐え切れず、焼け落ちる家の板きれだろう、風に吹きちぎられた炎が飛ぶようにして、一町も二町も飛び越えては、燃え移って行く。その中にいる人が、普通の気持で、気をたしかに持っていられようか。ある人は煙にむせて倒れ伏し、ある人は炎に目がくらんで、すぐさま死んでしまう。あるいは体一つでかろうじて逃げ出した人も、家財道具を持ち出す余裕はなかった。多くの珍しい宝物も、そっくり灰燼に帰してしまった。その損害はどれほど大きなものか、はかりしれない。公卿の家だけでも、16軒が焼けた。まして、その他の家数は数えようもない。全体では京都の三分の一にも達するという。男女の死者は数十人、馬や牛などにいたっては、どのくらいであったかわからない。
人間の営みは、みんな愚かなことではあるが、これほどに危険のある、京都の街中に家を建てるといって、財産を使い、心を悩ますことは、もっとも愚かでつまらないことだと言いたい。

〇『平家物語』巻第一の内裏炎上(安元の大火)の記述

<原文>

同じき四月廿八日、亥の刻[1]ばかり、樋口富小路[2]より、火出で来て、辰巳の風[3]はげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三町五町をへだてて、戌亥の方[4]へ筋たがへ[5]に飛び越え飛び越え焼きゆけば、恐ろしなんどもおろかなり。あるいは具平親王の千種殿[6]、あるいは北野の天神の紅梅殿[7]、橘逸成の蠅松殿[8]、鬼殿[9]、高松殿[10]、鴨居殿[11]、東三条[12]、冬嗣の大臣の閑院殿[13]、昭宣公の堀川殿[14]、これを始めて、昔今の名所丗余箇所、公卿[15]の家だにも十六箇所まで焼にけり。その外殿上人[16]、諸大夫[17]の家々は記すに及ばず。果ては大内[18]に吹きつけて、朱雀門[19]より始めて、応天門[20]・会昌門[21]・大極殿[22]・豊楽院[23]・諸司八省[24]・朝所[25]、一時がうちに灰燼[26]の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍[27]万宝、さながら塵灰[28]となりぬ。その間の費へ[29]いかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひは数を知らず。これだだごとにあらず、山王[30]の御とがめとて、比叡山より大きなる猿どもが二三千おりくだり、手々に松火をともひて京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
大極殿[22]は、清和天皇[31]の御宇、貞観十八年に始めて焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院[32]の御即位は、豊楽院[23]にてぞありける。元慶元年四月九日、事始めあって、同じき二年十月八日にぞつくり出だされたりける。後冷泉院[33]の御宇、天喜五年二月廿六日、また焼けにけり。治歴四年八月十四日、事始めありしかども、つくりも出だされずして、後冷泉院[33]崩御なりぬ。後三条院[34]の御宇、延久四年四月十五日つくり出だして、文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸[35]なし奉る。今は世末になって、国の力も衰へたれば、その後はつひにつくられず。

