ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:巨大地震

inamuranohi01
 今日は、江戸時代後期の1854年(嘉永7)に、安政南海地震が起き、甚大な被害の出た日ですが、新暦では12月24日となります。
 安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の1854年(嘉永7年11月5日)午後4時頃に起きた、紀伊水道南方を震源とする巨大地震(マグニチュード8.4)でした。これによって、大津波が発生して、東海地方から九州にかけて各地に大きな被害をもたらします。
 特に、沿岸地域の被害は甚大で、豊後大分藩領内では、家屋倒潰4,546軒、死者18人、土佐藩領内では推定波高5~8mの大津波が襲い、倒壊家屋3,000余戸、焼失家屋2,500余戸、流失家屋3,200余戸、死者372人余、紀州藩領内では、家屋全潰・破損18,086軒、同流失8,496軒、同焼失24軒、死者699人を出しました。ちなみに、紀州広村の津波災害中に同村の名家の生まれ浜口儀兵衛(梧陵)が、下総(千葉県)銚子で醤油製造業(ヤマサ醤油)を営んでいたが、同村滞在中この地震と津波に遭遇し、村人を避難させるため、道端の稲むら(乾燥させるため稲を積んだもの)に火を放ち、これによって村人を誘導して津波から救ったという逸話が残され、名作「稲むらの火」の原点になっています。
 この32時間前の11月4日9時過頃には安政東海地震(マグニチュード8.4)が発生し、被害は東海地方を中心に、関東地方から近畿地方にまで及んでいました。2つの地震が重なった地域もあって被害の判別が難しく、併せて、伊豆から四国までの広範な地帯で死者数千人、倒壊家屋3万軒以上という大きな被害をもたらしたとされています。
 この2つの地震を機に元号が「安政」に改められたので、安政大地震とも総称されました。この後、11月7日の豊予海峡地震(マグニチュード7.4)、翌安政2年2月1日の飛騨地震(マグニチュード6.8)、10月2日の安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)、安政3年7月23日の安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)、安政4年8月25日の伊予大震(マグニチュード7.3)、安政5年2月26日の飛越地震(マグニチュード7.0~7.1)などの大きな地震が続き、これらを含めて「安政の大地震」とも呼ばれています。中でも、安政江戸地震の被害は甚大で、倒壊した家屋は2万軒、死者は1万人余と考えられ、小石川の水戸藩邸では藤田東湖、戸田蓬軒らが圧死しました。
 以下に、『初等科国語 六』四 稻むらの火を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇一連の「安政の大地震」(日付は旧暦です)

・1854年(嘉永7)6月15日- 伊賀上野地震(マグニチュード7.0)
・1854年(嘉永7)11月4日- 安政東海地震(マグニチュード8.4)
・1854年(嘉永7)11月5日- 安政南海地震(マグニチュード8.4)
・1854年(嘉永7)11月7日- 豊予海峡地震(マグニチュード7.4)
・1855年(安政2)2月1日- 飛騨地震(マグニチュード6.8)
・1855年(安政2)8月3日- 陸前で地震
・1855年(安政2)9月28日- 遠州灘で地震(安政東海地震の最大余震)
・1855年(安政2)10月2日- 安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.4)
・1856年(安政3)7月23日- 安政八戸沖地震(マグニチュード7.8~8.0)
・1856年(安政3)10月7日- 江戸で地震
・1857年(安政4)閏5月23日- 駿河で地震
・1857年(安政4)8月25日- 伊予大震(マグニチュード7.3)
・1858年(安政5)2月26日- 飛越地震(マグニチュード7.0~7.1)
・1858年(安政5)5月28日- 八戸沖で地震

