ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:帝国学士院会員

ikedakikunae01
 今日は、江戸時代後期の1864年(元治元)に、化学者池田菊苗の生まれた日ですが、新暦では10月8日となります。
 池田菊苗(いけだ きくなえ)は、山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれましたが、幼名は完二郎と言いました。9歳の時に東京に出て約2年間英語を勉強し、京都に帰ってからも宣教師から英語を学びます。
 1880年(明治13)の16歳の時、大阪衛生試験所長村橋次郎から化学を学び、翌年に親に内緒で家出して上京、1882年(明治15)には、大学予備門に入学しました。予備門理科を卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部化学科に入学し、桜井錠二教授に師事、1889年(明治22)には、卒業して大学院へ進学します。
 1891年(明治24)に高等師範学校教授となり、1896年(明治29)には、東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任しました。1899年(明治32)に物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事、1901年(明治34)には、ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進します。
 1902年(明治35)に理学博士の学位を取得、1907年(明治40)には、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手しました。1908年(明治41)に昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得します。
 1909年(明治42)にうまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売され、1912年(大正元)には、勲三等瑞宝章を受章しました。1913年(大正2)に日本化学会会長、1917年(大正6)に理化学研究所の創立に参加して化学部長、1919年(大正8)には、帝国学士院会員となります。
 1922年(大正11)に理化学研究所主任研究員となり、1923年(大正12)には、東京帝国大学を退職し、正三位となりました。1926年(大正15)に帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞、1931年(昭和6)には、自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究します。
 1932年(昭和7)に理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となったものの、1936年(昭和11)5月3日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、他に酸性白土を利用した乾燥剤など日本の特許40件、欧米などの特許20件を取得しています。
 没後の1985年(昭和60)には、日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰されました。

〇池田菊苗関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1864年(元治元年9月8日) 山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれる
・1880年(明治13) 大阪衛生試験所で化学を学び始める
・1881年(明治14) 親に内緒で家出して上京する
・1882年(明治15) 大学予備門に入学する
・1889年(明治22) 帝国大学理科大学化学科(現在の東京大学理学部化学科)を卒業し、大学院へ進学する
・1891年(明治24) 高等師範学校教授に就任し、従七位となる
・1896年(明治29) 東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任する
・1899年(明治32) 物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事する
・1901年(明治34) ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進する
・1902年(明治35) 理学博士の学位を取得する
・1904年(明治37) 従五位となる
・1907年(明治40) 甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手する
・1908年(明治41) 昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得する
・1909年(明治42) うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売される
・1912年(大正元) 勲三等瑞宝章を受章する
・1913年(大正2) 日本化学会会長となる
・1917年(大正6) 理化学研究所の創立に参加し、化学部長となる
・1919年(大正8) 帝国学士院会員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所主任研究員となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学を退職し、正三位となる
・1926年(大正15) 帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞する
・1931年(昭和6) 自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究する
・1932年(昭和7) 理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となる
・1936年(昭和11)5月3日 東京において、71歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

tawarakuniichi01
 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、冶金学者俵国一の亡くなった日です。
 俵国一(たわら くにいち)は、明治時代前期の1872年(明治5年2月28日)に、島根県浜田において、農家に生まれましたが、上京後、第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)採鉱冶金学科に入学しました。1897年(明治30)に卒業後、同大学助教授となり、1899年(明治32)からドイツに留学し、フライベルグ大学で鉄冶金学を学びます。
 1902年(明治35)に帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となり、1903年(明治36)には、ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得ました。1907年(明治40)に海軍大学校教授を兼任、1910年(明治43)に勲五等瑞宝章を受章、1915年(大正4)には、日本鉄鋼協会の創立に関わります。
 1921年(大正10)に「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1922年(大正11)には、日本鉄鋼協会(第4代)会長となりました。1923年(大正12)に東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員、旅順工科大学商議員、1924年(大正13)には、帝国経済会議議員となります。
 1925年(大正14)に帝国学士院会員、従三位となり、1926年(大正15)に日本鉱業会の会長に選ばれ、1930年(昭和5)には、再び日本鉄鋼協会(第8代)会長となりました。1932年(昭和7)に東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受け、その後は、日本学術振興会の仕事に尽力しましたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に東京・小石川駕篭町において被災し、熱海に疎開、来ノ宮の別邸に住みます。
 冶金学発展の基礎を作った功績により、1946年(昭和21)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1956年(昭和31)に神奈川県鎌倉市に転居しましたが、1958年(昭和33)7月30日に、同所において、86歳で亡くなっています。

