ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:島原の乱

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 今日は、江戸時代前期の1637年(寛永14)に、江戸幕府が島原の乱の鎮圧に板倉重昌らの派遣を決定した日ですが、新暦では12月25日となります。
 島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代前期の1637年(寛永14年10月25日)に九州の島原・天草地方で勃発し、1638年(寛永15年2月28日)に終結した、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれました。以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代ったのです。
 寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。
 豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もったのです。
 江戸幕府は11月9日に、鎮圧に板倉重昌らを派遣することを決め、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。
 そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ったのです。これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇島原の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<1637年(寛永14)>
・9月30日 天草四郎(16才?)は一人で宇土町から大矢野の渡辺左太郎(姉婿)の家へ向かう。後日、父の甚平が大矢野に向かう
・10月7日 天草郡大矢野村宮津で、天草四郎は天草の盟主(総大将)『天草四郎時貞』の名をもらう
・10月9日 天草四郎が上津浦で多くの信徒を前に説教をする
・10月19日 天草四郎が南有馬村の角蔵と北有馬村の三吉に、キリシタンの教えを説く
・10月24日 湯島(談合島)島原と天草の代表が集まって、天草四郎は天草と島原の両方の盟主になる
・10月25日 天草四郎は親類の渡辺伝兵衛の家に移り、島原の代官林兵左衛門が百姓たちに殺される(島原の乱の始まり)
・10月26日 天草四郎は渡辺小左衛門たち50人といっしょに栖本の郡代の家に行き、キリシタンにもどるように説く、島原で一揆勢が立ち上がり、深江合戦後大手門の激戦になるが島原城は落とせず
・10月28日 天草で一揆が開始され、領内の神社仏閣を襲う
・10月30日 渡辺小左衛門たち組の幹部が、宇土郡の郡浦にて細川藩に捕らえられ、人質になる
・11月1日 天草四郎の母、姉、妹たちが、細川藩に捕らえられて人質になる
・11月4日 天草四郎は50人もの有力者をひきつれて、島原の有馬にわたる
・11月8日 有馬の百姓たちが、天草四郎に誓詞を差し出す
・11月9日 江戸幕府が島原の乱の鎮圧に板倉重昌らを派遣することを決める
・11月13日 島原の一揆勢の一部が、天草に加勢に来る、湯島にもどって原城立て籠もりの話をし、上津浦に上陸して、天草一揆の本陣を上津浦に移す
・11月14日 午前に島子村で富岡の領主勢と戦い、島子合戦で勝利、午後に本渡合戦で唐津藩城代(富岡城の領主)三宅籐兵衛を討ち取られる
・11月19日 一揆勢が富岡城を包囲する
・11月22日 一揆勢は富岡城を攻略できずに島原に撤退する
・11月24日 一揆勢は有馬の古城、原城を修理して、立て籠もる
・12月1日 一揆勢は島原の原城跡で籠城作戦の準備をする
・12月3日 一揆勢は天草・島原の各地から海を渡って原城に入り、総数約37,000人が集結する
・12月10日 原城が幕府軍に包囲されて、両軍はじめて戦火を交える
・12月19日 幕府軍が夜中に総攻撃をしかけたが、一揆勢に追いかえされる

