ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小説

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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、「朝日新聞」で夏目漱石著の小説『それから』が連載開始された日です。
 『それから』は、夏目漱石著の長編小説でした。明治時代後期の1909年(明治42)6月27日~10月4日まで、東京・大阪の「朝日新聞」に連載され、翌年1月に、春陽堂より刊行されます。
 主人公の長井代助は、西洋と日本の関係がだめだから働かないと言って定職に就かず、毎月1回、本家にもらいに行く金で裕福な生活を送る高等遊民ですが、父親のすすめる政略結婚をことわり、友人平岡常次郎の妻・三千代を奪って、共に生きる決意をするまでを描きました。1908年(明治41)の『三四郎』と1910年(明治43)の『門』と共に、漱石の前期三部作と言われています。
 その後、1985年(昭和60)に森田芳光監督、松田優作主演で映画化され、2017年(平成29)には、CLIEにより、平野良主演で舞台化もされました。
 以下に、小説『それから』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小説『それから』の冒頭部分

 一の一

 誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く足音(あしおと)がした時、代助(だいすけ)の頭(あたま)の中(なか)には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下さがつてゐた。けれども、その俎(まないた)下駄は、足音(あしおと)の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭(あたま)から抜(ぬ)け出(だ)して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた。
 枕元(まくらも)とを見ると、八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳(たゝみ)の上に落ちてゐる。代助(だいすけ)は昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむり)に就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌てのひら)に応こた)へる、時計の針に似た響ひゞき)は、自分を死しに誘いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生いきてゐられたなら、――血を盛も)る袋ふくろ)が、時とき)を盛も)る袋ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助だいすけ)は覚えず悚ぞつ)とした。彼は血潮ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下したに手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中(なか)から両手を出だして、大きく左右に開ひらくと、左側(ひだりがは)に男が女を斬(きつ)てゐる絵があつた。彼はすぐ外(ほか)の頁(ページ)へ眼(め)を移した。其所(そこ)には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上(うへ)に落した。夫から烟草を一本吹ふかしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿(つばき)を取つて、引つ繰(く)り返(かへ)して、鼻の先へ持(も)つて来(き)た。口(くち)と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠(かく)れた。烟りは椿(つばき)の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡(から)まつて漂(たゞよ)ふ程濃く出た。それを白(しろ)い敷布(しきふ)の上うへに置くと、立ち上(あ)がつて風呂場(ふろば)へ行つた。
 其所(そこ)で叮嚀(ていねい)に歯はを磨(みが)いた。彼(かれ)は歯並(はならび)の好(い)いのを常に嬉しく思つてゐる。肌(はだ)を脱(ぬ)いで綺麗(きれい)に胸(むね)と脊(せ)を摩擦(まさつ)した。彼(かれ)の皮膚(ひふ)には濃(こまや)かな一種の光沢(つや)がある。香油を塗(ぬ)り込んだあとを、よく拭き取(と)つた様に、肩(かた)を揺(うご)かしたり、腕(うで)を上(あ)げたりする度(たび)に、局所(きよくしよ)の脂肪(しぼう)が薄(うす)く漲(みなぎ)つて見える。かれは夫(それ)にも満足である。次に黒い髪(かみ)を分(わ)けた。油(あぶら)を塗つけないでも面白い程自由になる。髭(ひげ)も髪(かみ)同様に細(ほそ)く且つ初々(うい/\)しく、口(くち)の上(うへ)を品よく蔽ふてゐる。代助(だいすけ)は其ふつくらした頬(ほゝ)を、両手で両三度撫でながら、鏡の前(まへ)にわが顔(かほ)を映(うつ)してゐた。丸で女(をんな)が御白粉(おしろい)を付(つ)ける時の手付(てつき)と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉(おしろい)さへ付(つ)けかねぬ程に、肉体に誇(ほこり)を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好(さうごう)で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生(うま)れなくつて、まあ可(よ)かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落(おしやれ)と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。

