ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:崇徳天皇

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 今日は、平安時代後期の1119年(元永2)に、第75代天皇とされる崇徳天皇の生まれた日ですが、新暦では7月7日となります。
 崇徳天皇(すとくてんのう)は、京都において、鳥羽天皇の第1皇子(母は中宮・藤原璋子)として生まれましたが、諱を顕仁(あきひと)と言いました。1123年(保安4)に皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により 数え年5歳で第75代天皇に即位します。
 1129年(大治4年)に関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)と結婚、同年7月7日に白河法皇が亡くなると鳥羽上皇による院政が開始されました。1140年(保延6)に源雅定左大将着任をめぐって鳥羽上皇と対立し、翌年12月7日に鳥羽上皇の圧力で譲位させられ、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)します。
 それからは、鳥羽法皇を本院、崇徳上皇を新院と称するようになりますが、政令は本院から出されました。和歌に秀でて風雅を愛し、1144年(天養元年)には、「詞花和歌集」の編纂を下命、7年後に完成して奏覧されます。
 1155年(久寿2)に病弱だった近衛天皇が亡くなると、上皇はその子重仁親王を推しましたが、美福門院が鳥羽法皇とはかって上皇の弟の後白河天皇を立て、対立しました。1156年(保元元)に鳥羽法皇が亡くなると、藤原頼長と組み、保元の乱を起こしますが、敗れて讚岐国(現在の香川県)に配流されます。
 その後京都に返されることなく、1164年(長寛2年8月26日)に配流先の讃岐において、数え年46歳で亡くなりました。

<崇徳天皇の代表的な歌>
・「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(小倉百人一首)
・「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(風雅和歌集)

〇崇徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1119年(元永2年5月28日) 鳥羽天皇の第1皇子(母は中宮・藤原璋子)として生まれる
・1119年(元永2年6月19日) 親王宣下を受ける
・1123年(保安4年1月28日) 皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により践祚する
・1123年(保安4年2月19日) 数え年5歳で第75代天皇に即位する
・1129年(大治4年) 関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)と結婚する
・1129年(大治4年7月7日) 白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する
・1130年(大治5年) 聖子は中宮に冊立される
・1140年(保延6年) 源雅定左大将着任をめぐって鳥羽上皇と対立する
・1140年(保延6年9月2日) 女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産む
・1141年(永治元年12月7日) 鳥羽上皇の圧力で譲位させられ、得子所生の体仁親王を即位(近衛天皇)させる
・1144年(天養元年) 「詞花和歌集」の編纂を下命する
・1151年(仁平元) 「詞花和歌集」が完成奏覧される
・1155年(久寿2年7月23日) 病弱だった近衛天皇が17歳で亡くなる
・1155年(久寿2年) 後白河天皇が即位する 
・1156年(保元元年7月2日) 鳥羽法皇が亡くなる
・1156年(保元元年7月11日) 藤原頼長と組み、保元の乱を起こすが敗れる
・1156年(保元元年7月23日) 讚岐国(現在の香川県)に配流される
・1160年(平治元年12月9日) 平治の乱が起こる
・1164年(長寛2年8月26日) 配流先の讃岐において、数え年46歳で亡くなる

☆保元の乱とは?

 平安時代後期の1156年(保元元)に、京都で起こった内乱です。鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死したのです。この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
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 今日は、平安時代後期の1156年(保元元)に、保元の乱が起きて、平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退した日ですが、新暦では7月29日となります。
 これは、京都で起こった内乱で、鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。
 半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死、為義らは斬られたのです。
 この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
 そして、1159年(平治元)の平治の乱へとつながり、その後の源平合戦を経て、武家政権成立へと向かっていくことになります。

〇源平合戦とは?
 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
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