ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:帝国学士院賞

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 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の生まれた日です。
 増本量(ますもと はかる)は、広島県安芸郡矢賀村(現在の広島県広島市東区矢賀)において、農家に生まれました。税務監督局(現在の国税局)に勤めながら、1914年(大正3)に私立修道学校(現在の修道中学校・高等学校)を卒業し、その後、東北帝国大学工学部機械工学科へ進学します。
 同科を卒業後、理学部物理学科に再入学して、1922年(大正11)に卒業後、同大学鉄鋼研究所(現:東北大学金属材料研究所)に入所し、本多光太郎の下で金属学の研究を始めました。1923年(大正12)に東北帝国大学理学部講師となり、1924年(大正13)には、コバルトの変態点を発見し、助教授に昇任します。
 1927年(昭和2)に理学博士となり、1931年(昭和6)に「強磁性元素及びその合金の物理冶金学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1933年(昭和8)には、教授に昇任しました。1940年(昭和15)に「新合金“センダスト”の発見及びその応用」で、報公賞を受賞、1944年(昭和19)には、財団法人航空計器材料試作研究所(現在の電磁材料研究所)を創立して、当初から専務理事となります。
 1946年(昭和21)に「異常特性を有する鉄合金の研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞、1950年(昭和25)には、東北大学金属材料研究所の所長となり、電磁研の理事長(第3代)に就任しました。1955年(昭和30)に文化功労者となり、文化勲章を受章、1957年(昭和32)に日本金属学会会長となり、1958年(昭和33)には、東北大学金属材料研究所の所長を辞め、名誉教授となります。
 1959年(昭和34)に科学技術庁参与、仙台市名誉市民、1960年(昭和35)に日本学士院会員、1961年(昭和36)に日本金属学会賞、1962年(昭和37)には、「強磁性金属および合金の異常性の研究」で、本多記念賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。さらに、1976年(昭和51)に「磁気録音および再生ヘッド用磁性合金ならびにその製造方法の発明」で、全国発明表彰通産大臣発明賞を受賞、1979年(昭和54)には、勲一等旭日大綬章を受章します。
 1980年(昭和55)に広島市名誉市民となりましたが、1987年(昭和62)8月12日に、宮城県仙台市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈されました。尚、1994年(平成6)に日本金属学会は、増本量の功績を永遠に記念するため「増本量賞」を創設しています。

