ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:帝国学士院会員

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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、医師・細菌学者秦佐八郎が亡くなった日です。
 秦佐八郎(はた さはちろう)は、明治時代前期の1873年(明治6)3月23日に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれましたが、本姓は山根でした。しかし、1887年(明治20)に同村の医家秦徳太・ツタの養子となり、秦姓となっています。
 1895年(明治28)に岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊(東京)に入営しました。1897年(明治30)には、岡山に戻って、岡山県立病院に勤務するようになります。
 1898年(明治31)に、上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事、1903年(明治36)には、国立血清薬院部長を兼任しました。1904年(明治37)に日露戦争に従軍し、南満州(現在の中国東北部)各地に赴いた後、1907年(明治40)には、国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学びます。
 その後、エールリヒ、さらにヤコビーのもとで研究し、1910年(明治43)には、サルバルサンを発見、ドイツ学会に発表後、日本へ帰国しました。1911年(明治44)にサルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受章、1912年(明治45)には、学位論文「螺旋菌病のヘモテラピー」により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与されています。
 1913年(大正2)に国産のサルバルサンを製造することに協力し、日本結核予防協会設立に参画、1914年(大正3)には、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となりました。1915年(大正4)に国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売します。
 1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じ、1926年(大正15)には、ドイツ帝国自然科学院会員に推されました。1931年(昭和6)に恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任、1933年(昭和8)には、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受けます。
 1934年(昭和9)に深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞、1935年(昭和10)には、財団法人保生会創設に参画、常務理事長となったものの、1938年(昭和13)11月22日に、東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなりました。

〇秦佐八郎の主要な著作

・エールリッヒ共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』(1910年)
・『化学療法ノ研究』(1911年)
・『サルヴァルサン療法』(1913年)
・『黴毒ノ診断 黴毒ノ療法』(1915年)

☆秦佐八郎関係略年表

・1873年(明治6)3月23日 島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれる
・1887年(明治20) 同村医家 秦徳太・ツタの養子となる
・1891年(明治24) 岡山第三高等中学校医学部に入学する
・1895年(明治28) 岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚する
・1897年(明治30) 岡山県立病院に勤務する
・1898年(明治31) 上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事する
・1903年(明治36) 国立血清薬院部長を兼任する
・1904年(明治37) 日露戦争従軍・南満州(現中国)各地に赴く
・1907年(明治40) 国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学ぶ
・1910年(明治43) ドイツ国立実験治療研究所でエールリッヒ博士を扶けてサルバルサンを発見、ドイツ学会に発表、日本へ帰国する
・1911年(明治44) サルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受ける
・1912年(明治45) 学位論文『螺旋菌病のヘモテラピー』により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与される
・1913年(大正2) 国産のサルバルサンを製造することになり、協力し、日本結核予防協会設立に参画する
・1914年(大正3) 伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となる
・1915年(大正4) 国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売する
・1920年(大正9) 慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じる
・1921年(大正10) 極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張する
・1923年(大正12) アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察する
・1926年(大正15) ドイツ帝国自然科学院会員に推される
・1928年(昭和3) ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席する
・1931年(昭和6) 恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任する
・1933年(昭和8) 帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける
・1934年(昭和9) 深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞する
・1935年(昭和10) 財団法人保生会創設に参画、常務理事長となる
・1938年(昭和13)11月22日 東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1724年(享保9)浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日)詳細
1917年(大正6)江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第5条に基づいて、「国民勤労報国協力令」が交布(施行は同年12月1日)される詳細
1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細
1945年(昭和20)「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される詳細
GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」が指令される詳細
1969年(昭和44)「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が出される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘が亡くなった日です。
 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、江戸時代後期の1856年(安政3年9月18日)に、陸奥国二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれました。1862年(文久2)の6歳の時、母・喜勢を亡くし、1865年(慶応元)に下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学びます。
 1870年(明治3)に盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修め、1872年(明治5)には、一家で東京へ移住し、慶應義塾英語学校に入学しました。1876年(明治9)に東京開成学校へ入学、1878年(明治11)に東京大学理学部本科へ入学し、1882年(明治15)に卒業後、同校の準助教授となります。
 1888年(明治21)にイギリスのグラスゴー大学に留学、1890年(明治23)にドイツのベルリン大学へ転学し、1891年(明治24)に帰国後、帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、同年10月28日に発生した濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見しました。1894年(明治27)に万国測地協会委員、1902年(明治35)に勲四等旭日小綬章受章、1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章、1907年(明治40)には、万国度量衡会議常任委員となります。
 1910年(明治43)に航空事業視察のためヨーロッパへ派遣され、所沢飛行場建設に関わり、1914年(大正3)には、文部省測地学委員会委員長となりました。1916年(大正5)に勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出し、翌年に名誉教授となり、万国度量衡会議に出席します。
 1918年(大正7)に国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となり、1919年(大正8)には、地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となりました。1921年(大正10)に小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となり、1925年(大正14)には、文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となります。
 1928年(昭和3)に航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、1930年(昭和5)には、文部省臨時ローマ字調査委員会委員となりました。1932年(昭和7)に貴族院議員に再選され、1933年(昭和8)の御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、1939年(昭和14)には、中央航空研究所施設委員会委員となり、貴族院議員に3選されます。
 1940年(昭和15)に帝国学士院第二部部長となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞、1945年(昭和20)には、空襲の激化により、故郷の福岡町に疎開しました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)、1950年(昭和25)に日本物理学会名誉会員、1951年(昭和26)に福岡町名誉町民となったものの、1952年(昭和27年)5月21日に、東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1999年(平成11)には、故郷の岩手県二戸市に「田中舘愛橘記念科学館」がオープンしました。

