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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり文芸協会が結成された日です。
 文芸協会(ぶんげいきょうかい)は、大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となって結成された文化団体でした。演劇、美術、音楽、宗教、哲学から講談、落語までの改良を意図した総合的な文化機関として発足しましたが、第2次「早稲田文学」の復刊、1906年(明治39)11月と翌年11月に2回にわたる演劇公演を行なっただけで停滞します。
 1909年(明治42)に逍遥が実質的な指導者となり、演劇研究所を設立して素人からの男女俳優の養成に当たり、翌年には、逍遥を会長とする演劇団体に改組されました。1911年(明治44)5月に、第1回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ハムレット」(指導:坪内逍遥)を上演、演劇研究所の1期卒業生の内、オフィーリア役を演じた松井須磨子が評判となります。
 同年11月の第2回公演(於:帝国劇場)で、イプセン作「人形の家」(寒山拾得)、坪内逍遥作「お七吉三」、シェイクスピア作「ベニスの商人」(舞台監督:島村抱月・中村吉蔵、指導:坪内)を上演し、松井須磨子は「人形の家」(抱月訳)のノラ役などで大当たりを取りました。1912年(明治45)5月の第3回公演(於:有楽座)で、ズーダーマン作「故郷」(指導:島村)を上演、同年11月の第4回公演(於:有楽座)で、ショー作「二十世紀」(監督:松居松葉)を上演します。
 1913年(大正2)2月の第5回公演(於:有楽座)で、アルト・ハイデルベルヒ、フェルスタ作「思い出」(監督:松居)を上演したものの、この頃、妻子ある抱月と松井須磨子の恋愛スキャンダルが発覚し、内部対立もあって協会分裂の危機を迎え、抱月は辞任し、松井は退所処分となりました。その後、1913年(大正2)6月の第6回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ジュリアス・シーザー」(舞台監督:松居)上演を最後に解散し、芸術座(島村抱月・松井須磨子)、無名会(東儀鉄笛・土肥春曙)、舞台協会(上山草人)の3劇団に分かれます。

〇文芸協会関係略年表

・1906年(明治39)2月17日 大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となって結成される
・1906年(明治39)11月 第1回大会(於:歌舞伎座)で、坪内逍遥作「桐一葉」、シェイクスピア作「ベニスの商人」、坪内逍遥作「常闇」を上演する
・1907年(明治40)11月 第2回大会(於:本郷座)で、杉谷代水作「大極殿」、シェイクスピア作「ハムレット」、坪内逍遥作「浦島」を上演する
・1908年(明治41) 小山内薫・市川左団次による自由劇場が始まる
・1909年(明治42) 坪内逍遥が実質的な指導者となり演劇研究所を設立、素人からの男女俳優の養成に当たる
・1910年(明治43) 坪内逍遥を会長とする演劇団体に改組される
・1911年(明治44)5月 第1回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ハムレット」(指導:坪内逍遥)を上演、演劇研究所の1期卒業生の内、オフィーリア役を演じた松井須磨子が評判となる
・1911年(明治44)11月 第2回公演(於:帝国劇場)で、イプセン作「人形の家」(寒山拾得)、坪内逍遥作「お七吉三」、シェイクスピア作「ベニスの商人」(舞台監督:島村抱月・中村吉蔵、指導:坪内)を上演し、松井須磨子は「人形の家」(抱月訳)のノラ役などで大当たりを取る
・1912年(明治45)5月 第3回公演(於:有楽座)で、ズーダーマン作「故郷」(指導:島村)を上演する
・1912年(明治45)11月 第4回公演(於:有楽座)で、ショー作「二十世紀」(監督:松居松葉)を上演する
・1913年(大正2)2月 第5回公演(於:有楽座)で、アルト・ハイデルベルヒ、フェルスタ作「思い出」(監督:松居)を上演する
・1913年(大正2)2月頃 妻子ある抱月と松井須磨子の恋愛スキャンダルが発覚し、協会内が分裂の危機を迎え、抱月は辞任し、松井は退所処分となる
・1913年(大正2)6月 第6回公演(於:帝国劇場)で、シェイクスピア作「ジュリアス・シーザー」(舞台監督:松居)上演を最後に文芸協会は解散する

〇島村 抱月(しまむら ほうげつ)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人です。明治時代前期の1871年(明治4)1月10日に、島根県那賀郡小国村(現在の浜田市)で、佐々山一平の長男として生まれましたが、幼名は佐々山瀧太郎と言いました。
 小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となり、上京遊学後、1891年(明治24)に島村文耕の養子となります。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科へ入学し、在学中は坪内逍遙、大西祝の指導を受けました。1894年(明治27)に卒業後、卒業論文『審美的意識の性質を論ず』や『西鶴の理想』を『早稲田文学』(第1次)誌上に発表、同誌の記者ともなります。
 1898年(明治31)に読売新聞社会部主任となり、その後母校の文学部講師に迎えられました。1902年(明治35)から、早稲田の海外留学生として、イギリス、ドイツで学び、1905年(明治38)に帰国しました。早稲田大学文学部教授となり、『早稲田文学』を復刊(第2次)して、同誌上に『囚はれたる文芸』(1906年)、『文芸上の自然主義』、『自然主義の価値』(共に1908年)を掲載して自然主義を論じます。一方で、坪内逍遙と文化革新運動をもくろんで、1906年(明治39)に文芸協会を設立し、本格的に新劇運動をはじめました。しかし、坪内逍遙との間で意見が対立、女優松井須磨子との恋愛問題も表面化し、協会幹事を辞任、1913年(大正2)には早稲田大学を去ることにもなります。
 そして、松井須磨子と共に芸術座を旗揚げし、イプセン作『人形の家』、トルストイ作『復活』などを翻訳・脚色して上演し、評判となりました。新劇の大衆化に貢献しましたが、1918年(大正7)11月5日、全世界で大流行していたスペイン風邪が原因で、東京において、48歳で亡くなります。尚、須磨子もあとを追って、2ヶ月後に自殺しました。

〇坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)とは?

 明治時代から昭和時代前期に活躍した小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者です。美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
 1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
 一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

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