ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:幕臣

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 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、幕末・明治期の幕臣・政治家勝海舟が生まれた日ですが、新暦では3月12日となります。
 勝海舟(かつ かいしゅう)は、江戸本所亀沢町において、貧乏旗本の父・勝左衛門太郎(小吉)の長男として生まれましたが、名は義邦(のち安芳)、通称を麟太郎と言いました。1829年(文政12年)に江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞の遊び相手として江戸城へ召され、1838年(天保9)には家督相続し、小普請組に入って40俵扶持となります。
 1845年(弘化2)頃から永井青崖について蘭学を学び、1850年(嘉永3年)に自宅で蘭学塾を開くようになり、1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が来航し開国を要求されると、積極開港論を軸とする海防策を建議しました。それが認められ、1855年(安政2)に大久保忠寛に推挙されて、異国応接掛附蘭書翻訳御用となり、海防掛視察団に加わって伊勢および大坂湾一帯の防備体制を調査します。
 同年に海軍伝習重立取扱となり、小普請組から小十人組に組替られ、さらに講武所砲術師範役となり、大番に替わりました。1859年(安政6)にアメリカ派遣を命ぜられ、翌年に品川から咸臨丸で出航、1年余りで江戸に帰府し、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となって石高400石取りとなります。
 1862年(文久2)に軍艦奉行並に異動、役高1,000石となり、1864年(文久3)には摂海警衛及び神戸操練所運営を委任されました。1864年(元治元)に作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2,000石の大身となり、武家官位として従五位下に叙され安房守に任官します。1867年(慶応3)に海軍伝習掛を兼帯、翌年には海軍奉行並に異動、役高5,000石となって列座は陸軍奉行並の上となりました。1868年(慶応4)に薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見、江戸城無血開城を実現、翌年には明治新政府の外務大丞、兵部大丞を任され、1872年(明治5)には海軍大輔に任官します。
 1873年(明治6)に参議、1875年(明治8)に元老院議官となり、1887年(明治20)に伯爵を受爵し、1888年(明治21)には枢密顧問官となりました。晩年は、旧幕府の歴史の著述に力を入れ、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『吹塵録』、『開国起源』などを著しましたが、1899年(明治32年)1月19日に、東京の自宅において、数え年77歳で亡くなっています。

〇勝海舟の主要な著作

・『まがきのいばら』
・『亡友帖』
・『断腸の記』
・『幕府始末』
・『外交余勢』
・『海軍歴史』
・『陸軍歴史』
・『吹塵録(すいじんろく)』
・『開国起源』(1893年)
・自伝『氷川清話』