〇田中舘愛橘の主要な著作

・『電気ニ就テノ演説』(1899年)
・『航空機講話』(1915年)
・『羅馬字意見及び発音考』(1926年)
・『メートル法の歴史と現在の問題』(1934年)
・『ローマ字綴り方の外交及び国際関係の事項概要』(1936年)
・随筆・論文集『葛の根 田中館愛橘論文抜集』(1938年)
・『時は移る』(1948年)
・『田中館愛橘遺墨集』(1992年)
・『田中館愛橘博士歌集 地球を翔けた心の歌』(1997年)
・『献詠和歌集 田中舘愛橘博士墓前祭 昭和27年~平成18年』(2007年)

☆田中舘愛橘関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年9月18日) 陸奥国二戸郡福岡村(現在の二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
・1862年(文久2年) 母・喜勢が病没する
・1865年(慶応元年) 下斗米軍七の武芸「実用流」に入門する
・1866年(慶応2年) 福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学ぶ
・1870年(明治3年) 盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修める  
・1872年(明治5年) 一家で東京へ移住、慶應義塾英語学校に入学する
・1876年(明治9年) 東京開成学校入学する
・1878年(明治11年) 東京大学理学部本科入学する
・1880年(明治13年) メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定をする
・1882年(明治15年) 東京大学を卒業し、準助教授となる  
・1883年(明治16年) 東京大学助教授となる
・1888年(明治21年) イギリスのグラスゴー大学に留学する
・1890年(明治23年) ドイツのベルリン大学へ転学する
・1891年(明治24年) 帰国し帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見する
・1893年(明治26年) 本宿キヨ子と結婚する  
・1894年(明治27年) 長女美稲誕生、産後の病により夫人が亡くなり、万国測地協会委員となる
・1898年(明治31年) 万国測地学協会総会に出席する
・1902年(明治35年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争、陸軍の気球の研究に従事する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章  
・1907年(明治40年) 万国度量衡会議常任委員となる
・1909年(明治42年) 臨時軍用気球研究会委員となる
・1910年(明治43年) 航空事業視察のためヨーロッパへ派遣、所沢飛行場建設に関わる
・1914年(大正3年) 文部省測地学委員会委員長となる
・1915年(大正4年) 貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行する
・1916年(大正5年) 勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出する  
・1917年(大正6年) 東京帝国大学名誉教授となり、万国度量衡会議に出席する
・1918年(大正7年) 国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となる
・1919年(大正8年) 地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となる
・1920年(大正9年) 東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席する
・1921年(大正10年) 小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となる
・1923年(大正12年) 万国度量衡常置委員会議及び物理学会に出席する
・1924年(大正13年) 測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1925年(大正14年) 文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となる
・1926年(大正15年) 故郷の福岡町において古希の祝賀会、震災予防評議会評議員となる、太平洋学術会議副議長となる
・1927年(昭和2年) 国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会へ出席する
・1928年(昭和3年) 航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章する  
・1929年(昭和4年) 万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会へ出席する
・1930年(昭和5年) 文部省臨時ローマ字調査委員会委員となる  
・1931年(昭和6年) 万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議へ出席する
・1932年(昭和7年) 貴族院議員に再選される
