ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:岩倉具視

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」(行政官布告第1号)が発布され、一世一元の制となり、明治に改元された日ですが、新暦では10月23日となります。
 「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」(こんごねんごうはおんいちだいいちごうにさだめけいおうよねんをあらためてめいじがんねんとなすおよびしょうしょ)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年9月8日)に発布され、天皇一代に元号一つだけとする一世一元の制を定めた行政官布告第1号です。
 桓武天皇時代の延暦(782~805年)をはじめ、平安前期の淳和天皇まで(~833年)の4代に渡り、一世一元の時期もありましたが、その後は、祥瑞・災異・辛酉革命・甲子革令などさまざまな理由にもとづく改元が行われるようになり、天皇一代に数号の元号という場合がみられるようになりました。明治維新の時に、岩倉具視の主張に基づいて、この「行政官布告第1号」によって、一世一元の制が導入され、この時から、元号は天皇の統治年を示すものとなります。
 その後、1889年(明治22)発布の「皇室典範」、1909年(明治42)公布の「登極令(とうきょくれい)」によって、より明確化するかたちで法制化されました。しかし元号は、1947年(昭和22)の「日本国憲法」制定に伴う皇室典範などの改廃により、国民主権の理念にふさわしくないものとして明文法上の根拠を喪失します。
 ところが、1979年(昭和54)に「元号法」が成立し、明文法上も一世一元の制は復活しました。

〇「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書」1868年(慶応4年9月8日)発布

<原文>

今般 御卽位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屢改號有之候得共自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事

詔書
詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否德幸賴 祖宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海內億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行

明治元年九月八日

<書き下し文>

詔書
太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。

明治元年九月八日

〇「皇室典範」1889年(明治22)2月11日

第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ

〇「登極令」1909(明治42)年2月11日発布

第一條 天皇踐祚ノ時ハ卽チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ且踐祚ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム

第二條 天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム  元号ハ樞密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス

第三條 元號ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス

第四條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ  大嘗祭ハ卽位ノ禮ヲ訖リタル後續テ之ヲ行フ

第五條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フトキハ其ノ事務ヲ掌理セシムル爲宮中ニ大禮使ヲ置ク

第六條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フ期日ハ宮内大臣國務各大臣ノ連署ヲ以テ之ヲ公告ス

第七條 卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行フ期日定マリタルトキハ之ヲ賢所皇霊殿神殿ニ奉告シ勅使ヲシテ神宮神武天皇山陵並前帝四代ノ山陵ニ奉幣セシム

第八條 大嘗祭ノ齋田ハ京都以東以南ヲ悠紀ノ地方トシ京都以西以北ヲ主基ノ地方トシ其ノ地方ハ之ヲ勅定ス

第九條 悠紀主基ノ地方ヲ勅定シタルトキハ宮内大臣ハ地方長官ヲシテ齋田ヲ定メ其ノ所有者ニ対シ新穀ヲ供納スルノ手續ヲ爲サシム

第十條 稻實成熟ノ期至リタルトキハ勅使ヲ発遣シ齋田ニ就キ抜穂ノ式ヲ行ハシム

第十一條 卽位ノ禮ヲ行フ期日ニ先タチ天皇神器ヲ奉シ皇后ト共ニ京都ノ皇宮ニ移御ス

第十二條 卽位ノ禮ヲ行フ當日勅使ヲシテ之ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム  大嘗祭ヲ行フ當日勅使ヲシテ神宮皇霊殿神殿竝官國幣社ニ奉幣セシム

第十三條 大嘗祭ヲ行フ前一日鎭魂ノ式ヲ行フ

第十四條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ附式ノ定ムル所ニ依リ之ヲ行フ

第十五條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リタルトキハ大饗ヲ賜フ

第十六條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リタルトキハ天皇皇后ト共ニ神宮神武天皇山陵並前帝四代ノ山陵ニ謁ス

