ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小磯国昭内閣

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣により、「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定され、動員学徒援護会が設置された日です。
 動員学徒援護会(どういんがくとえんごかい)は、戦時中に軍需工場などに動員された学生・生徒の業務上の災害救済や教養指導を行うために、文部省内に文部大臣を会長として設立されました。1941年(昭和16)12月8日に、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その中で、1944年(昭和19)8月23日に、「学徒勤労令」と「女子挺身隊勤労令」が公布され、学徒動員の法令上の措置が決定しました。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、動員学徒援護会を設立して、業務上の災害救済や教養指導を行ったものです。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)7月1日に、文部省外郭団体の「財団法人勤労学徒援護会」となり、昭和22年(1947)1月7日には、「財団法人学徒援護会」に名称変更し、全国の主要都市に学生相談所・学生会館を設置、学生寮・学生センターの運営、下宿・貸間・アルバイトの斡旋あっせんなどの事業を行うようになりました。

〇学徒勤労動員(がくときんろうどういん)とは?

 昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3〜5日勤労奉仕することを義務づけられます。それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになりました。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されます。その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきました。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されます。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されました。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとします。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されました。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されます。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及びました。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月11日をもって、この勅令は廃止されることになります。

☆学徒勤労動員関係略年表

<1938年(昭和13)>
・6月 文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3?5日勤労奉仕することを義務づけられる

<1939年(昭和14)>
・3月 文部省は中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時以外も随時これを行ない、正課に準じることを指示する

<1941年(昭和16)>
・2月 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」で、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出される
・8月 文部省の指示によって全国の諸学校において学校報国隊が結成される
・12月8日 太平洋戦争に突入

<1943年(昭和18)>
・6月24日 東条内閣によって、「学徒戦時動員体制確立要綱」が出され、学徒勤労が決戦教育体制として位置づけられる
・10月 「教育に関する戦時措置方策」で、年間の3分の1を勤労にあててよいこととなる

<1944年(昭和19)>
・1月 「緊急学徒勤労動員方策要綱」が出され、勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられる
・2月25日 閣議において「決戦非常措置要綱」が決定される
・3月 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、勤労動員は通年実施となる
・4月 「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」で軍需工場へ動員されるようになる
・7月 文部省「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校3年以上の男子だけでなく女子学徒にも課すことを指令
・8月23日 法令上の措置として、「学徒勤労令」が公布・施行される
・8月23日 「女子挺身隊勤労令」が出される
・11月 夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令される
・12月 中等学校卒業者の勤労動員継続の措置が決まり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとなる
・12月19日 「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、動員学徒援護会が設置される

<1945年(昭和20)>
・3月 「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、一年の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられる
・5月22日 「戦時教育令」が公布される
・10月11日 「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、勅令が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(元中8/明徳2)守護大名一族・山名氏清・満幸が室町幕府に叛乱(明徳の乱)を起こす(新暦1392年1月13日)詳細
1596年(慶長元)豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者(日本二十六聖人)が長崎で磔刑となる(新暦1597年2月5日)詳細
1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
1955年(昭和30)「原子力基本法」が公布される詳細
1966年(昭和41)第21回国連総会で「第21会期国際連合総会決議2222号(宇宙条約)」が採択される詳細
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koisokuniaki001
 今日は、昭和時前期の1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣により、「国内防衛方策要綱」が閣議決定された日です。
 「国内防衛方策要綱」(こくないぼうえいほうさくようこう)は、太平洋戦争後期に、戦況が悪化する中で、小磯国昭内閣によって、国内防衛態勢の確立についての緊急措置を講じた閣議決定でした。1944年(昭和19)7月にサイパン島が玉砕して、東条英機内閣に代わって小磯国昭内閣となっても、8月にグアム島が陥落する中で、本土への本格的な空襲の危機が迫ります。
 その中で、8月19日に昭和天皇臨席の第12回御前会議(御前に於ける最高戦争指導会議)において、重大時局を克服突破する戦争完遂を決定すると同時に政治決着も考慮するとし、これに基づいて、「捷号作戦」が進められ、フィリピン、台湾、南西諸島、本土、千島の防衛を強化することとされました。それを踏まえて、国内防衛態勢の確立についての緊急措置を講じたもので、①生産機関及び供給施設の防衛、②運輸通信機関の防衛、③重要都市の防衛、④其の他、⑤所要資材の5項目から成っています。
 しかし、11月24日からアメリカ軍のB-29を中心とした本格的な本土空襲が始まり、日本の主要都市は壊滅的な被害を受けることとなりました。
 以下に、「国内防衛方策要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国内防衛方策要綱」1944年(昭和19)10月16日閣議決定

