ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:帝国芸術院会員

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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、日本画家橋本関雪が生まれた日です。
 橋本関雪(はしもと かんせつ)は、明治時代前期の1883年(明治16)11月10日に、兵庫県神戸市の坂本村(現在の神戸市中央区楠木町)において、旧明石藩の儒者であった父・橋本海関、母・フジの長男として生まれましたが、本名は関一と言いました。1895年(明治28)に、湊川尋常高等小学校を中退、絵画に対する興味を持つようになり、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門、傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示します。
 1898年(明治31)に絵画修行を志して上京したものの、翌年には、神戸に戻りました。1903年(明治36)に京都市に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入り、1905年(明治38)には、東京美術研精会主催展覧会に「四面楚歌の声」を出品し、研精賞を受け、満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍しています。
 1906年(明治39)に神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行、1907年(明治40)には、神戸花隈にて従軍記念絵画展を開きました。1908年(明治41)の第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」が入選、上京して谷中清水町に住み、1910年(明治43)には、漢詩集『関雪詩稿』を出版しています。
 1913年(大正2)の第7回文展から3回連続で二等賞、1916年(大正5)の第10回文展から3回連続で特選を受賞しました。1919年(大正8)の第1回帝展から審査委員を歴任し、1931年(昭和6)にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与され、1934年(昭和9)に帝室技芸員、翌年には帝国美術院会員となります。
 1937年(昭和12)に帝国芸術院が成立し、会員に任命され、第一回新文展に「赴征」を出品しました。1939年(昭和14)にニュ-ヨーク万国博に「霜猿」を出品、第1回聖戦美術展の審査員を勤め、「江上雨来る」を出品、橋本関雪聖戦記念画展で「軍馬二題」が朝日賞を受賞、1940年(昭和15)の紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会の審査委員を務めています。
 四条派の画風に南画などの技法を加味した画風で、関西日本画壇に重きをなしましたが、1945年(昭和20)2月26日 京都府京都市において、狭心症の発作により61歳で亡くなりました。尚、中国古典に精通し、詩文も巧みで『南画への道程』(1924年)、『関雪随筆』(1925年)などの著書も残しています。

<橋本関雪代表的作品>

・「琵琶行」(1910年)白沙村荘橋本関雪記念館蔵 
・「遅日」(1913年)第7回文展二科二等賞・足立美術館蔵
・「南国」(1914年)第8回文展二等賞・姫路市立美術館蔵
・「桃源郷」(1914年)大正博覧会銀賞
・「猟」(1915年)第9回文展二等賞・白沙村荘橋本関雪記念館蔵
・「寒山拾得」(1916年)第10回文展特選・林原美術館蔵
・「睨雲林」(1917年)第11回文展特選
・「木蘭」(1918年)第12回文展特選・白沙村荘橋本関雪記念館蔵
・「意馬心猿」(1928年)京都国立近代美術館蔵
・「長恨歌」(1929年)京都市美術館蔵
・「玄猿」(1933年)東京芸術大学大学美術館蔵
・「暮韻」(1934年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・「唐犬図」(1936年)大阪市立美術館蔵
・「軍馬二題」(1939年)橋本関雪聖戦記念画展朝日賞
・「防空壕」(1942年)東京国立近代美術館蔵
・「香妃戎装」(1944年)衆議院蔵

〇橋本関雪の主要な著作

・漢詩集『関雪詩稿』(1910年)
・『南画への道程』(1924年)
・『関雪随筆』(1925年)
・『支那(しな)山水随縁(ずいえん)』(1940年)
・『白沙村人随筆』(1957年)

