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 今日は、江戸時代中期の1702年(元禄15)に、武士・尾張藩士・国学者・俳人横井也有の生まれた日ですが、新暦では10月24日となります。
 横井也有(よこい やゆう)は、尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた父・横井時衡の長男として生まれましたが、名は時般(ときつら)と言いました。祖父・時英 (野双)、父・時衡 (一水) に俳諧の感化を受け、15歳の頃から自学自習をはじめたとされます。
 1727年(享保12)の26歳の時、父が他界して家督知行1,000石(後に1,200石)を継承して普請組寄合となり、1730年(享保15)に御用人、1741年(元文6)の40歳の時、大番頭兼御用人となり、後寺社奉行を務めるなど藩の要職を歴任しました。文武に優れ、儒学を深く修めると共に、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事します。
 1745年(延享2)に、第8代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下ったりもしましたが、1754年(宝暦4)の53歳の時、病を理由に隠居し、名古屋郊外の前津(現・名古屋市中区前津)の草庵「知雨亭」にて風雅な余生を送りました。俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として知られ、俳文集『鶉衣(うずらごろも)』を初め、『野夫 (やふ) 談』(1762年)、連句集『蘿葉集』(1767年)、句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)などを出しています。
 多芸多能で、書や謡曲等も能くしましたが、1783年(天明3年6月16日)に、尾張国名古屋で、数え年82歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「俎板(まないた)のなる日はきかずかんこ鳥」
・「筏師に何をか問む青あらし」
・「くさめして見失ふたるひばりかな」
・「綿入れを木曽路の夏や花の旅」
・「化物の正体見たり枯尾花」
・「短夜や我にはながき夢さめぬ」(辞世)

〇横井也有の主要な著作

・俳文集『鶉衣(うずらごろも)』
・編著『野夫 (やふ) 談』(1762年)
・連句集『蘿葉集』(1767年)
・句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)
・句集『蘿葉 (らよう) 集』
・俳論『管見草 (くだみそう) 』
・『美南無寿比』
・『的なし』
・漢詩文集『蘿隠編』
・狂歌集『行々子』

☆横井也有関係略年表(日付は旧暦です)

・1702年(元禄15年9月4日) 尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれる

・1716年(享保元年) 15歳の時、自学自習をはじめる

・1727年(享保12年) 26歳の時、父が他界して家督知行1,000石を継承して普請組寄合となる

・1730年(享保15年) 御用人となる

・1740年(元文5年) 野火留を訪ねて、「業平塚」を見る

・1741年(元文6年) 40歳の時、大番頭兼御用人となる

・1745年(延享2年4月6日) 第八代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下る

・1754年(宝暦4年) 53歳にして病を理由に隠居、「遊西音寺」という詩を詠む

・1755年(宝暦5年) 「遊霊松山」という詩を詠む

・1758年(宝暦8年) 大島蓼太は吉野行脚の途上半掃菴に也有を訪れる

・1760年(宝暦10年) 『七時雨』(横田柳几編)の序を書く

・1762年(宝暦11年) 『野夫 (やふ) 談』を出す

・1763年(宝暦13年6月18日) 不之庵木児が75歳で没し、追悼文を書く

・1766年(明和3年) 巴笑が木曽の桟に芭蕉の句碑を建立し、也有が筆を取る

・1766年(明和3年) 『八橋集』(片水・除来編)の序を書く

・1767年(明和4年) 連句集『蘿葉集』を出す

・1769年(明和6年4月) 植田古帆、大木巴牛は「松葉塚」を再建、也有が筆を取る

・1770年(明和7年) 句集『垤 (ありづか) 集』を出す

・1771年(明和8年) 古稀の賀が行われる

・1772年(安永元年12月) 『秋の日』(暁台編)刊の序を書く

・1773年(安永2年8月18~28日) 内津(現在の愛知県春日井市内津町)に遊ぶ

・1774年(安永3年) 三狂庵門人箕輪連中は芭蕉の句碑を建立し、也有が筆を取る

・1779年(安永8年3月25日) 横田柳几が筑紫紀行の途次、也有を訪れる

・1783年(天明3年6月16日) 尾張国名古屋で、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1820年(文政3)備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の命日で(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)政治家田中正造の命日詳細
1994年(平成6)関西国際空港が開港する(関西国際空港開港記念日)詳細