ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:山田耕筰

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、小説家・芥川賞作家由起しげ子の生まれた日です。
 由起しげ子(ゆき しげこ)は、大阪府泉北郡浜寺村(現在の堺市西区)において生まれましたが、本名は新飼志げ(しんかい しげ)と言いました。10歳の時に母を亡くしたものの、1917年(大正6)に大阪府立堺高等女学校(現在の泉陽高校)を卒業し、神戸女学院音楽部へ進みます。
 在学中に、作曲を山田耕筰に学び、才能を発揮していましたが、1921年(大正10)に中退しました。1924年(大正13)には、画家伊原宇三郎と結婚し、1926年(大正15)には、絵を修業する夫と共にフランスに渡って、パリで作曲を学びながらマルグリット・ロンにピアノを習い、1929年(昭和4)に帰国します。
 三男一女を儲けて養育しましたが、やがて結婚生活は破たん、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に夫と離婚して別居しました。その後、神近市子らの勧めにより作家の道に進み、1949年(昭和24)に、「作品」に発表した最初の短篇『本の話』で第21回(戦後再開第1回)芥川賞を受賞、続く『警視総監の笑ひ』のシニカルな筆致により流行作家となります。
 1954年(昭和29)に「小説新潮」に載せた『女中ッ子』がベストセラーとなり、翌年には、田坂具隆監督により映画化されました。また、1960年(昭和35)には、『赤坂の姉妹』が川島雄三監督により『赤坂の姉妹より 夜の肌』として映画化されています。
 1961年(昭和36)に、『沢夫人の貞節』で第8回小説新潮賞を受賞、1964年(昭和39)には、『やさしい良人』が第3回女流文学賞の候補となりました。女性の生き方をテーマとした半通俗的な小説も手がけ、生涯で120編以上の小説を発表したものの、1969年(昭和44)12月30日に、東京において、69歳で亡くなりました。

〇由起しげ子の主要な著作

・『本の話』(1949年)第21回(戦後再開第1回)芥川賞受賞
・『厄介な女』(1950年)
・『春を告げる花』(1950年)
・『警視総監の笑ひ・本の話』(1951年)
・『コクリコ夫人』(1952年)
・『ルリ色の海』(1955年)
・『女中ッ子・この道の果に』(1955年)ベストセラーとなり、映画化される
・『語らざる人』(1955年)
・『今日のいのち』(1956年)
・『未知からの誘い』(1956年)
・『若い火』(1956年)
・『夕すげ』(1956年)
・『生きる場所』(1958年)
・『ヒマワリさん』(1958年)映画「明日は咲こう花咲こう」(吉永小百合主演)の原作
・『女ごころ』(1958年)
・『女の中の悪魔』(1959年)
・『契約結婚』(1960年)
・『夢違い』(1960年)
・『赤坂の姉妹』(1960年)川島雄三監督により「赤坂の姉妹より 夜の肌」として映画化される
・『沢夫人の貞節』(1961年)第8回小説新潮賞受賞
・『罪と愛』(1962年)
・『小さな結婚』(1963年)
・『真夜中の顔』(1963年)
・『やさしい良人』(1963年)第3回女流文学賞候補
・『愛のかけら』(1964年)