☆橋本関雪関係略年表

・1883年(明治16)11月10日 兵庫県神戸市の坂本村(現神戸市中央区楠木町)において、旧明石藩の儒者であった父・橋本海関、母・フジの長男として生まれる
・1890年(明治23) 神戸市湊川尋常高等小学校に入学し、傍ら父より家学(漢詩・書画など)を受ける
・1895年(明治28) 湊川尋常高等小学校を中退、絵画に対する興味を持つようになり、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門、傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示す
・1898年(明治31) 絵画修行を志して上京する
・1899年(明治32) 神戸に帰るが、父・海関は経済上の理由により兵庫県尾上村に隠棲し、関雪は自活を余儀なくされる
・1900年(明治33) 神戸美術協会主催で東宮御慶事記念展覧会が催され、「王昭君」を出品し、御前揮毫を仰せつかることとなる
・1901年(明治34) 曽根神社(高砂市)へ「管公図」絵馬を奉納、吉野へ旅行する
・1903年(明治36) 京都に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入る
・1904年(明治37) 岩見ヨネと結婚する
・1905年(明治38) 東京美術研精会主催展覧会に「四面楚歌の声」を出品し、研精賞を受け、満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍する
・1906年(明治39) 神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行、水曜会展覧会(於京都倶楽部)に出品する
・1907年(明治40) 神戸花隈にて従軍記念絵画展を開く
・1908年(明治41) 第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」が入選、上京して谷中清水町に住む
・1909年(明治42) 第3回文展に「失意」を出品、褒状を受ける
・1910年(明治43) 漢詩集『関雪詩稿』を出版、第4回文展に「琵琶行」を出品、褒状を受ける
・1911年(明治44) 第5回文展に「片岡山のほとり」「異見王達磨を送る」を出品、前者は褒状を受ける
・1912年(明治45) 第6回文展一科に「松下煎茗」を、二科に「五醍醐帝」を出品し、共に褒状を受ける
・1913年(大正2) 初めて中国大陸を遊行、船で揚子江を溯り重慶に至り、さらに上海、浙江省、蘇州、北京、満州、朝鮮などを経て6月末に帰国、京都に移り岡崎徳成橋畔に住み、第7回文展二科に「遅日」を出品、二等賞を得る
・1914年(大正3) 大正博覧会に「桃源郷」を出品、銀賞を得、第8回文展に無鑑査で「南国」と「後苑」を出品、前者は二等賞を得る
・1915年(大正4) 第9回文展に無鑑査で「猟」「狭江の六月」を出品、前者は二等賞を得、文展画稿展に「猟(画稿)」を出品、南禅寺山内金地院に移る
・1916年(大正5) 第10回文展に無鑑査で「寒山拾得図」「煉丹」を出品、前者は初めて特選となり、京都市左京区浄土寺石橋町に白沙村荘が完成し移り住む
・1917年(大正6) 第11回文展に無鑑査で「睨雲林」を出品、特選となり、金島桂華らと共に中国を旅行する
・1918年(大正7) 第12回文展に無鑑査で「木蘭」を出品、特選となり、本年より永久無鑑査の"推薦"となる
・1919年(大正8) 栖鳳門下小品展に「松下弾琴」「桃果」などを出品、橋本関雪小品展が開催され、第1回帝展の審査委員をつとめ、「郭巨」「遊踪四題」を出品する
・1920年(大正9) 第2回帝展の審査委員をつとめ、「木蘭詩」「林和靖」を出品、東京博覧会の審査委員をつとめ、「木蘭詩巻」を出品する
・1921年(大正10) 長男節哉を伴って、神戸より北野丸にてヨーロッパ旅行に出発、フランス、ドイツ、オランダ、イタリアなどを巡って帰国する
・1922年(大正11) 平和記念東京博覧会の日本画の審査委員をつとめ、第4回帝展(於竹之台10・14~11・20)の審査委員をつとめ、「聖地の旅」 を出品、個展に「閑庭春色」「留園一角」「小院春夕」など44点を出品する
