ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:平城京

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 今日は、奈良時代の784年(延暦3)に、桓武天皇が人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した日ですが、新暦では12月27日となります。
 長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)にあった桓武天皇が造営させた都でした。奈良時代の784年(延暦3年11月11日)に、平城京より遷都されましたが、785年(延暦4)に、造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死などがあり、造営工事はついに中止され、約10年間存在しただけで、794年(延暦13年10月22日)には、新京(平安京)に遷されています。
 南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられ、碁盤の目のような街並みが造営され、長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれ、東西方向の大路は、九条まで造られており、それぞれの大路に囲まれたなかは小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられました。1964年(昭和39)に、宮跡の一部は国史跡に指定され、周辺の発掘調査によって、1,000枚を超える木簡が出土、墨書土器とともに重要な資料を提供しています。

〇長岡京関係略年表

<延暦3年(784年)>
・5月7日 がま2万匹ばかり、難波の市の南道より四天王寺の内に入る(長岡遷都の前ぶれ)
・5月16日 中納言藤原小黒麻呂、同藤原種継、左大弁佐伯今毛人らを派遣、遷都のため山背国乙訓郡長岡村を視る
・6月10日 造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡宮・京を造り始める

<延暦3年(784年)>
・6月13日 遷都を山背国の賀茂大神社に告げ、今年の調・庸税と宮を造る人夫の必要物資を諸国に命じて新京の長岡宮へ運ばせる
・6月23日 新京に邸宅を造るため、 正税68万束を右大臣以下の政府要人に与える
・6月28日 長岡村の百姓宅で宮内に入るもの57町に立のき料として正税約4万3千束を与える
・7月4日 阿波・讃岐・伊豫の3国に命じて、山崎橋を造る料材を出させる
・11月11日 長岡京に遷都する
・11月20日 遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位。
・11月28日 賀茂上・下社、松尾・乙訓神の4社を修理する
・12月2日、18日、29日 宮城を築いた山背国葛野郡の秦足長ら、宮を造る功労者にそれぞれ叙位と賜爵を与える

<延暦3年(784年)>
・12月13日 王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する

<延暦4年(785年)>
・1月1日 長岡新京の大極殿で初めて朝賀式。五位以上の貴族、内裏で祝宴をする
・1月14日 摂津国神下・梓江・鯵生野に堀を作り、三国川に結ぼうとする(京へ資材運搬のため)
・3月3日 嶋院で天皇と貴族、曲水の宴をする
・5月19日 4月末に皇后宮に瑞兆の赤雀が現われたのを祝い、賜爵・叙位・免租等を行う
・5月24日 諸国貢進の調・庸税の粗悪について、国司・郡司の責任を明確にする
・7月20日 宮を造る人夫に諸国の百姓31万4千人を雇う
・7月24日 国司の正税流用を禁止する
・8月23日 太政官院の垣を築いた大秦宅守に叙位する
・9月23日 藤原種継暗殺される。
・9月24日 藤原種継暗殺の犯人大伴氏ら数十人逮捕される
・9月28日 早良皇太子廃し、乙訓寺へ幽閉される
・10月4日 班田収授のため、五畿内に使を派遣し、検田する
・11月25日 安殿親王(のちの平城天皇)立太子する

<延暦5年(786年)>
・1月21日 近江国滋賀郡にはじめて梵釈寺を造る
・4月11日 諸国の調・庸等の税の未納について、国司・郡司の怠慢を責める
・5月3日 左・右京および東・西の市人に物を賜う
・6月1日 諸国の正倉の火災について、国司の責任を明確にする
・7月19日 太政官院が完成する。百官はじめて朝座につく
・8月8日 蝦夷を攻めるため、この時より約2年間、東国にて兵士・武器・物資の準備を進める
・9月18日 渤海国の使、船一隻に乗って出羽国に漂着する
・9月29日 五畿内の班田長官を任命する

<延暦6年(787年)>
・閏5月11日 左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする
・10月8日 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔あり。また賑給・減税・賜爵を行う
・11月5日 天神を河内国の交野に祀る

<延暦7年(788年)>
・9月26日 「水陸の便あって都市を長岡に建つ。しかも宮室未だ就らず、興作いよいよ多くして徴発の苦すこぶる百姓にあり」を詔して、減税を行う
・12月7日 征東大将軍紀古佐美、節刀を賜わり蝦夷へ出征する

