ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:山東出兵

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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、山東出兵をめぐり、山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突した済南事件が起きた日です。
 済南事件(さいなんじけん)は、日本軍の山東出兵をめぐり、山東省済南で起きた北伐軍と日本軍の武力衝突事件でした。1928年(昭和3)4月に、田中義一内閣は居留民保護のため済南と膠済(こうさい)線沿線に派兵(第2次山東出兵)しましたが、国民革命軍が日本軍の撤収を要求したこともあって、5月3日の小衝突をきっかけに両軍の交戦が始まり、この事件のことを指しています。
 同夜に停戦協定が成立したものの、田中義一内閣は中国の多年にわたる排日感情が原因であるとして、内地から1個師団の増派(第3次山東出兵)を決定し、8日に総攻撃を開始し、集中砲火により済南城内では一般市民を主に5,000人にのぼる死傷者を出しながら、11日までに済南中心部を占領しました。中国民衆の反日感情はこの事件で増大し、日中両国は互いに相手側の謝罪・賠賞を要求して困難な交渉となりましたが、翌年3月28日の外交交渉による解決で、5月に日本軍は全面撤退して、山東出兵は終結したものの、反日運動の激化を招き、同時に英米の日本批判も強まることとなります。
 以下に、「済南事件解決に関する文書」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「済南事件解決に関する文書」 1929年(昭和4)3月28日

一、日支兩國共同聲明書
日支兩國政府ハ客年五月三日濟南に於テ發生セル事件カ兩國國民傳來ノ友誼ニ鑑ミ極メテ不幸悲痛ノ出來事ナルヲ認ムルモ今ヤ兩國政府及國民ハ切ニ友誼ノ增進ヲ望ムカ故ニ此ノ際該事件ニ伴フ不快ノ感情ヲ記憶ヨリ一埽シ以テ將來兩國々交ノ益々敦厚ナランコトヲ期スル旨茲ニ聲明ス
  昭和四年三月二十八日南京ニ於テ  
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉(印)
  國民政府外交部長
  王正廷(印)

二、保障及撤兵ニ關スル交換公文
(イ)往翰
以書翰啓上致候陳者本使ハ國民政府ニ於テ日本軍ノ山東撤去後全責任ヲ以テ在支日本國民ノ生命及財產ノ安全ヲ保障セラルルニ於テハ帝國政府ハ現ニ山東ニ在ル日本軍ヲ本件解決ニ關スル文書ノ交換調印ノ日ヨリ向フ貳箇月以內ニ全部撤去スヘキ旨茲ニ貴部長ニ對シ通吿スルト共ニ日本軍撤去ノ際ニ於ケル引繼ノ措置ニ關シテハ日支兩國各委員ヲ任命シ現地ニ於テ商議辨理セシメンコトヲ提議致候此段照會得貴意候 敬具
  昭和四年三月二十八日
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉
  國民政府外交部長
  王正廷殿

(ロ) 來翰(譯文)
以書翰啓上致候陳者本日附貴翰ヲ以テ貴公使ハ國民政府ニ於テ日本軍ノ山東撤去後全責任ヲ以テ在支日本國民ノ生命及財產ノ安全ヲ保障スルニ於テハ日本國政府ハ現ニ山東ニ在ル日本軍ヲ本件解決ニ關スル文書ノ交換調印ノ日ヨリ向フ二箇月以內ニ全部撤去スヘキ旨本部長ニ對シ通吿セラルルト共ニ日本軍撤去ノ際ニ於ケル引繼ノ措置ニ關シテハ日支兩國各々委員ヲ任命シ現地ニ於テ商議辨理セシムルコトヲ提議セラルル旨御照會ノ趣閱悉致候査スルニ支那ニ於ケル外國人ニ對シ國民政府ニ於テ國際公法ニ照シ責任ヲ以テ保護スヘキ旨ハ曩ニ聲明シアル所ニシテ今後國民政府カ日本在留民ニ對シ保護ヲ爲スヘキハ實ニ當然ノ次第ニ有之候御申越ニ係ル撤兵ノ期日及期間ハ旣ニ了承致候就テハ日本軍撤去ノ際ニ於ケル引繼ノ措置ニ關シテハ兩國政府ヨリ各々委員ヲ任命シ現地ニ於テ商議辨理セシムヘキ旨貴公使ノ御提議ニ對シテハ本部長ニ於テ同意ヲ表シ候此段回答得貴意候 敬具
  中華民國十八年三月二十八日
  國民政府外交部長
  王正廷
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉殿

三、損害問題ニ關スル議定書 昨年五月三日ノ濟南事件ノ発生ニ依リ日支兩國ノ受ケタル損害問題ニ關シテハ雙方ニ於テ各同數ノ委員ヲ任命シ日支共同調査委員會ヲ設置シ實地調査ヲ爲シ之ヲ決定ス

 昭和四年三月二十八日南京ニ於テ
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉(印)
  國民政府外交部長
  王正廷(印) (不公表)

 會議録  

一、共同聲明ニ關スルモノ 芳澤公使及王部長ハ茲ニ濟南事件ヲ解決シ兩國ノ睦誼ヲ增進センカ爲、別紙日支共同聲明書ヲ本年三月二十八日夫々東京及南京ニ於テ發表スルコトニ合意セリ。  

二、損害問題ニ關スルモノ 王部長ハ濟南事件ノ発生ニ依リ支那側ハ既ニ損失ヲ受ケ居ル處芳澤公使ニ於テハ日本側モ亦損失有ル旨既ニ屢々陳述セラレタルカ右ハ事實問題ニ屬スルカ故ニ茲ニ兩國ニ於テ同數ノ委員ヲ任命シ共同委員會ヲ組織シ同委員會ヲシテ双方ノ損害數ヲ調査シ之ヲ辨理セシメンコトヲ提議スル旨、述ヘタリ。 芳澤公使ハ日支双方ノ受ケタル損害ハ略同額ト認メラレ直ニ之ヲ相殺スルモ差支無シト信スル處、王部長ニ於テ共同委員會ヲ設置シ同委員會ヲシテ之ヲ決定セシムヘキ旨提議セラレタルニ就テハ、予ハ予ノ述ヘタル右相殺ノ趣旨ヲ以テ之ニ同意ス。但シ、該委員會ノ調査範圍ハ兩國ノ個人ノ受ケタル損害ニ限ルヘキモノトスル旨、述ヘタリ。 王部長ハ同意ス。右ニ依リ至急辨理スヘシ、ト述ヘタリ。 仍テ、別紙議定書ノ通リ双方ノ意見一致セリ。  