・1923年(大正12) 日本美術展の審査委員を務め、竹内栖鳳の竹杖会を脱会する
・1924年(大正13) 帝展美術院委員となり、第5回帝展の審査委員を務め、個展に「船」「連甍吐月」「春江惜別」「楊妃酔酒」「荒村薄暮」「春暖」などを出品する
・1925年(大正14) 第5回中央美術展の鑑査員を務め、関雪自撰30題展を開催、中央美術10周年記念展に「採蓴」を出品、第6回帝展に「相牛」「摘瓜図」を出品する
・1926年(大正15) 第7回中央美術展の鑑査員を務め、8人の日中画家で古画の研究と鑑賞を目的として"解衣社"を結成、第1回聖徳太子奉讃展に日本画の代表委員として、「僊女図」を出品、郷土美絵画展に「漁樵問答」を出品、解衣社第1回展に「湘江煙雨」「看馬」、金冬心筆『墨竹図』を出品、個展を開催、西村五雲、西山翠嶂、堂本印象、福田平八郎、菊池契月と6人で『六合会』を創立し、第1回帝展に、「長安一片月」を出品する
・1927年(昭和2) 婦人と娘を伴って二度目のヨーロッパ旅行に行きヨーロッパ数カ国を巡り、明治大正名作展に「遅日」「木蘭詩」が出品され、第9回帝展に「意馬心猿」を出品する
・1928年(昭和3) パリ日本美術展に「木蘭詩」「瀟湘」を出品し、後者はフランス政府買い上げとなり、美之国五周年記念展に「闌春」を出品、第10回帝展の審査委員を務め、「長恨歌」を出品する
・1929年(昭和4) 第2回聖徳太子奉讃展に「波ニ鷲」(久邇宮家襖)を出品、ローマ日本美術展に「猿猴図」「暖日の図」を出品、第11回帝展に「訪隠図」を出品する
・1930年(昭和5) 夫人同伴で中国に旅行し、西湖、鎮江を経て天台山に登り、「トレド-市、ニューヨーク市日本美術展」に「木蘭詩巻」を出品する
・1931年(昭和6) 個展に「談山論水」「想思」「仙山採薬」「赤壁之図」「観音の図」など20数点を出品、竹内栖鳳、横山大観、松岡映丘らと共にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与される
・1932年(昭和7) 妻・ヨネが東京において亡くなり、満州国皇帝に『老松鷲の図』を献上する
・1933年(昭和8) 鄭考胥満州国総理が白沙村荘に、関雪の父海関を訪ね「細雨春帆」を贈り、大礼記念京都美術館開館記念に「夕月」を出品する
・1934年(昭和9) 個展を開催、近代美術館建設期成会の発起人に参加、第15回帝展に「暮韻」を出品、宮内省買い上げとなり、帝室技芸員に任命される
・1935年(昭和10) 川路柳虹讃詩画展に「山鳩」を出品、東京府美術館開館一〇周年記念展に「長恨歌」を出品、第1回京都市美術展の展覧会委員を務め、帝国美術院会員に任命され、個展を開催、父・海関が亡くなる
・1936年(昭和11) 改組第1回帝展に「唐犬図」を出品、6人で『興遊会』を結成し、その第1回展を開き、冨田渓仙、横山大観、鏑木清方、川合玉堂ら14人の会員とともに帝国美術院に辞表を提出、、大倉集古館創立20周年記念店に「暖日」が出品される
・1937年(昭和12) 盲腸炎を患い、個展を開催、第2回京都市美術展に「夏草」を出品、帝国芸術院が成立し、会員に任命され、第一回新文展に「赴征」を出品する
・1938年(昭和13) 第3回京都市美術展の審査委員をつとめ、第17回朝鮮美術展の日本画の審査委員をつとめ、個展を開催、新篁会展に「兎」を出品する
・1939年(昭和14) 紐育(ニューヨーク)万国博国内展示に『霜猿』を出品、ニュ-ヨーク万国博に「霜猿」を出品、第1回聖戦美術展の審査員をつとめ「江上雨来る」を出品、橋本関雪聖戦記念画展で「軍馬二題」が朝日賞を受賞する
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会の審査委員をつとめ、「柳蔭馬を洗ふ」を出品、紀元二千六百年奉祝美術展覧会の展覧会委員をつとめる
・1941年(昭和16) 個展を開催、第6回京都市美術展の審査委員をつとめ、第2回聖戦美術展の審査員をつとめ、第4回新文展に「夏夕」を出品する