<延暦8年(789年)>
・1月6日 五位以上、南院で節会。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される
・1月17日 この頃「造東大宮所」が東大宮(第2次内裏)を造る(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
・2月27日 天皇、西宮(第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る
・3月1日 造宮使、お酒食等を献上して祝う
・3月9日 軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める
・3月16日 造東大寺司を廃止する
・7月14日 伊勢・美濃・越前の三関を廃止する
・11月9日 造宮大工物部建麻呂に叙位する
・12月28日 桓武天皇の母高野新笠没する

<延暦9年(790年)>
・1月15日 桓武天皇の母高野新笠を大枝山陵に葬る
・閏3月4日 蝦夷を攻めるため、これより約2年間、諸国に命じて武器・軍糧を準備させる
・閏3月10日 皇后藤原乙牟漏没する
・10月2日 再び鋳銭司を設置する
・11月3日 税の欠負未納を補塡する公廨稲の割合を設定する

<延暦10年(791年)>
・3月6日 吉備真備・大和長岡らによる刪定律令24条を施行する
・4月18日 山背国内の諸寺の塔を修理する
・5月29日 翌年の班田に備え、国司・王臣家・殷富百姓が下田を上田に換える等の不法を改める
・6月25日 再び山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる
・8月5日 畿内の班田使を任じる。
・9月16日 平城宮の諸門を壊し運んで長岡宮に移し造らせる

<延暦11年(792年)>
・1月9日 天皇、諸院を巡行し、猪隈院にて五位以上に弓を射さす
・6月7日 諸国の兵士制を廃止する
・6月14日 健児の制を設ける
・6月10日 皇太子の病を占い、「早良親王の崇り」とでる
・6月22日 式部省の南門、激しい雷雨で倒れる
・8月9日 大雨・洪水で桂川等あふれる
・8月11日 天皇、紀伊郡赤目崎にて洪水を視る
・10月28日 京畿に限って班田を実施し、細則を一部修正する
・閏11月1日 新弾例83条を施行する

<延暦12年(793年)>
・1月15日 大納言藤原小黒痳呂、左大弁紀古佐美らを遣し、遷都のため山背国葛野郡宇太村を視る
・1月21日 宮を壊体するため天皇東院に移る
・2月2日 遷都を賀茂大神に告げる
・3月1日 葛野の行幸し、はじめて新京を巡行する
・3月12日 新京の宮城を築かせる
・6月23日 新宮の諸門を造らせる
・7月7日 馬埒殿で節会の相撲あり
・9月2日 新京の宅地を班給する

<延暦13年(794年)>
・6月13日 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を坆めて勝利を得る
・7月1日 東・西の市を新京に移。
・8月13日 右大臣藤原継縄ら「続日本紀」を撰修する
・10月22日 新京(平安京)に遷る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(貞和4)第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の命日(新暦12月2日)詳細
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 今日は、奈良時代の774年(宝亀5)に、第51代の天皇とされる平城天皇が生まれた日ですが、新暦では9月25日となります。
 平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、はじめ名は小殿(おて)とされたものの、783年(延暦2)には、安殿(あて)と改名されました。785年(延暦4)に、藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって立太子し、788年(延暦7)に元服します。
 790年(延暦9)に罹病し、792年(延暦11)に占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされ、翌年には、春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されました。藤原式家縄主と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女を妃とした以後、薬子を寵愛し、東宮坊宣旨として臥処に出入りさせるなどしたので、醜聞を嫌った桓武天皇により薬子は宮廷から一時追放されます。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなったため第51代とされる天皇として即位し、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立て、薬子を尚侍(ないしのかみ)として復権させました。即位当初は政治に意欲的に取り組み、造都と蝦夷征討で疲弊した国家財政緊縮のため、808年(大同3)に中央官司の大規模な整理統合を実施、また、民情把握のため畿内七道に観察使を置いて地方政治に関する献策を行わせるなど政治の刷新に努めます。
 しかし、809年(大同4)に病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に移りました。810年(大同5)に平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りましたが、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪、それに怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたものの、遮られて平城京に戻り、薬子は自殺します(薬子の変)。
 これにより、直ちに剃髪入道して政治に関与せず、平城旧京に留まり、822年(弘仁13年)には、空海から戒を受け、灌頂を授かりました。しかし、824年(天長元年7月7日)に、奈良において、数え年51歳で亡くなり、大和)国添下郡の楊梅(やまもも)陵(現在の奈良市佐紀町)に葬られます。尚、詩歌を能くし、『凌雲集』、『経国集』に漢詩を残し、『古今和歌集』にも和歌が収載されました。

