ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平安京

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 今日は、平安時代前期の794年(延暦13)に、桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布した日ですが、新暦では12月4日となります。
 平安京(へいあんきょう)は、桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところでした。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられています。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画していました。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移ります。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失しました。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しています。

〇平安遷都(へいあんせんと)とは?

 奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものです。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められました。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km)、東西32町(4.57km)に及びます。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされてきました。遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されています。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されてきました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」

〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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 今日は、平安時代末期の1177年(安元3)に、京都で安元の大火(太郎焼亡)が起こった日ですが、新暦では6月3日となります。
 安元の大火(あんげんのたいか)は、この日の夜半に、樋口富小路(現在の京都市下京区万寿寺通富小路)付近で発生し、折からの南東の強風にあおられて、北西方面に扇状に延焼しました。その結果、焼失範囲は、東は富小路、西は朱雀大路、千本通、南は六条大路、北は大内裏までのおよそ180余町(約180万㎡)に及び、2万余家が焼亡し、死者も数千人にのぼったとされています。
 愛宕太郎坊天狗(愛宕山の天狗)が引き起こしたと噂されて、太郎焼亡(たろうじようもう)とも呼ばれてきました。主要な建物では、大極殿を含む八省院全部と朱雀門・応天門・神祇官など大内裏南東部、大学寮・勧学院、関白藤原基房ら公卿の邸宅14家などを焼失しています。
 平安京大内裏の大極殿の焼亡は、876年(貞観18)、1058年(天喜6)に次いで三度目でしたが、以後再建されることはありませんでした。『玉葉』、『愚昧記』、『清獬眼抄』、『方丈記』、『平家物語』などにこの大火の記載がされています。
 以下に、鴨長明著『方丈記』と『平家物語』の安元の大火に関する記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『方丈記』鴨長明著の安元の大火に関する記述

<原文>

予ものの心を知れりし[1]より、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議[2]を見る事ややたびたびになりぬ。去 安元三年[3]四月廿八日かとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時[4]ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには朱雀門[5] 大極殿[6] 大学寮[7] 民部省[8]などまで移りて、一夜のうちに塵灰[9]となりにき。火元は樋口富の小路[10]とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。
吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を、地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて[11]、あまねく[12]紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔飛ぶがごとくして、一二町[13]を越えつつ移りゆく。その中の人現し心[14]あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれて[15]たちまちに死ぬ。或は身ひとつからうじてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍[16]万宝さながら[17]灰燼となりにき。その費[18]いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外数へ知るに及ばず。惣て[19]都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬牛のたぐひ辺際[20]を知らず。
人のいとなみ皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家を作るとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなく[21]ぞ侍る。

【注釈】

[1]ものの心を知れりし:もののこころをしれりし=物事がわかりはじめてから。大人の考えていることがわかりだす年齢以後。十代の後半期から。
[2]世の不思議:よのふしぎ=現実の世界では予想できない事態。
[3]安元三年:あんげんさんねん=1177年のこと。
[4]戌の時:いぬのとき=午後八時。
[5]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[6]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[7]大学寮:だいがくりょう=朱雀門外にあり、式部省に属して中央官庁の官吏養成に関する教育と事務を管掌した機関。
[8]民部省:みんぶしょう=大内裏の内、諸国の戸口・戸籍・山川・道路・租税・賦役などに関する事務をつかさどった。
[9]塵灰:じんかい/ちりはひ=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[10]樋口富の小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[11]映じて:えいじて=光や影が映って見えて。照り映えて。
[12]あまねく=残る所なく行き渡っている。
[13]町:ちょう=距離の単位を表し、1町は60間(約110m)となる。
[14]現し心:うつしごころ=平常普通の精神状熊。平常心。
[15]まぐれて=目がくらくらして。目がくらんで。
[16]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいう。
[17]さながら=そっくり全部。
[18]費:ついえ=損害。被害。
[19]惣て:そうじて=おおよそ。だいたい。一般に。
[20]辺際:へんさい=はて、かぎり。
[21]あぢきなく=つまらなく。努力のかいがなく。