<1638年(寛永15)>
・1月1日 夜明けに2回目の幕府軍総攻撃が行われ、上司板倉重昌が討ち死にする
・1月4日 幕府軍の老中松平信綱と10万の大軍が島原に到着し、幕府側から和漢交渉を求め、干殺し作戦に入る 
・1月11日 オランダ船が原城を大砲で攻撃する
・1月13日 一揆勢より矢文合戦を開始する
・1月22日 囲碁をしていた時、陸から打たれた砲弾が四郎の袖に当り負傷、側近の数名が即死する
・2月1日 老中松平信綱の指図によって、人質となった四郎の母の手紙がとどいたが、無視される
・2月3日 両軍の代表が大江口で会見する
・2月10日 天草四郎は原城の一揆勢を励ましてまわる
・2月27日 幕府軍の原城総攻撃が開始される
・2月28日 原城が落城、約37,000人が虐殺され、午後に天草四郎の首実験が行われる
・3月 天草四郎らしき首が原城で獄門にされた後、長崎の出島に送られて再度獄門にされ、西坂の墓地(首塚)に埋められ、人質になっていた四郎の親類縁者や落人のすべてが処刑される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1872年(明治5)太陽暦導入のため、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)が布告される(新暦12月9日)詳細
1876年(明治9)医師・細菌学者野口英世の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「農業計画に関する覚書」(SCAPIN-257)を出す詳細
1963年(昭和38)三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人を出す詳細
鶴見事故で列車の三重衝突が起こり、死者161人・負傷者120人を出す詳細
1962年(昭和37)廖承志と高碕達之助が「日中LT貿易覚書」に調印する詳細
1988年(昭和63)物理学者・第17代東京大学総長茅誠司の命日詳細
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harajyo5
 今日は、江戸時代前期の1638年(寛永15)に、島原・原城が落城し、島原の乱(島原・天草一揆)が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しになった日ですが、新暦では4月12日となります。
 島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代前期の1637年(寛永14年10月25日)~翌年2月28日まで、九州の島原・天草地方で起きた、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれてきました。
 以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代わります。寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もります。江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ります。これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637~38年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残されてきました。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯で、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えない場所となっています。尚、1938年(昭和13)に国の史跡となり、2017年(平成29)に「続日本100名城」(188番)に選定され、2018年(平成30)には、世界遺産(文化遺産)の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素の一つとして、登録されました。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637~38年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされました。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせます。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。
 幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されます。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず、陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになりました。
 あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できました。
 床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間が体験できます。外には、天草四郎之像とキリシタン墓がありました。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来します。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がりました。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりします。しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まりました。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。

☆島原の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<1637年(寛永14)>
・9月30日 天草四郎(16才?)は一人で宇土町から大矢野の渡辺左太郎(姉婿)の家へ向かう。後日、父の甚平が大矢野に向かう
・10月7日 天草郡大矢野村宮津で、天草四郎は天草の盟主(総大将)『天草四郎時貞』の名をもらう
・10月9日 天草四郎が上津浦で多くの信徒を前に説教をする
・10月19日 天草四郎が南有馬村の角蔵と北有馬村の三吉に、キリシタンの教えを説く
・10月24日 湯島(談合島)島原と天草の代表が集まって、天草四郎は天草と島原の両方の盟主になる
・10月25日 天草四郎は親類の渡辺伝兵衛の家に移り、島原の代官林兵左衛門が百姓たちに殺される(島原の乱の始まり)
・10月26日 天草四郎は渡辺小左衛門たち50人といっしょに栖本の郡代の家に行き、キリシタンにもどるように説く、島原で一揆勢が立ち上がり、深江合戦後大手門の激戦になるが島原城は落とせず
・10月28日 天草で一揆が開始され、領内の神社仏閣を襲う
・10月30日 渡辺小左衛門たち組の幹部が、宇土郡の郡浦にて細川藩に捕らえられ、人質になる
・11月1日 天草四郎の母、姉、妹たちが、細川藩に捕らえられて人質になる
・11月4日 天草四郎は50人もの有力者をひきつれて、島原の有馬にわたる
・11月8日 有馬の百姓たちが、天草四郎に誓詞を差し出す
・11月13日 島原の一揆勢の一部が、天草に加勢に来る、湯島にもどって原城立て籠もりの話をし、上津浦に上陸して、天草一揆の本陣を上津浦に移す
・11月14日 午前に島子村で富岡の領主勢と戦い、島子合戦で勝利、午後に本渡合戦で唐津藩城代(富岡城の領主)三宅籐兵衛を討ち取られる
・11月19日 一揆勢が富岡城を包囲する
・11月22日 一揆勢は富岡城を攻略できずに島原に撤退する
・11月24日 一揆勢は有馬の古城、原城を修理して、立て籠もる
・12月1日 一揆勢は島原の原城跡で籠城作戦の準備をする
・12月3日 一揆勢は天草・島原の各地から海を渡って原城に入り、総数約37,000人が集結する
・12月10日 原城が幕府軍に包囲されて、両軍はじめて戦火を交える
・12月19日 幕府軍が夜中に総攻撃をしかけたが、一揆勢に追いかえされる