・1933年(昭和8年) 御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1935年(昭和10年) 天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議へ出席する
・1938年(昭和13年) 随筆・論文集『葛の根』を発刊、科学振興調査会委員、航空機技術委員会委員となる  
・1939年(昭和14年) 中央航空研究所施設委員会委員となる、貴族院議員に3選される
・1940年(昭和15年) 帝国学士院第二部部長となる
・1944年(昭和19年) 文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞する  
・1945年(昭和20年) 故郷の福岡町に疎開する  
・1948年(昭和23年) 自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)する
・1950年(昭和25年) 日本物理学会名誉会員となる
・1951年(昭和26年) 福岡町名誉町民となる  
・1952年(昭和27年)5月21日 東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1999年(平成11年) 故郷の二戸市に田中舘愛橘記念科学館がオープンする  
・2002年(平成14年) 没後50年記念事業が挙行される
・2015年(平成27年) 二戸市名誉市民となる 
・2016年(平成28年) 田中舘愛橘像が落成し、二戸市のシンボルとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1827年(文政10)頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈される(新暦6月15日)詳細
1880年(明治13)三条の大火「糸屋万平火事」で、死者34名、焼失2,743戸を出す詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、物理学者・冶金学者本多光太郎が亡くなった日です。
 本多光太郎(ほんだ こうたろう)は、明治時代前期の1870年(明治3年2月23日)に、三河国碧南郡新堀村(現在の岡崎市新堀町字大庭)において、農業を営む父・本多兵三郎の三男として生まれました。1885年(明治18)に随念寺高等小学校を卒業後、1887年(明治20)に上京し、大学予備門を経て、1889年(明治22)には、第一高等中学校へ入学します。
 1894年(明治27)に東京帝国大学理科大学物理学科へ進学し、地球物理学・磁気学等を専攻、1897年(明治30)に卒業後、大学院へ進み、長岡半太郎の指導下で強磁性金属の磁化、応力、ひずみの相互関係について研究しました。1901年(明治34)に東京帝国大学理科大学物理学科講師となり、1906年(明治39)に理学博士の学位を得て、翌年からドイツ・イギリスに留学、物理学の研究に没頭します。
 1911年(明治44)に帰国後、東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となり、1915年(大正4)には、加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発しました。1916年(大正5)に臨時理化学研究所第二部研究主任となり、高木弘と共にKS鋼を発明、鉄に関する研究で、帝国学士院賞を受賞、翌年には、従五位となります。
 1919年(大正8)に東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長に就任、1922年(大正11)に東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長に就任、英国鉄鋼協会ベッセマー賞を受賞、帝国学士院会員となり、1924年(大正13)には、米国金属学会名誉会員ともなりました。1931年(昭和6)に東北帝国大学総長に就任、米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダルを授与され、1933年(昭和8)にドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士となり、1934年(昭和9)には、KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明します。
 1937年(昭和12)に日本金属学会設立に尽力して初代会長となり、第1回文化勲章を受章、1940年(昭和15)に東北帝国大学総長を退任、名誉教授となり、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設立に参画、正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しました。1944年(昭和19)に金属材料研究所長事務取扱として戦時研究を指導、1949年(昭和24)に東京理科大学初代学長に就任、仙台名誉市民となり、1951年(昭和26年)には。文化功労者に選ばれています。
 1953年(昭和28)に東京理科大学学長を辞めましたが、1954年(昭和29年)2月12日に、東京都において、83歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、1956年(昭和31)に、その業績を記念する財団法人本多記念会が発足、金属に関する優れた研究に贈る本多記念賞が設けられています。

〇本多光太郎の主要な著作

・『物理学本論』
・『新制物理学本論』(上・下)