☆由起しげ子関係略年表

・1900年(明治33)12月2日 大阪府泉北郡浜寺村(現在の堺市西区)において生まれる
・1910年(明治43) 10歳の時に母が亡くなる
・1917年(大正6) 大阪府立堺高等女学校(現在の泉陽高校)を卒業する
・1918年(大正7) 神戸女学院音楽部へ入学する
・1921年(大正10) 神戸女学院音楽部を中退する
・1924年(大正13) 画家伊原宇三郎と結婚する
・1926年(大正15) 絵を修業する夫と共にフランスに渡って、パリで作曲を学びながらマルグリット・ロンにピアノを習う
・1929年(昭和4) フランスより帰国する
・1945年(昭和20) 伊原と別居し、神近市子らの勧めにより作家の道に進む
・1949年(昭和24) 「作品」に発表した最初の短篇『本の話』で第21回(戦後再開第1回)芥川賞を受賞、続く『警視総監の笑ひ』のシニカルな筆致により流行作家となる
・1954年(昭和29) 「小説新潮」に載せた『女中ッ子』がベストセラーとなる
・1955年(昭和30) 『女中ッ子』が田坂具隆監督より映画化される
・1958年(昭和33) 第7回小学館児童文化賞[文学賞]の候補となる
・1960年(昭和35) 『赤坂の姉妹』が川島雄三監督により『赤坂の姉妹より 夜の肌』として映画化される
・1961年(昭和36) 『沢夫人の貞節』で第8回小説新潮賞を受賞する
・1964年(昭和39) 『やさしい良人』が第3回女流文学賞の候補となる
・1965年(昭和40) 『ヒマワリさん』を原作とした日活映画「明日は咲こう花咲こう」(吉永小百合主演)が公開される
・1969年(昭和44)12月30日 東京において、69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)お雇い外国人であるフランス人技師F・L・ヴェルニーの誕生日詳細
1898年(明治31)挿絵画家・詩人蕗谷虹児の誕生日詳細
1949年(昭和24)国際連合総会で、「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が決議される詳細
1984年(昭和59)映画監督森谷司郎の命日詳細
2009年(平成21)日本画家・教育者平山郁夫の命日詳細
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yamadakousaku01

 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、作曲家・指揮者山田耕筰の亡くなった日(山田耕筰忌)です。
 山田耕筰(やまだ こうさく)は、1886年(明治19)6月9日に、東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)で、旧板倉藩士だった医師の父の子として生まれました。1896年(明治29)10歳の時に実父を亡くし、その遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学します。
 関西学院を経て1904年(明治37)に東京音楽学校に入学し、予科から本科声楽科、研究科へと進みました。1910年(明治43)からベルリン高等音楽学校に留学し、ブルッフらに作曲を師事、1914年(大正3)に帰国後は日本最初の交響楽団である東京フィルハーモニー管弦楽団を創設して、自作を指揮、発表します。
 1917年(大正6)から1年半、米国に滞在してカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲による2度の演奏会を開催しました。帰国後、1920年(大正9)に日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興し、1922年(大正11)には北原白秋と共同編集の月刊「詩と音楽」誌を創刊、連作歌曲を発表します。
 1924年(大正13)に日本交響楽協会(のちのNHK交響楽団の母体)を設立し、1926年(大正15)からは定期演奏会を開始、また、指揮者として全国を巡演、交響楽の普及にも努めました。1936年(昭和11)にフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受け、翌年には相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任、1940年(昭和15)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任します。
 1942年(昭和17)に帝国芸術院会員となり、1944年(昭和19)には、日本音楽文化協会会長にもなりました。太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に脳溢血で左半身不随となりますが再起し、1950年(昭和25)に日本指揮者協会会長に就任、1954年(昭和29)には文化功労者、1956年(昭和31)には文化勲章を受章します。
 1963年(昭和38)頃まで作曲活動を続け、教科書の編纂などにもたずさわり、日本の洋楽普及に多大な貢献をしたものの、1965年(昭和40)12月29日に東京都世田谷区の自宅において、79歳で亡くなりました。

〇山田耕筰の主要な作曲作品

・交響曲『かちどきと平和』(1912年)
・交響詩『曼陀羅(まんだら)の華(はな)』(1913年)
・交響詩『暗い扉(と)』(1913年)
・舞踊詩劇『マリア・マグダレーナ』(1916年)
・歌曲『六騎』(1922年)
・歌曲『からたちの花』北原白秋作詞(1925年)
・歌曲『この道』(1927年)
・歌曲『赤とんぼ』三木露風作詞(1927年)
・オペラ『堕(お)ちたる天女』(1929年)
・オペラ『黒船』(1940年)
・歌曲『幽韻』
・歌劇『夜明け』
・歌曲『病める薔薇』
・童謡『あわて床屋』
・歌曲『野ばら』
・歌曲『ペイチカ』北原白秋作詞
・歌曲『待ちぼうけ』北原白秋作詞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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