ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:山縣有朋

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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、山縣有朋がヨーロッパへの軍事制度の視察から帰国した日ですが、新暦では8月28日となります。
 山県有朋(やまがた ありとも)は、幕末から明治・大正期に活躍した軍人・政治家で元老の筆頭格です。江戸時代後期の1838年(天保9年6月14日)に長門国萩城下で、長州藩下級士族山県有稔の長男(母は同藩士岡治助の娘松子)として生まれましたが、幼名辰之助(のち小輔、さらに狂介)と言いました。
 吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加、1863年(文久3)に奇兵隊軍監に抜擢されましたが、翌年の英米仏蘭4国連合艦隊との交戦(4国艦隊下関砲撃事件)で負傷します。1866年(慶応2)の第二次長州征伐に従軍、1868年(慶応4)の戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦しました。
 1869年(明治2年)に渡欧して各国軍制を視察、翌年帰国後、兵部少輔となって兵制改革を担当、1871年(明治4)の廃藩置県の実施後、兵部大輔となります。翌年に陸軍大輔、陸軍中将となり、1873年(明治6年)に徴兵制を主張してこれを実現、陸軍卿となりました。
 1874年(明治7)の佐賀の乱、1877年(明治10)の西南戦争に出征して鎮圧、翌年には参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となり、1882年(明治15)には「軍人勅諭」を起案、頒布します。1882年(明治15)に参事院議長となり、翌年に内務卿に就任して自由民権運動を弾圧、1884年(明治17)に伯爵となり、1887年(明治20)には内相として「保安条例」を公布し、三大事件建白運動を抑え込みました。
 1889年(明治22)に第一次山県内閣を組織し、翌年の第一回帝国議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立します。同年の「教育勅語」の発布を進めましたが、翌年には内閣総辞職しました。
 1894年(明治27年)の日清戦争には第1軍を率いて出征したものの、病気で帰国、1895年(明治28)に元勲優遇となり、侯爵ともなります。1896年(明治29)に全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結、1898年(明治31)に元帥となり、第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織し、1900年(明治33)には「治安警察法」を公布しました。
 1901年(明治34)に日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行、1904年(明治37)の日露開戦に際しては参謀総長として作戦指導に当たります。1907年(明治40)に公爵となり、同年の「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努め、1909年(明治42)に伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮しました。
 しかし、1921年(大正10)の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失ない、神奈川県小田原の別邸・古稀庵に閉じこもったまま、翌年2月1日に数え年85歳で亡くなり、2日後に国葬が執り行われています。