☆本多光太郎関係略年表

・1870年(明治3年2月23日) 三河国碧南郡新堀村(現在の岡崎市新堀町字大庭)において、農業を営む父・本多兵三郎の三男として生まれる
・1877年(明治10年) 桑子小学校に入学する
・1881年(明治14年) 桑子尋常小学校を卒業し、随念寺の高等小学校に進学しましたが、学校嫌いで成績も悪かった
・1885年(明治18年) 随念寺高等小学校を卒業する
・1887年(明治20年) 上京し、大学予備門に入学する
・1889年(明治22年) 第一高等中学校へ入学する
・1894年(明治27年) 東京帝国大学理科大学物理学科へ入学、地球物理学・磁気学等を専攻する
・1897年(明治30年) 東京帝国大学理科大学物理学科を卒業後、大学院へ進む
・1901年(明治34年) 東京帝国大学理科大学物理学科講師となる
・1906年(明治39年) 理学博士の学位を得る
・1907年(明治40年) ドイツ・イギリスに留学、物理学の研究に没頭する
・1911年(明治44年) 帰国後、東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となる
・1915年(大正4年) 加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発する
・1916年(大正5年) 臨時理化学研究所第二部研究主任となり、高木弘と共にKS鋼を発明、鉄に関する研究で、帝国学士院賞を受賞する
・1917年(大正6年) 従五位となる
・1919年(大正8年) 東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長に就任する
・1922年(大正11年) 東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長に就任、英国鉄鋼協会ベッセマー賞を受賞、帝国学士院会員となる
・1924年(大正13年) 米国金属学会名誉会員となる
・1931年(昭和6年) 東北帝国大学総長に就任、米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダルを得る
・1933年(昭和8年) ドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士となる
・1934年(昭和9年) KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明する
・1937年(昭和12年) 日本金属学会設立に尽力して初代会長となり、第1回文化勲章を受章する
・1940年(昭和15年) 東北帝国大学総長を退任、名誉教授となり、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設立に参画、正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1944年(昭和19年) 金属材料研究所長事務取扱として戦時研究を指導する
・1949年(昭和24年) 東京理科大学初代学長に就任、仙台名誉市民となる
・1951年(昭和26年) 文化功労者に選ばれる
・1953年(昭和28年) 東京理科大学学長を辞める
・1954年(昭和29年)2月12日 東京都において、83歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1956年(昭和31年) 業績を記念する財団法人本多記念会が発足、金属に関する優れた研究に贈る本多記念賞が設けられる
・1961年(昭和36年) 岡崎市名誉市民となる
・1985年(昭和60年) 工業所有権制度100周年記念行事委員会により、日本の発明家10傑の1人に選ばれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1231年(寛喜3)第87代の天皇とされる四条天皇の誕生日(新暦3月17日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、中国文学・哲学研究者狩野直喜が亡くなった日です。
 狩野直喜(かの なおき)は、幕末明治維新期の1868年2月11日(慶応4年1月18日)に、肥後国熊本において、父・狩野直恆の三男として生まれましたが、号は君山と言いました。1879年(明治12)に同心学舍(後の濟々黌)に入学し、1884年(明治17)に上京して、神田共立学校(後に東京開成学校)で英語を学び、1886年(明治19)には、大学予備門(一高)に入学します。
 1982年(明治25)に東京帝国大学文科大学漢学科に入学し、島田篁村らに師事して考証学を学び、1895年(明治28)に卒業、正則中学校後、東京外国語学校などで教鞭を執りました。1900年(明治33)に京都帝国大学への赴任を前提に中国本土(清)へ渡り、文部省留学生として北京に留学、翌年には、上海に移り、亞州文會に出入して西籍に親しみ、またエドキンス (1823~1905年) をはじめとする欧米学者と交わります。
 1903年(明治36)に帰国して京都に居住、文科大学がなお開設されなかったため、法科大学教授織となり、『清国行政法』の編纂に従事、翌年には、京都法政專門学校(後の立命館)で支那時文を講義しました。1906年(明治39)に京都帝国大学文科大学が開設されて教授となり、哲学科において支那哲学史を担当、1908年(明治41)には、文学科が開設され、支那語学支那文学担当を兼任します。
 1910年(明治43)に北京に出張し敦煌写本を調査、1912年(明治45)には、ロシアを經由して欧州(フランス、イギリス、オランダ、ベルギー、オーストリア、イタリア)に留学し翌年に帰国しました。1924年(大正14)に帝国学士院会員となり、東方文化事業總委員会委員を委囑されましたが、1928年(昭和3)には、京都帝国大学を定年により退官します。
 1929年(昭和4)に東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)主任(所長)となり、1935年(昭和10)には、仏国アジア協会名誉会員となりましたが、1938年(昭和13)には、東方文化学院京都研究所長を辞めました。日本の中国学に新風を吹き込んだ功績により、1944年(昭和19)には、文化勲章を受章したものの、1947年(昭和22)12月13日に、京都府京都市の自宅において、79歳で亡くなっています。尚、漢詩文および書をも能くしました。

