
東宝争議(とうほうそうぎ)は、太平洋戦争後の占領下において、東宝映画会社で日本映画演劇労働組合(日映演)との間に生じた4度の労働争議のことですが、一般的には、最も大規模だった1948年4~10月に争われた第3次争議を指しました。戦後すぐの1945年(昭和20)12月、東宝では東宝従業員組合(従組)が結成され、全日本産業別労働組合会議(産別)にも加盟し、たびたびストライキを含む要求行動を行ない、従業員の九割(5,600名)の組合員を組織するようになります。
その中で、翌年3月に第1次争議、同年10月に第2次争議(50日余の生産管理闘争)が起こり、経営参加を含む労働協約(労務に関する経営協議会、企画審議会、政策協議会への参加等)を締結しました。これによって、「戦争と平和」、「今ひとたびの」、「酔いどれ天使」などの映画が製作され、高い世評を得ますが、組合が分裂し第二組合、第三組合が生まれます。
この状況下で、1947年(昭和22)12月に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わりました。 新経営陣は赤字と赤旗の「二つの赤」を追放すると称し、労働協約の破棄を通告、翌年4月8日に、東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇、労働組合側が反発して、第3次争議が始まることになります。
さらに人員整理のため1,200名の解雇計画を発表、これを受けて、組合側は4月15日に生産管理闘争に突入し、東京砧撮影所と資機材を管理下に置きましたが、会社側は6月1日からの同撮影所の閉鎖を発表しました。争議団は、世論の支持と数々の労働組合や市民団体、文化団体などの応援を得て闘ったものの、組合の分裂が続き、8月13日の東京地裁の仮処分決定に基づき、米軍戦車7台、航空機3機、騎兵1中隊の護衛下に武装警官2,000名が出動し、「こなかったのは軍艦だけ」と呼ばれる事態となります。
これによって、組合側は撮影所を退去せざるを得なくなり、10月19日に組合幹部20名は自発的に辞表を提出する一方、会社は解雇者の約3分の2を再雇用する条件を出し、195日間に及ぶ争議は終結しました。尚、1950年(昭和25)5月17日~12月29日まで、第4次争議も起きています。
その中で、翌年3月に第1次争議、同年10月に第2次争議(50日余の生産管理闘争)が起こり、経営参加を含む労働協約(労務に関する経営協議会、企画審議会、政策協議会への参加等)を締結しました。これによって、「戦争と平和」、「今ひとたびの」、「酔いどれ天使」などの映画が製作され、高い世評を得ますが、組合が分裂し第二組合、第三組合が生まれます。
この状況下で、1947年(昭和22)12月に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わりました。 新経営陣は赤字と赤旗の「二つの赤」を追放すると称し、労働協約の破棄を通告、翌年4月8日に、東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇、労働組合側が反発して、第3次争議が始まることになります。
さらに人員整理のため1,200名の解雇計画を発表、これを受けて、組合側は4月15日に生産管理闘争に突入し、東京砧撮影所と資機材を管理下に置きましたが、会社側は6月1日からの同撮影所の閉鎖を発表しました。争議団は、世論の支持と数々の労働組合や市民団体、文化団体などの応援を得て闘ったものの、組合の分裂が続き、8月13日の東京地裁の仮処分決定に基づき、米軍戦車7台、航空機3機、騎兵1中隊の護衛下に武装警官2,000名が出動し、「こなかったのは軍艦だけ」と呼ばれる事態となります。
これによって、組合側は撮影所を退去せざるを得なくなり、10月19日に組合幹部20名は自発的に辞表を提出する一方、会社は解雇者の約3分の2を再雇用する条件を出し、195日間に及ぶ争議は終結しました。尚、1950年(昭和25)5月17日~12月29日まで、第4次争議も起きています。
〇東宝争議関係略年表
<1945年(昭和20)>
・12月 東宝従業員組合(従組)が結成される
<1946年(昭和21)>
・4月 日本映画演劇労働組合(日映演)の結成の中心になり、日映演東宝支部を組織する
・3月 第1次東宝争議が起きる
・9~10月 第2次東宝争議(50日余の生産管理闘争)が起きる
・11月 ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎ら十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱する
<1947年(昭和22)>
・3月 「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝が設立される
・4月 第二、第三組合が全国映画演劇労働組合(全映演)を結成する
・12月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わり、渡辺社長が就任する
<1948年(昭和23年)>
・3月25日 会社は同月末を期限とする労働協約の破棄を組合に通告する
・4月1日 労働協約が破棄され、無協約状態となる
・4月8日 東京砧撮影所従業員270名を突然解雇し、組合側が反発して、第3次東宝争議が始まる
・4月15日 従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置いて立てこもる
・4月16日 会社はさらなる解雇通告を行う
・5月1日 会社側は休業を宣言する
・5月4日 会社は撮影所内への立ち入りを禁止する
・5月10日 会社側は東京地裁へ占有解除を求める仮処分を申請、日経連は全面支援体制をとる
・5月末 解雇者数914名、契約解除者84名にのぼる
・6月1日 会社は撮影所の閉鎖を発表する
・6月18日 50団体によって「日本文化を守る会」が結成され、東宝争議を支援する
・7月5日 さらに組合の分裂が進み、第五組合が発足する
・7月18日 第二から第五組合が東宝労働組合連合会を結成し、会社との間に「整理を是認し、撮影所の再開をはかる」との協定を結ぶ
・8月13日 東京地裁は会社側の申請を認め占有解除の仮処分執行を決定する
・8月14日 裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、従組組合員800名によって入場を拒否される
・8月19日 仮処分執行のため、米軍戦車7台,航空機3機,騎兵1中隊の護衛下に武装警官2,000名が出動、組合による砧撮影所占有が解除される
・8月27日 東京都労働委員会会長の覚書が出されるが、会社側が拒否する
・10月18日 組合最高幹部が社長らと会談し、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250名の解雇撤回が合意される
・10月19日 組合幹部20名は自発的に辞表を提出する一方、会社は解雇者の約3分の2を再雇用する条件を出し、195日間に及ぶ争議は終結する
<1950年(昭和25)>