ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小説

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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、NHKラジオで徳川夢声の朗読による吉川英治の小説『宮本武蔵』が放送開始された日です。
 小説『宮本武蔵』(みやもとむさし)は、吉川英治著の長編時代小説です。新聞小説として、1935年(昭和10)8月23日~1939年(昭和14)7月11日まで、約4年間「朝日新聞」に連載され、1936~39年にわたって、大日本雄弁会講談社より、全6冊として刊行されました。
 また、1939年9月5日~1940年4月まで、NHKラジオによって、徳川夢声の朗読による放送が26回行われています。さらに、1943年9月からは、連続物語として夢声が1人で全27回を朗読しました。
 故郷をあとにした17歳の宮本武蔵が、周防国(現在の山口県)船島で佐々木小次郎と対決するまでの波瀾に満ちた半生を描いています。剣禅一如を理想とする武蔵の求道精神は広く当時の人々の共感を呼んで、戦中・戦後を通じて、多くの読者を集め、日本の国民文学という評価を得ました。
 戦後になって、1954年(昭和29)に、稲垣浩監督により映画化され、第28回アカデミー賞にて外国語映画賞名誉賞を受賞、2003年(平成15)には、市川新之助(市川海老蔵)主演のNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の原作にもなっています。

〇吉川英治(よしかわ えいじ)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1892年(明治25)8月11日に、神奈川県久良岐郡中村町(現在の横浜市中区)で生まれましたが、本名は英次(ひでつぐ)といいました。
 父は早くから横浜で牧場経営をしていましたが、事業に失敗し、訴訟に敗れて家運が傾き、小学校を中退します。それからは、店の小僧、官庁の給仕、商店員、ドックの船具工などの職業を転々とする少・青年期をすごしました。
 横浜船渠(ドツク)の船具工当時事故で負傷し、それを機会に志を懐いて、1910年(明治43)の暮れに上京します。会津蒔絵の工芸家の徒弟などをしつつ、しだいに文学の世界に接近、雉子郎の号で川柳を投稿し始め、知遇を得て柳樽寺川柳会同人となりました。
 1914年(大正3)に「文芸の三越」の川柳部門で応募作が一等に当選、講談倶楽部に投稿した『江の島物語』も一等に当選します。1921年(大正10)に講談社の諸雑誌の懸賞に応募、『縄帯平八』、『馬に狐を乗せ物語』、『でこぼこ花瓶』などが入選、翌年『東京毎夕新聞』記者となり、同紙に『親鸞記』を連載するようになりました。
 1925年(大正14)に『キング』創刊号から吉川英治の名で『剣難女難』を連載して認められ、『鳴門秘帖』 (1926~27年) で作家としての地位を確立します。その後次々と連載し、『宮本武蔵』(1935~39年)に至って、大衆文学に新境地を開くものとして、ベストセラーになりました。
 続く、『新書太閤記』(1939~45年)、『三国志』(1939~43年)を経て、太平洋戦争後の『新・平家物語』(1950~57年)や『私本太平記』(1956~59年)も世評が高く、国民文学の第一人者となります。これらの業績に対して、1960年(昭和35)に文化勲章が授与されましたが、1962年(昭和37)9月7日に東京において、70歳で亡くなりました。
 その遺志により、吉川英治賞と吉川英治文学賞が創設されます。

<吉川英治の主要な著作>

・『親鸞記(しんらんき)』(1923年)
・『剣難女難』(1925~26年)
・『鳴門秘帖』(1926~27年)
・『江戸三国志』(1927~29年)
・『万花(まんげ)地獄』(1927~29年)
・『貝殻三平』(1929~30年)
・『竜虎八天狗(りゅうこはちてんぐ)』(1927~31年)
・『かんかん虫は唄ふ』 (1930~31年)
・『月笛日笛』(1930~31年)
・『神州天馬侠』
・『万花地獄』
・『あるぷす大将』
・『松のや露八』 (1934年)
・『宮本武蔵』(1935~39年)
・『天兵童子(てんぺいどうし)』(1937~40年)
・『三国志』(1939~43年)
・『新書太閤記』(1939~45年)
・『忘れ残りの記』(1955~56年)
・『新・平家物語』(1950~57年)
・『私本太平記』(1958~62年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)政治学者で東京帝国大学の総長を務めた南原繁の誕生日詳細
1905年(明治38)「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する詳細
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる詳細
1933年(昭和8)小説家・児童文学者・俳人巖谷小波の命日詳細
1946年(昭和21)太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』が文部省より発行される詳細
1953年(昭和28)溝口健二監督の映画『雨月物語』がベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞する詳細
1966年(昭和41)第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測詳細
1975年(昭和50)日本画家堂本印象の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、太宰治が小説『人間失格』を脱稿した日です。
 『人間失格』(にんげんしっかく)は、太宰治著の中編小説で、『ヴィヨンの妻』、『走れメロス』、『斜陽』と並ぶ代表作の1つです。昭和時代中期の1948年(昭和23)に、雑誌『展望』の1948年6月号~8月号に3回にわたって連載され、同年筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行されました。
 生きる能力さえ失うに至った東北地方の豪家に生れた大庭葉蔵の手記の形で、自己を見つめながら人間存在の本質を問うた作品となっています。作者は、作品完成後の連載中に、山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しました。
 若者を魅了した小説となり、戦後の大ベストセラー作品とされています。

