ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:尚歯会

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 今日は、江戸時代後期の1850年(嘉永5)に、医師・蘭学者高野長英の亡くなった日ですが、新暦では12月3日となります。
 高野長英(たかの ちょうえい)は、1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を売ヶ投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英の主要な著作

・『避疫要法』(1832年)
・翻訳『西説医原枢要』(1832年)
・『救荒二物考』(1836年)
・『戊戌夢物語』(1838年)
・獄中記『わすれがたみ』(1839年)
・『蛮社遭厄(そうやく)小記』(1841年)
・『知彼一助』(1847年)
・翻訳『三兵答古知幾(タクチーキ)』(1847年)
・翻訳『家(ほうか)必読』(1848年)
・翻訳『兵制全書』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代後期の1839年(天保10)に、蛮社の獄で、渡辺崋山らに出頭命令が下され、伝馬町の獄に入れられた日ですが、新暦では6月24日となります。
 これは、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されたのです。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応するといううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。 (中略) 今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。」
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