☆『初等科国語 六』四 稻むらの火

「これは、ただごとでない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は、別に激しいといふほどのものではなかつた。しかし、長い、ゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、年取つた五兵衛に、今まで經驗したことのない、無氣味なものであつた。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配さうに下の村を見おろした。村では、豐年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には、一向氣がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸ひつけられてしまつた。風とは反對に、波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や、黒い岩底が現れて來た。
「大變だ。津波(つなみ)がやつて來るに違ひない。」と、五兵衛は思つた。このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまふ。もう、一刻もぐづぐづしてはゐられない。
「よし。」
と叫んで、家へかけ込んだ五兵衛は、大きなたいまつを持つてとび出して來た。そこには、取り入れるばかりになつてゐるたくさんの稻束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなりその稻むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつとあがつた。一つまた一つ、五兵衛はむちゆうで走つた。かうして、自分の田のすべての稻むらに火をつけてしまふと、たいまつを捨てた。まるで失神したやうに、かれはそこに突つ立つたまま、沖の方を眺めてゐた。
 日はすでに沒して、あたりがだんだん薄暗くなつて來た。稻むらの火は、天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。莊屋(しやうや)さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子どもも、若者のあとを追ふやうにかけ出した。
 高臺から見おろしてゐる五兵衛の目には、それが蟻(あり)の歩みのやうにもどかしく思はれた。やつと二十人ほどの若者が、かけあがつて來た。かれらは、すぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は、大聲にいつた。
「うつちやつておけ。──大變だ。村中の人に來てもらふんだ。」
 村中の人は、おひおひ集つて來た。五兵衛は、あとからあとからのぼつて來る老幼男女を、一人一人數へた。集つて來た人々は、もえてゐる稻むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。
 その時、五兵衛は、力いつぱいの聲で叫んだ。
「見ろ。やつて來たぞ。」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は、見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押し寄せて來た。
「津波だ。」
と、だれかが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前にせまつたと思ふと、山がのしかかつて來たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとで、陸にぶつかつた。人々は、われを忘れて後へとびのいた。雲のやうに山手へ突進して來た水煙のほかは、一時何物も見えなかつた。
 人々は、自分らの村の上を荒れくるつて通る、白い、恐しい海を見た。二度三度、村の上を、海は進みまた退いた。
 高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、ただあきれて見おろしてゐた。
 稻むらの火は、風にあふられてまたもえあがり、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めてわれにかへつた村人は、この火によつて救はれたのだと氣がつくと、ただだまつて、五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1857年(安政4)吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講する(新暦12月9日)詳細
1888年(明治21)日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日詳細
1930年(昭和5)大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する詳細
1937年(昭和12)社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日詳細
1941年(昭和16)第7回御前会議の「帝国国策遂行要領」で対米交渉の甲乙二案を決定、決裂時は武力行使と決まる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

higashinihondaishinsai001
 今日は、平成時代の2011年(平成23)に、東北地方太平洋沖地震(Mj8.4・Mw9.0)が発生し、激しい揺れ(最大震度7)と大津波によって、東日本大震災と称される未曽有の被害を出した日です。
 東北地方太平洋沖地震(とうほくちほうたいへいようおきじしん)は、この日の14時46分18.1秒に、日本の三陸沖の太平洋を震源として発生(震央は北緯38°06.2′、東経142°51.6′、震源の深さは約24km)した、国内での観測史上最大の超巨大地震(Mj8.4・Mw9.0)でした。最大震度7の強い揺れと国内観測史上最大の津波(最高潮位9.3m、遡上高40.5m)を伴い、東北・関東地方を中心とする広い範囲に甚大な被害をもたらし、東京電力福島第一原子力発電所が被災し、放射性物質が漏れ出す深刻な事態となります。
この結果、死者・行方不明者22,010名。負傷者6,157名、建築物の全壊・流失・半壊の合計40万4,893戸、津波による浸水面積561k㎡、津波被害農地 2万1,476ha、漁船被害2万8,612隻、漁港被害319港、また、停電、ガス供給停止、断水、電話不通などライフラインへの被害も多大で、交通関係では、東北新幹線をはじめとする鉄道や道路、空港が広域で損壊し、東京湾埋立地などでは液状化が起こりました。さらに、東京電力福島第一原子力発電所では炉心溶融(メルトダウン)が起こり、周辺地域には放射性物質が飛散,水道水や農水産物を汚染、帰還困難区域が広範囲に生じます。政府は、直接的被害の総額を16兆~25兆円とする試算を発表、復興関連予算として2019年度(令和1)までに35兆円超を投じ、財源として復興債発行、政府資産売却のほか、復興特別税(法人税2年間、所得税25年間、個人住民税10年間の上乗せ課税)で国民に広く負担を求めることとしました。

〇日本周辺で起きた大規模地震(1885年以降・Mj8.1以上)