第十七條 卽位ノ禮及大嘗祭訖リテ東京ノ宮城ニ還幸シタルトキハ天皇皇后ト共ニ皇霊殿神殿ニ謁ス

第十八條 諒闇中ハ卽位ノ禮及大嘗祭ヲ行ハス

 附 式 (略)

〇「元号法」(昭和54年法律第43号)1979年(昭和54)6月12日公布

  元号法

1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

   附 則

1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項に基づき定められたものとする。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1864年(元治元)化学者池田菊苗の誕生日(新暦10月8日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、日本初の私設鉄道(馬車鉄道を除く)として、岩倉具視らの主唱により、主として旧大名、公卿華族が出資して日本鉄道会社が創立された日です。
 日本鉄道会社(にっぽんてつどうかいしゃ)は、日本最初の私設鉄道会社(馬車鉄道を除く)でした。1881年(明治14)8月1日に、岩倉具視らの主唱により、主として旧大名、公卿華族が出資しての創立が決定され、11月11日に設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立されます。
 同年に東京~青森間などの鉄道路線の免許を申請、1882年(明治15)に川口~熊谷間から鉄道建設を開始、1883年(明治16)7月28日に、日本初の私設鉄道として、上野駅~熊谷駅間の営業運転を開始しました。翌年に高崎駅まで延伸、1885年(明治18)には、品川~新宿~赤羽間が開業、生糸の横浜への輸送で鉄道の経済効果を実証します。
 その後、北に向かって順次延伸開業させていき、1891年(明治24)には、日光線と共に、上野駅~青森駅間(東北線)が全通しました。1892年(明治25)に水戸鉄道、1897年(明治30)には、両毛鉄道を譲り受けて、路線を拡大します。1898年(明治31)には、常磐線の大部分(上野駅~岩沼駅間)が全通しました。しかし、1906年(明治39)11月1日に「鉄道国有法」により国有化されます。解散時の資本金は6,600万円、路線延長1388.8kmで、明治時代最大の私鉄でした。

〇日本鉄道会社関係略年表

・1881年(明治14)8月1日 岩倉具視らの主唱により、主として旧大名、公卿華族が出資しての創立が決定される
・1881年(明治14)11月11日 設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立される 
・1881年(明治14) 東京~青森間などの鉄道路線の免許を申請する
・1882年(明治15) 川口~熊谷間から鉄道建設を開始する
・1883年(明治16)7月28日 日本初の私設鉄道として、上野駅~熊谷駅間の営業運転を開始する
・1884年(明治17)5月1日 高崎駅まで延伸される
・1885年(明治18)3月1日 品川~新宿~赤羽間が開業する
・1885年(明治18)7月16日 大宮~宇都宮間が開業する
・1887年(明治20)7月16日 郡山まで開業する
・1887年(明治20)12月15日 仙台を経て塩釜まで開業する
・1890年(明治23)4月16日 一ノ関駅まで開業する
・1890年(明治23)11月1日 盛岡駅まで開業する
・1890年(明治23)6月1日 宇都宮駅~今市駅間が開業する
・1890年(明治23)8月1日 今市駅~日光駅間が開業し、日光線が全通する 
・1891年(明治24)9月1日 上野~青森間が全通する
・1892年(明治25)3月1日 水戸鉄道を譲り受ける
・1897年(明治30)1月1日 両毛鉄道を譲り受ける
・1898年(明治31)8月23日 常磐線の大部分(上野駅~岩沼駅間)が全通する
・1906年(明治39)11月1日 「鉄道国有法」により国有化される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1810年(文化7)江戸幕府の老中・下総佐倉藩主堀田正睦の誕生日(新暦8月30日)詳細
1872年(明治5)東京・湯島の昌平黌講堂跡に日本初の公共図書館である書籍館が開設される(新暦9月3日)詳細
1885年(明治18)医師・詩人木下杢太郎の誕生日詳細
1894年(明治27)「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、日清戦争に対して正式に宣戦が布告される(日清戦争開戦)詳細
1907年(明治40)民俗学者・農村指導者・社会教育家宮本常一の誕生日詳細
1912年(大正元)日本初の労働組合である友愛会が結成される詳細
1940年(昭和15)東京市内に「ぜいたくは敵だ」の戦時標語の立看板1,500本が配置される詳細
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出航した日ですが、新暦では12月23日となります。
 岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使として、欧米に派遣した使節団でした。総勢107名(使節46名、随員18名、留学生43名)で、1871年(明治4年11月12日)に横浜港を出港し、1873年(明治6年)9月13日に横浜港へ帰港するまで、約1年10ヶ月をかけて、米欧12ヶ国(アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア・ハンガリー、スイス)を歴訪しています。
 その目的は、①幕末条約締盟国への国書の捧呈、②条約改正予備交渉、③米欧各国の制度・文物の調査研究でした。しかし、アメリカでの条約改正交渉には失敗したものの、ヨーロッパの先進文明を摂取して帰国しています。
 尚、この使節団には、金子堅太郎、団琢磨、津田梅子らの留学生が随行し、各国に留学しました。