〇俵国一の主要な著作

・『日本刀の科学的研究』
・『鉄と鋼の製造法及び性質』
・『古来の砂鉄製錬法』

☆俵国一関係略年表(明治25年以前の日付は旧暦)

・1872年(明治5年2月28日) 島根県浜田において、農家に生まれる
・1897年(明治30) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)採鉱冶金学科を卒業、同大学助教授となる
・1899年(明治32) ドイツに留学し、フライベルグ大学で鉄冶金学を学ぶ
・1902年(明治35) ドイツに留学から帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となる
・1903年(明治36) ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得る
・1907年(明治40) 海軍大学校教授を兼任する
・1910年(明治43) 勲五等瑞宝章を受章する
・1915年(大正4) 日本鉄鋼協会を創立する
・1921年(大正10) 「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1922年(大正11) 日本鉄鋼協会第4代会長となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員となり、旅順工科大学商議員となる
・1924年(大正13) 帝国経済会議議員となる
・1925年(大正14) 帝国学士院会員となり、従三位となる
・1926年(大正15) 日本鉱業会の会長に選ばれる
・1930年(昭和5) 日本鉄鋼協会第8代会長となる
・1932年(昭和7) 東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受ける
・1935年(昭和10) 「冶金学上より見たる日本刀の特色」を宮中進講する
・1945年(昭和20) 東京・小石川駕篭町において被災後、熱海に疎開し、来ノ宮の別邸に住む
・1946年(昭和21) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1956年(昭和31) 神奈川県鎌倉市に転居する
・1958年(昭和33)7月30日 神奈川県鎌倉市において、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ootsukifumihiko01bmp
 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、国語学者・国語辞典『言海』の編纂者である大槻文彦が亡くなった日です。
 大槻文彦(おおつき ふみひこ)は、江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。
 1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。
 1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。
 1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。
 1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。
 尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。

〇大槻文彦の主要な著作

・『万国史略』(1874年)
・『広日本文典』(1897年)
・『広日本文典別記』(1897年)
・『言海 (げんかい、ことばのうみ) 』4冊(1889~91年)
・『復軒雑纂』(1902年)
・『伊達騒動実録』(1909年)
・『口語法』(1916年) 
・『口語法別記』(1917年)