   「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
1850年(嘉永3)新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日詳細
1900年(明治33)高岡明治33年の大火で、死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸の被害を出す詳細
1927年(昭和2)満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策決定のため、「東方会議」が開始(~7月7日)される詳細
1936年(昭和11)小説家・児童文学者鈴木三重吉の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、坪内逍遥著の小説『当世書生気質』が刊行開始された日です。
 『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)は、坪内逍遥著の長編小説で、1885年(明治18)6月~翌年1月にかけて、17分冊で晩青堂より刊行されました。作者が、『小説神髄』の(人情、世態・風俗の描写)の主張の具体化を図ったものです。
 勧善懲悪を旨とした旧来の作品に対して、当時の学生風俗を写実的に描こうとしたもので、私立学校の書生小町田粲爾(さんじ)とかつては小町田の義妹だった芸妓田の次との奇遇と恋愛を描いた人情本ふうの物語に、牛鍋屋、吉原遊廓、温泉などの文明開化の東京の遊楽地に出没する書生たちの風俗をスケッチした滑稽本ふうの挿話がからんだものでした。この作品により、新しい文学の方向を決定づけ、近代日本文学の先駆となります。
 以下に、各回の内容と第1回の角書とはしがきを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇刊行された内容(全17冊)

・第1回 鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に 物いふ花を見る書生の運動会
・第2回 謹慎の気の張弓も弛む 不図(とん)だ目に淡路町の矢場あそび
・第3回 真心もあつき朋友(ともだち)の粋(すゐ)な意見に 額の汗を拭あへぬ夏の日の下宿住居
・第4回 収穫(とりいれ)も絶えて涙の雨の降つゞく 小町田の豊作(でき)不作(ふでき)
・第5回 心の猿の悪戯(いたづら)にて 縺初し恋の緒(いとぐち)のむかしがたり
・第6回 詐りは以て非を飾るに足る 善悪の差別(けぢめ)もわかうどの悪所通ひ
・第7回 賢と不肖とを問はず老と少とを論ぜず たぶらかしざしきの客物語
・第8回 雨を凌ぐ人力車はめぐり〱て 小町田が田の次に逢ふ再度の緒(いとぐち)
・第9回 一得あれば一失あり 一我意あれば一理もある書生の演説
・第10回 生兵法大きな間違をしでかして 身方をぶちのめす書生の腕立(うでだて)
・第11回 つきせぬ縁日のそゞろあるきに 小町田はからずも旧知己(むかしなじみ)にあふ
・第12回 学校から追出される親父の資送(しおくり)は絶える どこでたつ岡町に懶惰生(なまけもの)の翻訳三昧
・第13回 心の宵闇に 有漏路(うろぢ)無漏路(むろぢ)を踏迷ふ男女の密談
・第14回 近眼遠からず 駒込の温泉に再度の間違
・第15回 旧人(ふるき)を尋ぬる新聞紙の広告に 顔鳥ゆくりなく由縁の人を知る
・第16回 黒絽の薄羽織を媒介にて 薄からぬ縁因(えにし)を知る守山と倉瀬の面談
・第17回 文意を文字通りにみや賀の兄弟 そゞろにコレラ病の報知におどろく
・第18回 春ならねども梅園町に心の花の開けそむる 親と女との不思議の再会
・第19回 全篇総て二十回脚色(しくみ)もやう〱に 塾部屋へ倉瀬の急報
・第20回 大団円

〇第1回の角書とはしがき 1885年(明治18)6月24日刊行

一読三嘆 当世書生気質

はしがき

英(イギリス)の句(く)レイク翁、亜(あ)リボン翁などは批評家(あらさがし)の尤物株(おやだまかぶ)なり。古今の小説家の著作を評して勝手放題なる小言(ごと)をいひ、また非評(わるくち)もいはれたりき。然(さ)はあれ、件(くだん)の翁達にお説の様なる完全なる稗史(そうし)を著(かき)てよと乞ひたらんには、予(おれ)には不可(できぬ)と逡巡(しりごみ)して、稗史は著(かか)で頭(かしら)を掻(かく)べし。是(これ)他なし、小説の才と小説の眼(まなこ)と相異なるが為(ため)なるのみ。眼あるもの必ず才あるにあらず、才あるもの必ずしも眼あらざるなり。予(おのれ)輓近(ちかごろ)『小説神髄』と云へる書(ふみ)を著(あらわ)して大風呂敷をひろげぬ。今本編(このほん)を綴(つづ)るにあたりて、理論の半分をも実際にはほとほと行ひ得ざるからに江湖(せけん)に対して我ながらお恥しき次第になん。但し全篇の趣向の如きは、専々(おさおさ)傍観の心得にて写真を旨としてものせしから、勧懲主眼の方々には或はお気に入らざるべし。予(おのれ)は敢て此書の中より模範となるべき人物をば求めたまへと乞ふにあらず。他の行(ふり)見て我風(ふり)なほし前の人車(じんりき)の覆(くつがえ)るを見て降坂(くだりざか)なら降車(おり)たまへと暗に読者に乞ふのみなり。作者は勧懲を主とせざれども此を訓誨(くんかい)の料(りょう)にすると此を奨誡(しょうかい)の資(たね)にするとは読者輩(よむひとびと)の心にあり。飴は味はひいと美(めでた)き一種(ひとつ)の食物(たべもの)に外(ほか)ならねど、用(もち)ひやうにて孝行息子が親を養ふ良薬(くすり)にもなり、盗賊(おおどろぼう)が窃盗(やじりきり)のすてきな材料にもなりし、と聞く。作者は皿大の眼(まなこ)を開きて学生社界の是非(あら)を批評(さが)し、此書の中(うち)に納めたれば、読者輩は地球大の智恵の袋のロを開きて是非曲直(よきとあしき)を分別して晒劣(いやしき)を去り高尚(とうと)きを取る実際の用に供(そな)へたまはば、美術の名ありて微術といふべき予(おのれ)が未熟なる稗史の中にも、人の気格を高うしてふ自然の効用のなからずやは。あなかしこ。心して読ませたまへ。