<1638年(寛永15)>
・1月1日 夜明けに2回目の幕府軍総攻撃が行われ、上司板倉重昌が討ち死にする
・1月4日 幕府軍の老中松平信綱と10万の大軍が島原に到着し、幕府側から和漢交渉を求め、干殺し作戦に入る 
・1月11日 オランダ船が原城を大砲で攻撃する
・1月13日 一揆勢より矢文合戦を開始する
・1月22日 囲碁をしていた時、陸から打たれた砲弾が四郎の袖に当り負傷、側近の数名が即死する
・2月1日 老中松平信綱の指図によって、人質となった四郎の母の手紙がとどいたが、無視される
・2月3日 両軍の代表が大江口で会見する
・2月10日 天草四郎は原城の一揆勢を励ましてまわる
・2月27日 幕府軍の原城総攻撃が開始される
・2月28日 原城が落城、約37,000人が虐殺され、午後に天草四郎の首実験が行われる
・3月 天草四郎らしき首が原城で獄門にされた後、長崎の出島に送られて再度獄門にされ、西坂の墓地(首塚)に埋められ、人質になっていた四郎の親類縁者や落人のすべてが処刑される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1651年(慶安4)に、江戸幕府第三代将軍徳川家光の亡くなった日ですが、新暦では6月8日となります。
 徳川家光は、1604年(慶長9年7月17日)に、江戸幕府第二代将軍となった父・徳川秀忠の次男として、正室於江与(崇源院)を母として、江戸城内で生まれましたが、幼名は竹千代といいました。
 春日局が乳母となって育て、1620年(元和6)に正三位権大納言、続いて元服して家光と名のります。1623年(元和9)に父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて、第三代将軍となり、初めは土井利勝、酒井忠世らの補佐を得て幕政にあたりました。
 1632年(寛永9)の大御所秀忠の死後は、1635年(寛永12)「武家諸法度」を改訂して参勤交代を制度化して大名支配体制を確立、1638年(寛永15)島原の乱を平定してキリシタン取り締まりを強化、翌年にはポルトガル人追放を決定、1641年(寛永18)にはオランダ人を長崎出島に移して鎖国体制を整えるなどの“武断政治”と呼ばれる施策を実施します。
 これらによって、法制・職制・兵制などの諸制度が整い、以後200年余にわたる幕府の支配体制を確立しました。一方で、茶道・画等を嗜み、祖父家康を尊崇し、日光東照宮造営などに巨費を投じて、幕府財政窮乏の原因を作ったとも言われています。
 しかし、1651年(慶安4年4月20日)に、江戸城において、46歳で亡くなり、法号は大猷院とされ、日光山に葬られました。

〇徳川家光略年表

・1604年(慶長9) 徳川秀忠(江戸幕府第二代将軍)の次男として生まれる
・1620年(元和6) 正三位権大納言、続いて元服
・1623年(元和9) 父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて第三代将軍となる
・1623年(元和9) 摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下って輿入れする
・1623年(元和10) 諸国巡見使を派遣する
・1626年(寛永3) 再度上洛し従一位左大臣となる
・1632年(寛永9) 大御所秀忠が亡くなる
・1634年(寛永11) 三度上洛し太政大臣に任じられたが辞退する
・1635年(寛永12)「武家諸法度」を改定して初めて参勤交代の制度を定める
・1638年(寛永15) 島原の乱を平定する
・1639年(寛永16) ポルトガル船の日本渡航を禁止
・1641年(寛永18) オランダ人を長崎出島に移す
・1642年(寛永19) 寛永の大飢饉が発生する
・1643年(寛永20) 「田畑永代売買禁止令」を発布する
・1644年(寛永21) 宗門改めの制を定める
・1651年(慶安4) 江戸城において亡くなる
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 今日は、江戸時代前期の1637年(寛永14)に、島原の乱(島原・天草一揆)が起きた日ですが、新暦では12月11日となります。
 これは、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれました。以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代ったのです。
 寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。
 豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もったのです。
 江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ったのです。
 これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637-1638年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。
 城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残され、現在は、国指定史跡となっています。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯なのですが、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えないくらいでした。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637-1638年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされたのです。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせました。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されたのです。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず。陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになります。あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。
 館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できるのです。床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間を体験しました。外には、天草四郎之像とキリシタン墓があります。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来しました。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がります。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりしました。
 しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まります。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。
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