☆大槻文彦関係略年表

・1847年(弘化4年11月15日) 江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 家学(漢学と詩文)を受ける
・1862年(文久2年9月) 開成所に入学、英学・数学を学ぶ、元服し、父はじめ一家で仙台へ移住する
・1863年(文久3年5月) 仙台藩校養賢堂に入る
・1866年(慶応2年) 洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学ぶ、江戸に出て開成所に再入学する
・1867年(慶応3年) 英国人牧師 M. B. Bailey の『万国新聞紙』の編集員となり、仙台藩江戸留守居役大童信太夫に伴って京都に行く
・1868年(慶応4年) 京都で鳥羽伏見の戦いに会し、『慶応卯辰実記』を著す
・1869年(明治2年) 『北海道風土記』(30 巻)成稿(宮城県図書館蔵)を著す
・1870年(明治3年) 大学南校に入り、英学・数学を学ぶ
・1871年(明治4年) 箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、アルバイトで賃訳をし、この頃から日本文法を志し、国学を独学する
・1872年(明治5年) 文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられる
・1874年(明治7年) 師範学校で教科書の翻訳・編集(『万国史略』など)に携わり、文部省で『羅馬史略』翻訳、『琉球新誌』、宮城師範学校校長となり、『日本暗射図』(白地図)作成、『亞非利加誌』訳成する
・1875年(明治8年) 文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、「擬奉英国女帝書」、「日本文法論」を著し、兄修二(如電)が隠居して家督相続する
・1876年(明治9年) 一ヶ月間、『朝野新聞』社説を担当、『小笠原島新誌』を刊行、「印刷術の史」、「日本「ジヤパン」正訛の弁」、「東洋印刷術の史」を著す
・1877年(明治10年) 「伊達政宗が遣欧の記事」、『支那文典』(高第丕(T. P. Crawford)・張儒珍共著『文学書官話 (Mandarin Grammar)』刊行する
・1878年(明治11年) 父・磐渓が亡くなり、文法会第 1 回を開催(1882 年まで 56 回)、富田鉄之助に渡英を勧められるが断念する
・1879年(明治12年) 伊香保温泉で湯治、宿の主人の依頼で『伊香保志』を執筆する
・1880年(明治13年) 『印刷術及石版術』(文部省『百科全書』の一部)を刊行する
・1881年(明治14年) 富田鉄之助らと仙台造士義会を設立し、育英事業に取り組み、如電らと白石社を創設し、翌年にかけて新井白石の『采覧異言』、『西洋紀聞』を校訂刊行する
・1882年(明治15年) 『伊香保志』、『日本小史』を刊行、井上哲次郎抄訳『倍因氏心理新説』を校訂する
・1883年(明治16年) 音楽取調掛兼勤(~1885)、「仰げば尊し」の作詞の合議に加わり、「かなのとも」(のち合同して「かなのくわい」)創立に加わり、土屋政朝訳『刪訂教育学』を閲する
・1884年(明治17年) 「外来語原考」、『言海』の草稿が完成する
・1885年(明治18年) 「三味線志」を編纂(刊行は 1896-97)する
・1886年(明治19年) 『言海』稿本の再訂が終わり、文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となり、『言語篇』(文部省『百科全書』)翻訳刊行(初の言語学紹介)、『古事類苑』編集委員(~1887)となる
・1888年(明治21年) 作並清亮編『松島勝譜』を校訂、自費出版の条件で『言海』稿本が下賜される
・1889年(明治22年) 『日本辞書 言海』第1冊刊行、『中止断行条約改正論』。
・1890年(明治23年) 玄沢遺稿『金城秘韞』を補訂、『語法指南』を刊行する
・1891年(明治24年) 『言海』第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われる
・1892年(明治25年) 岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長(生徒に吉野作造ら)、宮城書籍館館長(~1895年)となる
・1894年(明治27年) 「支倉六右衛門墳墓考」を著す
・1897年(明治30年) 『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行する
・1898年(明治31年) 「和蘭字典文典の訳述起源」を著す
・1899年(明治32年) 文学博士となり、海嘯罹災者への寄付により宮城県岩手県から木盃を得る
・1900年(明治33年) 東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行する
・1901年(明治34年) 帝室博物館列品鑑査掛となり、「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」を著し、『伊達政宗南蛮通信事略』刊行(英訳つき)する
・1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913)となり、『復軒雑纂』を刊行、下飯坂秀治編『仙台藩戊辰史』を校訂する
・1909年(明治42年) 『伊達騒動実録』を刊行、「宮城県尋常中学校校歌」を作る
・1911年(明治44年) 帝国学士院会員となる
・1912年(明治45年) 坂本嘉治馬(冨山房)と『言海』増補出版契約、「根岸 御行の松」を著す
・1916年(大正5年) 従七位から正五位に昇位、『口語法』を刊行(国語調査委員会編)する
・1917年(大正6年) 『口語法別記』を刊行、仙台の戊辰戦役殉難者弔魂祭に招かれ、県庁構内武徳殿で講演する
・1919年(大正8年) 「著述病 老体の文彦翁訪問客を謝絶 言海の増補に苦心」を著す
・1922年(大正11年) 仙台一中開校三十年記念式に出席、殉職した小野さつき訓導へ弔慰金と弔文、吉野作造、大槻校訂の『西洋紀聞』を参考に「新井白石とヨワン・シローテ」を執筆する
・1923年(大正12年) 吉野、仙台一中学友会記念号に大槻に因んで「西洋人の日本語研究」を寄稿し、別に「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」を執筆する
・1925年(大正14年) 講書始の講師となり、吉野ら教え子から、喜寿の祝いに胸像を贈られる
・1928年(昭和3年)2月17日 東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなる
・1932~37年(昭和7~12年) 如電、大久保初男、新村出らにより『大言海』が刊行される
・1938年(昭和13年) 『復軒旅日記』(大槻茂雄校訂)が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1272年(文永9)第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日)詳細
1906年(明治39)大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり、文芸協会が結成される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細
2005年(平成17)愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