〇山県有朋関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1838年(天保9年6月14日) 長州藩下級士族山県有稔の長男として長門国萩城下に生まれる
・1842年(天保13年) 5歳の時に母が病死する
・1858年(安政5年) 21歳の時に藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加する
・1863年(文久3年) 奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となる
・1864年(元治元年8月) 英米仏蘭4国連合艦隊と交戦(4国艦隊下関砲撃事件)して負傷する
・1866年(慶応2年) 第二次長州征伐に従軍する
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦する
・1869年(明治2年) 渡欧して各国軍制を視察する
・1870年(明治3年) 帰国し、兵部少輔となる
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県の実施、兵部大輔となる
・1870年(明治3年8月28日) 従五位となる
・1872年(明治5年) 陸軍大輔、陸軍中将となる
・1872年(明治5年12月12日) 従四位となる
・1873年(明治6年)1月 徴兵制を主張し、これを実現する
・1873年(明治6年) 陸軍卿となる
・1873年(明治6年)11月15日 正四位となる
・1874年(明治7年)2月 佐賀の乱を鎮圧し、参議となる
・1877年(明治10年) 西南戦争に征討参軍として出征する
・1877年(明治10年)11月2日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1878年(明治11年) ドイツに倣って参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となる
・1878年(明治11年)8月 「軍人訓誡」を頒布する
・1880年(明治13年)6月15日 フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエを受章する
・1881年(明治14年) 明治14年の政変では、伊藤博文、岩倉具視らと謀って大隈重信一派の政府外追放を行い、プロシア流憲法制定の方向を確定する
・1882年(明治15年)1月 「軍人勅諭」を起案、頒布する
・1882年(明治15年) 参事院議長となる
・1883年(明治16年) 内務卿に就任して自由民権運動を弾圧する
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」の制定により伯爵となる
・1884年(明治17年)12月27日 従三位となる
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1886年(明治19年)12月22日 一等王冠勲章を受章する
・1887年(明治20年)7月 官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行する
・1887年(明治20年)8月25日 キリスト勲章グランクロアを受章する
・1887年(明治20年)12月 内相として保安条例を公布し三大事件建白運動を抑える
・1888年(明治21年)4月 市制・町村制の制定に尽力する
・1889年(明治22年)10月30日 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グラン・コルドーネを受章する
・1889年(明治22年)10月30日 白鷲勲章を受章する
・1889年(明治22年)10月30日 ドイツ帝国赤鷲第一等勲章を受章する
・1889年(明治22年)12月 第一次山県内閣を組織する
・1890年(明治23年)5月 府県制・郡制の制定に尽力する
・1890年(明治23年) 陸軍大将に昇進する
・1890年(明治23年)11月 第一議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立する
・1890年(明治23年)11月22日 一等鉄冠勲章を受章する
・1891年(明治24年)4月8日 銀製黄綬褒章を受章する
・1891年(明治24年)5月 内閣総辞職する
・1894年(明治27年) 日清戦争には第1軍を率いて出征しましたが、病気で帰国する
・1895年(明治28年)5月26日 元勲優遇となる
・1895年(明治28年)8月5日 旭日桐花大綬章・功二級金鵄勲章を受章する
・1895年(明治28年)8月5日 侯爵となる
・1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章を受章する
・1895年(明治28年)12月20日 正二位となる
・1896年(明治29年)6月 全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結する
・1896年(明治29年)10月28日 ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章を受章する
・1897年(明治30年)5月7日 レジオンドヌール勲章グランクロワを受章する
・1898年(明治31年)1月20日 元帥となり、元帥徽章を受章する
・1898年(明治31年)11月 第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織する
・1899年(明治32年)6月14日 ドイツ帝国赤鷲大綬章を受章する
・1900年(明治33年)3月 「治安警察法」を公布する
・1900年(明治33年)6月 義和団事件に際し、最大の軍隊を中国に派遣し、列強に協力して、帝国主義国としての地歩を固める
・1900年(明治33年)9月 伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤を後継首班に推薦して総辞職する
・1901年(明治34年)6月 第一次桂太郎内閣が成立すると黒幕として背後から援助し、日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行させる
・1902年(明治35年)6月3日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1902年(明治35年)5月10日 明治三十三年従軍記章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争に際しては参謀総長として作戦指導に当たる
・1906年(明治39年)4月1日 菊花章頸飾・功一級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章を受章する
・1906年(明治39年)4月5日 メリット勲章を受章する
・1907年(明治40年)2月2日 御紋付御杯を受ける
・1907年(明治40年)9月21日 公爵となる
・1907年(明治40年)4月 「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努める
・1908年(明治41年)3月12日 金尺大勲章を受章する
・1909年(明治42年)10月 伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮する
・1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章を受章する
・1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)を受章する
・1916年(大正5年)1月14日 金剛石装飾神聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を受章する
・1916年(大正5年)4月1日 金杯一組・大正三四年従軍記章を受章する
・1917年(大正6年)1月20日 御紋付銀杯を受ける
・1918年(大正7年)7月3日 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを受章する
・1918年(大正7年)7月 米騒動では大きな衝撃を受ける
・1918年(大正7年)9月 政友会総裁原敬を首相候補に推薦し、政党内閣を認めるに至る
・1920年(大正9年)9月7日 金盃一組を受ける
・1921年(大正10年) 皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失なう
・1922年(大正11年)2月1日 神奈川県小田原の別邸・古稀庵において、数え年85歳で亡くなり、従一位となる
・1922年(大正11年)2月3日 国葬が執り行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