三、日本在留民保護及其ノ他ノ問題ニ關スルモノ 本問題ニ關シ双方討議ノ結果左ノ如シ。
(甲)芳澤公使ヨリ山東ニ於ケル日本軍撤去後在留日本國臣民ノ生命及財産ノ保護ニ關シ國民政府ニ於テ如何ナル具體的方法アリヤ承知シ度シ、ト述ヘタルニ對シ。 王部長ハ山東在留日本國臣民ノ生命及財産ハ固ヨリ國民政府ノ全責任ヲ以テ保護スル所ナルニ依リ將來モ外交部長トシテ全責任ヲ以テ適切ナル措置ヲ講スヘク、差當リ國民政府ヨリ山東省政府ニ對シ同地方在留日本國臣民ノ保護方ヲ命令シ、右命令寫一部ヲ芳澤公使ニ送附スヘキ旨、陳述セリ。尚、右ノ外事實問題トシテ山東交渉員ヨリ芳澤公使ニ對シ右ニ關スル具體的方法ヲ説明スル所アリタリ。
(乙)芳澤公使ハ山東ハ勿論支那全國ニ亙ル排日排貨ニ對シテハ國民政府ニ於テ嚴重ナル取締ヲ爲シ速ニ之カ絶滅ヲ期センコトヲ要求セリ。王部長ハ本件ニ就テハ誠意ヲ以テ其ノ責ニ任スヘク、且ツ中央黨部ニ諮リ各地方黨部ニ對シ排日排貨運動ヲ直ニ終熄セシムヘキ旨ノ密令ヲ發セシメ其ノ趣ヲ御通知スヘシト、陳述セリ。
(丙)芳澤公使ハ膠濟鐵道ノ交通ヲ確保スル爲國民政府ニ於テ
 (一) 同鐵道ノ車輛ヲ他線ニ流用セサルコト、
 (二) 同鐵道ノ收入ハ同鐵道自體ノ經費及日本政府ニ對スル債務ノ元利償却ニ充ツルノ外他ノ用途ニ使用ス可カラサルコト、
 (三) 同鐵道ノ重要ナル地位ニ配置スヘキ日本人ノ數ヲ增加スルコト、 ヲ承諾アリ度シ、ト述ヘタルニ。 王部長ハ鐵道交通ノ確保ハ國民政府ノ最モ留意スル所ナルヲ以テ同政府ハ撤兵問題トハ關係ナク自發的處置トシテ鐵道部長ヲシテ膠濟鐵道局長ニ對シ同鐵道ノ車輛ヲ他線ニ流用ス可カラサル旨、及同鐵道ノ收入ハ同鐵道自體ノ經費及日本政府ニ對スル債務ノ元利償却ニ充ツルノ外他ノ用途ニ使用ス可カラサル旨、命令セシメ右命令寫一部ヲ芳澤公使ノ許ニ送附スヘキ旨、陳述セリ。尚、王部長ハ同鐵道ノ重要ナル地位ニ配置スヘキ日本人ノ增員方ニ關シテハ濟南事件ト引離シ同鐵道理事長ノ資格ヲ以テ處理スヘキ旨、附言セリ。
(丁)芳澤公使ハ靑島埠頭ノ完成、靑島市政外國人參與、膠濟鐵道成線都市開放其ノ他山東條約若ハ同細目協定ニ基ク支那側義務ニシテ今日迄履行セラレサルモノハ凡テ此ノ際速ニ實行セラレ度キ旨要求セリ。 王部長ハ國民政府ニ於テ右ノ條約及協定ニ基ク支那側ノ義務ヲ履行スヘキハ勿論ナルカ、本件ハ撤兵ノ條件ト爲スコトナク別ニ速ニ實行スヘシト、述ヘタリ。

  昭和四年三月二十八日南京ニ於テ。
  日本帝國特命全權公使
  芳澤謙吉(印)
  國民政府外交部長
  王正廷(印)

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

☆山東出兵関係略年表

<1915年(大正4)>
・1月18日 中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出する
・5月25日 「山東省に関する条約」、「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」、「膠洲湾租借地に関する交換公文」として承認される

<1918年(大正7)>
・9月 満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極めが交わされる

<1919年(大正8)> 
・パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩する

<1922年(大正11)> 
・2月4日 「山東還付条約」締結によって、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなる

<1926年(大正15/昭和元)>
・中国の蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する

<1927年(昭和2)>
・1月 イギリス租界奪取事件が起き、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請したが断る
・3月 揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出る(南京事件)
・4月3日 漢口事件が起きる
・4月18日 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立、イギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答する
・4月17日 若槻内閣は総辞職する
・4月20日 立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生する
・5月27日 政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定する
・5月28日 「山東派兵に関する政府声明」が出され、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す(第一次山東出兵)
・5月30日 歩兵第33旅団は大連を出発する
・5月31日 歩兵第33旅団が青島に入港する
・6月1日 歩兵第33旅団が青島上陸を完了する
・7月3日 北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとする
・7月4日 藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請する
・7月5日 閣議で旅団の西進の必要が認められる ・7月8日 旅団は済南に進出、閣議で兵力増派の要請が承認される
・7月12日 在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が、青島に上陸する
・8月13日 蒋介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させてに下野を宣言し、北伐は一時的に中断する
・8月24日 日本政府は閣議で撤兵を決定する
・9月8日 撤兵を完了する