<平城天皇の代表的な歌>

・「故郷(ふるさと)と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり」(古今和歌集)

〇平城天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年8月15日) 奈良において、桓武天皇の第一皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・783年(延暦2年) 安殿(あて)と改名する
・784年(延暦3年11月11日) 長岡京に遷都される
・785年(延暦4年11月25日) 藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わり、立太子する
・788年(延暦7年1月15日) 元服する
・790年(延暦9年) 罹病する
・792年(延暦11年) 占いによりこの病が早良親王の祟りであるとされる
・793年(延暦12年) 春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂される
・794年(延暦13年10月22日) 平安京に遷都される
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなったため践祚する
・806年(延暦25年5月18日) 第51代とされる天皇として即位式を行い、賀美能親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てる
・808年(大同3年) 官司の統廃合を行い、緊縮財政に努める
・809年(大同4年4月1日) 病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となる
・809年(大同4年12月) 平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に入御する
・810年(大同5年9月6日) 平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図る
・810年(弘仁元年9月10日) 嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪する
・810年(弘仁元年9月11日) 薬子の官位を剥奪に怒って兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、遮られて平城京に戻る(薬子の変)
・822年(弘仁13年) 空海から戒を受け、灌頂を授かる
・824年(天長元年7月7日) 奈良において、数え年51歳で亡くなる
・824年(天長元年7月12日) 大喪儀が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

952年(天暦6)第61代の天皇とされる朱雀天皇の命日(新暦9月6日)詳細
1716年(享保元)俳人山口素堂の命日(新暦9月30日)詳細
1808年(文化5)フェートン号事件が起きる(新暦10月4日)詳細
1940年(昭和15)立憲民政党が解党して、戦前の日本で全政党が解散に至る(大政翼賛会へ合流)詳細
1945年(昭和20)「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)がラジオで流されて、太平洋戦争敗戦が国民に伝えられる詳細
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 今日は、奈良時代の710年(和銅3)に、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した日ですが、新暦では4月13日となります。
 平城京(へいじょうきょう)は、710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移ったまでの74年間の都だったところです。707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により造営の詔が出されました。
 「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
 唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
 さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。
 奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇『続日本紀』の「平城京遷都」の記事 710年(和銅3年3月10日)

<原文> 

辛酉。始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。

   『続日本紀』巻第五より

<読み下し文>

辛酉。始て都を平城に遷す。以左大臣正二位石上の朝臣麿を留守と爲す。

<現代語訳>

3月10日。初めて都を平城京に遷す。左大臣・正二位石上の朝臣麿を(藤原京)の留守司とする。

〇『続日本紀』の「平城京造営の詔」の記事 708年(和銅元年2月15日) 

<原文> 

和銅元年二月。
戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。処紫宮之尊。常以為。作之者労。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所帰。唯朕一人。豈独逸予。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之号。周后三定。致太平之称。安以遷其久安宅。方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎮。亀筮並従。宜建都邑。宜其営構資、須随事条奏。亦待秋収後。令造路橋。子来之義、勿致労擾。制度之宜。令後不加。

