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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、評論家・英文学者・平和運動家中野好夫が亡くなった日です。
 中野好夫(なかの よしお)は、明治時代後期の1903年(明治36)8月2日に、愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれましたが、翌年に父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居しました。旧制徳島県立徳島中学校、旧制第三高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部英文科に入学します。
 1926年(大正15)に卒業後、千葉県成田町成田中学校の英語教師となりましたが、胸の疾患で入院して退職、1928年(昭和3)には、東京都郁文館中学に英語教師として再び就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をしました。1929年(昭和4)に東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務め、1931年(昭和6)にルーカスの『批評論』を翻訳刊行、1934年(昭和9)には、『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となります。
 1935年(昭和10)に東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となり、1940年(昭和15)に評伝『アラビアのロレンス』、1943年(昭和18)に『文学評論集』を刊行しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に『反省と出発』、1947年(昭和22)に『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行し、1948年(昭和23)には、東京大学文学部教授となります。
 1949年(昭和24)に「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、1950年(昭和25)には、日本英米文学会の会長(~1952年)となりました。1953年(昭和28)に東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤め、1954年(昭和29)には、渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ねます。
 1958年(昭和33)に東京女子大学講師を辞め、、1960年(昭和35)に沖縄資料センターを東京に設立、1961年(昭和36)には、『最後の沖縄県知事』を刊行し、1964年(昭和39)には、中央大学文学部教授(~1968年)となりました。1965年(昭和40)に『私の憲法勉強』を刊行、1967年(昭和42)には、日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞しています。
 1968年(昭和43)に『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行、1969年(昭和44)に『戦後資料沖縄』を編纂して刊行、1970年(昭和45)には、「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受けました。1971年(昭和46)に東京女子大学大学院講師となり、1974年(昭和49)には、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞しています。
 1978年(昭和53)に第14回琉球新報賞受賞を受賞、1983年(昭和58)には、「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞しました。その他に、憲法擁護や第五福竜丸の保存運動、原水禁運動の統一などに力を尽くしてきましたが、1985年(昭和60)2月20日に、東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなっています。

〇中野好夫の主要な著作

・翻訳『雨』サマセット・モーム作(1940年) 
・翻訳『ガリヴァ旅行記』ジョナサン・スウィフト作(1940年) 
・『文学試論集』全三冊(1942~52年)
・『エリザベス朝演劇講話』(1947年)
・翻訳『ベニスの商人』シェークスピア作(1948年)
・『人間の名において』(1954年)
・『ぼらのへそ』(1958年)
・評伝『アラビアのロレンス』(1963年)
・『シェイクスピアの面白さ』(1967年)第21回毎日出版文化賞受賞
・『スウィフト考』(1969年)
・『人間の死にかた』(1969年)
・『蘆花徳冨健次郎(ろかとくとみけんじろう)』全三部(1972~74年)第1回大仏次郎賞受賞
・翻訳『ローマ帝国滅亡史』ギボン作(1976~85年)未完

☆中野好夫関係略年表

・1903年(明治36)8月2日 愛媛県松山市道後町において、伊予鉄道に勤務する父・中野容次郎と母・しんの長男として生まれる
・1904年(明治37) 父が徳島鉄道に転じたので、徳島県徳島市に転居する
・1910年(明治43) 徳島市立寺島尋常小学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制徳島県立徳島中学校へ入学する
・1920年(大正9) 旧制徳島中学校4年修了で、京都に出て旧制第三高等学校文科甲類に入学する
・1923年(大正12) 東京帝国大学文学部英文科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部英文科を卒業し、千葉県成田町成田中学校の英語教師となるが、胸の疾患で入院する
・1928年(昭和3) 東京都郁文館中学に英語教師として就職、「演劇改造」の同人に加わり、劇作、劇評をする
・1929年(昭和4) 東京府立女子師範学校、次いで、府立第二高等学校の英語教師を務める
・1930年(昭和5) 土井晩翠の娘・信と結婚する
・1931年(昭和6) ルーカスの『批評論』を翻訳刊行する
・1934年(昭和9) 『バニャン』を刊行、東京女子師範学校助教授となる
・1935年(昭和10) 東京女子大学講師を兼任、東京帝国大学文学部助教授となる
・1939年(昭和14) 「知識人のある傾向について」を「思想」に発表する
・1940年(昭和15) 評伝『アラビアのロレンス』を刊行、妻・信が亡くなる
・1942年(昭和17) 中村勝麻呂の娘・静と再婚する
・1943年(昭和18) 『文学評論集』を刊行する
・1946年(昭和21) 『反省と出発』を刊行する
・1947年(昭和22) 『教養と文化』、『エリザベス朝演劇河和』を刊行する
・1948年(昭和23) 東京大学文学部教授となり、『怒りの花束』、『英米文学論』を刊行する
・1949年(昭和24) 「戦争と平和に関する日本の科学者の生命」を起草委員の一人として作成、『南極のスコット』を刊行する
・1950年(昭和25) 日本英米文学会の会長(~1952年)となる
・1951年(昭和26) 『良識と寛容』を刊行する
・1952年(昭和27) 『私の平和論』を刊行する
・1953年(昭和28) 東京大学文学部教授を辞任、雑誌「平和」の編集責任者(~1955年)を勤める
・1954年(昭和29) 渡米して帰国後、南米、ラテン・アメリカ、ヨーロッパを訪ね、『人間の名において』を刊行する
・1956年(昭和31) 『私の消極哲学』を刊行する
・1957年(昭和32) バーチェット『十七度線の北』を翻訳刊行、『平和と良識』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京女子大学講師を辞め、『ぼらのへそ』を刊行する
・1960年(昭和35) 沖縄資料センターを東京に設立する
・1961年(昭和36) 『最後の沖縄県知事』を刊行する
・1964年(昭和39) 中央大学文学部教授(~1968年)となる
・1965年(昭和40) 『私の憲法勉強』を刊行する
・1967年(昭和42) 日本マスコミ市民会議の常任理事、「明るい革新都政をつくる会」のメンバーとなって美濃部革新都政誕生に貢献、『シェイクスピアの面白さ』を刊行し、第21回毎日出版文化賞を受賞する
・1968年(昭和43) 『沖縄問題を考える』の代表編者として刊行する
・1969年(昭和44) 『戦後資料沖縄』を編纂して刊行する
・1970年(昭和45) 「沖縄資料センター設立並びに運営につくした功績」により、沖縄タイムス社から感謝状を受け、新崎盛暉と共著で『沖縄・70年前後』を刊行する
・1971年(昭和46) 東京女子大学大学院講師となる
・1972年(昭和47) 『沖縄と私』、『蘆花徳富健次郎 第一部・第二部』を刊行する
・1973年(昭和48) 『忘れえぬ日本人』を刊行する
・1974年(昭和49) 『蘆花徳富健次郎 第三部』を刊行、『蘆花徳冨健次郎』(全3巻、1972年~74年)で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1976年(昭和51) 『沖縄戦後史』、『風雨前後』を刊行、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅰを翻訳刊行する
・1978年(昭和53) 第14回琉球新報賞受賞を受賞、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅱを翻訳刊行する
・1981年(昭和56) ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅲを翻訳刊行する
・1983年(昭和58) 「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により、昭57年度朝日賞を受賞する
・1985年(昭和60)2月20日 東京都において、肝臓がんにより、81歳で亡くなる

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