〇太宰治(だざい おさむ)とは?

 昭和時代に活躍した小説家で、本名は津島修治といい、1909年(明治42)6月19日に青森県金木村(現在の五所川原市金木町)の県下有数の大地主対馬家の六男として生まれました。県立青森中学校(現在の県立青森高等学校)から、官立弘前高等学校に学びましたが、高校在学中から、プロレタリア文学に興味を持って、同人誌に作品を掲載することになります。
 卒業後は、東京帝国大学文学部仏文学科に入学しましたが、あまり授業にも出ず、井伏鱒二に弟子入りし、在学中に、人妻と入水自殺を図ったりして、大学は辞めることになりました。その後、同人誌『海豹』に参加し、1935年(昭和10)、「逆行」を『文藝』に発表して、第1回芥川賞候補となって注目されます。
 それからも、自殺未遂したりしますが、1939年(昭和14)石原美知子と結婚して安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編小説を発表しました。戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を続け、戦後は、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』などを書いて無頼派などと呼ばれて脚光を浴びますが、1948年(昭和23)6月13日に40歳の若さで、玉川上水にて入水自殺しました。

<代表的な作品と初出>

・富嶽百景 『文体』1939年2月号、3月号
・黄金風景 『國民新聞』1939年3月2日、3月3日
・女生徒 『文學界』1939年4月号
・葉桜と魔笛 『新潮』1939年6月号
・八十八夜 『新潮』1939年8月号
・畜犬談 『文学者』1939年10月号
・皮膚と心 『文學界』1939年11月号
・俗天使 『新潮』1940年1月号
・鷗 『知性』1940年1月号
・女の決闘 『月刊文章』1940年1月号~6月号
・駈込み訴へ 『中央公論』1940年2月号
・走れメロス 『新潮』1940年5月号
・古典風 『知性』1940年6月号
・乞食学生 『若草』1940年7月号~12月号
・清貧譚 『新潮』1941年1月号
・みみずく通信 『知性』1941年1月号
・佐渡 『公論』1941年1月号
・千代女 『改造』1941年6月号
・新ハムレット 書き下ろし 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月)
・誰 『知性』1941年12月号
・恥 『婦人画報』1942年1月号
・十二月八日 『婦人公論』1942年2月号
・律子と貞子 『若草』1942年2月号
・水仙 『改造』1942年5月号
・正義と微笑 書き下ろし 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月)
・黄村先生言行録 『文學界』1943年1月号
・右大臣実朝 書き下ろし 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月)
・不審庵 『文藝世紀』1943年10月号
・花吹雪 書き下ろし 『佳日』(肇書房)
・佳日 『改造』1944年1月号
・散華 『新若人』1944年3月号
・津軽 書き下ろし 『津軽』(小山書店、1944年11月)
・ほかは書き下ろし 『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月)
・竹青 『文藝』1945年4月号
・惜別 書き下ろし 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月)
・お伽草紙 書き下ろし 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月)
・冬の花火 『展望』1946年6月号
・春の枯葉 『人間』1946年9月号
・雀 『思潮』1946年9月号 『冬の花火』(中央公論社)
・親友交歓 『新潮』1946年12月号
・男女同権 『改造』1946年12月号
・トカトントン 『群像』1947年1月号
・メリイクリスマス 『中央公論』1947年1月号
・ヴィヨンの妻 『展望』1947年3月号
・女神 『日本小説』1947年5月号
・フォスフォレッスセンス 『日本小説』1947年7月号
・眉山 『小説新潮』1948年3月号
・斜陽 『新潮』1947年7月号~10月号
・如是我聞 『新潮』1948年3月号、5月号~7月号
・人間失格 『展望』1948年6月号~8月号
・グッド・バイ 『朝日新聞』1948年6月21日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破る(新暦6月24日)詳細
1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1787年(天明7)天明大飢饉で大坂の庶民が米屋を襲撃し、天明の打ちこわしが始まる(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、「朝日新聞」で夏目漱石著の小説『それから』が連載開始された日です。
 『それから』は、夏目漱石著の長編小説でした。明治時代後期の1909年(明治42)6月27日~10月4日まで、東京・大阪の「朝日新聞」に連載され、翌年1月に、春陽堂より刊行されます。
 主人公の長井代助は、西洋と日本の関係がだめだから働かないと言って定職に就かず、毎月1回、本家にもらいに行く金で裕福な生活を送る高等遊民ですが、父親のすすめる政略結婚をことわり、友人平岡常次郎の妻・三千代を奪って、共に生きる決意をするまでを描きました。1908年(明治41)の『三四郎』と1910年(明治43)の『門』と共に、漱石の前期三部作と言われています。
 その後、1985年(昭和60)に森田芳光監督、松田優作主演で映画化され、2017年(平成29)には、CLIEにより、平野良主演で舞台化もされました。
 以下に、小説『それから』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小説『それから』の冒頭部分