901年(延喜元)六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する詳細
1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1738年(元文3)俳人上島鬼貫の命日(新暦9月15日)詳細
1864年(元治元)14代将軍徳川家茂が中国・四国など35藩に長州征討(第一次長州征討)の為の出兵を命令(新暦9月2日)詳細
1918年(大正7)寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリア出兵することが閣議決定される詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍のB-29爆撃機174機による富山大空襲で、市街地の99.5%を焼失、死者2,737人を出す詳細
ドイツのベルリン郊外でのポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳会談)が終了する詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細
2007年(平成19)関西国際空港の第二滑走路(B滑走路)がオープンし、国内初の完全24時間空港になる詳細
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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、第1回帝国議会での山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説が行われた日です。
 山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説(やまがたありともないかくそうりだいじんのしせいほうしんえんぜつ)は、1890年(明治23)11月25日~翌年3月7日まで開会された第1回帝国議会において、12月6日に山縣有朋内閣総理大臣が行った施政方針演説のことでした。主権線(国境)と共に、列強(特にロシア)の脅威に対するために、利益線(朝鮮)の確保を主張、その防衛のための軍事力増強(一般会計歳出額8,332万円という軍拡予算案)を主張したので、「主権線・利益線演説」とも呼ばれています。
 第1回帝国議会の議員構成は、300議席中民党が171議席(内訳立憲自由党130議席、立憲改進党41議席)、吏党が84議席(内訳大成会79議席、国民自由党5議席)、無所属45議席と民党は過半数を超えていました。山縣首相の軍拡予算案に対して、民党側は「政費節減、民力休養」を主張したため、この点で政府と議会が鋭く対立します。政府は立憲自由党の一部(土佐派)を切り崩し、一部予算を可決させたものの、軍艦建造費など800万円以上を削減する大幅な軍縮予算とならざるを得ず、山縣首相は怒りをあらわにしました。
 一方で、立憲自由党の議員だった中江兆民は、土佐派の裏切りに憤慨して、国会を「無地虫の陳列場」として、議員辞職する事態も起きています。
 以下に、この時の山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「第1回帝国議会での山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説」1890年(明治23)12月6日 

諸君我が天皇陛下は至仁なる聖慮に依りまして、曩きに千歳不磨の大典を立てさせられ、茲に諸君と相會するを得たるは、誠に國家の爲慶賀に堪へざる次第で御座ります、又本官の幸榮とするところで御座ります。
本官は今内外の政務に就きまして、諸君に其の方針の在る所を陳述致しまするの機會に遭遇致しましたるが、既に政府の執る所の政策に於きましては、先日開院の勅語に於きまして、其の大体を明示致されました以上に、今更に本官が事々しく辯明致しまする必要を見ませぬで御座ります、さりながら二三の要點に就き概略を陳述致しまして、諸君の公平なる判斷を煩はさんことを望みます。
顧みるに舊幕府が鎖港の政略を執りたる以來、我が國三百年間の無事大平を保續致しましたに相違御座りませぬことで御座ります、併し此の政略は宇内の大勢に背馳致しまして、我が國三百年間の進化を遲く致したる結果を生じたるは、甚た遺憾の至りに存じます
偖明治大政維新の時に膺りまして、世運の變遷を察して一旦此の方向を變じますると、過去數百年間滯るところの負債を償還せねばならぬと云ふ事に気が附きました故に、我々が此の短日月の間に於きまして、其の負債を償還することに努力致しましたで御座ります、然るに僅二十有餘年間の短日月なるが故に、今日に至るまで我々諸君と與に、背上に負擔するところの至重の義務は、未だ其の半を終ふるに至りませぬで御座ります、併しながら幸に上は 聖天子の宏遠なる皇謨と、下は先進諸氏の翼贊計畫するところに依りまして、其の大体の標準を一定することを得ました、故に漸次其の順序を追ふて今日まての運びと相成りました次第でありまする、勿論政府の實務上に就きましては、或は之を緩にし、或は之を急にし又は此の法を執り、又は此の法に依ることに至りまして、人々各々其の見るところに依りまして、各々出入異同あることは是數の免かる可からざるところと存じます、今其の小異は姑く擱きまして、施政の大局上に就いて觀察を下すときは、我々一樣に同一の軌轍の上に進み行きつヽあり、決して此の一大環線の外に脱出することは致しませぬ、是は本官が斷言するに更に憚らぬところであります。
偖政府より二十四年度の總豫算を提出致しましたるは、此の歳計豫算に就きまして、我々憲法上及び法律勅令を奉事するの義務者で御座ります、此の歳計豫算に就きましては本官は諸君が愼重公平なる審議翼賛のあることは信じて疑ひませぬ、豫算帳に就きまして最歳出の大部分を占めるものは、即陸海軍の經費で御座います、是に就きましては本官が政府の觀る所に就いて、將來の爲に一言を吐露して、諸君の注意を冀はんことを望みます、抑々今の時に方りまして國家の最急務とする所のものは、行政及地方の制度を整へ運用を敏活ならしめることである、又農工及通商の業務を奬勵作進して、國の實力を養成致すことが最必要のことと思ひます、されば内治即内政は一日も忽にならぬことは、勿論申す迄もないことヽ存じます、又是と同時に國家の獨立を維持し、國勢の伸張を圖ることが最緊要のことヽ存じます、此の事たるや諸君及我々の共同事務の目的であつて、獨政府のなすべきことで御座りますまい、將來政事上の局面に於て何等の變化を現出するも、決して變化することは御座りますまいと存じます、大凡帝國臣民たる者は協心同力して、此の一直線の方向を取って、此の共同の目的に達することを誤らず、進まなければならぬと思ひます蓋國家獨立自營の道に二途あり、第一に主權線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主權線とは國の疆域を謂ひ、利益線とは其の主權線の安危に、密着の關係ある區域を申したのである、凡國として主權線、及利益線を保たぬ國は御座りませぬ、方今列國の間に介立して一國の獨立を維持するには、獨主權線を守禦するのみにては、決して十分とは申されませぬ、必ず亦利益線を保護致さなくてはならぬことヽ存じます、今果して吾々が申す所の主權線のみに止らずして、其の利益線を保つて一國の獨立の完全をなさんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累子て、漸次に國力を養ひ其の成蹟を觀ることを力めなければならぬことと存じます、即豫算に掲けたるやうに、巨大の金額を割いて、陸海軍の經費に充つるも、亦此の趣意に外ならぬことと存じます、寔に是は止むを得ざる必要の經費である以上演べまする所の數箇の要點は、假令小異はあるとも、其の大体に就きましては、諸君に於て必ず協同一致せられんことは、本官は信じて疑ひませぬ、大凡是等の事に就きまして、今申述べまする樣に成るべくは速に拂盡さねばならぬ共同義務である、然らば此の重大の義務を盡さんが爲には、我々境遇に伴ふ所の一箇の利益を犠牲に供して、公平無私に相倶に胸襟を押開いて、腹蔵なく相談し相議するに於ては、互に其の意見を一致することに於て、決して難きことはないことと存じまする、本官は幸に諸君の了察あらんことを望みます。