・1942年(昭和17) 朝日新聞社の委託により、吉川英治とともに南方の空を飛び、第5回新文展に「防空壕」を出品する
・1943年(昭和18) 第6回新文展に「霧」を出品する
・1944年(昭和19) 第2回大東亜戦争美術展に「黄浦江の朝」を出品、平安神宮御鎮座五十年平安遷都千百五十年奉祝京都市美術展の審査員をつとめ、陸軍献納画展に「霜鷹」を出品、戦時特別文展に「香妃戎装」を出品する
・1945年(昭和20)2月26日 京都府京都市に於て、狭心症の発作により61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1920年(大正9)日本画家福王寺法林の誕生日詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1945年(昭和20)角川源義が角川書店を設立する詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、建築家・建築史学者伊東忠太が生まれた日ですが、新暦では11月21日となります。
 伊東忠太(いとう ちゅうた)は、出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれました。1871年(明治4)に米沢藩藩学・興譲館へ入学したものの、1873年(明治6年)に父が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学します。
 1878年(明治11)に、父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入し、1879年(明治12)には、旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)へ入学しました。1881年(明治14)に東京外国語学校独逸語科へ入学したものの、1885年(明治18)に同校の廃止により第一高等中学校へ編入、一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になります。
 1892年(明治25)に帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学、1893年(明治26)には、東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表し、日本建築史研究の端緒となりました。1896年(明治29)に古社寺保存会委員、1897年(明治30)に帝国大学工科大学講師、1898年(明治31)には、造神宮技師兼内務技師となります。
 1899年(明治32)に帝国大学工科大学助教授となり、1901年(明治34)には、東京帝国大学より工学博士を得ました。1902年(明治35)に建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発し、雲崗の石窟を発見、1905年(明治38)には、欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となります。
 1923年(大正12)に明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力し、1924年(大正13)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1928年(昭和3)に帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になります。
 1930年(昭和5)に帝都復興記念章を受章、1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1943年(昭和18)には、建築界で初めて、文化勲章を受章しました。1951年(昭和26)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、米沢市名誉市民・第1号となったものの、4月7日に東京において、87歳で亡くなっています。