<現代語訳>

私が物事がわかりはじめてから、四十余年の月日が経過する内に、現実の世界では予想できない事態を目の当たりにすることが、時と共に度重なった。去る安元3年(1177年)の4月28日のことだったか、風が激しく吹き、ちっとも静かにならない夜、午後8時頃、都の東南から出火して、西北方向へ延焼していった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などにまで燃え広がり、一晩で灰となってしまった。火元は樋口富の小路だとか言うことだ。舞人を泊めていた仮屋から失火したという。
吹き迷う風によって、あちこちに燃え移るうちに、まるで扇を広げたかのごとくに拡散した。遠くの家では煙にむせ、近辺ではさかんに炎を地に吹きつけていた。その風が空に灰を吹き上げていたので、火の光に照らし出され、一面をを赤く染める中、風に耐え切れず、焼け落ちる家の板きれだろう、風に吹きちぎられた炎が飛ぶようにして、一町も二町も飛び越えては、燃え移って行く。その中にいる人が、普通の気持で、気をたしかに持っていられようか。ある人は煙にむせて倒れ伏し、ある人は炎に目がくらんで、すぐさま死んでしまう。あるいは体一つでかろうじて逃げ出した人も、家財道具を持ち出す余裕はなかった。多くの珍しい宝物も、そっくり灰燼に帰してしまった。その損害はどれほど大きなものか、はかりしれない。公卿の家だけでも、16軒が焼けた。まして、その他の家数は数えようもない。全体では京都の三分の一にも達するという。男女の死者は数十人、馬や牛などにいたっては、どのくらいであったかわからない。
人間の営みは、みんな愚かなことではあるが、これほどに危険のある、京都の街中に家を建てるといって、財産を使い、心を悩ますことは、もっとも愚かでつまらないことだと言いたい。

〇『平家物語』巻第一の内裏炎上(安元の大火)の記述

<原文>

同じき四月廿八日、亥の刻[1]ばかり、樋口富小路[2]より、火出で来て、辰巳の風[3]はげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三町五町をへだてて、戌亥の方[4]へ筋たがへ[5]に飛び越え飛び越え焼きゆけば、恐ろしなんどもおろかなり。あるいは具平親王の千種殿[6]、あるいは北野の天神の紅梅殿[7]、橘逸成の蠅松殿[8]、鬼殿[9]、高松殿[10]、鴨居殿[11]、東三条[12]、冬嗣の大臣の閑院殿[13]、昭宣公の堀川殿[14]、これを始めて、昔今の名所丗余箇所、公卿[15]の家だにも十六箇所まで焼にけり。その外殿上人[16]、諸大夫[17]の家々は記すに及ばず。果ては大内[18]に吹きつけて、朱雀門[19]より始めて、応天門[20]・会昌門[21]・大極殿[22]・豊楽院[23]・諸司八省[24]・朝所[25]、一時がうちに灰燼[26]の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍[27]万宝、さながら塵灰[28]となりぬ。その間の費へ[29]いかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひは数を知らず。これだだごとにあらず、山王[30]の御とがめとて、比叡山より大きなる猿どもが二三千おりくだり、手々に松火をともひて京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
大極殿[22]は、清和天皇[31]の御宇、貞観十八年に始めて焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院[32]の御即位は、豊楽院[23]にてぞありける。元慶元年四月九日、事始めあって、同じき二年十月八日にぞつくり出だされたりける。後冷泉院[33]の御宇、天喜五年二月廿六日、また焼けにけり。治歴四年八月十四日、事始めありしかども、つくりも出だされずして、後冷泉院[33]崩御なりぬ。後三条院[34]の御宇、延久四年四月十五日つくり出だして、文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸[35]なし奉る。今は世末になって、国の力も衰へたれば、その後はつひにつくられず。