   「帝国議会衆議院議事速記録」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20)幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日詳細
1918年(大正7)大学令」が公布される詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される詳細
1927年(昭和2)政治雑誌「労農」が創刊される詳細


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 今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、「山縣・ロバノフ協定」(朝鮮問題に関する日露間議定書)が締結された日です。
 「山縣・ロバノフ協定(やまがた・ろばのふきょうてい)」は、朝鮮における紛争に関する日本とロシアの議定書で、正式には「朝鮮問題に関する日露間議定書」と呼ばれ、「モスクワ議定書」ともいわれてきました。ロシア皇帝戴冠式に特派されていた日本の山縣有朋元首相と、ロシア外務大臣のアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー公の間で、モスクワにおいて交わされたものです。
 この協定の背景には、日清戦争とその直後、1895年(明治28)10月8日の日本による閔妃(びんひ)殺害事件があって、朝鮮民族の反日気運を急速に高め、初期義兵の反日蜂起が始まったこと、また、李朝政府部内でも日本との対抗上親露派が台頭し、1896年(明治29)2月以降約1年間国王がロシア公使館に滞在する状態を招いたことがあり、これに対処するため、日本は同年5月14日に「小村=ウェーバー協定」を結び、さらにそれを土台として発展させたものでした。公開4条項と秘密2条項から成り、朝鮮の財政改革を促進すること(第1条)、近代的警察及び軍隊を組織すること(第2条)、電信線を維持すること(第3条)について、共通の意思を明示し、また秘密条項では、両国が合意をもって軍隊を派遣するときは用兵地域を確定すること(秘密第1条),両国の駐屯兵員数を同数とすること(秘密第2条)などが協定されています。
 この後、1898年(明治31)4月25日の「西・ローゼン協定」によって、書き換えられ、日露両国は韓国の国内政治への干渉を差し控え、かつ韓国政府の依頼で軍事または財政顧問を送る前に、互いに事前承認を求めること、またロシアは、韓国の商用・経済発展への日本の投資を妨害しないことを誓約しました。
 以下に、「小村・ウェーバー協定」、「山縣・ロバノフ協定」、「西・ローゼン協定」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「朝鮮問題に関する覚書」(小村・ウェーバー協定)原文英語 1896年(明治29)5月14日調印、1897年(明治30)2月26日発表

(譯文)