sasakisouichi01
 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、憲法・行政法学者・貴族院議員佐々木惣一が亡くなった日です。
 佐々木惣一(ささき そういち)は、明治時代前期の1878年(明治11)3月28日に、現在の鳥取県鳥取市西町で、佐々木惣三郎の長男として生まれました。鳥取第一中学校(現在の鳥取西高)、旧制第四高等学校を経て、1903年(明治36)に、京都帝国大学法科大学を卒業します。
 その後、同大学講師を経て、1906年(明治39)に助教授となり、1909年(明治42)からドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学しました。帰国後、1913年(大正2)に京都帝国大学法科大学教授となり、法学博士も取得します。憲法および行政法の権威として、天皇機関説、民本主義を主張、美濃部達吉と共に、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍、1916年(大正5)に「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表、1921年(大正10)には、京都帝国大学法学部長となりました。
 しかし、1933年(昭和8)に滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守り、転じて、1934年(昭和9)には、立命館大学学長となります。同年の東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護しました。
 学界全体が大政翼賛運動に巻き込まれていくなかで、大政翼賛会違憲論を主張、1939年(昭和14)には、帝国学士院会員となります。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に内大臣府御用掛として近衛文麿と共に、帝国憲法改正考査に携さわり、いわゆる「佐々木草案」を作成し、翌年には、貴族院議員に勅選され、新憲法審議にも参加しました。
 1947年(明治22)から、翌年にかけて、和辻哲郎と国体論争を展開しています。1952年(昭和27)に文化勲章を受章、併せて文化功労者となり、翌年には、京都市名誉市民ともなりました。しかし、1965年(昭和40)8月4日に、京都府京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇佐々木惣一の主要な著作

・『日本行政法原論』(1920年)
・『立憲非立憲』(1918年)
・『日本憲法要論』(1930年)
・『わが国憲法の独自性』(1943年)
・『日本国憲法論』(1949年)
・『天皇の国家的象徴性』(1949年)
・『憲法学論文選』(1956~57年)
・『法の根本的考察』(1965年)

☆佐々木惣一関係略年表

・1878年(明治11)3月28日 現在の鳥取県鳥取市西町で、佐々木惣三郎の長男として生まれる
・1903年(明治36)7月 京都帝国大学法科大学を卒業する
・1906年(明治39)10月 京都帝国大学法科大学助教授となる
・1909年(明治42)9月 ドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学する
・1913年(大正2)1月 京都帝国大学法科大学教授となる
・1913年(大正2)12月 法学博士となる
・1916年(大正5) 「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表する
・1921年(大正10)4月 京都帝国大学法学部長となる
・1927年(昭和2) 退官した市村光恵に代わって憲法も担当する
・1929年(昭和4)以来 公法研究会、行政法判例研究会などを主宰する
・1933年(昭和8) 滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守る
・1934年(昭和9)3月 立命館大学学長となる
・1934年(昭和9) 東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護する 
・1939年(昭和14)12月 帝国学士院会員となる
・1945年(昭和20)10月 京都帝国大学名誉教授となる
・1945年(昭和20)11月 内大臣府御用掛として憲法改正調査を拝命しいわゆる「佐々木草案」を作成する
・1946年(昭和21)3月 貴族院勅選議員に勅任される(翌年5月2日まで在任)
・1947年(明治22) 和辻哲郎と国体論争を展開する
・1952年(昭和27)11月 文化勲章を受章、併せて文化功労者となる
・1953年(昭和28)11月 京都市名誉市民となる
・1965年(昭和40)8月4日 京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈される
・1965年(昭和40)8月21日 京都市公葬が営まれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(神護景雲4)第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)の命日(新暦8月28日)詳細
1830年(文政13)幕末の思想家・教育者吉田松陰の誕生日(新暦9月20日)詳細
1897年(明治30)幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎の命日詳細
1944年(昭和19)初の集団学童疎開列車が東京の上野駅を出発する詳細
1992年(平成4)小説家松本清張の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