☆勝海舟関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1823年(文政6年1月30日) 江戸本所亀沢町で、貧乏旗本の父・勝左衛門太郎(小吉)の長男として生まれる
・1829年(文政12年) 江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞の遊び相手として江戸城へ召される
・1831年(天保2年) 9歳の時に野良犬に襲われて負傷する
・1838年(天保9年7月27日) 家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持となる
・1845年(弘化2年頃~) 永井青崖について蘭学を学ぶ
・1846年(弘化3年) 住居が本所から赤坂田町に移る
・1850年(嘉永3年) 自宅で蘭学塾を開くようになる
・1853年(嘉永6年) ペリー艦隊が来航し開国を要求されると、積極開港論を軸とする海防策を建議する
・1855年(安政2年1月18日) 大久保忠寛に推挙されて、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる
・1855年(安政2年1月23日~4月3日) 海防掛視察団に加わって伊勢及び大坂湾一帯の防備体制を調査する
・1855年(安政2年7月29日) 海軍伝習重立取扱となる
・1855年(安政2年8月7日) 小普請組から小十人組に組替となる
・1856年(安政3年3月11日) 講武所砲術師範役となる
・1856年(安政3年6月30日) 小十人組から大番に替わる
・1859年(安政6年5月) 伊予松山藩が武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に築造した砲台を設計する
・1859年(安政6年7月) 氷川神社の近くに移り住む
・1859年(安政6年11月24日) アメリカ派遣を命ぜられる
・1860年(安政7年1月13日) 品川から咸臨丸出航する
・1860年(安政7年2月26日) サンフランシスコに入航する
・1860年(安政7年閏3月8日) サンフランシスコを出航する
・1860年(万延元年5月6日) 品川沖に入航する
・1860年(万延元年5月7日) 江戸に帰府する
・1860年(万延元年6月24日) 天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる
・1861年(文久元年9月5日) 天守番頭格・講武所砲術師範役に異動する
・1862年(文久2年7月4日) 二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動する
・1862年(文久2年閏8月17日) 軍艦奉行並に異動、役高1,000石となる
・1864年(文久3年2月5日) 摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される
・1864年(元治元年5月14日) 作事奉行次席軍艦奉行に異動して役高2,000石となり、従五位下に叙され安房守に任官する
・1864年(元治元年11月10日) 軍艦奉行を罷免され、寄合席となる
・1866年(慶応2年5月28日) 町奉行次席軍艦奉行に復職する
・1867年(慶応3年3月5日) 海軍伝習掛を兼帯する
・1868年(慶応4年1月17日) 海軍奉行並に異動、役高5,000石、列座は陸軍奉行並の上となる
・1868年(慶応4年1月23日) 陸軍総裁に異動、列座は若年寄の次座となる
・1868年(慶応4年2月25日) 陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動する
・1868年(慶応4年3月13日・14日) 薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城する
・1869年(明治2年7月13日) 諱を安芳と改める
・1869年(明治2年7月18日) 維新政府の外務大丞に任官する
・1869年(明治2年8月13日) 外務大丞を辞す
・1869年(明治2年11月23日) 兵部大丞に任官する
・1870年(明治3年6月12日) 兵部大丞を辞す
・1872年(明治5年5月10日) 海軍大輔に任官する
・1872年(明治5年6月15日) 従四位に昇叙する
・1873年(明治6年)10月25日 参議に転任し、海軍卿を兼任する
・1874年(明治7年)2月18日 正四位に昇叙する
・1875年(明治8年)4月25日 元老院議官に異動する
・1875年(明治8年)4月27日 元老院議官を辞表を提出する
・1875年(明治8年)11月28日 元老院議官を辞す
・1887年(明治20年)5月9日 伯爵を受爵する
・1887年(明治20年)12月 従三位に昇叙する
・1888年(明治21年)4月30日 枢密顧問官に任官する
・1888年(明治21年)10月 正三位に昇叙する
・1889年(明治22年)5月8日 枢密顧問官の辞表を提出するが、翌日却下される
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1889年(明治22年)12月 勲一等瑞宝章を受章する
・1890年(明治23年)7月10日 貴族院議員に当選するものの辞退する
・1892年(明治25年)3月5日 御紋付御盃を拝領する
・1893年(明治26年) 『開国起源』の編纂が成る
・1894年(明治27年)6月30日 従二位に昇叙する
・1896年(明治29年)3月28日 金盃一個を拝領する
・1896年(明治29年)10月27日 枢密顧問官辞表を提出する
・1896年(明治29年)11月4日 辞表が却下され、山田方谷遺蹟碑の題字を担当する
・1898年(明治31年)2月26日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1899年(明治32年)1月19日 東京の自宅において、数え年77歳で亡くなる
・1899年(明治32年)1月20日 正二位を贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細


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 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)が亡くなった日です。
 ジョン万次郎(ジョン まんじろう)は、1827年1月27日(文政10年1月1日)に、土佐国幡多郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の父・悦介(えつすけ)、母・汐(しお)の次男として生まれました。9歳で父親を亡くし、10歳で中浜浦老役を務め、今津太平宅に下働きに出ます。
 1841年(天保12)に14歳で、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込みますが、遭難して漂流し、伊豆諸島にある無人島の鳥島に同僚4名と共に漂着、143日後にアメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が鳥島に立ち寄った際、発見されて救助されました。1842年(天保13)にハワイのホノルルに寄港した折、救助された他の4名はこの地で船を降りましたが、万次郎は捕鯨航海をしながらアメリカへと渡り、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに行き、船長の養子となって一緒に暮らします。
 翌年からオックスフォード学校、バートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。1846年(弘化3)から近代捕鯨の捕鯨船員として生活を始めましたが、1850年(嘉永3年5月)に日本に帰る事を決意、帰国資金調達のため、数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就きます。
 同年にハワイのホノルルへ渡って漁師仲間と再会、共に上海行きの商船に乗り込みました。翌年に薩摩藩に服属していた琉球に、小舟に乗り換えて上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られます。
 1852年(嘉永5)には、漂流から11年目にして土佐・中浜の故郷に帰り、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されました。翌年に江戸幕府に召聘されて江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、中浜の苗字が授けられます。
 江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまいます。
 それでも、1860年(万延元)には、「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節団の一員として、咸臨丸に乗りアメリカに渡りました。その後は、小笠原諸島などの開拓調査、幕府の軍艦操練所教授、小笠原諸島近海での捕鯨などを行います。
 1866年(慶応2)に土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教え、翌年には薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授しましたが、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻りました。明治維新後は、1869年(明治2)に明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命され、翌年には普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されましたが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機し、1871年(明治4)に帰国します。
 以後悠々自適の生活を送っていたものの、1898年(明治31)11月12日に東京において、72歳で亡くなりました。