〇狩野直喜の主要な著作

・『支那学文藪』(1927年)
・『読書纂余』(1947年)
・『中国哲学史』(1953年)
・『両漢学術考』(1964年)
・『支那文学史 上古より六朝まで』(1970年)
・『清朝の制度と文学』(1984年)
・『支那小説戯曲史』(1992年)

☆狩野直喜関係略年表

・1868年2月11日(慶応4年1月18日) 肥後国熊本において、父・狩野直恆の三男として生まれる
・1879年(明治12年) 同心学舍(後の濟々黌)に入学する
・1884年(明治17年) 上京して、神田共立学校(後に東京開成学校)で英語を学ぶ
・1886年(明治19年) 大学予備門(一高)に入学する
・1982年(明治25年) 東京帝国大学文科大学漢学科に入学し、島田篁村らに師事する
・1895年(明治28年) 東京帝国大学文科大学漢学科を卒業、正則中学校、東京外国語学校などで教鞭を執る
・1900年(明治33年) 京都帝国大学への赴任を前提に中国本土(清)へ、文部省留学生として北京に留学する
・1901年(明治34年) 次いで、上海に留学、亞州文會に出入して西籍に親しみ、またエドキンス (1823-1905) をはじめとする欧米学者と交わる
・1903年(明治36年) 中国留学より帰国して京都に居住、文科大学がなお開設されなかったため、法科大学教授織となり、『清国行政法』の編纂に従事する
・1904年(明治38年) 京都法政專門学校(後の立命館)で支那時文を講義する
・1906年(明治39年) 京都帝国大学文科大学が開設され、教授となり、哲学科において支那哲学史を担当する
・1908年(明治41年) 京都帝国大学文科大学文学科が開設され、支那語学支那文学担当を兼任、従六位となる
・1910年(明治43年) 北京に出張し敦煌写本を調査する
・1912年(明治45年) ロシアを經由して欧州(フランス、イギリス、オランダ、ベルギー、オーストリア、イタリア)に留学、従五位となる
・1913年(大正2年) 欧州留学から帰国する 
・1924年(大正14年) 帝国学士院会員となり、東方文化事業總委員会委員を委囑される
・1928年(昭和3年) 京都帝国大学を定年により退官する
・1929年(昭和4年) 東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)主任(所長)となる
・1935年(昭和10年) 仏国アジア協会名誉会員となる
・1938年(昭和13年) 東方文化学院京都研究所長を辞める
・1944年(昭和19年) 文科勲章を受章する
・1947年(昭和22年)12月13日 京都府京都市の自宅において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1841年(天保12)江戸幕府が天保の改革の一つとして、「株仲間解散令」を発布する(新暦1842年1月24日)詳細
1921年(大正10)ワシントン軍縮会議において、「四カ国条約」(日・英・米・仏)を結び、日英同盟を解消する詳細
1924年(大正13)東京で市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会を発足する詳細
1969年(昭和44)小説家・演出家獅子文六の命日詳細
1980年(昭和55)国際的な版画家長谷川潔の命日詳細
2006年(平成18)第61回国連総会本会議で「障害者権利条約」が採択される詳細
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kimurahisashi01
 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、天文学者木村栄の亡くなった日です。
 木村栄(きむら ひさし)は、明治時代前期の1870年(明治3年9月10日)に、石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市泉野町)において、菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家の父・篠木庄太郎の次男として生まれましたが、翌年には、木村民衛の養子となりました。1877年(明治10)に越田善七の和算塾で算数、大島塾で漢文を学び、翌年には、養父の木村塾で小先生と呼ばれるようになります。
 1880年(明治13)に加賀藩藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に入学、1887年(明治20)に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進みました。1889年(明治22)に同校を首席で卒業し、帝国大学理科大学星学科に入学、今川覚神より天文学を学んで、1892年(明治25)に卒業後、星を研究するため、帝国大学大学院に進学、寺尾寿、田中館愛橘に師事して位置天文学および地球物理学を専攻します。
 1895年(明治28)に嘱託として「緯度変化観測方」となり、東京で緯度観測を始め、1896年(明治29)には、田中舘と共に観測地の選定のため、水沢に来て数カ所の経緯度を測定し、天文台の候補位置を決定しました。1897年(明治30)に、日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎と共に、インドへ出張し、翌年には、第12回万国測地学(学会)協会に出席、岩手県の水沢が万国共同緯度観測所に決まります。
 1899年(明治32)に帰国し、臨時緯度観測所(水沢)の所長となり、観測を開始、1901年(明治34)には、地軸運動の解析的研究で緯度変化の二つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Z項(木村項)を発見、翌年に論文を発表し、国際的に認められました。この成果により、1904年(明治37)に理学博士の学位を授与され、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席、1910年(明治43)に英国王立天文学会会友に推薦され、翌年には、帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1920年(大正9)に緯度観測所長、万国緯度変化委員会委員長となり、1922年(大正11)には、実績を認められ、国際緯度観測事業中央局長に推挙され、水沢が中央局を担当する事になりました。1925年(大正14)に帝国学士院会員となり、1935年(昭和10)には、国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行します。
 1936年(昭和11)に、14年間務めた中央局長の職を辞し、中央局はイタリアに移り、王立天文学会ゴールドメダル、朝日文化賞を受賞、1937年(昭和12)には、第1回文化勲章も受章しました。1941年(昭和16)に緯度観測所長を辞任し、東京都世田谷区新町に移り住み、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行します。
 しかし、1942年(昭和17)に持病の喘息がひどくなり、暖かな伊東へ転地療養(翌年4月まで)したものの、1943年(昭和18年)9月26日に、東京都世田谷区の自宅において、72歳で亡くなりました。