〇増本量関係略年表

・1895年(明治28)1月9日 広島県安芸郡矢賀村(現在の広島県広島市東区矢賀)において、農家に生まれる
・1914年(大正3) 私立修道学校(現在の修道中学校・高等学校)を卒業する
・1922年(大正11) 東北帝国大学理学部物理学科を卒業後、同大学鉄鋼研究所(現在の東北大学金属材料研究所)に入所し、本多光太郎の下で金属学の研究を始める
・1923年(大正12) 東北帝国大学理学部講師となる
・1924年(大正13) コバルトの変態点を発見し、東北帝国大学理学部助教授に昇任する
・1927年(昭和2) 理学博士となる
・1931年(昭和6) 「強磁性元素及びその合金の物理冶金学的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1933年(昭和8) 東北帝国大学理学部教授に昇任する
・1940年(昭和15) 「新合金“センダスト”の発見及びその応用」で、報公賞を受賞する
・1944年(昭和19) 財団法人航空計器材料試作研究所(現在の電磁材料研究所)を創立して、当初から専務理事となる
・1946年(昭和21) 「異常特性を有する鉄合金の研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1950年(昭和25) 東北大学金属材料研究所の所長となり、電磁研の理事長(第3代)に就任する
・1955年(昭和30) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1957年(昭和32) 日本金属学会会長となる
・1958年(昭和33) 東北大学金属材料研究所の所長を辞め、名誉教授となる
・1959年(昭和34) 科学技術庁参与、仙台市名誉市民となる
・1960年(昭和35) 日本学士院会員となる
・1961年(昭和36) 日本金属学会賞を受賞する
・1962年(昭和37) 「強磁性金属および合金の異常性の研究」で、本多記念賞を受賞する
・1976年(昭和51) 「磁気録音および再生ヘッド用磁性合金ならびにその製造方法の発明」で、全国発明表彰通産大臣発明賞を受賞する
・1979年(昭和54) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1980年(昭和55) 広島市名誉市民となる
・1987年(昭和62)8月12日 宮城県仙台市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈される
・1994年(平成6) 日本金属学会は、増本量の功績を永遠に記念するため「増本量賞」を創設する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される詳細
1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細
1943年(昭和18)日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される詳細
1985年(昭和60)北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する詳細
1998年(平成10)日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に、医学者で名古屋大学総長だった勝沼精蔵が生まれた日です。
 勝沼精蔵(かつぬま せいぞう)は、兵庫県神戸区において、日本郵船会社の船長だった父・勝沼五郎、母・顕子の長男として生まれましたが、1897年(明治30)に澎湖島沖で御用船が沈没し、父が遭難死しました。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40)に、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学します。
 1911年(明治44)に同校を卒業、翌年に三浦謹之助の内科学講座に入局、1913年(大正2)には、病理学教室に勤務しました。1918年(大正7)にフランスに留学、翌年には、パリ講和会議に参加した西園寺公望に同行し主治医となります。
 帰国後、医学博士となり、愛知県立医学専門学校教授に就任、1923年(大正12)には、同校が愛知医科大学に昇格、教授に就任し、欧米へ留学しました。1924年(大正13)にドイツで『Intrazellulare Oxydation und Indophenolblausynthese』を公刊、1925年(大正14)に帰国し、1926年(大正15)には、「オキシダーゼの組織学的研究」で帝国学士院賞を受賞します。
 1931年(昭和6)に名古屋医科大学教授に就任、1932年(昭和7)に同大学付属病院院長となり、1938年(昭和13)には、第一回日本血液学会会長となもなりました。1939年(昭和14)に名古屋帝国大学が設置認可され、附属医院長に就任、1940年〔昭和15)に航空医学研究所長となり、1942年(昭和17)には、学術振興会「脳波委員会」(後の日本脳波学会)を設立します。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に日本学士院会員となり、1949年(昭和24)には、公選により、第3代名古屋大学総長となりました。1953年(昭和28)にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がったものの、受賞は逃し、翌年には、文化功労者となり、文化勲章、レジオン・ドヌール勲章も受章します。
 1955年(昭和30)にドイツ大功労十字勲章を受章、1956年(昭和31)に内科神経同好会(後の日本神経学会)の設立に加わり、1967年(昭和32)には、西独フライブルク大学名誉博士号を受けました。1969年(昭和34)に名古屋大学総長を辞め、名誉教授となりましたが、1963年(昭和38)11月10日に、愛知県名古屋市において、腹部大動脈破裂によって、77歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章及び従二位を追贈されています。