  十八年の五月といふ月、漸々(ようよう)に散りてゆく庭前の   八重桜に落残る月の下に

           春のやおぼろしるす

☆坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)とは?

 明治時代から昭和時代前期に活躍した小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者です。美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
 1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
 一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1361年(正平16/康安元)南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震が発生し、津波も起こり、大きな被害を出す詳細
1839年(天保10)蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1904年(明治37)建築家・文筆家谷口吉郎の誕生日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長塚節著の小説『土』が「東京朝日新聞」に連載開始された日です。
 『土』(つち)は、明治時代後期の1910年(明治43)6月13日~11月17日にかけて「東京朝日新聞」に151回にわたって連載された、長塚節著の長編小説でした。翌々年5月に春陽堂より、夏目漱石による序文『「土」に就て』が付され刊行されています。
 作者の郷里茨城県の鬼怒川沿いの農村を舞台に、貧農の勘次一家の生活を描いたものでした。農村の自然、風俗、土と闘う姿を写生的に精密に描写し、農民文学の傑作とされています。
 その後、1939年(昭和14)に日活映画として、内田吐夢監督によって映画化(主演は小杉勇)され、第1回文部大臣賞、第16回キネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれました。

〇長塚 節(ながつか たかし)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した歌人・小説家で、1879年(明治12)4月3日に、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生)の豪農の家に生まれました。その後、茨城尋常中学校(現水戸一高)に進みましたが、病気のために4年で退学し、故郷に戻って健康回復をはかることになります。
 この頃から文学に親しみ短歌をつくり始め、雑誌に投稿してしばしば入選するようになりました。1900年(明治33)に、正岡子規を訪ねて入門し、子規没後はアララギ派の中心の一人となります。
 1907年(明治40) に写生文「佐渡が島」を『ホトトギス』に発表し、高浜虚子に評価されました。1910年(明治43)には、夏目漱石の勧めで、東京朝日新聞に小説「土」が連載され、その後農民文学の不朽の名作となります。
 その翌年に喉頭結核の診断を下され、療養しながらも歌は詠み続けました。しかし、治療の甲斐なく、1915年(大正3)2月8日には、九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)付属病院において、36歳の若さで没しています。

<代表的な歌
「馬追虫の 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉ぢて 思い見るべし」
「歌人の 竹の里人 おとなへば やまひの牀に 絵をかきてあり」

☆長塚節の主要な著作

<歌集>
・「青草集」 (1906年)
・「初秋の歌」 (1908年)
・「濃霧の歌」 (1909年)
・「鍼(はり)の如く」(1914~15年)

<写生文>
・「炭焼のむすめ」 (1906年)
・「佐渡ヶ島」(1907年)