   『続日本紀』巻第四より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

和銅元年2月戌寅、詔して曰く、
『朕祇みて上玄[1]に奉じ、宇内[2]に君臨す。菲薄の徳を以て、紫宮[3]の尊に処れり。常に以為らく、之を為す者は労し、之に居る者は逸す。遷都の事、必しも未だ遑[4]あらず、而も王公大臣咸云ふ。往古以降近代に至り、日を挑り[5]星を瞻て[6]、宮室[7]の基を起し、世を卜し[8]土を相して[9]、帝王の邑を建つ。永鼎[10]の基を定め、無窮[11]の業を固うすることここにあらんと。衆議忍び難く詞情深く切なり。然らば則ち京師は百官の府[12]、四海[13]の帰する所、ただ朕一人のみ独り逸予[14]せんや。苟くも物に利あらば、それ遠ざかるべけんや。昔は段王五たび遷りて中興の号を受け、周公三たび定めて太平の称を致す。安んじて以てその久安の宅を遷せるなり。方今[15]平城の地四禽図[16]に叶い三山[17]鎮をなす。亀筮[18]並び従ふ。宜しく都邑[19]を建つべじ。其の營構[20]を宜うし、資は須らく事条に随って奏すべし。亦秋収[21]の後を待って、路橋を造らしめて、子来[22]の義、労擾[23]を致すこと勿れ。制度の宜後に加へざらしめよ。』と。

【注釈】

[1]上玄:じょうげん=天のこと。
[2]宇内:うだい=天下。世界。
[3]紫宮:しきゅう=天帝の居所。皇居。
[4]遑:いとま=時間の余裕。ひま。
[5]日を挑り:ひをはかり=太陽を観測すること。
[6]星を瞻て:ほしをみて=星を観測すること。
[7]宮室:きゅうしつ=帝王、天皇の住む宮殿。また、転じて、帝王、天皇の一族。皇室。
[8]世を卜し:よをぼくし=世界を占うこと。
[9]土を相して:つちをそうして=地相をみること。
[10]永鼎:えいけん=王位を安定させること。王位を永続させること。
[11]無窮:むきゅう=果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。
[12]百官の府:ひゃっかんのふ=多くの役人が事務をとる所。
[13]四海:しかい=国内。くにじゅう。世界。世の中。天下。
[14]逸予:いつよ=気ままに遊び楽しむこと。
[15]方今:ほうこん=まさに今。ただ今。また、このごろ。現今。
[16]四禽図:しきんと=四つの方角を現す神獣、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)のこと。
[17]三山:さんざん=春日山、奈良山、生駒山のこと。
[18]亀筮:きぜい=亀の甲や筮竹を用いる卜占。うらない。
[19]都邑:とゆう=みやこ。
[20]営構:えいこう=事業をいとなむこと。また、組織し経営すること。
[21]秋収:しゅうしゅう=秋の農作物のとりいれをすること。秋の収穫。
[22]子来:じらい=子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まること。
[23]労擾:ろうじょう=つかれみだれること。あくせくする。辛苦する。 

<現代語訳> 平城京造営の詔

和銅元年(708年)二月戊寅(15日)
 詔の中で次のように述べられた。「私(元明天皇)は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳が薄いにもかかわらず、皇居の天皇という位にいる。常に思うのに、「天皇の住む宮殿を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」という言葉である。遷都のことは、必ずしも時間の余裕のないことではない。ところが王公大臣はみな言う。「昔から近年に至るまで、太陽や星を観測して、東西南北を確かめ、天皇の住む宮殿の基礎を定め、世を占い地相を見て、帝皇の都を建てている。天子の証である鼎を安定させる基礎は、永く固く果てしなく、天子の業もここに定まるであろう」と。多くの臣下が議論することは抑えることが困難で、その言葉も情も深く切実である。そして都というものは多くの役人が事務をとる所であり、国中の民が集まるところであって、ただ私(元明天皇)一人がどうして独り気ままに遊び楽しんでいて好かろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。昔、殷の諸王は5回遷都して、国を中興したと称えられ、周の諸王は3度都を定めて、太平の誉れを残した。安んじてその久安の住居を遷そう。まさに今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の4つの動物が陰陽の吉相に配され、三山(春日山、奈良山、生駒山)が鎮護の働きをなし、亀の甲や筮竹を用いる卜占にもかなっている。ここにみやこを建てるべきである。その事業を営むことをよろしくし、資材は必要に応じて箇条書きにして奏上せよ。また秋の収穫が終了するのを待って、道路や橋を造らせよ。子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まって来るもので、仮りにも民衆を疲れ乱れさせるようなことがあってはならない。制度を適切なものとし、後から負担を増加することが無いようにせよ。」と。
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
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 今日は、奈良時代の735年(天平7)に、皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王が亡くなった日ですが、新暦では12月2日となります。
 舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代の676年(天武天皇5)に、飛鳥(現在の奈良県)で、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれました。695年(持統天皇9)に浄広弐に叙せられ、701年(大宝元年)には、大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられます。
 718年(養老2)に一品に叙せられ、翌年には元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となり、内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられ、計2,000戸となりました。720年(養老4)に、かねてから勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上しています。
 720年(養老4)に藤原不比等(ふひと)がなくなると、知太政官事となって政務を総覧し、724年(神亀元年)には、聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられました。729年(神亀6)の長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問して自害させ、また、藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べています。
 しかし、735年(天平7年11月14日)に奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られました。歌人としても知られ、後に編纂された『万葉集』に短歌3首入集しています。
 尚、子の大炊王が淳仁天皇となったので、759年(天平宝字3)に崇道尽敬皇帝の称が追号されました。