〇勝沼精蔵関係略年表

・1886年(明治19)8月28日 兵庫県神戸区において、日本郵船会社の船長だった父・勝沼五郎、母・顕子の長男として生まれる
・1897年(明治30) 澎湖島沖で御用船が沈没し、父が遭難死する
・1899年(明治32) 静岡県立静岡中学校へ入学する
・1904年(明治37) 静岡県立静岡中学校を卒業し、第一高等学校第三部へ入学する
・1907年(明治40) 第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医科大学に進学する
・1911年(明治44) 東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業する
・1912年(明治45) 東京帝国大学医科大学の三浦謹之助の内科学講座に入局する
・1913年(大正2) 病理学教室に勤務する
・1918年(大正7) フランスに留学する
・1919年(大正8) パリ講和会議に参加した西園寺公望と同行、医学博士となり、愛知県立医学専門学校教授に就任する
・1920年(大正9) 勲六等単光旭日章を受章する
・1923年(大正12) 愛知県立医学専門学校が愛知医科大学に昇格、教授に就任、欧米へ留学する
・1924年(大正13) ドイツで『Intrazellulare Oxydation und Indophenolblausynthese』を公刊する
・1925年(大正14) 欧米留学から帰国する
・1926年(大正15) 「オキシダーゼの組織学的研究」で帝国学士院賞を受賞する
・1931年(昭和6) 名古屋医科大学教授に就任する
・1932年(昭和7) 名古屋医科大学付属病院院長となる
・1938年(昭和13) 第一回日本血液学会会長となる
・1939年(昭和14) 名古屋帝国大学が設置認可され、附属医院長に就任する
・1940年〔昭和15) 航空医学研究所長となる
・1942年(昭和17) 学術振興会「脳波委員会」(後の日本脳波学会)を設立する
・1947年(昭和22) 日本学士院会員となる
・1949年(昭和24) 公選により、第3代名古屋大学総長となる
・1953年(昭和28) ノーベル生理学・医学賞の候補に挙がる
・1954年(昭和29) 文化功労者となり、文化勲章、レジオン・ドヌール勲章も受章する
・1955年(昭和30) ドイツ大功労十字勲章を受章する
・1956年(昭和31) 内科神経同好会の設立に加わる
・1967年(昭和32) 西独フライブルク大学名誉博士号を受ける
・1969年(昭和34) 名古屋大学総長を辞め、名誉教授となる
・1970年(昭和35) 内科神経同好会が日本臨床神経学会(後に日本神経学会)に発展する
・1963年(昭和38)11月10日 愛知県名古屋市において、腹部大動脈破裂によって、77歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章及び従二位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
1899年(明治32)台風による別子大水害が起き、別子銅山で死者513人を出し、大量の鉱毒水が流出する詳細
1923年(大正12)「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)において大きな被害が出る詳細
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takanotatsuyuki01
 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、国文学者・作詞家・文学博士高野辰之が亡くなった日です。
 高野辰之(たかの たつゆき)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月13日に、長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれました。1890年(明治23)に、下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となります。
 1893年(明治26)に長野県尋常師範学校へ入学、1897年(明治30)に卒業後、下水内高等小学校訓導となりました。1898年(明治31)に、国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学びます。
 1900年(明治33)に、長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教え、1902年(明治35)には、「国文学史」教科書を出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となりました。1904年(明治37)に文部省国語教科書編纂委員、1908年(明治41)に東京音楽学校邦楽調査嘱託、1909年(明治42)には、教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となります。
 1910年(明治43)に東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となり、1911年(明治44)に尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」、1912年(明治45)に尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」、1914年(大正3)には、尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載しました。1917年(大正6)に東京音楽学校邦楽調査掛主事となり、1922年(大正11)に『近松門左衛門全集』を出版、1923年(大正12)には、國學院大學講師となります。
広く文献資料を収集・考証し、1925年(大正14)に論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得、1926年(大正15)に『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任、1928年(昭和3)には、「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞しました。1934年(昭和9)に野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求め、1935年(昭和10)には、勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版します。1936年(昭和11)に東京音楽学校を定年退職、1941年(昭和16)には、大正大学も退職しましたが、1947年(昭和22)1月25日に、長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなりました。

〇高野辰之の主要な著作

<著書>
・『歌舞音曲考説』(1915年)
・『日本民謡の研究』(1924年)
・『日本歌謡史』(1926年)学士院賞受賞
・『日本演劇之研究』(1926年)
・『日本歌謡集成』全12巻
・『江戸文学史』(1935年)
・『日本演劇史』全3巻(1947~49年)

<作詞>
・「故郷」
・「朧月夜」
・「もみじ」
・「春がきた」
・「春の小川」
・「日の丸の旗」
・「人形を迎える歌」(作曲:東京音楽学校)
・「人形を送る歌』(作曲:島崎赤太郎)
・「飯山小唄」(作曲:中山晋平)