〇岩倉使節団の使節メンバー(46名)

<使節>
【特命全権大使】
・岩倉具視
【副使官】
・木戸孝允(桂小五郎)
・大久保利通
・伊藤博文
・山口尚芳
【一等書記官】
・田辺太一
・何礼之
・福地源一郎
【二等書記官】
・渡辺洪基
・小松済治
・林董三郎
・長野桂次郎 - 通詞
【三等書記官】
・川路寛堂
【四等書記官】
・安藤太郎
・池田政懋
・久米邦武
・中山信彬
・内海忠勝
・野村靖
・五辻安仲
【理事官】
・田中光顕
・東久世通禧
・山田顕義
・佐佐木高行
・田中不二麿
・肥田為良
【随行】
・村田新八
・由利公正
・原田一道
・長與專齋
・安場保和
・若山儀一
・阿部潜
・沖守固
・富田命保
・杉山一成
・吉雄永昌
・中島永元
・近藤鎮三
・今村和郎
・内村公平
・大島高任
・瓜生震
・岡内重俊
・中野健明
・平賀義質

☆岩倉使節団関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

<1871年>
・明治4年11月11日 裁判所にて晩餐会が行われ、各国在留公使、書記官が参会する
・明治4年11月12日 岩倉使節団が横浜港を出港する
・明治4年12月6日 アメリカのサンフランシスコの桟橋に到着する
・明治4年12月7日 グランド・ホテルに市長、海陸軍将士、各国公使が来訪する

<1872年>
・明治4年12月22日 グランド・ホテルを出発する
・明治5年1月18日 シカゴ駅に到着する
・明治5年1月21日 ワシントンに到着する
・明治5年1月25日 ホワイトハウスにてアメリカ大統領グラントに謁見する
・明治5年7月3日 郵船オリンパス号にて出港し、アメリカからイギリスへ向かう
・明治5年7月13日 アイルランドのクイーンズ・タウンに寄港する
・明治5年8月17日 イギリスのリヴァプールに到着する
・明治5年11月4日 ロンドンのウィンザー城でヴィクトリア女王と謁見する
・明治5年11月16日 イギリスのドーバーを出港し、フランスのカレーに到着、汽車でパリへ行く
・明治5年11月26日 フランスの大統領官邸(エリゼ宮殿)にて大統領ルイ・アドルフ・ティエールと謁見する