<小説>
・短編「芋掘り」(1908年)
・短編「開業医」 (1909年)
・短編「おふさ」 (1909年)
・長編「土」(1910年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1798年(寛政10)本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成する(新暦7月26日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、川端康成著の小説『雪國』(創元社)が刊行された日です。
 小説『雪国』(ゆきぐに)は、川端康成著の長編小説で、昭和時代前期の1935年(昭和10)から『文芸春秋』など各雑誌に断続的に書き継がれ、1937年(昭和12)6月12日に、創元社から初版単行本が刊行されました。同年7月に文芸懇話会賞を受賞しましたが、その後も各雑誌に書き継がれ、1947年(昭和22)に完結、翌年に完結本『雪国』が創元社から刊行されています。
 雪深い越後湯沢の温泉場を舞台にして、東京から来た男島村と芸者駒子との交わりを抒情的に描いていて、名作として国内外で評価されました。その後、1957年(昭和32)に東宝作品として、豊田四郎監督により映画化(俳優は池部良、岸恵子、八千草薫など)され、1965年(昭和40)に松竹作品として、大庭秀雄監督によりカラーで再映画化(俳優は木村功、岩下志麻、加賀まりこなど)されています。
 尚、小説の舞台となった新潟県湯沢町の「湯沢町歴史民俗資料館 雪国館」に関連する資料が展示されてきました。

〇小説『雪国』の発表経過

<1935年(昭和10)>

・『文藝春秋』1月号 - 「夕景色の鏡」
・『改造』1月号 - 「白い朝の鏡」
・『日本評論』11月号 - 「物語」
・『日本評論』12月号 - 「徒労」

<1936年(昭和11)>

・『中央公論』8月号 - 「萱の花」
・『文藝春秋』10月号 - 「火の枕」

<1937年(昭和12)>

・『改造』5月号 - 「手毬歌」
・6月12日に創元社より『雪国』が刊行される
・7月 第3回文芸懇話会賞を受賞する

<1940年(昭和15)>

・『公論』12月号 - 「雪中火事」

<1941年(昭和16)>

・『文藝春秋』8月号 - 「天の河」

<1946年(昭和21)>

・『暁鐘』5月号 - 「雪国抄」(「雪中火事」の改稿)

<1947年(昭和22)>

・『小説新潮』10月号 - 「続雪国」(「天の河」の改稿)

<1948年(昭和23)>
・12月25日 「続雪国」まで収録した完結本『雪国』が「あとがき」を付して創元社より刊行される

<1949年(昭和24)>

・6月 『川端康成全集第6巻』(全16巻本)が刊行され、『雪国』が収録される

<1960年(昭和35)>

・6月 『川端康成全集第5巻』(全12巻本)刊行され、『雪国』が収録される

<1971年(昭和46)>

・8月 牧羊社より『定本雪国』が刊行される

<1972年(昭和47)>

・12月 原稿復刻版『雪国抄』がほるぷ出版より刊行される

<1980年(昭和55)>

・4月 『川端康成全集第10巻』(全37巻本)が刊行され、『雪国』が収録される
・10月 『川端康成全集第24巻』(全37巻本)刊行され、『雪国』が収録される

☆川端康成(かわばた やすなり)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した小説家で、1899年(明治32)6月14日に大阪府大阪市に生まれ、茨木中学を終え、旧制第一高等学校から、東京帝国大学文学部に学びました。1921年(大正10)、在学中に石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊し、それに掲載した『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められます。
 1924年(大正13)、大学卒業後、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊し、新感覚派の代表作家として活躍しました。代表作は『伊豆の踊子』、『雪国』、『古都』、『山の音』、『抒情歌』、『禽獣』、『千羽鶴』、『眠れる美女』などがあります。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に、日本ペンクラブ第4代会長に就任し、1957年(昭和32)に国際ペンクラブ東京大会を主催するなど尽力しました。それらの功績により、1961年(昭和36)に文化勲章を受章し、1968年(昭和43)には、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞したのです。
 また、批評家としても優れていて、新人作家を発掘し、堀辰雄、北条民雄、岡本かの子、三島由紀夫などを育てました。しかし、1972年(昭和47)4月16日に72歳で、神奈川県逗子市のマンションの自室において、ガス自殺したのです。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1670年(寛文10)江戸幕府の命で林羅山・林春斎ら編纂の『本朝通鑑』が完成、将軍家に献じられる(新暦7月28日)詳細
1761年(宝暦11)江戸幕府第9代将軍徳川家重の命日(新暦7月13日)詳細
1867年(慶応3)坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日)詳細
1910年(明治41)本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船(宇高連絡船)が運航開始する詳細
1961年(昭和36)「農業基本法」(昭和36年法律第127号)が公布・施行される詳細
1965年(昭和40)家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、「朝日新聞」で石坂洋次郎の小説『青い山脈』の連載が開始された日です。
 小説『青い山脈』(あおいさんみゃく)は、1947年(昭和22)6~10月に「朝日新聞」に連載され、同年12月に新潮社より刊行された石坂洋次郎のベストセラー小説でした。太平洋戦争後間もない地方の町を舞台に、高校生らの男女交際などを通して解放された青春の姿を明るくユーモラスに描いたものです。因襲にとらわれた校内の封建的な雰囲気に果敢に取り組む青春像が描かれていて、戦後民主主義の一つの教科書のように受け止められました。
 1949年(昭和24)に、今井正監督・脚色(出演:原節子、龍崎一郎、池部良、杉葉子、若山セツ子、木暮実千代、赤木蘭子ほか)による映画が製作され、作詞:西条八十、作曲:服部良一の主題歌と共に、大ヒットします。映画は、キネマ旬報ベスト・テン第2位となり、第4回毎日映画コンクール撮影賞、女優演技賞(原節子)、助演賞(木暮実千代)も受賞しました。
 その後、1957年(昭和32)に松林宗恵監督(出演、雪村いづみ、司葉子ほか)により、1963年(昭和38)に西河克己監督(出演、吉永小百合、浜田光夫ほか)により、1975年(昭和50)に河崎義祐監督(出演、三浦友和、片平なぎさほか)により三度映画化されています。