<1928年(昭和3)>
・3月、蒋介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近する
・4月末 10万人の北伐軍が市内に突入する
・4月19日 田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して、第二次山東出兵を決定する
・4月20日 支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、臨時済南派遣隊が済南到着する
・4月26日 第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開する(第二次山東出兵)
・5月3日 日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生する(済南事件)
・5月4日 日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定する
・5月8日 閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認する
・5月9日 第3師団の山東派遣が命じられる(第三次山東出兵)
・5月10日から11日 北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開する
・5月11日 済南城ならびに済南全域を占領する(済南事変)
・6月8日 国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京に入城する

<1929年(昭和4)>
・3月28日 和平交渉が成立し、「済南事件解決に関する文書」が調印される
・5月 済南城から日本軍が撤退して終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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dai2jisantoushyuttpei01
 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定した日です。
 山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)から翌年にかけて、田中義一内閣が在留邦人保護の名目で、三次にわたって、中国山東省に出兵した事件でした。蔣介石の率いる中国国民党革命軍の北伐を阻止し、満州・華北への勢力拡大をねらったものでしたが、たび重なる出兵は中国の抗日民族運動を強め、日本国内でも対華非干渉運動を巻き起こすことになります。
 1926年(大正15/昭和元)に、蔣介石は中国国民党による中国革命を進め、国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始しました。翌年4月17日に、不干渉主義を保持していた若槻内閣が総辞職し、同月20日に田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)内閣が発足すると、中国革命に干渉し、国民党軍から親日の張作霖政権を守るため、5月27日に「山東派兵に関する政府声明」を出し、不祥事件予防、居留民保護と称して、在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令(第一次山東出兵)を下します。6月1日には、青島上陸を完了し、山東省に展開したものの、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。
 1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月19日に田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して、再び山東出兵を決定します。翌日には、支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開(第二次山東出兵)しました。そして、5月3日には、日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生(済南事件)します。
 その状況下で、緊急閣議を開いて、出兵の増派を決定、5月9日には、第3師団の山東派遣が命令(第三次山東出兵)されました。5月11日には、日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領(済南事変)したため、国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京を目指すこととし、6月8日に北京に入城しています。
 1929年(昭和4)3月末に、和平交渉がようやく成立し、5月には、済南城から日本軍が撤退して、山東出兵は終結しましたが、反日運動の激化を招き、同時に英米の日本批判も強まることとなりました。

〇山東出兵関係略年表 

<1915年(大正4)> 
・1月18日 中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出する 
・5月25日 「山東省に関する条約」、「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」、「膠洲湾租借地に関する交換公文」として承認される 

<1918年(大正7)> 
・9月 満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極めが交わされる 

<1919年(大正8)>  
・パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩する

<1922年(大正11)>  
・2月4日 「山東還付条約」締結によって、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなる 

<1926年(大正15/昭和元)> 
・中国の蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する 

<1927年(昭和2)> 
・1月 イギリス租界奪取事件が起き、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請したが断る 
・3月 揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出る(南京事件)
・4月3日 漢口事件が起きる 
・4月18日 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立、イギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答する 
・4月17日 若槻内閣は総辞職する 
・4月20日 立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生する 
・5月27日 政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定する 
・5月28日 「山東派兵に関する政府声明」が出され、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す(第一次山東出兵) 
・5月30日 歩兵第33旅団は大連を出発する 
・5月31日 歩兵第33旅団が青島に入港する 
・6月1日 歩兵第33旅団が青島上陸を完了する 
・7月3日 北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとする 
・7月4日 藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請する 
・7月5日 閣議で旅団の西進の必要が認められる ・7月8日 旅団は済南に進出、閣議で兵力増派の要請が承認される 
・7月12日 在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が、青島に上陸する 
・8月13日 蒋介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させてに下野を宣言し、北伐は一時的に中断する 
・8月24日 日本政府は閣議で撤兵を決定する 
・9月8日 撤兵を完了する 

<1928年(昭和3)> 
・3月、蒋介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近する 
・4月末 10万人の北伐軍が市内に突入する
・4月19日  田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する
・4月20日 支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、臨時済南派遣隊が済南到着する 
・4月26日 第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開する(第二次山東出兵) 
・5月3日 日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生する(済南事件) 
・5月4日 日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定する 
・5月8日 閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認する 
・5月9日 第3師団の山東派遣が命じられる(第三次山東出兵) 
・5月10日から11日 北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開する 
・5月11日 済南城ならびに済南全域を占領する(済南事変) 
・6月8日 国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京に入城する 