〇伊東忠太の主要な作品

<建築物>

・平安神宮(1895年)
・明治神宮(1920年)
・大倉集古館(1927年)
・震災祈念堂(1930年)
・東京都復興記念館(1931年)
・築地(つきじ)本願寺(1934年)

<著書>

・『伊東忠太建築文献』
・『支那(しな)建築装飾』
・『日本建築の美』
・『伊東忠太見聞野帖―清国』
・時事漫画集『阿修羅帖』

☆伊東忠太関係略年表

・1867年(慶応3年10月26日) 出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)において、米沢藩藩医だった父・伊東祐順の子として生まれる
・1871年(明治4年) 米沢藩藩学・興譲館へ入学する
・1873年(明治6年) 父・伊東祐順が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校へ入学する
・1878年(明治11年) 父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入する
・1879年(明治12年) 旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)入学する
・1881年(明治14年) 東京外国語学校独逸語科へ入学する
・1885年(明治18年) 同校の廃止により第一高等中学校編入。一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になる
・1892年(明治25年) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒論に「建築哲学」を書いて卒業、大学院に進学する
・1893年(明治26年) 東京美術学校講師となり、「法隆寺建築論」を発表する
・1896年(明治29年) 古社寺保存会委員となる
・1897年(明治30年) 帝国大学工科大学講師となる
・1898年(明治31年) 造神宮技師兼内務技師となる
・1899年(明治32年) 帝国大学工科大学助教授となる
・1901年(明治34年) 東京帝国大学より工学博士を得る
・1902年(明治35年) 建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)に出発する
・1905年(明治38年) 欧米経由で帰国後、東京帝国大学教授となる
・1921年(大正10年) 正四位となる
・1923年(大正12年) 明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力する
・1924年(大正13年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 従三位となる
・1928年(昭和3年) 帝国大学を定年退官し、東京帝国大学名誉教授となり、早稲田大学教授(~1938年)になる
・1930年(昭和5年) 帝都復興記念章を受章する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1943年(昭和18年) 建築界で初めて、文化勲章を受章する
・1951年(昭和26年) 文化功労者となる
・1954年(昭和29年) 米沢市名誉市民・第1号となるが、4月7日に東京において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年〈明治15〉に、洋画家・小説家・随筆家有島生馬の生まれた日です。
 有島生馬(ありしま いくま〉は、神奈川県横浜月岡町(現在の横浜市)において、鹿児島の出身で、横浜税関長の職にあった父・有島武と母・幸の次男として生まれましたが、本名は壬生馬(みぶま)と言いました。麹町小学校を経て、1895年(明治28)に学習院に転入学し、中学科に進み、文学書に親しみ、志賀直哉らと交流します。
 1900年(明治33)に肋膜炎にかかり、鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養しましたが、翌年には、東京外国語学校伊太利語科に入学しました。1904年(明治37)に卒業し、藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓します。
 1905年(明治38)からヨーロッパに留学、イタリアでデュランに師事、ローマ美術学校に学び、ついでパリでラファエル・コランに師事しました。1910年(明治43)に帰国、雑誌『白樺』が創刊され同人として参加、「羅馬にて」、「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表して西洋美術の紹介につとめ、特にセザンヌの紹介者として大きな影響を画壇に与えます。
 1911年(明治44)に「宿屋の裏庭」を文展に出品し入選、1913年(大正2)には、最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版、この時から筆名を生馬としました。1914年(大正3)に同志と二科会を創立、第1回二科会展に「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品、1915年(大正4)には、『獣人』を出版、小説「死ぬほど」を『新小説』に発表します。
 1920年(大正9)にエミール・ベルナール著『回想のセザンヌ』を翻訳出版、翌年に与謝野晶子、石井柏亭らによって文化学院が創立されると、講師として教壇に立ちました。1928年(昭和3)に夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在、レジオンドヌール勲章を授与され、1935年(昭和10)には、松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員となり、日本ペンクラブ創設時に副会長にも就任します。
 1936年(昭和11)に安井、石井、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らと一水会を結成、1937年(昭和12)には、「帝国芸術院官制」が制定され、帝国芸術院会員となりました。1945年(昭和20)に空襲が激しくなり、長野県に疎開したものの、太平洋戦争後は、1956年(昭和31)に神奈川県立近代美術館、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展を開催、1958年(昭和33)には、社団法人日展が創立され常任理事となります。
 1964年(昭和39)に文化功労者に選ばれ、1965年(昭和40)には、勲三等旭日中綬賞を受賞しましたが、1974年(昭和49)9月15日に、神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなりました。尚、兄は小説家の有島武郎、弟は里見弴です。

〇有島生馬の主要な作品

<文学>
・小説『蝙蝠(こうもり)の如(ごと)く』(1910~1911年)
・小説『ボーヂェの森』(1911年)
・『南欧の日』(1916年)
・『暴君へ』(1917年)
・小説『嘘(うそ)の果(はて)』(1919年)
・随筆集『美術の秋』(1920年)
・エミール・ベルナールの翻訳『回想のセザンヌ』(1920年)
・『死ぬほど』(1920年)
・随想集『片方の心』(1924年)

<美術>
・『パイプを吸う男』(1908年)
・『ケーベル博士像』(1910年)
・『鬼』(1914年)東京都美術館蔵
・『蚊帳』(1917年)
・『熊谷守一(くまがいもりかず)肖像』
・『大震記念』
・『微笑』