inadaryoukichi01
 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、医学者・九州帝大教授・東京帝大教授・日本医師会会長稲田龍吉が生まれた日です。
 稲田龍吉(いなだ りゅうきち)は、愛知県名古屋で、父・稲田見龍、母・とめの次男として生まれました。上京後、第一高等中学校(旧制第一高等学校の前身)を経て、1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学します。
 1900年(明治33)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局、1902年(明治35)からドイツへ公費留学し、3年間心臓病について研究しました。1905年(明治38)に帰国と共に福岡医科大学(現九州大学医学部)第一内科初代教授に就任、1907年(明治40)には、医学博士となります。
 1914年(大正3)にワイル病病原体を発見、翌年9月に、「日本黄疸出血性スピロヘータ病論」と題して発表しました。その功績により、1916年(大正5)に帝国学士院恩賜賞を受賞、1919年(大正8)には、共同研究者の井戸泰とともにノーベル生理学・医学賞の候補となります。
 1920年(大正9)に、東京帝国大学教授に転任し、1928年(昭和3)には、帝国学士院会員となりました。1934年(昭和9)に定年退官し、名誉教授となり、癌研究会附属病院が開設時に初代院長となります。
 1938年(昭和13)に恩賜財団母子愛育会愛育研究所の開所に伴いその初代所長に就任、1942年(昭和17)に日本医療団総裁、1943年(昭和18)には、日本医師会会長を兼務しました。これらの活躍により、1944年(昭和19)には、勲一等瑞宝章及び文化勲章を受章しましたが、1946年(昭和21)に日本医師会会長を辞めています。
 1949年(昭和24)に、日本初の一般向け医学書「家庭の医学」(時事通信社)を塩田広重と共に責任編集を行い、発行しました。また、天淵と号して書を能くしたものの、1950年(昭和25)2月27日に、東京において、76歳で亡くなっています。

〇稲田龍吉の主要な著作

・『重要なる疾患の予後』
・『疾病治療と体質』
・塩田広重との共編『家庭の医学』(1949年)

☆稲田龍吉関係略年表

・1874年(明治7)3月18日 愛知県名古屋で、父・稲田見龍、母・とめの次男として生まれる
・1895年(明治28) 帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学する
・1900年(明治33) 東京帝国大学医科大学を首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局する
・1902年(明治35) ドイツへ公費留学し、3年間心臓病について研究する
・1905年(明治38) 帰国とともに福岡医科大学(現九州大学医学部)第一内科初代教授に就任する
・1907年(明治40) 医学博士となる 
・1914年(大正3) ワイル病病原体を発見する
・1915年(大正4)3月10日 正五位となる
・1915年(大正4)9月 「日本黄疸出血性スピロヘータ病論」と題して発表する
・1916年(大正5) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1919年(大正8) 共同研究者の井戸泰とともにノーベル生理学・医学賞の候補となる
・1920年(大正9)、東京帝国大学教授に転任する
・1928年(昭和3) 帝国学士院会員となる
・1934年(昭和9) 定年退官し、名誉教授となり、癌研究会附属病院が開設された時に初代院長となる
・1938年(昭和13) 恩賜財団母子愛育会愛育研究所の開所に伴いその初代所長に就任する
・1940年(昭和15)8月15日  紀元二千六百年祝典記念章を受章する
・1942年(昭和17) 日本医療団総裁となる
・1943年(昭和18) 日本医師会会長を兼務しする
・1944年(昭和19) 勲一等瑞宝章及び文化勲章を受章する
・1946年(昭和21) 日本医師会会長を辞める
・1949年(昭和24) 日本初の一般向け医学書「家庭の医学」(時事通信社)を塩田広重と共に責任編集を行い、発行する
・1950年(昭和25)2月27日 東京において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1473年(文明5)武将・守護大名山名持豊(宗全)の命日(新暦4月15日)詳細
1881年(明治14)自由民権派の日刊新聞「東洋自由新聞」が創刊される詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