
『それから』は、夏目漱石著の長編小説でした。明治時代後期の1909年(明治42)6月27日~10月4日まで、東京・大阪の「朝日新聞」に連載され、翌年1月に、春陽堂より刊行されます。
主人公の長井代助は、西洋と日本の関係がだめだから働かないと言って定職に就かず、毎月1回、本家にもらいに行く金で裕福な生活を送る高等遊民ですが、父親のすすめる政略結婚をことわり、友人平岡常次郎の妻・三千代を奪って、共に生きる決意をするまでを描きました。1908年(明治41)の『三四郎』と1910年(明治43)の『門』と共に、漱石の前期三部作と言われています。
その後、1985年(昭和60)に森田芳光監督、松田優作主演で映画化され、2017年(平成29)には、CLIEにより、平野良主演で舞台化もされました。
以下に、小説『それから』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
その後、1985年(昭和60)に森田芳光監督、松田優作主演で映画化され、2017年(平成29)には、CLIEにより、平野良主演で舞台化もされました。
以下に、小説『それから』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇小説『それから』の冒頭部分
一の一
誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く足音(あしおと)がした時、代助(だいすけ)の頭(あたま)の中(なか)には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下さがつてゐた。けれども、その俎(まないた)下駄は、足音(あしおと)の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭(あたま)から抜(ぬ)け出(だ)して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた。
枕元(まくらも)とを見ると、八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳(たゝみ)の上に落ちてゐる。代助(だいすけ)は昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむり)に就いた。
ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌てのひら)に応こた)へる、時計の針に似た響ひゞき)は、自分を死しに誘いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生いきてゐられたなら、――血を盛も)る袋ふくろ)が、時とき)を盛も)る袋ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助だいすけ)は覚えず悚ぞつ)とした。彼は血潮ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下したに手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中(なか)から両手を出だして、大きく左右に開ひらくと、左側(ひだりがは)に男が女を斬(きつ)てゐる絵があつた。彼はすぐ外(ほか)の頁(ページ)へ眼(め)を移した。其所(そこ)には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上(うへ)に落した。夫から烟草を一本吹ふかしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿(つばき)を取つて、引つ繰(く)り返(かへ)して、鼻の先へ持(も)つて来(き)た。口(くち)と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠(かく)れた。烟りは椿(つばき)の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡(から)まつて漂(たゞよ)ふ程濃く出た。それを白(しろ)い敷布(しきふ)の上うへに置くと、立ち上(あ)がつて風呂場(ふろば)へ行つた。
其所(そこ)で叮嚀(ていねい)に歯はを磨(みが)いた。彼(かれ)は歯並(はならび)の好(い)いのを常に嬉しく思つてゐる。肌(はだ)を脱(ぬ)いで綺麗(きれい)に胸(むね)と脊(せ)を摩擦(まさつ)した。彼(かれ)の皮膚(ひふ)には濃(こまや)かな一種の光沢(つや)がある。香油を塗(ぬ)り込んだあとを、よく拭き取(と)つた様に、肩(かた)を揺(うご)かしたり、腕(うで)を上(あ)げたりする度(たび)に、局所(きよくしよ)の脂肪(しぼう)が薄(うす)く漲(みなぎ)つて見える。かれは夫(それ)にも満足である。次に黒い髪(かみ)を分(わ)けた。油(あぶら)を塗つけないでも面白い程自由になる。髭(ひげ)も髪(かみ)同様に細(ほそ)く且つ初々(うい/\)しく、口(くち)の上(うへ)を品よく蔽ふてゐる。代助(だいすけ)は其ふつくらした頬(ほゝ)を、両手で両三度撫でながら、鏡の前(まへ)にわが顔(かほ)を映(うつ)してゐた。丸で女(をんな)が御白粉(おしろい)を付(つ)ける時の手付(てつき)と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉(おしろい)さへ付(つ)けかねぬ程に、肉体に誇(ほこり)を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好(さうごう)で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生(うま)れなくつて、まあ可(よ)かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落(おしやれ)と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。
「青空文庫」より
☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?
明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1439年(永享11) | 飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日) | 詳細 |
1582年(天正10) | 織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日) | 詳細 |
1850年(嘉永3) | 新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日 | 詳細 |
1900年(明治33) | 高岡明治33年の大火で、死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸の被害を出す | 詳細 |
1927年(昭和2) | 満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策決定のため、「東方会議」が開始(~7月7日)される | 詳細 |
1936年(昭和11) | 小説家・児童文学者鈴木三重吉の命日 | 詳細 |