【注釈】

[1]亥の刻:いのこく=午後十時頃。
[2]樋口富小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[3]辰巳の風:たつみのかぜ=東南の風。
[4]戌亥の方:いぬいのかた=西北の方。
[5]筋たがへに:すじたがへに=斜めに。
[6]千種殿:ちぐさどの=具平親王の邸宅で、六条坊門の南、西洞院の東にあった。
[7]紅梅殿:こうばいどの=菅原道真の邸宅で、京都市綾小路通の南、西洞院通の東で五条坊門の北一町にあった。
[8]蠅松殿:はいまつどの=橘逸勢の邸宅で、姉小路の北、堀川東にあった。
[9]鬼殿:おにどの=京都三条の南、西洞院の東にあった藤原朝成の憤死した家をさす。
[10]高松殿:たかまつどの=京都市中京区姉小路の北、西洞院の東にあった醍醐天皇の皇子源高明の邸宅。
[11]鴨居殿:かもいどの=二条の南、室町の西一町、南北二町の邸宅。
[12]東三条:とうさんじょう=摂関家藤原氏の京邸で、三条坊門の北、西洞院の東にあり、平安時代後期には師通,忠実,忠通,頼長の邸宅となり、寝殿造の一例として名高かった。
[13]閑院殿:かんいんどの=藤原冬嗣の邸宅で、二条大路の南、西洞院大路の西にあった。
[14]堀川殿:ほりかわどの=藤原基経の邸宅で、二条南、堀川の東、南北二町にあった。
[15]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣、左大臣、右大臣をいい、卿は大・中納言、参議および三位以上の貴族をいい、あわせて公卿という。
[16]殿上人:でんじょうびと=電常備と清涼殿の殿上の間(ま)に昇ることを許された人。公卿を除く四位・五位の中で特に許された者、および六位の蔵人をいう。
[17]諸大夫:しょだいぶ=公卿・殿上人を除く地下の四位、五位の廷臣。
[18]大内:たいだい=皇居の異称。内裏。禁中。宮中。大内山。
[19]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[20]応天門:おうてんもん=平安京大内裏八省院南面の正門で朱雀門に相対する。
[21]会昌門:かいしょうもん=平安京の大内裏朝堂院(八省院)の門。朝堂院二十五門の一つ。
[22]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[23]豊楽院:ぶらくいん=平安京大内裏の南部、朝堂院の西にあった一画。公的儀式のための宴会場で、大嘗会、節会、賜宴、饗宴、射礼などが行なわれた。
[24]諸司八省:しょしはっしょう=多くの役所、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の総称。
[25]朝所:あいたんどころ=太政官庁内の北東部にあった建物の名。ここで参議以上の人が会食し、また政務も行なった。
[26]灰燼:かいじん=灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと。
[27]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙をいう。
[28]塵灰:じんかい=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[29]費へ:ついへ=損害。被害。
[30]山王:さんのう=滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。また、その別称。
[31]清和天皇:せいわてんのう=第56代とされる天皇で、在位は858~876年だった。
[32]陽成院:ようぜいいん=第57代とされる天皇で、在位は876~884年、清和天皇の第1皇子でその譲位により即位した。
[33]後冷泉院:ごれいぜいいん=第70代とされる天皇で、在位は1045~1068年だった。
[34]後三条院:ごさんじょういん=第71代とされる天皇で、在位は1068~1072年だった。
[35]遷幸:せんこう=天皇・上皇が他の場所に行くこと。遷御。

<現代語訳>

同年4月28日、午後10時頃、樋口富小路より出火して、東南の風がはげしく吹いたので、京中の多くが焼けた。大きな車輪のような炎が、三町・五町を隔てて、西北の方向へ斜めに飛び越え飛び越えて延焼していったので、恐ろしいどころではなかった。あるいは具平親王の千種殿、あるいは北野の天神の紅梅殿、橘逸成の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、藤原冬嗣大臣の閑院殿、藤原基経の堀川殿、これらを始めとして、今昔の名所30ヶ所余り、公卿の家だけでにも16ヶ所まで焼失した。そのほか殿上人や諸大夫の家々は記すまでもない。ついには内裏に火が吹きつけて、朱雀門を始め、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司八省・朝所は、一時の内に灰燼に帰してしまった。家々の日記、代々の文書、珍しい多くの宝物も、すっかり塵と灰になってしまった。その損害はどれほどになるであろうか。焼死した者は数百人、牛馬の類は数え切れないほどだ。これはただ事ではない、山王権現のお咎めというので、比叡山から大きな猿達が二、三千匹降り下ってきて、手に手に松明を灯して京中を焼いてしまったのだと、人が夢に見るほどであった。
大極殿は、清和天皇の御世、貞観18年(876年)に始めて焼けてしまったので、貞観19年1月3日の陽成天皇の即位式は、豊楽院で行われた。元慶元年(877年)4月9日に着工式があって、元慶2年(878年)10月8日に竣工した。後冷泉天皇の御世、天喜5年(1057年)2月26日、再び焼失してしまった。治歴4年(1068年)8月14日、着工式があったけれども、竣工しない内に、後冷泉天皇が崩御されてしまった。後三条天皇の御世、延久4年(1072年)4月15日に竣工して、文人が詩を奉納、楽人が音楽を奏して、天皇をお迎えした。今は末世になって、国力も衰微したので、その後は終に再建されることはなかった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1948年(昭和23)夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)日米安全保障条約」(旧)が発効する詳細
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 今日は、794年(延暦13)に平安遷都され、桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京した日(平安遷都の日)ですが、新暦では11月22日となります。
 平安遷都(へいあんせんと)は、奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものでした。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められます。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km),東西32町(4.57km)に及びました。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされています。
 遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されました。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されています。
 以下に、『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分と『日本後紀』の平安京造営の停止の部分を抜粋しておきましたので、ご参照下さい。

〇平安京とは?

 桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところです。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられました。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移りました。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失します。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」


〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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