 一の一

 誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く足音(あしおと)がした時、代助(だいすけ)の頭(あたま)の中(なか)には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下さがつてゐた。けれども、その俎(まないた)下駄は、足音(あしおと)の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭(あたま)から抜(ぬ)け出(だ)して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた。
 枕元(まくらも)とを見ると、八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳(たゝみ)の上に落ちてゐる。代助(だいすけ)は昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむり)に就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌てのひら)に応こた)へる、時計の針に似た響ひゞき)は、自分を死しに誘いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生いきてゐられたなら、――血を盛も)る袋ふくろ)が、時とき)を盛も)る袋ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助だいすけ)は覚えず悚ぞつ)とした。彼は血潮ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下したに手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中(なか)から両手を出だして、大きく左右に開ひらくと、左側(ひだりがは)に男が女を斬(きつ)てゐる絵があつた。彼はすぐ外(ほか)の頁(ページ)へ眼(め)を移した。其所(そこ)には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上(うへ)に落した。夫から烟草を一本吹ふかしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿(つばき)を取つて、引つ繰(く)り返(かへ)して、鼻の先へ持(も)つて来(き)た。口(くち)と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠(かく)れた。烟りは椿(つばき)の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡(から)まつて漂(たゞよ)ふ程濃く出た。それを白(しろ)い敷布(しきふ)の上うへに置くと、立ち上(あ)がつて風呂場(ふろば)へ行つた。
 其所(そこ)で叮嚀(ていねい)に歯はを磨(みが)いた。彼(かれ)は歯並(はならび)の好(い)いのを常に嬉しく思つてゐる。肌(はだ)を脱(ぬ)いで綺麗(きれい)に胸(むね)と脊(せ)を摩擦(まさつ)した。彼(かれ)の皮膚(ひふ)には濃(こまや)かな一種の光沢(つや)がある。香油を塗(ぬ)り込んだあとを、よく拭き取(と)つた様に、肩(かた)を揺(うご)かしたり、腕(うで)を上(あ)げたりする度(たび)に、局所(きよくしよ)の脂肪(しぼう)が薄(うす)く漲(みなぎ)つて見える。かれは夫(それ)にも満足である。次に黒い髪(かみ)を分(わ)けた。油(あぶら)を塗つけないでも面白い程自由になる。髭(ひげ)も髪(かみ)同様に細(ほそ)く且つ初々(うい/\)しく、口(くち)の上(うへ)を品よく蔽ふてゐる。代助(だいすけ)は其ふつくらした頬(ほゝ)を、両手で両三度撫でながら、鏡の前(まへ)にわが顔(かほ)を映(うつ)してゐた。丸で女(をんな)が御白粉(おしろい)を付(つ)ける時の手付(てつき)と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉(おしろい)さへ付(つ)けかねぬ程に、肉体に誇(ほこり)を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好(さうごう)で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生(うま)れなくつて、まあ可(よ)かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落(おしやれ)と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。