在京城日露兩國代表者ハ其ノ各自ノ政府ヨリ同樣ノ訓令ヲ受ケ協議ノ上左ノ通リ議定セリ

一、朝鮮國王陛下ノ王宮へ還御ノコトハ陛下御一己ノ裁斷ニ一任スヘキモ日露兩國代表者ハ陛下ガ王宮ニ還御アラセラルヽモ其ノ安全ニ付キ疑惧ヲ抱クニ及バザル時ニ至ラバ還御アランコトヲ忠吿スヘシ又日本國代表者ハ茲ニ日本壯士ノ取締ニ付キ嚴密ナル措置ヲ執ルベキ保證ヲ與フ

二、現任內閣大臣ハ陛下ノ御一存ヲ以テ任命セラレタルモノニシテ多クハ過ル二年間國務大臣若クハ其ノ他ノ顯職ニ在リテ寛大溫和主義ヲ以テ知ラレタル人々ナリ日露兩國代表者ハ陛下ガ寬大溫和ノ人物ヲ其ノ閣臣ニ任命セラレ且ツ寬仁以テ其ノ臣民ニ對セラレンコトヲ陛下ニ勸吿スルコトヲ以テ常ニ其ノ目的ト爲スベシ

三、露國代表者ハ左ノ點ニ付キ全ク日本國代表者ト意見ヲ同フス卽チ朝鮮國ノ現況ニテハ釜山京城間ノ日本電信線保護ノ爲メ或場處ニ日本國衞兵ヲ置クノ必要アルベキコト及現ニ三中隊ノ兵丁ヲ以テ組成スル所ノ該衞兵ハ可成速ニ撤囘シテ之ニ代フルニ憲兵ヲ以テシ左ノ如ク之ヲ配置スベキコト卽チ大邱ニ五十人可興ニ五十人釜山京城間ニ在ル十箇所ノ派出所ニ各十人トス尤右ノ配置ハ變更スルコトヲ得ベキモ憲兵隊ノ總數ハ決シテ二百人ヲ超過スベカラズ而シテ此等憲兵モ將來朝鮮政府ニ於テ安寧秩序ヲ囘復シタル各地ヨリ漸次撤囘スベキコト

四、朝鮮人ヨリ萬一襲擊セラルヽ場合ニ對シ京城及各開港場ニ在ル日本人居留地ヲ保護スル爲メ京城ニ二中隊釜山ニ一中隊元山ニ一中隊ノ日本兵ヲ置クコトヲ得但シ一中隊ノ人員ハ二百名ヲ超過スベカラズ該兵ハ各居留地ノ最寄ニ屯營スベク而シテ前記襲擊ノ虞ナキニ至リ次第之ヲ撤囘スベシ又露國公使館及領事館ヲ保護スル爲メ露國政府モ亦右各地ニ於テ日本兵ノ人數ニ超過セザル衞兵ヲ置クコトヲ得而シテ右衞兵ハ內地全ク靜謐ニ歸シ次第之ヲ撤囘スベシ

 明治廿九年五月十四日京城ニ於テ

  日本國代表者 小村壽太郞

  露國代表者 ウエーバー

    「舊條約彙纂第 一卷第二部」外務省編より

〇「朝鮮問題に関する日露間議定書」(山縣・ロバノフ協定)原文仏語 1896年(明治29)6月9日調印、1897年(明治30)2月26日発表

(譯文)

日本國皇帝陛下ノ特命全權大使陸軍大將山縣侯爵及露西亞國外務大臣ル、スクレテール、デター、プランス、ロバノフ、ロストウスキーハ朝鮮國ノ形勢ニ關シ其ノ意見ヲ交換シ左ノ諸條ヲ協議決定セリ

 第一條

日露兩國政府ハ朝鮮國ノ財政困難ヲ救濟スルノ目的ヲ以テ朝鮮國政府ニ向テ一切ノ冗費ヲ省キ且其ノ歲出入ノ平衡ヲ保ツコトヲ勸吿スヘシ若シ萬止ヲ得ザルモノト認メタル改革ノ結果トシテ外債ヲ仰クコト必要トナルニ到レバ兩國政府ハ其ノ合意ヲ以テ朝鮮國ニ對シ其ノ援助ヲ與フベシ

 第二條

日露兩國政府ハ朝鮮國財政上及經濟上ノ狀況ノ許ス限リハ外援ニ藉ラスシテ內國ノ秩序ヲ保ツニ足ルベキ內國人ヲ以テ組織セル軍隊及警察ヲ創設シ且ツ之ヲ維持スルコトヲ朝鮮國ニ一任スルコトヽスベシ