<1873年(明治6年)>
・2月17日 ベルギーのブリュッセルに到着する
・2月18日 ベルギー国王レオボルド2世に謁見する
・2月24日 オランダのバーグに到着する
・2月25日 オランダ国王ウィレム3世に謁見する
・3月9日 ドイツのベルリンに到着する
・3月11日 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見する
・3月15日 ドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加する
・3月30日 ロシアのペテルブルグに到着する
・4月3日 ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見する
・4月18日 デンマークのコペンハーゲンに到着する
・4月19日 デンマーク国王クリスチャン9世、ルイーズ王妃に謁見する
・4月24日 スゥエーデンのストックホルムに到着する
・4月25日 スゥエーデン国王オスカル2世に謁見する
・5月11日 イタリアのローマに到着する
・5月13日 イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に謁見する
・6月3日 オーストリア・ハンガリーのウィーンに到着する
・6月8日 オーストリア・ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ、皇后に謁見する
・6月19日 スイスのチューリッヒに到着する
・6月21日 スイスの連邦院にて大統領に謁見する
・7月20日 マルセイユを郵船アウア号で出港し、帰国の途に就く
・7月27日 スエズ運河を通る
・8月1日 アデン港に寄港する
・8月9日 ゴール港に寄港する
・8月22日 ベトナムのサイゴンに寄港する
・8月27日 香港に寄港する
・9月2日 上海に寄港する
・9月13日 岩倉使節団が横浜港に帰国する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就いた日です。
 明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論争により、明治新政府内が分裂した政変でした。明治維新以来、明治新政府は朝鮮に度々国交を求めたものの、朝鮮は排外鎖国政策をとっていて、拒否されたので、西郷隆盛や板垣退助らが征韓論(朝鮮侵略)を主張するようになります。
 これと、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが主張する内治優先論(国内政治の優先)とが激しく対立することとなりました。その結果、征韓派は敗れて一斉に政府を去ることとなり、近衛の将士の辞職も相次ぎます。
 これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれることとなり、のちに征韓派は、自由民権派と士族反乱派に分化しました。翌年の佐賀の乱、台湾出兵、1877年(明治10)の西南戦争をはじめ、自由民権運動の隆盛など、その後の政局に大きな影響を与えることとなります。

〇明治六年政変関係略年表

<1872年(明治5)>
・9月12日 木戸派の大蔵大輔井上馨が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言岩倉具視・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。
・11月7日 木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわした
・11月9日 会議で板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された
・11月8日 宮古島島民遭難事件が発生し、台湾征討を主張する声が高まる
・11月11日 岩倉を代表とし、木戸・大久保・伊藤博文らも加わった使節団が出国する

<1873年(明治6)>
・1月19日 木戸・大久保に対して早期帰国の命令が下る
・4月 井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろむ
・4月19日 新たな参議となったのは司法卿江藤新平・文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれず
・5月29日 大久保が帰国する
・5月31日 釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告する
・7月23日 木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行なう
・7月末 西郷は三条に遣使を強く要求する
・7月29日 西郷は板垣宛書簡で、軍隊より先に使節を出せば朝鮮から「暴挙」「暴殺」に出るから「討つべきの名」が立つ、だから自分が使節になると主張する
・8月14日 西郷の板垣宛書簡でも先に使節を出すやり方で「はめ込」めば「必ず戦うべき機会」になる、だから西郷を死なせては可哀そうなどと思わないでほしいと述べる
・8月16日 西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する
・8月17日 西郷の要望により三条太政大臣の私邸で催された閣議の席上、西郷の遣韓大使任命が内決される
・8月18日 上奏裁可を得て三条は、岩倉大使の帰国を待って熟議することを西郷に伝え、問題は一時延期のかたちとなる
・9月13日 岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始する
・9月16日 木戸が病気となり、参議復帰を拒む
・10月12日 大久保が参議に復帰したが、木戸は閣議への復帰に応じなかった
・10月14日 岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張、板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張する
・10月15日 閣議で板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求、三条は西郷の派遣自体は認める決定を行なう
・10月16日 岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった
・10月17日 もう一度閣議を行うことなっていたが、岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで行われなかった
・10月18日 三条は病に倒れたが、狭心症、心筋梗塞、脚気衝心のいずれかではないかと見られている
・10月19日 副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された
・10月20日 明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任すると、樺太問題が急務であるという趣旨を上奏する
・10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張する
・10月23日 岩倉は参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途につく
・10月24日 岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職、板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出する
・10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理され、西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
 岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
 1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
 1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
 1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
 それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
 1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
 また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。

〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日)  岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1948年(昭和23年)国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細


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