〇木村栄の主要な著作

・『緯度観測所に就て』(1908年)
・『緯度変化に就て』(1908年)

☆木村栄関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1870年(明治3年9月10日) 石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市泉野町)において、菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家の父・篠木庄太郎の次男として生まれる
・1871年(明治4年) 木村民衛の養子となる
・1877年(明治10) 越田善七の和算塾で算数、大島塾で漢文を学ぶ
・1878年(明治11) 養父の木村塾で小先生と呼ばれる
・1880年(明治13年) 加賀藩藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に入学する
・1885年(明治18年) 赴任してきた北条時敬に学んで数学に目覚める
・1887年(明治20年) 同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進む
・1889年(明治22年) 第四高等中学校を首席で卒業し、帝国大学理科大学星学科に入学する
・1892年(明治25年) 大学を卒業後、星を研究するため、帝国大学大学院に進学する
・1895年(明治28年) 嘱託として「緯度変化観測方」となり、東京で緯度観測を始める
・1896年(明治29年) 田中舘と共に観測地の選定のため、水沢に来て数カ所の経緯度を測定し、天文台の候補位置を決定する
・1897年(明治30年) 日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎と共に、インドへ出張する
・1898年(明治31年) 第12回万国測地学(学会)協会に出席、岩手県の水沢が万国共同緯度観測所に決まる
・1899年(明治32年) 帰国し、臨時緯度観測所(水沢)の所長となり、観測を開始する
・1901年(明治34年) 地軸運動の解析的研究で緯度変化の二つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Z項(木村項)を発見する
・1902年(明治35年) Z項の発見論文を発表し、国際的に認められる
・1904年(明治37年) 理学博士の学位を授与され、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席する
・1910年(明治43年) 英国王立天文学会会友に推薦される
・1911年(明治44年) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1920年(大正9年) 緯度観測所長、万国緯度変化委員会委員長となる
・1922年(大正11年) 実績を認められ、国際緯度観測事業中央局長に推挙され、水沢が中央局を担当する事になる
・1925年(大正14年) 帝国学士院会員となる
・1935年(昭和10年) 国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行する
・1936年(昭和11年) 14年間務めた中央局長の職を辞し、中央局はイタリアに移り、王立天文学会ゴールドメダル、朝日文化賞を受賞する
・1937年(昭和12年) 第1回文化勲章を受章する
・1941年(昭和16年) 緯度観測所長を辞任し、東京都世田谷区新町に移り住み、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行する
・1942年(昭和17年) 持病の喘息がひどくなり、暖かな伊東へ転地療養する
・1943年(昭和18年)9月26日 東京都世田谷区の自宅において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
1968年(昭和43)厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定する詳細
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