<1929年(昭和4)> 
・3月3月28日 和平交渉が成立し、「済南事件解決に関する文書」が調印される 
・5月 済南城から日本軍が撤退して終結する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
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touhoukaigi01

 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、田中義一内閣の下で、満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策を決定するために「東方会議」が開始(~7月7日)された日です。
 東方会議(とうほうかいぎ)は、外相兼任の首相田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)が、5月27日の第1次山東出兵の1ヶ月後に対中国政策を決めるために開いた会議でした。森恪外務政務次官のほか、外務省各局長、陸海軍次官、関東庁長官、関東軍司令官ら陸海軍関係者が参集します。
 関東軍や森恪外務政務次官らは張作霖を下野させ、満蒙を中国本部から分離することを構想しましたが、田中首相らは張を擁立して満蒙を支配する考えでした。その結果、これらの考えを折衷し、最終日の7月7日に「対支政策綱領」が発表されましたが、対中国権益擁護のためには軍事力行使もありうること、特に満蒙地域の権益保持には積極的な行動をとる旨が強調されています。
 中国革命に対抗して、中国本土では現地保護主義を、満蒙では積極的介入主義を採る、対中国「積極」外交の方針(いわゆる田中外交)を確立したものとして内外の注目を集めました。しかし、満蒙の位置づけについて奉天総領事吉田茂、駐華公使芳沢謙吉、在満陸軍武官の間に意見の相違があり、その調整をめぐって、森務政務次官が渡満し第2次東方会議ともいうべき会議が大連で開かれています。
 その後、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。ところが、1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開する第二次山東出兵などの強硬策を導くこととなります。
 尚、原敬内閣が1921年(大正10)5月に開催した対中国・シベリア政策に関する会議も「東方会議」と呼ばれてきました。
 以下に、東方会議最終日に出された「対支政策綱領」に関する田中外相訓令を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇東方会議「対支政策綱領」に関する田中外相訓令 1927年(昭和2)7月7日

(昭和二年七月七日來電合第一八五號竝七月十一日附來信亞一機密合第六三六號)

東方會議ハ本大臣主宰ノ下ニ本省幹部、在支公使、在上海、在漢口、在奉天各總領事竝陸海軍、大藏、關東廳、朝鮮總督府各代表者ヲ會シ、六月二十七日開會以來支那時局竝之レカ對策ニ關シ隔意ナキ意見ヲ聽取シタル上、本七日ノ最終會議ニ於テ本大臣ヨリ對支政策綱領トシテ左ノ通訓示セリ

極東ノ平和ヲ確保シ日支共榮ノ實ヲ擧クルコト我對支政策ノ根幹ナリトス。而シテ之カ實行ノ方法ニ至ツテハ日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ、支那本土ト滿蒙トニ付自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス。今此根本方針ニ基ク當面ノ政策綱領ヲ示サンニ

一、支那國內ニ於ケル政情ノ安定ト秩序ノ回復トハ現下ノ急務ナリト雖モ其ノ實現ハ支那國民自ラ之ニ當ルコト最善ノ方法ナリ。

從テ支那ノ內亂政爭ニ際シ一黨一派ニ偏セス專ラ民意ヲ尊重シ苟モ各派間ノ離合集散ニ干涉スルカ如キハ嚴ニ避ケサルヘカラス

二、支那ニ於ケル穩健分子ノ自覺ニ基ク正當ナル國民的要望ニ對シテハ滿腔ノ同情ヲ以テ其ノ合理的達成ニ協力シ努メテ列國ト共同其ノ實現ヲ期セムトス

同時ニ支那ノ平和的經濟的發達ハ中外ノ均シク熱望スル所ニシテ支那國民ノ努力ト相俟テ列國ノ友好的協力ヲ要ス

三、叙上ノ目的ハ畢寛鞏固ナル中央政府ノ成立ニ依リ初メテ達成スヘキモ現下ノ政情ヨリ察スルニ斯ル政府ノ確立容易ナラサルヘキヲ以テ當分各地方ニ於ケル穩健ナル政權ト適宜接洽シ漸次全國統一ニ進ムノ氣運ヲ俟ツノ外ナシ