   「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
1850年(嘉永3)新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日詳細
1900年(明治33)高岡明治33年の大火で、死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸の被害を出す詳細
1927年(昭和2)満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策決定のため、「東方会議」が開始(~7月7日)される詳細
1936年(昭和11)小説家・児童文学者鈴木三重吉の命日詳細
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touseisyoseikatagi01
 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、坪内逍遥著の小説『当世書生気質』が刊行開始された日です。
 『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)は、坪内逍遥著の長編小説で、1885年(明治18)6月~翌年1月にかけて、17分冊で晩青堂より刊行されました。作者が、『小説神髄』の(人情、世態・風俗の描写)の主張の具体化を図ったものです。
 勧善懲悪を旨とした旧来の作品に対して、当時の学生風俗を写実的に描こうとしたもので、私立学校の書生小町田粲爾(さんじ)とかつては小町田の義妹だった芸妓田の次との奇遇と恋愛を描いた人情本ふうの物語に、牛鍋屋、吉原遊廓、温泉などの文明開化の東京の遊楽地に出没する書生たちの風俗をスケッチした滑稽本ふうの挿話がからんだものでした。この作品により、新しい文学の方向を決定づけ、近代日本文学の先駆となります。
 以下に、各回の内容と第1回の角書とはしがきを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇刊行された内容(全17冊)

・第1回 鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に 物いふ花を見る書生の運動会
・第2回 謹慎の気の張弓も弛む 不図(とん)だ目に淡路町の矢場あそび
・第3回 真心もあつき朋友(ともだち)の粋(すゐ)な意見に 額の汗を拭あへぬ夏の日の下宿住居
・第4回 収穫(とりいれ)も絶えて涙の雨の降つゞく 小町田の豊作(でき)不作(ふでき)
・第5回 心の猿の悪戯(いたづら)にて 縺初し恋の緒(いとぐち)のむかしがたり
・第6回 詐りは以て非を飾るに足る 善悪の差別(けぢめ)もわかうどの悪所通ひ
・第7回 賢と不肖とを問はず老と少とを論ぜず たぶらかしざしきの客物語
・第8回 雨を凌ぐ人力車はめぐり〱て 小町田が田の次に逢ふ再度の緒(いとぐち)
・第9回 一得あれば一失あり 一我意あれば一理もある書生の演説
・第10回 生兵法大きな間違をしでかして 身方をぶちのめす書生の腕立(うでだて)
・第11回 つきせぬ縁日のそゞろあるきに 小町田はからずも旧知己(むかしなじみ)にあふ
・第12回 学校から追出される親父の資送(しおくり)は絶える どこでたつ岡町に懶惰生(なまけもの)の翻訳三昧
・第13回 心の宵闇に 有漏路(うろぢ)無漏路(むろぢ)を踏迷ふ男女の密談
・第14回 近眼遠からず 駒込の温泉に再度の間違
・第15回 旧人(ふるき)を尋ぬる新聞紙の広告に 顔鳥ゆくりなく由縁の人を知る
・第16回 黒絽の薄羽織を媒介にて 薄からぬ縁因(えにし)を知る守山と倉瀬の面談
・第17回 文意を文字通りにみや賀の兄弟 そゞろにコレラ病の報知におどろく
・第18回 春ならねども梅園町に心の花の開けそむる 親と女との不思議の再会
・第19回 全篇総て二十回脚色(しくみ)もやう〱に 塾部屋へ倉瀬の急報
・第20回 大団円

