
吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加、1863年(文久3)に奇兵隊軍監に抜擢されましたが、翌年の英米仏蘭4国連合艦隊との交戦(4国艦隊下関砲撃事件)で負傷します。1866年(慶応2)の第二次長州征伐に従軍、1868年(慶応4)の戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦しました。
1869年(明治2年)に渡欧して各国軍制を視察、翌年帰国後、兵部少輔となって兵制改革を担当、1871年(明治4)の廃藩置県の実施後、兵部大輔となります。翌年に陸軍大輔、陸軍中将となり、1873年(明治6年)に徴兵制を主張してこれを実現、陸軍卿となりました。
1874年(明治7)の佐賀の乱、1877年(明治10)の西南戦争に出征して鎮圧、翌年には参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となり、1882年(明治15)には「軍人勅諭」を起案、頒布します。1882年(明治15)に参事院議長となり、翌年に内務卿に就任して自由民権運動を弾圧、1884年(明治17)に伯爵となり、1887年(明治20)には内相として「保安条例」を公布し、三大事件建白運動を抑え込みました。
1889年(明治22)に第一次山県内閣を組織し、翌年の第一回帝国議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立します。同年の「教育勅語」の発布を進めましたが、翌年には内閣総辞職しました。
1894年(明治27年)の日清戦争には第1軍を率いて出征したものの、病気で帰国、1895年(明治28)に元勲優遇となり、侯爵ともなります。1896年(明治29)に全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結、1898年(明治31)に元帥となり、第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織し、1900年(明治33)には「治安警察法」を公布しました。
1901年(明治34)に日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行、1904年(明治37)の日露開戦に際しては参謀総長として作戦指導に当たります。1907年(明治40)に公爵となり、同年の「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努め、1909年(明治42)に伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮しました。
しかし、1921年(大正10)の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失ない、神奈川県小田原の別邸・古稀庵に閉じこもったまま、翌年2月1日に数え年85歳で亡くなり、2日後に国葬が執り行われています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 901年(延喜元) | 六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する | 詳細 |
| 1721年(享保6) | 徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日) | 詳細 |
| 1738年(元文3) | 俳人上島鬼貫の命日(新暦9月15日) | 詳細 |
| 1864年(元治元) | 14代将軍徳川家茂が中国・四国など35藩に長州征討(第一次長州征討)の為の出兵を命令(新暦9月2日) | 詳細 |
| 1918年(大正7) | 寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリア出兵することが閣議決定される | 詳細 |
| 1945年(昭和20) | アメリカ軍のB-29爆撃機174機による富山大空襲で、市街地の99.5%を焼失、死者2,737人を出す | 詳細 |
| ドイツのベルリン郊外でのポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳会談)が終了する | 詳細 | |
| 1947年(昭和22) | 中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行 | 詳細 |
| 2007年(平成19) | 関西国際空港の第二滑走路(B滑走路)がオープンし、国内初の完全24時間空港になる | 詳細 |
