ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平城天皇

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 今日は、平安時代前期の810年(大同5)に、藤原藥子・仲成らが平城天皇の復位を企てて失敗した、薬子の変が起きた日ですが、新暦では10月12日となります。
 薬子の変(くすこのへん)は、平城上皇の寵愛を受けていた藤原薬子が、兄・仲成らと共に、上皇の重祚と平城京への復都を企てたものの、失敗に終わった事件でした。在位後3年の平城天皇が、809年(大同4年4月)に発病、同月13日に退位し、弟の神野親王が第52代天皇(嵯峨天皇)として即位し、上皇となります。
 それによって権勢を失った、平城上皇に寵愛を受けていた女官の藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、その兄・仲成(なかなり)が天皇の復位を画策、同年12月に、平城上皇は旧都である平城京へ移りました。そして、翌年6月に平城上皇は、突如として、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発し、さらに、9月6日には、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、政治に関与します。
 これに対し、嵯峨天皇側は、9月10日に使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処しました。そのため、11日に上皇は薬子とともに平城京から東国に向かい対抗しようとした薬子の変が起きましたが、坂上田村麻呂らに抑えられて失敗に終わり、藤原仲成は射殺されます。
 そこで、12日に平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺することとなりました。尚、9月17日に、越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらています。

〇薬子の変関係略年表(日付は旧暦です)

<806年(大同元)>
・3月17日 桓武天皇が亡くなり、皇太子・安殿親王が第51代天皇(平城天皇)として即位する

<809年(大同4)>
・4月 平城天皇が発病する
・4月13日 平城天皇が退位し、弟の神野親王が第52代天皇(嵯峨天皇)として即位する
・12月 平城上皇は旧都である平城京へ移る

<810年(大同5)>
・1月 嵯峨天皇が病に倒れて元日の朝賀が中止になる
・3月 嵯峨天皇は蔵人所を設置する
・6月 平城上皇は突如、観察使をやめて参議の号に復せとの詔を発する
・9月6日 平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出す
・9月10日 嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせ、藤原仲成を逮捕して佐渡権守に貶降し、薬子を追放に処する
・9月11日 平城天皇の復位を企てた薬子の変が起きるが、藤原仲成は射殺される
・9月12日 平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、藤原薬子は毒を仰いで自殺する
・9月17日 越前介の安倍清継らが上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとしたとして、越前介登美藤津や越前国に派遣された民部少輔紀南麻呂に捕らえらる
・9月19日 元号が「弘仁」と改元される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚する(新暦10月10日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1008年(寛弘5)第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細
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 今日は、奈良時代の774年(宝亀5)に、第51代の天皇とされる平城天皇が生まれた日ですが、新暦では9月25日となります。
 平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、はじめ名は小殿(おて)とされたものの、783年(延暦2)には、安殿(あて)と改名されました。785年(延暦4)に、藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって立太子し、788年(延暦7)に元服します。
 790年(延暦9)に罹病し、792年(延暦11)に占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされ、翌年には、春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されました。藤原式家縄主と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女を妃とした以後、薬子を寵愛し、東宮坊宣旨として臥処に出入りさせるなどしたので、醜聞を嫌った桓武天皇により薬子は宮廷から一時追放されます。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなったため第51代とされる天皇として即位し、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立て、薬子を尚侍(ないしのかみ)として復権させました。即位当初は政治に意欲的に取り組み、造都と蝦夷征討で疲弊した国家財政緊縮のため、808年(大同3)に中央官司の大規模な整理統合を実施、また、民情把握のため畿内七道に観察使を置いて地方政治に関する献策を行わせるなど政治の刷新に努めます。
 しかし、809年(大同4)に病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に移りました。810年(大同5)に平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りましたが、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪、それに怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたものの、遮られて平城京に戻り、薬子は自殺します(薬子の変)。
 これにより、直ちに剃髪入道して政治に関与せず、平城旧京に留まり、822年(弘仁13年)には、空海から戒を受け、灌頂を授かりました。しかし、824年(天長元年7月7日)に、奈良において、数え年51歳で亡くなり、大和)国添下郡の楊梅(やまもも)陵(現在の奈良市佐紀町)に葬られます。尚、詩歌を能くし、『凌雲集』、『経国集』に漢詩を残し、『古今和歌集』にも和歌が収載されました。

<平城天皇の代表的な歌>

・「故郷(ふるさと)と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり」(古今和歌集)

〇平城天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年8月15日) 奈良において、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・783年(延暦2年) 安殿(あて)と改名する
・784年(延暦3年11月11日) 長岡京に遷都される
・785年(延暦4年11月25日) 藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わり、立太子する
・788年(延暦7年1月15日) 元服する
・790年(延暦9年) 罹病する
・792年(延暦11年) 占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされる
・793年(延暦12年) 春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂される
・794年(延暦13年10月22日) 平安京に遷都される
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなったため践祚する
・806年(延暦25年5月18日) 第51代とされる天皇として即位式を行い、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てる
・808年(大同3年) 官司の統廃合を行い、緊縮財政に努める
・809年(大同4年4月1日) 病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となる
・809年(大同4年12月) 平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に入御する
・810年(大同5年9月6日) 平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図る
・810年(弘仁元年9月10日) 嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪する
・810年(弘仁元年9月11日) 薬子の官位を剥奪に怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、遮られて平城京に戻る(薬子の変)
・822年(弘仁13年) 空海から戒を受け、灌頂を授かる
・824年(天長元年7月7日) 奈良において、数え年51歳で亡くなる
・824年(天長元年7月12日) 大喪儀が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