①東北地方太平洋沖地震―2011年3月11日発生<Mj8.4 (Mw9.0)>
②オホーツク海深発地震―2013年5月24日発生<Mj8.3>
③千島列島沖地震(2007年)―2007年1月13日発生<Mj8.2>
③北海道東方沖地震―1994年10月4日発生<Mj8.2>
③十勝沖地震 (1952年)―1952年3月4日発生<Mj8.2>
③明治三陸地震―1896年6月15日発生<Mj8.2>
⑦小笠原諸島西方沖地震 (2015年) ―2015年5月30日発生<Mj8.1>
⑦択捉島沖地震 (1963年) ―1963年10月13日発生<Mj8.1>
⑦択捉島沖地震 (1958年) ―1958年11月7日発生<Mj8.1>
⑦昭和三陸地震―1933年3月3日発生<Mj8.1>

〇明治時代以降に日本周辺で起きた被害の大きかった地震ワースト12

1. 関東地震[関東大震災](1923年9月1日)死者・行方不明者105,385人<マグニチュード7.9>
2. 東北地方太平洋沖地震[東日本大震災](2011年3月11日)死者・行方不明者22,010人<マグニチュード9.0>
3. 明治三陸地震(1896年6月15日)死者・行方不明者21,959人<マグニチュード8.2>
4. 濃尾地震(1891年10月28日)死者・行方不明者7,273人<マグニチュード8.0>
5. 兵庫県南部地震[阪神・淡路大震災](1995年1月17日)死者・行方不明者6,437人<マグニチュード7.3>
6. 福井地震(1948年6月28日)死者・行方不明者3,769人<マグニチュード7.1>
7. 昭和三陸地震(1933年3月3日)死者・行方不明者3,064人<マグニチュード8.1>
8. 北丹後地震(1927年3月7日)死者2,912人<マグニチュード7.3>
9. 三河地震(1945年1月13日)死者・行方不明者1,961人<マグニチュード6.8>
10,昭和南海地震(1946年12月21日)死者・行方不明者1,443人<マグニチュード8.0>
11.昭和東南海地震(1944年12月7日)死者・行方不明者1,223人<マグニチュード7.9>
12.鳥取地震(1943年9月10日)死者1,083人<マグニチュード7.2>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼が自害し甲斐武田家が滅亡(新暦4月3日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府が「田畑永代売買禁止令」を発布する(新暦4月29日)詳細
1834年(天保5)福井藩士・幕末の志士・思想家橋下佐内の誕生日(新暦4月19日)詳細
2010年(平成22)農林水産省により「ため池百選」が選定される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

meioujishin01

 今日は、戦国時代の1498年(明応7)に、東海道沖で明応地震(推定M8.6)が起きた日ですが、新暦では9月20日となります。
 明応地震(めいおうじしん)は、午前8時頃に南海トラフの東海道沖で発生し、東南海、南海と連動した海洋性巨大地震(マグニチュード推定8.6)でした。揺れの記録は会津から京都まで広範囲に及び、熊野本宮の社殿が倒れ、那智の坊舎が崩れ、湯の峰温泉の湧出が止まり、遠江では山が崩れ、地が裂けたされています。
 また、高さ4mから10m以上の大津波が房総半島から紀伊半島にかけての沿岸を襲い、安房国の小湊では誕生寺が流され、伊勢国でも大湊(おおみなと)が破壊され、天然の良港といわれた安濃津(あのつ)も大津波によって一瞬のうちに海中に没し、海港としての機能を失いました。また、当時は淡水湖であった遠江国の浜名湖は、湖と太平洋を隔てる陸地が決壊し、現在のように海とつながった汽水湖となります。人命の被害も数万人に及び、牛馬の被害は数知れず、余震も続いたとされてきました。
 以下に、『後法興院記』、『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』、『実隆公記』、『内宮子良館記』の明応地震に関する記事を現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『後法興院記』関白・太政大臣・公卿・近衛政家の日記

明應七年八月廿五日己丑、辰時[1]大地震、去六月十一日地震[2]一倍事也、九月二十五日傳聞[3]、去月大地震之日、伊勢、參河、駿河、伊豆、大浪[4]打寄、海邊二三十町之民屋、悉溺水[5]、數千人沒命、其外牛馬類不知其數云々、前代未聞[6]事也、