【注釈】

[1]亥の刻:いのこく=午後十時頃。
[2]樋口富小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[3]辰巳の風:たつみのかぜ=東南の風。
[4]戌亥の方:いぬいのかた=西北の方。
[5]筋たがへに:すじたがへに=斜めに。
[6]千種殿:ちぐさどの=具平親王の邸宅で、六条坊門の南、西洞院の東にあった。
[7]紅梅殿:こうばいどの=菅原道真の邸宅で、京都市綾小路通の南、西洞院通の東で五条坊門の北一町にあった。
[8]蠅松殿:はいまつどの=橘逸勢の邸宅で、姉小路の北、堀川東にあった。
[9]鬼殿:おにどの=京都三条の南、西洞院の東にあった藤原朝成の憤死した家をさす。
[10]高松殿:たかまつどの=京都市中京区姉小路の北、西洞院の東にあった醍醐天皇の皇子源高明の邸宅。
[11]鴨居殿:かもいどの=二条の南、室町の西一町、南北二町の邸宅。
[12]東三条:とうさんじょう=摂関家藤原氏の京邸で、三条坊門の北、西洞院の東にあり、平安時代後期には師通,忠実,忠通,頼長の邸宅となり、寝殿造の一例として名高かった。
[13]閑院殿:かんいんどの=藤原冬嗣の邸宅で、二条大路の南、西洞院大路の西にあった。
[14]堀川殿:ほりかわどの=藤原基経の邸宅で、二条南、堀川の東、南北二町にあった。
[15]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣、左大臣、右大臣をいい、卿は大・中納言、参議および三位以上の貴族をいい、あわせて公卿という。
[16]殿上人:でんじょうびと=電常備と清涼殿の殿上の間(ま)に昇ることを許された人。公卿を除く四位・五位の中で特に許された者、および六位の蔵人をいう。
[17]諸大夫:しょだいぶ=公卿・殿上人を除く地下の四位、五位の廷臣。
[18]大内:たいだい=皇居の異称。内裏。禁中。宮中。大内山。
[19]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[20]応天門:おうてんもん=平安京大内裏八省院南面の正門で朱雀門に相対する。
[21]会昌門:かいしょうもん=平安京の大内裏朝堂院(八省院)の門。朝堂院二十五門の一つ。
[22]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[23]豊楽院:ぶらくいん=平安京大内裏の南部、朝堂院の西にあった一画。公的儀式のための宴会場で、大嘗会、節会、賜宴、饗宴、射礼などが行なわれた。
[24]諸司八省:しょしはっしょう=多くの役所、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の総称。
[25]朝所:あいたんどころ=太政官庁内の北東部にあった建物の名。ここで参議以上の人が会食し、また政務も行なった。
[26]灰燼:かいじん=灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと。
[27]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙をいう。
[28]塵灰:じんかい=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[29]費へ:ついへ=損害。被害。
[30]山王:さんのう=滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。また、その別称。
[31]清和天皇:せいわてんのう=第56代とされる天皇で、在位は858~876年だった。
[32]陽成院:ようぜいいん=第57代とされる天皇で、在位は876~884年、清和天皇の第1皇子でその譲位により即位した。
[33]後冷泉院:ごれいぜいいん=第70代とされる天皇で、在位は1045~1068年だった。
[34]後三条院:ごさんじょういん=第71代とされる天皇で、在位は1068~1072年だった。
[35]遷幸:せんこう=天皇・上皇が他の場所に行くこと。遷御。

<現代語訳>

同年4月28日、午後10時頃、樋口富小路より出火して、東南の風がはげしく吹いたので、京中の多くが焼けた。大きな車輪のような炎が、三町・五町を隔てて、西北の方向へ斜めに飛び越え飛び越えて延焼していったので、恐ろしいどころではなかった。あるいは具平親王の千種殿、あるいは北野の天神の紅梅殿、橘逸成の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、藤原冬嗣大臣の閑院殿、藤原基経の堀川殿、これらを始めとして、今昔の名所30ヶ所余り、公卿の家だけでにも16ヶ所まで焼失した。そのほか殿上人や諸大夫の家々は記すまでもない。ついには内裏に火が吹きつけて、朱雀門を始め、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司八省・朝所は、一時の内に灰燼に帰してしまった。家々の日記、代々の文書、珍しい多くの宝物も、すっかり塵と灰になってしまった。その損害はどれほどになるであろうか。焼死した者は数百人、牛馬の類は数え切れないほどだ。これはただ事ではない、山王権現のお咎めというので、比叡山から大きな猿達が二、三千匹降り下ってきて、手に手に松明を灯して京中を焼いてしまったのだと、人が夢に見るほどであった。
大極殿は、清和天皇の御世、貞観18年(876年)に始めて焼けてしまったので、貞観19年1月3日の陽成天皇の即位式は、豊楽院で行われた。元慶元年(877年)4月9日に着工式があって、元慶2年(878年)10月8日に竣工した。後冷泉天皇の御世、天喜5年(1057年)2月26日、再び焼失してしまった。治歴4年(1068年)8月14日、着工式があったけれども、竣工しない内に、後冷泉天皇が崩御されてしまった。後三条天皇の御世、延久4年(1072年)4月15日に竣工して、文人が詩を奉納、楽人が音楽を奏して、天皇をお迎えした。今は末世になって、国力も衰微したので、その後は終に再建されることはなかった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1948年(昭和23)夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)日米安全保障条約」(旧)が発効する詳細
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