ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:川上音二郎

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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、東京の神田三崎町において、川上音二郎により、新派の川上座が開場した日です。
 川上座(かわかみざ)は、新派俳優・興行師として知られた川上音二郎によって、東京の神田三崎町に建てられた劇場でした。1893年(明治26)に新劇場の建設を申請し、12月1日に神田三崎町において建設許可を得、木造とレンガ造の3階建てとして、総工費25,000円をかけて建設されます。
 2年半後の1896年(明治29)6月14日に完成して落成式を行い、7月2日に開館しましたが、収容人員約1,000人、延床面積約700m²の西洋式劇場で、初演の「日本娘」は大評判で、次々と新派の演劇が上演されました。しかし、その後の経営は思わしくなく、1898年(明治31)には、川上が二度衆議院議員に立候補したものの、いずれも落選して、多額の借金を背負い、行き詰ってしまいます。
 とうとう、1898年(明治31)に川上が所有権を手放なして、山崎武兵衛に移転、1901年(明治34)1月に改良座と改名され、所有者の山崎を座主として、新派の演劇興行は継続されました。しかし、1903年(明治36)4月6日に火災により全焼し、再興されずに終わっています。

〇川上音二郎とは?

 明治時代に活躍した新派俳優・興行師です。幕末の1864年2月8日(文久4年1月1日)に、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区)で、郷士及び豪商の父・川上専蔵の子として生まれましたが、本名は音吉と言いました。
 1878年(明治11)、14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となります。その後、郷里で玄洋社の結成に参加して、政治運動に投じ、1883年(明治16)頃から「自由童子」と名のって、大坂中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄されました。
 自由民権運動への弾圧が続く中、落語家桂文之助に入門し、浮世亭〇〇の芸名で寄席に出勤、自由民権論を鼓吹する時局風刺の「オッペケペー節」が評判となります。1891年(明治24)に、堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となりました。
 1893年(明治26)に渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚します。1896年(明治29)に東京神田に川上座を創設したものの、資金繰りに行き詰って、翌々年には人手に渡りました。
 1899年(明治32)には妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集め、2年後に再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業します。1903年(明治36)に正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演しましたが、1907年(明治40)には俳優を引退、以後、興行師に専念しました。
 1908年(明治41)には、大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、また、帝国女優養成所も開設します。演劇近代化の先駆者として活躍し、「新派劇の父」とも称されましたが、1911年(明治44)11月11日に、大阪において48歳で亡くなりました。

〇川上 貞奴とは?