<代表的な歌>

・「大夫(ますらを)や 片恋ひせむと 嘆けども 鬼(しこ)の大夫 なほ恋ひにけり」 (万葉集)
・「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」 (万葉集)
・「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」 (万葉集)

〇舎人親王関係略年表(日付は旧暦です)

・676年(天武天皇5年) 飛鳥において、天武天皇の第3皇子(母は天智天皇の娘新田部皇女)として生まれる
・695年(持統天皇9年1月5日) 浄広弐に叙せられる
・701年(大宝元年) 大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品に叙せられる
・704年(大宝4年1月11日) 封200戸を加えられる
・714年(和銅7年1月3日) 封200戸を加えられる
・718年(養老2年1月5日) 一品に叙せられる
・719年(養老3年) 元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となる
・719年(養老3年) 内舎人2人・大舎人4人・衛士30人を賜与、封800戸を加えられる(計2,000戸となる)
・720年(養老4年5月) 勅命を受けて太安万侶らとともに編修した『日本書紀』30巻、系図1巻を完成させて奏上する
・720年(養老4年8月4日) 知太政官事となって政務を総覧する
・724年(神亀元年) 聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられる
・729年(神亀6年2月) 長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害させる
・729年(神亀6年8月) 藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる
・735年(天平7年11月14日) 奈良平城京において、数え年60歳で亡くなり、太政大臣を贈られる
・759年(天平宝字3年6月16日) 淳仁天皇より、崇道尽敬皇帝を追号される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細


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 今日は、飛鳥時代の708年(和銅元)に、元明天皇が平城京造営の詔を布告した日ですが、新暦では3月11日となります。
 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移るまで、74年間の都だったところでした。
 707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により遷都の詔が出されます。「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされてきました。
 工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていったと考えられています。
 唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されていました。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分し、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。
 平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。
 しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。
 尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されています。
 以下に、『続日本紀』巻4の和銅元年(708年)二月戊寅(15日)条に掲載されている「平城京造営の詔」を全文載せておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』平城京造営の詔の布告

<原文>

☆和銅元年(708年)二月戊寅(15日)条
「戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。処紫宮之尊。常以為。作之者労。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所帰。唯朕一人。豈独逸予。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之号。周后三定。致太平之称。安以遷其久安宅。方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎮。亀筮並従。宜建都邑。宜其営構資、須随事条奏。亦待秋収後。令造路橋。子来之義、勿致労擾。制度之宜。令後不加。」

<読み下し文>

和銅元年2月戌寅
 詔して曰く、「朕祇みて上玄[1]に奉じ、宇内[2]に君臨す。菲薄の徳を以て、紫宮[3]の尊に処れり。常に以為らく、之を為す者は労し、之に居る者は逸す。遷都の事、必しも未だ遑[4]あらず、而も王公大臣咸云ふ。往古以降近代に至り、日を挑り[5]星を瞻て[6]、宮室[7]の基を起し、世を卜し[8]土を相して[9]、帝王の邑を建つ。永鼎[10]の基を定め、無窮[11]の業を固うすることここにあらんと。衆議忍び難く詞情深く切なり。然らば則ち京師は百官の府[12]、四海[13]の帰する所、ただ朕一人のみ独り逸予[14]せんや。苟くも物に利あらば、それ遠ざかるべけんや。昔は段王五たび遷りて中興の号を受け、周公三たび定めて太平の称を致す。安んじて以てその久安の宅を遷せるなり。方今[15]平城の地四禽図[16]に叶い三山[17]鎮をなす。亀筮[18]並び従ふ。宜しく都邑[19]を建つべじ。其の營構[20]を宜うし、資は須らく事条に随って奏すべし。亦秋収[21]の後を待って、路橋を造らしめて、子来[22]の義、労擾[23]を致すこと勿れ。制度の宜後に加へざらしめよ。」と。

