
朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画していました。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移ります。
その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失しました。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しています。
造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km)、東西32町(4.57km)に及びます。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされてきました。遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されています。
尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されてきました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1629年(寛永6) | 幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日) | 詳細 |
1892年(明治25) | 文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日 | 詳細 |
1894年(明治27) | 戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日 | 詳細 |
1895年(明治28) | ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する | 詳細 |
1896年(明治29) | 神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される | 詳細 |
1933年(昭和8) | 東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する | 詳細 |