〇石坂 洋二郎】(いしざか ようじろう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1900年(明治33)1月25日に、青森県弘前市代官町で生まれました。弘前市立朝陽小学校を経て、1913年(大正2)に青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に入学します。在学中は、小説をよく読み、少年雑誌に投書したりして卒業し、1919年(大正8)に上京して、慶應義塾大学文学部予科に入学しました。
 1925年(大正14)に慶應義塾大学文学部国文科を卒業した後、青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務、翌1926年(昭和元)から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に変わりました。1927年(昭和2)『三田文学』に掲載された処女作「海をみに行く」、「炉辺夜話」で注目されるようになります。
 1929年(昭和4)に秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に移り、1933年(昭和8)から『三田文学』に連載された「若い人」が評判となり、1936年(昭和11)に第1回三田文学賞を受賞しました。翌年に本が出版されると、たちまちベストセラーになって映画化もされましたが、右翼団体の圧力をうけ、1938年(昭和13)に教員を辞職、上京して作家活動に専念し、『何処(いずこ)へ』(1941年)などを書きます。
 戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣されたりしましたが、太平洋戦争後は、『青い山脈』(1947年)、『石中先生行状記』(1948~54年)などを書いて、ベストセラー作家となりました。その後も、『あじさいの歌』(1958~59年)、『河のほとり』(1961年)、『光る海』(1963年)などの新聞小説を連載し、1966年(昭和41)には、第14回菊池寛賞を受けます。
 独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品が多く、大衆に愛されて、映画化・テレビドラマ化された作品も多くありましたが、1986年(昭和61)10月7日に、静岡県伊東市の自宅において、86歳で亡くなりました。

☆石坂洋二郎の主要な作品

・『海をみに行く』 (1927年)
・『炉辺夜話』(1927年)
・『外交員』(1929年)
・『金魚』(1933年)
・『若い人』(1933年)
・『麦死なず』(1936年)
・『何処(いずこ)へ』(1941年)
・『わが日わが夢』(1946年)
・『青い山脈』(1947年)
・『暁の合唱』(1947年)
・『石中先生行状記』(1948~54年)
・『丘は花ざかり』(1952年)
・『山と川のある町』(1956年)
・『陽(ひ)のあたる坂道』(1956~57年)
・『あじさいの歌』(1958~59年)
・『河のほとり』(1961年)
・『光る海』(1963年)
・『水で書かれた物語』(1965年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1488年(長享2)加賀一向宗門徒が対立していた守護富樫政親を攻めて自刃(長享一揆)させる(新暦7月17日)詳細
1767年(明和4)読本・合巻作者滝沢馬琴の誕生日(新暦7月4日)詳細
1896年(明治29)「山縣・ロバノフ協定」(朝鮮問題に関する日露間議定書)が締結される詳細
1923年(大正12)小説家有島武郎の命日(武郎忌)詳細
1952年(昭和27)「日本国とインドとの間の平和条約」(通称:日印平和条約)が調印される詳細
1995年(平成7)衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(戦後50年決議)が採択される詳細
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