 第三條

朝鮮國トノ通信ヲ容易ナラシムル爲メ日本國政府ハ其ノ現ニ占有スル所ノ電信線ヲ引續キ管理スベシ
露國ハ京城ヨリ其ノ國境ニ至ル電信線ヲ架設スルノ權利ヲ留保ス
右諸電信線ハ朝鮮國政府ニ於テ之ヲ買收スベキ手段附キ次第之ヲ買收スルコトヲ得ルモノトス

 第四條

前記ノ原則ニシテ尙ホ一層精確且詳細ノ定義ヲ要スルカ又ハ後日ニ至リ商議ヲ要スベキ他ノ事項生ジタルトキハ兩國政府ノ代表者ハ友誼的ニ之ヲ妥協スルコトヲ委任セラルベシ

千八百九十六年六月九日・五月二十八日{日付は原文では横に並べて記しているものを右から表記した}「モスクウ」府ニ於テ之ヲ書ス

   山縣 手署

   ロバノフ 手署

 秘密條款

第一條 原因ノ內外タルヲ問ハズ若シ朝鮮國ノ安寧秩序亂レ若クハ將ニ亂レントスルノ危懼アリテ而シテ若シ日露兩國政府ニ於テ兩國臣民ノ安寧ヲ保護シ及電信線ヲ維持スルノ任務ヲ有スル軍隊ノ外其ノ合意ヲ以テ更ニ軍隊ヲ派遣シ內國官憲ヲ援助スルヲ必要ト認メタルトキハ兩帝國政府ハ其ノ軍隊間ニ總テノ衝突ヲ豫防スル爲メ兩國政府ノ軍隊ノ間ニ全ク占領セサル空地ヲ存スル樣各軍隊ノ用兵地域ヲ確定スヘシ

第二條 朝鮮國ニ於テ本議定書ノ公開條款第二條ニ揭クル內國人ノ軍隊ヲ組織スルニ至ル迄ハ朝鮮國ニ於テ日露兩國同數ノ軍隊ヲ置クコトノ權利ニ關シ小村氏ト「ル、コンセイヱー、デター、アクチユヱル、ド、ウエバー」氏ノ記名シタル假取極ハ其ノ效力ヲ有スヘシ朝鮮國大君主ノ護身上ニ關シ現ニ存在スル狀態モ亦特ニ此ノ任務ヲ有スル內國人ヲ以テ組織セル一隊創設セラルヽ迄ハ均シク之ヲ繼續スヘシ

千八百九十六年六月九日・五月廿八日{日付は原文では横に並べて記しているものを右から表記した}「モスクワ」府ニ於テ之ヲ書ス

   山縣 手署

   ロバノフ 手署

     「舊條約彙纂第 一卷第二部」外務省編より

〇「日露間朝鮮問題に関する議定書」(西・ローゼン協定)1898年(明治31)4月25日調印、5月10日官報彙報欄揭載

(譯文)

日本國皇帝陛下ノ外務大臣西男爵及全露西亞國皇帝陛下ノ「コンセイヱー、デター、アクチユヱル」侍從特命全權公使「ローゼン」男爵ハ之カ爲メ各相當ノ委任ヲ受ケ千八百九十六年(六月九日、五月二十八日)「モスクワ」ニ於テ陸軍大將山縣侯爵ト「スクレテール、プター、プランス、ロバノフ」トノ間ニ調印セラレタル議定書第四條ニ準據シ左ノ條款ヲ協定セリ

第一條 日露兩帝國政府ハ韓國ノ主權及完全ナル獨立ヲ確認シ且ツ互ニ同國ノ內政上ニハ總テ直接ノ干涉ヲ爲サルヽコトヲ約定ス

第二條 將來ニ於テ誤解ヲ來スノ虞ヲ避ケンカ爲メ日露兩帝國政府ハ韓國カ日本國若ハ露國ニ對シ勸言及助力ヲ求ムルトキハ練兵敎官若ハ財務顧問官ノ任命ニ就テハ先ツ相互ニ其協商ヲ遂ケタル上ニアラサレハ何等ノ處置ヲ爲サヽルコトヲ約定ス

第三條 露西亞帝國政府ハ韓國ニ於ケル日本ノ商業及工業ニ關スル企業ノ大ニ發達セルコト及同國居留日本國臣民ノ多數ナルコトヲ認ムルヲ以テ日韓兩國間ニ於ケル商業上及工業上ノ關係發達ヲ妨碍セサルヘシ

千八百九十八年四月二十五日東京ニ於テ本書二通ヲ作ル

  西(印)

  ローゼン(印)

    「舊條約彙纂第 一卷第二部」外務省編より

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