四、從テ政局ノ推移ニ伴ヒ南北政權ノ對立又ハ各種地方政權ノ聯立ヲ見ルカ如キコトアラムカ日本政府ノ各政權ニ對スル態度ハ全然同樣ナルヘキハ論ヲ侯タス、斯ル形勢ノ下ニ對外關係上共同ノ政府成立ノ氣運起ルニ於テハ其ノ所在地ノ如何ヲ問ハス日本ハ列國ト共ニ之ヲ歡迎シ統一政府トシテノ發達ヲ助成スルノ意圖ヲ明ニスヘシ

五、此間支那ノ政情不安ニ乗シ往々ニシテ不逞分子ノ跳梁ニ因リ治安ヲ紊シ不幸ナル國際事件ヲ惹起スルノ虞アルハ爭フヘカラサル所ナリ、帝國政府ハ是等不逞分子ノ鎭壓及秩序ノ維持ハ共ニ支那政權ノ取締竝國民ノ自覺ニ依リ實行セラレムコトヲ期待スト雖支那ニ於ケル帝國ノ權利利益竝在留邦人ノ生命財產ニシテ不法ニ侵害セラルル虞アルニ於テハ必要ニ應シ斷乎トシテ自衛ノ措置ニ出テ之ヲ擁護スルノ外ナシ

殊ニ日支關係ニ付揑造虚構ノ流說ニ基キ妄リニ排日排貨ノ不法運動ヲ起スモノニ對シテハ其ノ疑惑ヲ排除スルハ勿論權利擁護ノ爲進ムテ機宜ノ措置ヲ執ルヲ要ス。

六、滿蒙殊ニ東三省地方ニ關シテハ國防上竝國民的生存ノ關係上重大ナル利害關係ヲ有スルヲ以テ我邦トシテ特殊ノ考量ヲ要スルノミナラス同地方ノ平和維持經濟發展ニ依リ內外人安住ノ地タラシムルコトハ接壌ノ隣邦トシテ特ニ責務ヲ感セサルヲ得ス然リ而シテ滿蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機會均等ノ主義ニ依リ內外人ノ經濟的活動ヲ促スコト同地方ノ平和的開發ヲ速カナラシムル所以ニシテ我旣得權益ノ擁護乃至懸案ノ解決ニ關シテモ亦右ノ方針ニ則リ之ヲ處理スヘシ

七、(本項ハ公表セサルコト)

若夫レ東三省ノ政情定ニ至テハ東三省人自身ノ努力ニ待ツヲ以テ最善ノ方策ト思考ス

三省有力者ニシテ満蒙ニ於ケル我特殊地位ヲ尊重シ眞面目ニ同地方ニ於ケル政情安定ノ方途ヲ講スルニ於テハ帝國政府ハ適宜之ヲ支持スヘシ

八、萬一動亂滿蒙ニ波及シ治安亂レテ同地方ニ於ケル我特殊ノ地位權益ニ對スル侵害起ルノ虞アルニ於テハ其ノ何レノ方面ヨリ來ルヲ問ハス之ヲ防護シ且內外人安住發展ノ地トシテ保持セラルル樣機ヲ逸セス適當ノ推置ニ出ツルノ覺悟アルヲ要ス

終リニ東方會議ハ支那南北ノ注意ヲ喚起シタルモノノ如クナルヲ以テ此機ヲ利用シ各位歸任ノ上ハ文武各官協力以テ對支諸問題乃至懸案ノ解決ヲ促進スルコトトシ、本會議ヲシテ益々有意義ナラシムルニ努メラレタク、將又叙上我對支政策實施ノ具體的方法ニ關シテハ各位ニ對シ本大臣ニ於テ別ニ協議ヲ遂クル所アルヘシ

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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