☆有島生馬関係略年表

・1882年(明治15)11月26日 神奈川県横浜月岡町(現在の横浜市)において、鹿児島の出身で、横浜税関長の職にあった父・有島武と母・幸の次男として生まれる
・1888年(明治21) 横浜師範学校附属老松小学校に入学する
・1891年(明治24) 父が国債局長となり東京に移転、麹町小学校に転校する
・1893年(明治26)5月 父が退官し、鎌倉に転居する
・1894年(明治27)11月 東京に転居する
・1895年(明治28) 学習院に転入学し、中学科に進む
・1897年(明治30) この頃から文学書に親しみ、徳富蘇峰、徳富蘆花の著作、島崎藤村の詩などを愛読する
・1900年(明治33) 肋膜炎にかかり、鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養する
・1901年(明治34) 東京外国語学校伊太利語科に入学する
・1903年(明治36) 友人らと妙義山から小諸に旅行し、島崎藤村を訪ねる
・1904年(明治37) 東京外国語学校伊太利語科を卒業、藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓する
・1905年(明治38) ドイツ船ゲネラル・ローン号に乗船して横浜を出帆しイタリアへ向かい、アカデミー・ド・フランスに入学、カロリュス・デュランの指導を受け、国立ローマ美術学校に移る
・1906年(明治39) イタリア各地を旅行、アメリカ留学中の長兄武郎をナポリで迎え、イタリアからドイツ、オランダ、ベルギーを旅行し、パリへ入る
・1907年(明治40) イギリスへ旅行、武郎と別れ再びパリへ帰り、グラン・ショミエールに通い、ラファエル・コラン、プリネーなどの指導を受ける
・1908年(明治41) アンジャベンについて半年ほど彫刻を学ぶ
・1909年(明治42) 南フランスやイタリアを旅行、パリでは藤島武二、荻原守衛、高村光太郎、らと交友する
・1910年(明治43) マルセイユを発して帰国、麹町に住み、雑誌『白樺』が創刊され同人として参加、「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表、原田信子と結婚、「ケーベル博士像」を制作する
・1911年(明治44) 長女暁子生まれ、北海道に旅行、「宿屋の裏庭」を文展に出品し入選する
・1912年(明治45) 白樺社主催により文展で落選した作品による落選展覧会を赤坂三会堂において開催する
・1913年(大正2) 洛陽社より最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版、この時から筆名を生馬とする
・1914年(大正3) 同志と二科会を創立、第1回二科会展に「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品する
・1915年(大正4) 『獣人』を出版、小説「死ぬほど」を『新小説』に発表、朝鮮、満州、天津、北京を旅行、第2回二科展「去来の裸婦習作」「今年の裸体習作」を出品する
・1916年(大正5) 第二短篇小説集『南欧の日』が出版されたが、風俗壤乱のかどで発売禁止となり、部分的に、改変して出版、第3回二科展「ある詩人の肖像」「切通坂」「朝の山(スケッチ)」を出品、父・武が亡くなる
・1917年(大正6) 熱海で「山極医学博士像」を描く、小説「父の死」(新潮)、第4回二科展「蚊帳」「釣」「カナリヤ」「金魚」出品、第三短篇集『暴君へ』を出版する
・1918年(大正7) 第四『短篇集』を出版する
・1920年(大正9) エミール・ベルナール著『回想のセザンヌ』を翻訳出版する
・1921年(大正10) 画家西村伊作や歌人与謝野晶子、画家石井柏亭らによって文化学院が創立され、講師として教壇に立つ