【注釈】

[1]辰時:たつのとき=午前8時頃。
[2]六月十一日地震:ろくがつじゅういちにちのじしん=明応7年(1498年)6月11日に畿内付近で起きた大地震のこと。
[3]傳聞:でんぶん=人から伝え聞くこと。また、その内容。
[4]大浪:おおなみ=大きななみ。ここでは、地震で起きた津波のこと。
[5]溺水:できすい=水におぼれること。
[6]前代未聞:ぜんだいみもん=これまでに聞いたこともないような珍しく変わったこと。また、たいへんな出来事。

<現代語訳>
明応7年(1498年)8月25日、午前8時頃に大地震があった、去る6月11日の地震に倍することであった。9月25日に伝え聞くところでは、去る月の大地震の日に、伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が押し寄せ、海辺二、三十町の民家がことごとく流されてしまい、人命も数千人亡くなり、その他牛馬の類は数知れず失われたと言う、前代未聞の事である。

〇『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』心清水八幡神社の年日記

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十度震、鎌倉由井浜[7]海水涌、大仏殿[8]迄上ル。

【注釈】

[7]由井浜:ゆいがはま=鎌倉の相模湾に面した浜辺。
[8]大仏殿:だいぶつでん=鎌倉の大仏殿のこと。

<現代語訳>
明応7年(1498年)8月25日に、大地震があり、一日一夜で三十回揺れた、鎌倉の由井浜では海水が涌きだし、大仏殿まで上った。

〇『実隆公記』巻三下(明応7年8月25日) 公家、三条西実隆の記した日記

早朝地震大動、五十年以来無如此事云々、予出生[9]以来未知如此之事。

【注釈】

[9]出生:しゅっしょう=うまれでること。人がうまれること。

<現代語訳>
早朝に地震によって大きく動いた。50年来なかったことであると言う、私は生まれてからこれまで知らないことであった。

〇『内宮子良館記』三重県伊勢市の内宮境内の「子良館(こらかん)」で書き継がれた日記

今度大地震ノ高鹽[10]ニ、大湊[11]ニハ家千間餘人五千人計流死[12]ト云々、其外伊勢島間[13]ニ、彼是一萬人計モ流死[12]也。

【注釈】

[10]高鹽:たかしお=海水面が異常に高まる現象。ここでは、地震で起きた津波のこと。
[11]大湊:おおみなと=伊勢国の港町、現在の三重県伊勢市にある。
[12]流死:りゅうし=水に流されて死ぬこと。
[13]伊勢島間:いせしまかん=伊勢国と志摩国において。

<現代語訳>
今度の大地震の高潮によって、伊勢国の大湊では家が千軒余り、人が五千ばかり、流れ死んだと言う、その他、伊勢・志摩の間ではかれこれ一万人ばかりが流れ死んだ。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kourekinohi01

 今日は、南北朝時代の1361年(正平16/康安元)に、南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震(M8~8.5)が起きた日ですが、新暦では7月26日となります。
 正平地震(しょうへいじしん)は、この日の午前4時頃に、西日本太平洋沖で起きたと推定されていますが、諸史料によると、すでに6月21日から大規模な前震が始まっていたとされてきました。この前震でも奈良の法隆寺等の社寺の被害があったことなどが記録されています。
 さらに、本震では、四天王寺で金堂が倒壊し、5 人が圧死(後愚昧記)、「熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。」(斑鳩嘉元記)、また太平洋岸には津波が押し寄せ、「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈し」、「摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。」(太平記)、「安居殿御所西浦マテシオミチテ、其間ノ在家人民多以損失」(斑鳩嘉元記)など甚大な被害が出たと書かれました。引き続いて、余震も多く発生し、10月頃まで続いたとされます。
 このため、翌年の9月23日に兵革・疫病・天変地異終息を願って「貞治」に改元されました。尚、徳島県海部郡美波町東由岐に、この時の大地震津波の死者の供養碑と伝承されている「康暦の碑」(町指定文化財)が残され、日本最古の地震津波碑とされています。
 以下に、この地震のことを記した『愚管記』、『後愚昧記』、『斑鳩(いかるが)嘉元記』、『太平記』巻第三十六の大地震並夏雪事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『愚管記』(公卿・近衛道嗣の日記)

伝聞、去月廿二日同廿四日大地震之時、熊野社頭并假殿以下、三山岩屋以下秘所秘木秘石等、悉破滅(後略)

〇『後愚昧記』(公卿・三条公忠の日記)