 明治から大正時代に活躍した女優です。明治時代前期の1871年(明治4年7月18日)に、東京・日本橋の両替商・越後屋の父・小山久次郎と母・タカとの子として生まれましたが、名は貞(さだ)と言いました。生家の没落により、1877年(明治10)の6歳の時から東京葭町の花柳界で育ち、翌年には、日本橋葭町の浜田屋亀吉の養女となります。
 1885年(明治18)頃、馬術をしていて福澤桃介と知り合い恋に落ちましたが、1年後に桃介は福沢諭吉の二女・房と結婚、貞は“奴”の名で芸者となりました。伊藤博文や奈良原繁らの知己を得、1891年(明治24)の20歳の時、自由民権運動の活動家で、壮士芝居の川上音二郎と結婚します。
 1896年(明治29)に神田に新派劇場・川上座を建て、1899年(明治32年)から夫・音二郎と共に一座17人を連れて渡米、アメリカ巡業を実施、サンフランシスコで初めて舞台に立ち、「道成寺」、「袈裟と盛遠」で初舞台を踏み評判を呼びました。ついで、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンと巡業して、1900年(明治33)のパリ万国博覧会にも出演し、“マダム貞奴”と賞されて帰国します。
 翌年には、再びヨーロッパ巡業を実施、フランスで現地の劇場や女優養成学校を視察、帰国後の1903年(明治36)に、明治座の「オセロ」で初めて正劇女優として日本の舞台に立ち、スターとして人気を博しました。1908年(明治41)に東京・芝で帝国女優養成所を設立しましだが、1911年(明治44)に夫・音二郎が亡くなり、1917年(大正6)の音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後、女優引退を宣言します。
 翌年に名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立、1920年(大正9)頃から、福澤桃介と同居を始め、名古屋市内の「二葉御殿」に住むようになりました。1924年(大正13)に川上児童劇団を結成しましたが、1932年(昭和7)に、その経営を辞め、1933年(昭和8)には、岐阜県各務原市鵜沼に貞照寺を建立して入山、門前に別荘「萬松園」を建築します。
 1938年(昭和13)に福澤桃介が亡くなり、1946年(昭和21)12月7日には、静岡県熱海の別荘において、膵臓癌により75歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1338年(暦応元/延元3)御家人・武将新田義貞の命日(新暦8月17日)詳細
1863年(文久3)薩英戦争が起きる(新暦8月15日)詳細
1941年(昭和16)御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される詳細
1950年(昭和25)鹿苑寺の金閣が同寺の僧侶の放火により全焼詳細
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、女優川上貞奴の生まれた日ですが、新暦では9月2日となります。
 川上貞奴(かわかみ さだやっこ)は、東京・日本橋の両替商・越後屋の父・小山久次郎と母・タカとの子として生まれましたが、名は貞(さだ)と言いました。生家の没落により、1877年(明治10)の6歳の時から東京葭町の花柳界で育ち、翌年には、日本橋葭町の浜田屋亀吉の養女となります。
 1885年(明治18)頃、馬術をしていて福澤桃介と知り合い恋に落ちましたが、1年後、桃介は福沢諭吉の二女・房と結婚、“奴”の名で芸者となりました。伊藤博文や奈良原繁らの知己を得、1891年(明治24)の20歳の時、自由民権運動の活動家で、壮士芝居の川上音二郎と結婚します。
 1896年(明治29)に神田に新派劇場・川上座を建て、1899年(明治32年)から夫・音二郎と共に一座17人を連れて渡米、アメリカ巡業を実施、サンフランシスコで初めて舞台に立ち、「道成寺」、「袈裟と盛遠」で初舞台を踏み評判を呼びました。ついで、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンと巡業して、1900年(明治33)のパリ万国博覧会にも出演し、“マダム貞奴”と賞されて帰国します。
 翌年には、再びヨーロッパ巡業を実施、フランスで現地の劇場や女優養成学校を視察、帰国後の1903年(明治36)に、明治座の「オセロ」で初めて正劇女優として日本の舞台に立ち、スターとして人気を博しました。1908年(明治41)に東京・芝で帝国女優養成所を設立しましだが、1911年(明治44)に夫・音二郎が亡くなり、1917年(大正6)の音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後、女優引退を宣言します。
 翌年に名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立、1920年(大正9)頃から、福澤桃介と同居を始め、名古屋市内の「二葉御殿」に住むようになりました。1924年(大正13)に川上児童劇団を結成しましたが、1932年(昭和7)にその経営を辞め、1933年(昭和8)には、岐阜県各務原市鵜沼に貞照寺を建立して入山、門前に別荘「萬松園」を建築します。
 1938年(昭和13)に福澤桃介が亡くなり、1946年(昭和21)12月7日には、静岡県熱海の別荘において、膵臓癌により75歳で亡くなりました。

〇川上貞奴関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1871年(明治4年7月18日) 東京・日本橋の両替商・越後屋の父・小山久次郎、母・タカとの子として生まれる
・1877年(明治10年) 6歳の時から東京葭町の花柳界で育つ
・1878年(明治11年) 7歳の時、日本橋葭町の浜田屋亀吉の養女となる
・1885年(明治18年)頃 馬術をしていて福澤桃介と知り合う
・1887年(明治20年) 16歳の時、“奴”の名で芸者となる
・1891年(明治24年) 20歳の時、自由民権運動の活動家で、壮士芝居の川上音二郎と結婚する
・1896年(明治29年) 神田に新派劇場・川上座を建てる
・1898年(明治31年) 夫と2人で築地河岸よりボートに乗り、国外への脱出を図ろうとするが失敗する
・1899年(明治32年) 夫・音二郎と共に一座17人を連れて渡米、アメリカ巡業を実施する
・1900年(明治33年) パリ万国博覧会に出演する
・1901年(明治34年) 再び、ヨーロッパ巡業を実施する
・1901年(明治34年) フランスで現地の劇場や女優養成学校を視察する
・1901年(明治34年) 養母・浜田可免が亡くなる
・1903年(明治36年) 明治座の「オセロ」で初めて正劇女優として日本の舞台に立つ
・1908年(明治41年) 東京・芝に帝国女優養成所を設立する
・1911年(明治44年) 夫・音二郎が亡くなる
・1917年(大正6年) 音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後、女優引退を宣言する
・1918年(大正7年) 名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立する
・1920年(大正9年)頃 福澤桃介と同居を始め、名古屋市内の「二葉御殿」に住む
・1924年(大正13年) 川上児童劇団を結成する
・1932年(昭和7年) 川上児童劇団の経営を辞める
・1933年(昭和8年) 岐阜県各務原市鵜沼に貞照寺を建立して入山、門前に別荘「萬松園」を建築する
・1938年(昭和13年) 福澤桃介が亡くなる
・1946年(昭和21年)12月7日 静岡県熱海の別荘において、膵臓癌により75歳で亡くなる
・2005年(平成17年) 「二葉御殿」の復元・移築完了、「文化のみち二葉館」として開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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