・1928年(昭和3) 夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在、レジオンドヌール勲章を授与される
・1935年(昭和10) 松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員となり、日本ペンクラブ創設時に副会長に就任する
・1936年(昭和11) 二科会を脱会した安井、石井らと、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らを加えて一水会を結成する
・1937年(昭和12) 「帝国芸術院官制」が制定され、帝国芸術院会員となり、一水会第1回展を開催する
・1945年(昭和20) 空襲が激しくなり、長野県に疎開する
・1956年(昭和31) 神奈川県立近代美術館において回顧展、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展開催される
・1958年(昭和33) 社団法人日展創立され常任理事となる
・1964年(昭和39) ローマの日本文化会館長、呉茂一の招きで渡欧、文化功労者に選ばれる
・1965年(昭和40) 勲三等旭日中綬賞を受賞する
・1974年(昭和49)9月15日 神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなり 24日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で、一水会、二科会の合同葬として葬儀が行われる
・1982年(昭和57) 有島生馬の鎌倉の家が、長野市信州新町上条に移築され、「有島生馬記念館」として開館される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、日本画家・南画家小室翠雲の生まれた日です。
 小室翠雲(こむろ すいうん)は、栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、呉服商を営む小室牧三郎の長男として生まれましたが、本名は貞次郎(ていじろう)と言いました。父は風流を好み、文人墨客との交友が多く、渓村と号して画を描いていて、幼い頃から画技の初歩や書法、詩文、俳句などを学ばされます。
 1887年(明治20)に小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働きましたが、1年余りで帰郷しました。1889年(明治22)に田崎草雲に師事し、南画を学んだものの、1898年(明治31)に草雲が没すると、翌年には上京して南画会に加わり、貧苦の中でも独学で中国画を学びます。
 1907年(明治40)の文展開設に際し、高島北海、荒木十畝らと正派同志会を結成し文展新派に対抗しました。翌年の第2回文展で「青山白雲」が3等賞となり、以来毎年入賞、1914年(大正3)には、文展審査員となります。
 1919年(大正8)に帝展審査員となり、1921年(大正10)に田近竹邨、矢野橋林らと日本南画院を創立、翌年(大正11)には、中国に渡航しました。1923年(大正12)に京橋の自宅で関東大震災にあいましたが、南画壇の発展のために活動し、1924年(大正13)には帝国美術院会員ともなります。
 1931年(昭和6)にドイツのベルリン日本画展に代表として渡欧、1934年(昭和9)に高島屋で、翌年には三越で個展を開きました。1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1941年(昭和16)には、大東南宗院を設立します。1944年(昭和19)には帝室技芸員となったものの、翌年3月30日に数え年72歳で亡くなりました。