☆高野辰之関係略年表

・1876年(明治9)4月13日 長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれる
・1887年(明治20) 豊津学校永江支校小学中等科卒業する
・1890年(明治23) 下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となる
・1893年(明治26) 長野県尋常師範学校へ入学する
・1897年(明治30) 長野県尋常師範学校を卒業後、下水内高等小学校訓導となる
・1898年(明治31) 国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学ぶ
・1900年(明治33) 長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教える
・1902年(明治35) 「国文学史」教科書出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となる
・1904年(明治37) 文部省国語教科書編纂委員となる
・1908年(明治41) 東京音楽学校邦楽調査嘱託となる
・1909年(明治42) 教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となる
・1910年(明治43) 東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となる
・1911年(明治44) 尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」を掲載、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」を掲載する
・1912年(明治45) 尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」を掲載、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」を掲載する
・1914年(大正3) 尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載する
・1917年(大正6) 東京音楽学校邦楽調査掛主事となる
・1922年(大正11) 『近松門左衛門全集』を出版する
・1923年(大正12) 國學院大學講師となる
・1925年(大正14) 論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得する
・1926年(大正15) 『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任する
・1928年(昭和3) 「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞する
・1934年(昭和9) 野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求める
・1935年(昭和10) 勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版する
・1936年(昭和11) 東京音楽学校を定年退職する
・1941年(昭和16) 大正大学を退職する
・1947年(昭和22)1月25日 長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、薬学者・薬理学者石館守三が亡くなった日です。
 石館守三(いしだて もりぞう)は、明治時代後期の1901年(明治34)1月24日に、青森県青森市で薬種商を営む父・石館喜久造、母・みきの三男として生まれました。青森県立青森中学校、第二高等学校を経て、1922年(大正11)に、東京帝国大学医学部薬学科へ入学します。
 3年のときから朝比奈泰彦教授に師事し、1925年(大正14)に卒業後、大学に残って研究生活を続け、1930年(昭和5)には、樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となりました。1933年(昭和8)に、服部報公会賞を受賞、1936年(昭和11)に、生薬・植物化学研究のためドイツへ留学、ハイデルベルク大学などで学びます。
 1938年(昭和13)に、ドイツ留学から帰国し、東京帝国大学助教授から、1942年(昭和17)に教授へ昇任、1944年(昭和19)には、「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、ハンセン病治療薬「プロミン」の合成で日本薬学会賞、1948年(昭和23)には、「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞しています。
 1958年(昭和33)に、東京大学初代薬学部長に就任しましたが、1961年(昭和36)には、定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となりました。その後、1965年(昭和40)に国立衛生試験所所長、1966年(昭和41)に中央薬事審議会長、1970年(昭和45)に日本薬剤師会会長に就任し、重責を担います。
 日本の薬学の進歩、地位向上に決定的役割を果たした功績により、1971年(昭和46)に従四位勲二等旭日重光章、米国薬剤師会名誉会員、1972年(昭和47)にパリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員、1973年(昭和48)に第3回「佐藤尚武郷土大賞」、1983年(昭和58)に第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰など数々の栄誉に輝きました。「日本のハンセン病化学療法の父」とも称され、1996年(平成8)に、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けたものの、同年7月18日に、東京都杉並区の自宅において、95歳で亡くなっています。