〇第1回の角書とはしがき 1885年(明治18)6月24日刊行

一読三嘆 当世書生気質

はしがき

英(イギリス)の句(く)レイク翁、亜(あ)リボン翁などは批評家(あらさがし)の尤物株(おやだまかぶ)なり。古今の小説家の著作を評して勝手放題なる小言(ごと)をいひ、また非評(わるくち)もいはれたりき。然(さ)はあれ、件(くだん)の翁達にお説の様なる完全なる稗史(そうし)を著(かき)てよと乞ひたらんには、予(おれ)には不可(できぬ)と逡巡(しりごみ)して、稗史は著(かか)で頭(かしら)を掻(かく)べし。是(これ)他なし、小説の才と小説の眼(まなこ)と相異なるが為(ため)なるのみ。眼あるもの必ず才あるにあらず、才あるもの必ずしも眼あらざるなり。予(おのれ)輓近(ちかごろ)『小説神髄』と云へる書(ふみ)を著(あらわ)して大風呂敷をひろげぬ。今本編(このほん)を綴(つづ)るにあたりて、理論の半分をも実際にはほとほと行ひ得ざるからに江湖(せけん)に対して我ながらお恥しき次第になん。但し全篇の趣向の如きは、専々(おさおさ)傍観の心得にて写真を旨としてものせしから、勧懲主眼の方々には或はお気に入らざるべし。予(おのれ)は敢て此書の中より模範となるべき人物をば求めたまへと乞ふにあらず。他の行(ふり)見て我風(ふり)なほし前の人車(じんりき)の覆(くつがえ)るを見て降坂(くだりざか)なら降車(おり)たまへと暗に読者に乞ふのみなり。作者は勧懲を主とせざれども此を訓誨(くんかい)の料(りょう)にすると此を奨誡(しょうかい)の資(たね)にするとは読者輩(よむひとびと)の心にあり。飴は味はひいと美(めでた)き一種(ひとつ)の食物(たべもの)に外(ほか)ならねど、用(もち)ひやうにて孝行息子が親を養ふ良薬(くすり)にもなり、盗賊(おおどろぼう)が窃盗(やじりきり)のすてきな材料にもなりし、と聞く。作者は皿大の眼(まなこ)を開きて学生社界の是非(あら)を批評(さが)し、此書の中(うち)に納めたれば、読者輩は地球大の智恵の袋のロを開きて是非曲直(よきとあしき)を分別して晒劣(いやしき)を去り高尚(とうと)きを取る実際の用に供(そな)へたまはば、美術の名ありて微術といふべき予(おのれ)が未熟なる稗史の中にも、人の気格を高うしてふ自然の効用のなからずやは。あなかしこ。心して読ませたまへ。

  十八年の五月といふ月、漸々(ようよう)に散りてゆく庭前の   八重桜に落残る月の下に

           春のやおぼろしるす

☆坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)とは?

 明治時代から昭和時代前期に活躍した小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者です。美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
 1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
 一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1361年(正平16/康安元)南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震が発生し、津波も起こり、大きな被害を出す詳細
1839年(天保10)蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1904年(明治37)建築家・文筆家谷口吉郎の誕生日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長塚節著の小説『土』が「東京朝日新聞」に連載開始された日です。
 『土』(つち)は、明治時代後期の1910年(明治43)6月13日~11月17日にかけて「東京朝日新聞」に151回にわたって連載された、長塚節著の長編小説でした。翌々年5月に春陽堂より、夏目漱石による序文『「土」に就て』が付され刊行されています。
 作者の郷里茨城県の鬼怒川沿いの農村を舞台に、貧農の勘次一家の生活を描いたものでした。農村の自然、風俗、土と闘う姿を写生的に精密に描写し、農民文学の傑作とされています。
 その後、1939年(昭和14)に日活映画として、内田吐夢監督によって映画化(主演は小杉勇)され、第1回文部大臣賞、第16回キネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれました。

〇長塚 節(ながつか たかし)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した歌人・小説家で、1879年(明治12)4月3日に、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生)の豪農の家に生まれました。その後、茨城尋常中学校(現水戸一高)に進みましたが、病気のために4年で退学し、故郷に戻って健康回復をはかることになります。
 この頃から文学に親しみ短歌をつくり始め、雑誌に投稿してしばしば入選するようになりました。1900年(明治33)に、正岡子規を訪ねて入門し、子規没後はアララギ派の中心の一人となります。
 1907年(明治40) に写生文「佐渡が島」を『ホトトギス』に発表し、高浜虚子に評価されました。1910年(明治43)には、夏目漱石の勧めで、東京朝日新聞に小説「土」が連載され、その後農民文学の不朽の名作となります。
 その翌年に喉頭結核の診断を下され、療養しながらも歌は詠み続けました。しかし、治療の甲斐なく、1915年(大正3)2月8日には、九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)付属病院において、36歳の若さで没しています。

<代表的な歌
「馬追虫の 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉ぢて 思い見るべし」
「歌人の 竹の里人 おとなへば やまひの牀に 絵をかきてあり」

☆長塚節の主要な著作

<歌集>
・「青草集」 (1906年)
・「初秋の歌」 (1908年)
・「濃霧の歌」 (1909年)
・「鍼(はり)の如く」(1914~15年)

<写生文>
・「炭焼のむすめ」 (1906年)
・「佐渡ヶ島」(1907年)

<小説>
・短編「芋掘り」(1908年)
・短編「開業医」 (1909年)
・短編「おふさ」 (1909年)
・長編「土」(1910年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1798年(寛政10)本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成する(新暦7月26日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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