〇小室翠雲の主要な著作

<絵画>

・『山海の図』(1908年)第4回文展2等賞
・『寒林幽居』(1913年)第7回文展2等賞
・『逍遥』(1914年)第8回文展出品
・『南航北馬』(1921年)第3回帝展出品
・『海寧観潮』(1922年)第4回帝展出品
・『広寒宮』(1925年)第6回帝展出品
・『周濂渓』(1927年)第8回帝展出品
・『田家新味』(1930年)第11回帝展出品
・『承徳佳望』(1934年)第15回帝展出品

<著書>

・『南画新論』
・『翠雲随筆』

☆小室翠雲関係略年表

・1874年(明治7)8月31日 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、呉服商を営む小室牧三郎の長男として生まれる
・1887年(明治20) 小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働く
・1888年(明治20) 1年余りで帰郷する
・1889年(明治22) 田崎草雲に師事する
・1898年(明治31) 師の田崎草雲が没する
・1899年(明治32) 上京して南画会に加わる
・1907年(明治40) 文展開設に際し、正派同志会を結成し文展新派に対抗する
・1908年(明治41) 第2回文展で「青山白雲」が3等賞となる
・1908年(明治42) 第3回文展で「雪中山水」が3等賞となる
・1908年(明治43) 第4回文展で「山海の図」が2等賞となる
・1908年(明治44) 第5回文展で「春景山水」「秋景山水」が3等賞となる
・1908年(大正元) 第6回文展で「四時佳興」が3等賞となる
・1913年(大正2) 第7回文展で「寒林幽居」が2等賞となる
・1914年(大正3) 文展審査員となる
・1919年(大正8) 帝展審査員となる
・1921年(大正10) 田近竹邨、山田介堂、池田桂仙、山田竹圃、矢野橋村等と日本南画院を創立する
・1922年(大正11) 中国に渡航する
・1923年(大正12) 京橋の自宅で関東大震災にあう、粉杢切を焼く、後焼け残つた蔵幅を売り立てて崇文院叢書刊行会をかく
・1924年(大正13) 帝国美術院会員
・1926年(大正15) 正5位に叙せられる
・1928年(昭和3) 大礼記念章が授与される
・1931年(昭和6) ドイツ日本画展に代表として渡欧する
・1934年(昭和9) 高島屋で個展を開く
・1935年(昭和10) 三越で個展を開く、日本南画院が解散する
・1936年(昭和11)11月 南画連盟が結成される 
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となる
・1940年(昭和15)5月 小室翠雲心印画塾を創立する
・1941年(昭和16)8月 翠雲が代表となり大東南宗院を創設する
・1942年(昭和17) 三越で個展を開く
・1944年(昭和19)7月1日 帝室技芸員となる
・1945年(昭和20)3月30日 数え年72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細


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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、作曲家・指揮者山田耕筰の亡くなった日(山田耕筰忌)です。
 山田耕筰(やまだ こうさく)は、1886年(明治19)6月9日に、東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)で、旧板倉藩士だった医師の父の子として生まれました。1896年(明治29)10歳の時に実父を亡くし、その遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学します。
 関西学院を経て1904年(明治37)に東京音楽学校に入学し、予科から本科声楽科、研究科へと進みました。1910年(明治43)からベルリン高等音楽学校に留学し、ブルッフらに作曲を師事、1914年(大正3)に帰国後は日本最初の交響楽団である東京フィルハーモニー管弦楽団を創設して、自作を指揮、発表します。
 1917年(大正6)から1年半、米国に滞在してカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲による2度の演奏会を開催しました。帰国後、1920年(大正9)に日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興し、1922年(大正11)には北原白秋と共同編集の月刊「詩と音楽」誌を創刊、連作歌曲を発表します。
 1924年(大正13)に日本交響楽協会(のちのNHK交響楽団の母体)を設立し、1926年(大正15)からは定期演奏会を開始、また、指揮者として全国を巡演、交響楽の普及にも努めました。1936年(昭和11)にフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受け、翌年には相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任、1940年(昭和15)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任します。
 1942年(昭和17)に帝国芸術院会員となり、1944年(昭和19)には、日本音楽文化協会会長にもなりました。太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に脳溢血で左半身不随となりますが再起し、1950年(昭和25)に日本指揮者協会会長に就任、1954年(昭和29)には文化功労者、1956年(昭和31)には文化勲章を受章します。
 1963年(昭和38)頃まで作曲活動を続け、教科書の編纂などにもたずさわり、日本の洋楽普及に多大な貢献をしたものの、1965年(昭和40)12月29日に東京都世田谷区の自宅において、79歳で亡くなりました。

〇山田耕筰の主要な作曲作品

・交響曲『かちどきと平和』(1912年)
・交響詩『曼陀羅(まんだら)の華(はな)』(1913年)
・交響詩『暗い扉(と)』(1913年)
・舞踊詩劇『マリア・マグダレーナ』(1916年)
・歌曲『六騎』(1922年)
・歌曲『からたちの花』北原白秋作詞(1925年)
・歌曲『この道』(1927年)
・歌曲『赤とんぼ』三木露風作詞(1927年)
・オペラ『堕(お)ちたる天女』(1929年)
・オペラ『黒船』(1940年)
・歌曲『幽韻』
・歌劇『夜明け』
・歌曲『病める薔薇』
・童謡『あわて床屋』
・歌曲『野ばら』
・歌曲『ペイチカ』北原白秋作詞
・歌曲『待ちぼうけ』北原白秋作詞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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