〇石館守三の主要な著書

・『微量定性分析』
・『生活環境と発がん』

☆石館守三関係略年表

・1901年(明治34)1月24日 青森県青森市で薬種商を営む父・石館喜久造、母・みきの三男として生まれる
・1918年(大正7) 青森県立青森中学校を卒業する
・1919年(大正8) 第二高等学校理科二類に進学する
・1922年(大正11) 第二高等学校を卒業、東京帝国大学医学部薬学科へ入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学医学部薬学科を卒業する
・1926年(大正15) 倉田清・芳子の長女光子と結婚する
・1930年(昭和5) 樟脳(しょうのう)の生化学的研究により、薬学博士となる
・1933年(昭和8)  服部報公会賞を受賞する
・1936年(昭和11) 生薬・植物化学研究のためドイツへ留学する
・1938年(昭和13) ドイツ留学から帰国する
・1942年(昭和17) 東京帝国大学教授となる
・1944年(昭和19) 「樟脳に関する研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1946年(昭和21) ハンセン病治療薬「プロミン」を合成、日本薬学会賞を受賞する
・1948年(昭和23) 「ジキタリス葉の強心性配糖体の研究」で、日本薬学会賞・薬事日報学術賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京大学初代薬学部長に就任する
・1961年(昭和36) 定年退官し名誉教授となり、青森市褒章を受章、日本分析化学会名誉会員となる
・1965年(昭和40) 国立衛生試験所所長に就任する
・1966年(昭和41) 中央薬事審議会長となる
・1970年(昭和45)12月 日本薬剤師会会長に就任する
・1971年(昭和46) 従四位勲二等旭日重光章を受章、米国薬剤師会名誉会員となる
・1972年(昭和47) パリ大学名誉博士、パリ大学薬学部アカデミー会員となる
・1973年(昭和48) 第3回「佐藤尚武郷土大賞」を受賞する
・1974年(昭和49) 財団法人笹川記念保健協力財団を設立する
・1977年(昭和52) 日本癌学会名誉会員となる
・1983年(昭和58) 第28回日本薬剤師会賞、環境庁長官表彰を受ける 
・1989年(平成元) タイ王国王冠勲章を受章する
・1991年(平成3) 中華人民共和国衛生奨、大韓民国国民勲章牡丹章を受章する
・1994年(平成6) アジア薬剤師連合会・特別功労賞を受賞する    
・1996年(平成8) 日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける
・1996年(平成8)7月18日 東京都杉並区の自宅において、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1866年(慶応2)東洋史学者・評論家内藤湖南の誕生日(新暦8月27日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、物理学者西川正治が生まれた日です。
 西川正治(にしかわ しょうじ)は、神奈川県南多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)で生まれ、私立商工中学を経て、1904年(明治37)に旧制第一高等学校へ入学します。1907年(明治40)に東京帝国大学理学部物理学科へ入学、1910年(明治43)に卒業後、大学院へ進み、木下季吉や寺田寅彦の指導を受け、X線回折の研究に従事しました。
 1913年(大正2)に竹や麻等の天然繊維を用いて世界で初めて繊維構造物質のX線回折の実験を行ない、1915年(大正4)にスピネル群結晶内の電子配置を決定、翌年には、「スピネル」群の結晶構造により博士号を得ます。1917年(大正6)に「X線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、理化学研究所の創設に参加、3年間の海外留学ののち、1921年(大正10)に理化学研究所の主任研究員となました。
 1922年(大正11)に理化学研究所西川研究室を主宰、東京帝国大学助教授となり、1924年(大正13)には教授に昇任します。理化学研究所では、菊池正士の研究に助力するとともに、長岡研究室、仁科研究室と共同で原子核実験室を開設し、サイクロトロン、コッククロフト加速装置を建設しました。
 1945年(昭和20)に東京帝国大学教授を辞め、1949年(昭和24)には、理化学研究所の主任研究員も辞め、小林理学研究所理事兼主任研究員となります。1937年(昭和12)に「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、1950年(昭和25)には、日本結晶学会の初代会長に就任しました。
 X線回折、電子線回折の研究で国際的にも高く評価され、1951年(昭和26)に文化勲章を受章、初の八王子市名誉市民となったものの、翌年(昭和27)1月5日に、東京において、67歳で亡くなっています。

〇西川正治の主要な著作

・菊池正士ほか〈物理實驗學〉 『原子核物理學』(1940年)
・西川正治ほか〈岩波講座物理學〉 『X線』(1940年)

☆西川正治関係略年表

・1884年(明治17)12月5日 神奈川県南多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)で生まれる
・1904年(明治37) 旧制第一高等学校へ入学する
・1907年(明治40) 東京帝国大学理学部物理学科へ入学する
・1910年(明治43) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業する
・1913年(大正2) 竹や麻等の天然繊維を用いて世界で初めて繊維構造物質のX線回折の実験を行なう
・1915年(大正4) スピネル群結晶内の電子配置を決定する
・1916年(大正5) 「スピネル」群の結晶構造により学位を得る
・1917年(大正6) 「X線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、理化学研究所の創設に参加する
・1921年(大正10) 理化学研究所の主任研究員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所西川研究室を主宰、東京帝国大学助教授となる
・1924年(大正13) 東京帝国大学教授となる
・1937年(昭和12) 学士院会員となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学教授を辞める
・1949年(昭和24) 理化学研究所の主任研究員を辞め、小林理学研究所理事兼主任研究員となる
・1937年(昭和12) 「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞する
・1945年(昭和20)10月30日 従三位となる
・1950年(昭和25) 日本結晶学会の初代会長に就任する
・1951年(昭和26) 文化勲章を受章、初の八王子市名誉市民となる
・1952年(昭和27)1月5日 東京において、67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1899年(明治32)電気通信工学者・工学博士古賀逸策の誕生日詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細


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