今暁大地震。四天王寺金堂顚倒、成微塵了。又大塔空輪落塔傾(中略)、伶人一人、承人二人、在庁二人圧死。

〇『斑鳩嘉元記』(鎌倉時代後期~南北朝時代の法隆寺寺内と近辺の出来事の記録)

康安元年、六月廿二日卯時、大地震これ在り。当寺東院、南大門西脇築地半本、同院中ノ門北脇築地一本、西寺の南大門西脇築地半本倒る。同月廿四日卯時、大地震これ在り、当寺には御塔九輪の上火災、一折燃て下もヘはをちず、金堂東の間仏壇下燃ヘ崩れをつ。東大門北脇築地少しく破れ落ち、伝法堂辰巳角かへ南へ落ち破る。薬師寺金堂の二階かたぶき破れ、御塔、中門、廻廊悉く顛倒す。同西院顛倒し、此の外諸堂破損すと云々。招提寺塔九輪大破損、西廻廊皆顚倒し、渡廊悉く破れ畢んぬ。天王寺金堂破れ倒れぬ。又安居院御所西浦までしほみちて、其の間の在家人民多く以て損失すと云々。熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。

〇『太平記』巻第三十六 

大地震並夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月(注:六月の誤り)二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月(注:六月の誤り)二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄渡辺崋山高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

genrokujishin01

 今日は、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、房総半島沖を震源とする元禄地震がおきた日ですが、新暦では12月31日となります。
 元禄地震(げんろくじしん)は、江戸時代中期の1703年(元禄16年11月23日)午前2時頃に起きた、相模トラフの房総半島南方沖を震源とする巨大地震(マグニチュード7.9~8.2と推定)でした。相模湾に沿う小田原から鎌倉、江戸、房総半島南部で震度が大きく(最大震度7と推定)、津波も発生して、房総半島から伊豆半島にいたる沿岸に大きな津波(最大波高10m)が押し寄せ、被害は関東地方から中部地方東部にまで及んでいます。
 その結果、2万余戸の家屋が倒壊・焼失・流失し、死者も1万人を超えたと言われ、農畜産物、道路・橋梁などへも甚大な被害が出ました。特に、地震による火災で小田原城の天守閣が焼失、江戸城でも門や櫓、土蔵などに被害が出、江戸の大名屋敷や寺社仏閣にも及んでいます。
 これによって、房総半島南部から三浦半島にかけて顕著な隆起がみられ、野島崎では 5m隆起しました。この地震は、相模トラフから関東地方下に沈み込むフィリピン海プレートが引き起こした海溝型地震で、規模は1923年(大正12)の関東地震(関東大震災)より大きかったと推定されています。

〇当時の文献による元禄地震の記載例

 ……とかくせしほどに、火も打ち消しぬ。日すでに午の半ばにもなりぬべきころ、また出でさせ給ひて、某を召す。参りしかば、「妻子どもの事、そののちの事、聞こえしにや」と仰せあり。「よべ参りし後は、ここにのみさぶらへば、それらの事も承らず」と申す。「我谷中の別業に行く時に、人の教へたりしを思ふに、居所は高き岸の下にありしとこそ覚ゆれ」と仰せらる。「さん候ふ」と申す。「いといとおぼつかなき事なり。かくては、地ふるふ事、数日も経め。ふるひし初めの事のごとくならざらむには、あひかまへて来るべからず。とくとく家に帰るべし」と仰せ下されしかば、まかり出でて、召供の者にたづねあひて、「よべのままにさぶらひしにや」と問ふに、「今朝とく家に残せし者どもの、来たり代はりぬれば、未の初めにはすぎぬ。明けの日、藩邸に参りしに、殿屋ことごとく傾きたれば、東の馬場に、仮家うたせ給ひておはします。

    『折たく柴の記』新井白石著より

〇江戸時代に起きた巨大地震(マグニチュード8以上)

・1611年(慶長15年10月28日) 慶長三陸地震[マグニチュード8.1]
・1703年(元禄16年11月23日) 元禄地震[マグニチュード7.9~8.2]
・1707年(宝永4年10月4日) 宝永地震[マグニチュード8.4~8.6]
・1854年(嘉永7年11月4日) 安政東海地震[マグニチュード8.4]
・1854年(嘉永7年11月5日) 安政南海地震[マグニチュード8.4]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

1707年(宝永4) 富士山宝永噴火が始まる(新暦12月16日)詳細
1896年(明治29)小説家樋口一葉の命日(一葉忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