952年(天暦6)第61代の天皇とされる朱雀天皇の命日(新暦9月6日)詳細
1716年(享保元)俳人山口素堂の命日(新暦9月30日)詳細
1808年(文化5)フェートン号事件が起きる(新暦10月4日)詳細
1940年(昭和15)立憲民政党が解党して、戦前の日本で全政党が解散に至る(大政翼賛会へ合流)詳細
1945年(昭和20)「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)がラジオで流されて、太平洋戦争敗戦が国民に伝えられる詳細
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 今日は、平安時代前期の807年(大同2)に、斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上された日ですが、新暦では3月25日となります。
 『古語拾遺(こごしゅうい)』は、古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書でした。漢文体の全1巻で、神代以降~奈良時代の天平年間 (729~749年) に至るまでの歴史を略述し、斎部氏の地位、功績が大きいことを力説して、平城天皇に献じた上表文の形式をとっています。
 斎部(忌部)氏は、645年(大化元)の大化改新後、中臣(なかとみ)氏に押されて衰運にあったため、勢力回復を図って、斎部家伝来の記録をもとに記述され、誇張や付会、歪曲が少なからずあるとされてきました。しかし、『古事記』や『日本書紀』に見られない古伝説も含まれ、上代研究の貴重な文献となっています。
 本書の内容は、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の国生みと、神々の誕生神話から起筆し、素戔嗚(すさのお)神の出生と天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の出現を明らかにし、天地開闢にあたって天の中枢にある根本的神格をもつ天御中主神をかかげて、忌部・中臣両氏を系譜的に位置付け、素戔嗚神の荒々しい行動によって、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れた物語をとおし、忌部・中臣両氏の祖先たちの果たした役割を示しました。さらに、後半部分で、中臣氏の専権に対する憤りを述べて、祭祀の問題点11ヶ条を記しています。
 伝本は、序、本文(神代古伝承・神武天皇以降の古伝承・古伝承に抜けた11ヶ条・御歳神祭祀の古伝承)、跋で構成され、後世になって、『古語拾遺』と称されるようになりました。
 以下に、『古語拾遺』の序の部分だけ掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『古語拾遺』序

 蓋聞:「上古之世、未有文字、貴賤老少、口相傳、前言往行、存而不忘。」書契以來、不好談古。浮華競興、還嗤舊老。遂使人歷世而彌新、事逐代而變改。顧問故實、靡識根源。國史、家牒、雖載其由、一二委曲、猶有所遺。愚臣不言、恐絕無傳。幸蒙召問、欲攎蓄憤。故錄舊說、敢以上聞、云爾。

<読み下し文>

 蓋し聞く、「上古[1]の世、未だ文字有らず、貴賎老少[2]、口々に相傅し、前言徃行、忘れざりあらむ。」書契[3]以来、古きを談るを好まず。浮華[4]を興に競ひ、還つて舊老[5]を嗤ふ。人の使ふに世を歴ていよいよ新しきを遂ふ、事は代を逐ふに改め變はる。顧へりみて故實[6]を問ふに、靡かに根源を識ず。國史[7]家牒[8]は雖だ其の由を載せ、一二を委曲[9]するも、猶も遺すところ有り。愚臣が言はずば、恐く傳へること無く絶へなむ。幸に召問[10]を蒙ふむり、蓄憤[11]を攄べんと欲す。故に舊説を録し、敢へて上聞[12]もつて、云ふことしかり。

【注釈】

[1]上古:かみこ=大昔。上代。
[2]貴賎老少:きせんろうしょう=貴人も卑しい者も老人も子供も。
[3]書契:しょけい=文字で書きしるしたもの。また、文字。
[4]浮華:ふか=うわべは華やかで、実質の乏しいこと。
[5]舊老:きゅうろう=昔の事柄を知っているとしより。宿老。故老。古老。
[6]故實:こじつ=昔からの慣例。儀式、法令、軍陣、作法などの先例と、先例となるに足りる事例。
[7]國史:こくし=朝廷が編纂した歴史書。
[8]家牒:かちょう=家に伝わる記録。家の系図などを、順序立てて記した文書。
[9]委曲:いきょく=詳しく細かなこと。また、物事の詳しい事情。委細。詳細。
[10]召問:めしとう=貴人が呼び寄せて事情などをききただす。
[11]蓄憤:ちくふん=溜まった憤り。蓄積した憤慨。
[12]上聞:じょうぶん=主君に申しあげること。主君の耳に入れること。また、君主へのきこえ。上聴。

<現代語訳>

 聞くところによると、「大昔にはまだ文字が無く、貴人も卑しい者も老人も子供も問わず口々に伝えていたが、その言った事や行った事や出来事を忘れはしないか。」と文字で書き記して以来、古きを語る事を好まなくなりました。うわべは華やかでも実質の乏しいことを競いあうようになり、還って昔の事柄を知っている年寄りをあざ笑っています。ついに世代を重ねて新しいことに従い、代が変わると変改してしまいました。かえりみて昔からの慣例を問うと、その根源が分からなくなりました。朝廷が編纂した歴史書や家に伝わる記録にこの由緒が掲載されていると言っても、一つや二つの詳細は、なおも漏れているものです。愚かな臣下でも言わなければ、恐らくは絶えてしまって伝わることもなくなります。幸いに(平城天皇に)召されて聞きただされましたので、蓄積して憤慨した思いを述べたいと思っています。それで、旧説を記録して、あえて天皇への上表文をもって、申し上げることになりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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