【注釈】
[1]上玄:じょうげん=天のこと。
[2]宇内:うだい=天下。世界。
[3]紫宮:しきゅう=天帝の居所。皇居。
[4]遑:いとま=時間の余裕。ひま。
[5]日を挑り:ひをはかり=太陽を観測すること。
[6]星を瞻て:ほしをみて=星を観測すること。
[7]宮室:きゅうしつ=帝王、天皇の住む宮殿。また、転じて、帝王、天皇の一族。皇室。
[8]世を卜し:よをぼくし=世界を占うこと。
[9]土を相して:つちをそうして=地相をみること。
[10]永鼎:えいけん=王位を安定させること。王位を永続させること。
[11]無窮:むきゅう=果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。
[12]百官の府:ひゃっかんのふ=多くの役人が事務をとる所。
[13]四海:しかい=国内。くにじゅう。世界。世の中。天下。
[14]逸予:いつよ=気ままに遊び楽しむこと。
[15]方今:ほうこん=まさに今。ただ今。また、このごろ。現今。
[16]四禽図:しきんと=四つの方角を現す神獣、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)のこと。
[17]三山:さんざん=春日山、奈良山、生駒山のこと。
[18]亀筮:きぜい=亀の甲や筮竹を用いる卜占。うらない。
[19]都邑:とゆう=みやこ。
[20]営構:えいこう=事業をいとなむこと。また、組織し経営すること。
[21]秋収:しゅうしゅう=秋の農作物のとりいれをすること。秋の収穫。
[22]子来:じらい=子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まること。
[23]労擾:ろうじょう=つかれみだれること。あくせくする。辛苦する。

<現代語訳>

和銅元年(708年)二月戊寅(15日)
 詔の中で次のように述べられた。「私(元明天皇)は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳が薄いにもかかわらず、皇居の天皇という位にいる。常に思うのに、「天皇の住む宮殿を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」という言葉である。遷都のことは、必ずしも時間の余裕のないことではない。ところが王公大臣はみな言う。「昔から近年に至るまで、太陽や星を観測して、東西南北を確かめ、天皇の住む宮殿の基礎を定め、世を占い地相を見て、帝皇の都を建てている。天子の証である鼎を安定させる基礎は、永く固く果てしなく、天子の業もここに定まるであろう」と。多くの臣下が議論することは抑えることが困難で、その言葉も情も深く切実である。そして都というものは多くの役人が事務をとる所であり、国中の民が集まるところであって、ただ私(元明天皇)一人がどうして独り気ままに遊び楽しんでいて好かろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。昔、殷の諸王は5回遷都して、国を中興したと称えられ、周の諸王は3度都を定めて、太平の誉れを残した。安んじてその久安の住居を遷そう。まさに今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の4つの動物が陰陽の吉相に配され、三山(春日山、奈良山、生駒山)が鎮護の働きをなし、亀の甲や筮竹を用いる卜占にもかなっている。ここにみやこを建てるべきである。その事業を営むことをよろしくし、資材は必要に応じて箇条書きにして奏上せよ。また秋の収穫が終了するのを待って、道路や橋を造らせよ。子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まって来るもので、仮りにも民衆を疲れ乱れさせるようなことがあってはならない。制度を適切なものとし、後から負担を増加することが無いようにせよ。」と。

〇平城宮跡とは?

 奈良県奈良市にある奈良時代の平城京の大内裏の跡で、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあります。
 この間、文化庁が遺跡の整備・建造物の復原を進めてきていて、既に第一次大極殿、朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復原が完了しました。1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されています。
 出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができるようになりました。また、朱雀門の近くに「平城京歴史館」があって、遣唐使船が復原展示され、平城京の歴史についても学ぶことができるようになっています。
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