〇ジョン万次郎(中浜万次郎)の主要な著作

・『漂客(ひょうかく)語録』
・英会話書『英米対話捷径(しょうけい)』
・翻訳『ボーディッチ航海術書』

☆ジョン万次郎(中浜万次郎)関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1827年1月27日(文政10年1月1日)に、土佐国幡多郡中ノ浜村の貧しい漁師の父・悦介(えつすけ)、母・汐(しお)の次男として生まれる
・1835年(天保6年) 9歳で父親を亡くす
・1836年(天保7年) 10歳で中浜浦老役を務め、今津太平宅に下働きに出る
・1841年(天保12年1月) 14歳で、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込むが、遭難して漂流し、伊豆諸島にある無人島の鳥島に同僚4名と共に漂着する
・1841年(天保12年5月9日) アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が鳥島に立ち寄った際、発見されて同僚4名と共に救助される
・1842年(天保13年) ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名はこの地で船を降りる
・1842年(天保13年) 捕鯨航海を終え、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港し、船長の養子となって一緒に暮らす
・1843年(天保14年) オックスフォード学校で英語などを学ぶ
・1844年(弘化元年) バートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ
・1846年(弘化3年) 近代捕鯨の捕鯨船員として生活を始める
・1850年(嘉永3年5月) 日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く
・1850年(嘉永3年) ボイド号でホノルルから帰国の途につき、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込む
・1851年(嘉永4年2月2日) 薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られる
・1852年(嘉永5年) 漂流から11年目にして土佐・中浜の故郷に帰り、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命される
・1853年(嘉永6年) 江戸幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、中浜の苗字が授けられる
・1854年(安政元年) 幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚する
・1859年(安政6年3月) 西洋式帆船の君沢形で、品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となる
・1860年(万延元年) 「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る
・1861年(文久元年) 外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行なう
・1862年(文久2年) 幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される
・1863年(文久3年) 帆船「一番丸」で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う
・1866年(慶応2年) 土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える
・1867年(慶応3年) 薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授する
・1867年(慶応3年12月) 武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻る
・1869年(明治2年) 明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命される
・1870年(明治3年) 普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機する
・1871年(明治4年) 病気のために帰国する
・1898年(明治31年)11月12日 東京において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細


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enomototakeaki01

 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、幕臣・外交官・政治家榎本武揚の亡くなった日です。
 榎本武揚(えのもと たけあき)は、1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。
 1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。
 1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。
 箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。
 1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。
 1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。
 一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇榎本武揚関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年〈天保7年8月25日〉 江戸下谷(現在の東京都台東区)で、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれる
・1847年(弘化4年) 12歳で昌平坂学問所に入る
・1854年(安政元年) 箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従う
・1856年(安政3年) 長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学ぶ
・1858年(安政5年) 江戸の築地軍艦操練所教授となる
・1862年(文久2年) オランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学ぶ
・1866年(慶応2年) 幕府注文の開陽丸を回送して帰国、同艦の船将となる
・1868年(慶応4年1月) 海軍副総裁となる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否する
・1868年(慶応4年10月20日) 幕府艦隊を率いて北海道に上陸する
・1868年(慶応4年11月1日) 箱館五稜郭へ入城する
・1868年(慶応4年12月10日) 蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙によって総裁に選ばれる
・1869年(明治2年5月18日) 官軍に降伏する
・1869年(明治2年6月30日) 東京の監獄に投獄される
・1872年(明治5年1月6日) 特赦を受けて出獄する、
・1872年(明治5年6月) 黒田清隆の下で、開拓使に登用されて北海道の資源調査に従事する
・1874年(明治7年) 海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在する
・1875年(明治8年)5月7日 ロシアのペテルブルグで「樺太・千島交換条約」を締結する
・1879年(明治12年) 地学協会の創立を唱えて副会長となる
・1880年(明治13年)2月28日 海軍卿となる
・1882年(明治15年)8月12日 駐清特命全権公使となる
・1884年(明治17年) 李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力する
・1885年(明治18年) 伊庭想太郎らと旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立する
・1885年(明治18年)10月 清国から帰国する、
・1885年(明治18年)12月22日 逓信大臣に就任する
・1887年(明治20年)5月24日 子爵となる
・1888年(明治21年)4月30日 農商務大臣となる
・1888年(明治21年) 電気学会を設立、初代会長となる
・1889年(明治22年)2月11日 大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務める
・1889年(明治22年)3月22日 文部大臣となる
・1890年(明治23年)5月22日 枢密顧問官となる
・1891年(明治24年)3月6日 東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任する
・1891年(明治24年)5月29日 外務大臣となる
・1893年(明治26年) 殖民協会を設立し会長となる
・1893年(明治26年) 育英黌分黌農業科を私立東京農学校と改称し、校主となる
・1894年(明治27年)1月22日 農商務大臣となる
・1897年(明治30年)3月29日 足尾鉱毒事件で農商務大臣を引責辞任する
・1898年(明治31年) 工業化学会の初代会長となる
・1905年(明治38年)10月19日 海軍中将を退役となる
・1908年(明治41年)10月26日 東京において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
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