一 方針

国内防衛態勢ノ確立ニ付テハ現下ノ情勢ニ鑑ミ差シ当リ特ニ肝要ナル防衛対策ノ本年内急速遂行ヲ目途トシ之ニ対スル緊急措置ヲ講ズ

二 要領

一、生産機関及供給施設ノ防衛
(一)重要生産機関及供給施設要部ノ耐弾其ノ他ノ防護施設等此ノ際特ニ防衛対策ヲ実施スベキ対象ヲ其ノ緩急度ニ従ヒ画定ス
(二)(一)ニ要スル資材ハ現有及転用資材並ニ代用資材ヲ極力活用スルモ必要最少限度ノ資材ハ此ノ際緊急措置トシテ特別ノ配当ヲ受クルモノトス(五参照)
(三)右防空対策ノ実施ハ現有及転用資材ヲ基礎トシ直ニ着手スルモノトシ、其ノ完成期限ハ本年十二月末日ヲ目途トシ各施設ニ付之ヲ定ムルモノトス
二、運輸通信機関ノ防衛
(一)重要運輸通信機関要部ノ耐弾、分散疎開其ノ他防護施設、国土防衛通信施設ノ強化等此ノ際特ニ防衛対策ヲ実施スベキ対象ヲ其ノ緩急度ニ従ヒ画定ス
(二)右防空対策ノ実施計画、所要資材及完成期限ニ付テハ生産機関ノ防衛ノ場合ニ準ズルモノトス
三、重要都市ノ防衛
(一)重要都市ニ於テハ特ニ消防防火ヲ重視スルト共ニ消防、防火、水利、防弾及待避等ノ諸施設ヲ急速ニ整備充実ス
(二)特ニ重要ナル施設及工場ノ周辺ノ建物及間引ノ疎開ハ努メテ之ガ実施ヲ図ルモノトス
四、其ノ他
(一)空襲其ノ他敵襲時ニ於ケル勤労者ノ確保ヲ図ル為従業強制、派遣及配置転換等ニ関スル勤労施策ヲ強化ス
(二)空襲其ノ他敵襲時応急輸送ノ確保ニ資スル為自動車修理用部品及非常用荷車ヲ確保ス
(三)防空救護機関ニ付公的性格ヲ更ニ明確ナラシムルト共ニ要員、設備及資材(医薬品ヲ含ム)ノ整備ヲ強化ス
五、所要資材
本件実施ノ為ニ要スル資材ハ第三、四半期ニ於テ受クベキ一般配当ノ外緊急措置トシテ特別配当スルモノトシ普通鋼鋼材ハ査察ニ依リ取得セラルベキ未稼働物資ノ中ヨリ配当シ其ノ他ノ資材ニ関シテハCヨリ捻出スルモノノ外主トシテABBxDヨリ支援スルモノトス
特別配当資材ノ数量、用途区分概ネ別表ノ如シ

(別表省略)

  「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

669年(天智天皇8)政治家・藤原氏の祖藤原鎌足の命日(新暦11月14日)詳細
1279年(弘安2)『十六夜日記』の著者阿仏尼が鎌倉に向けて京を出立する(新暦11月21日)詳細
1945年(昭和20)GHQが「映画企業に対する日本政府の統制の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-146)を出す詳細
国連食糧農業機関(FAO)が設立される詳細
1970年(昭和45)物理学者坂田昌一の命日詳細
1981年(昭和56)北炭夕張炭鉱(夕張新鉱)でガス噴出事故が起こり、死者93人、負傷者39人を出す詳細
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ichiokusoubusou01
 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣が、本土決戦に備えて一億総武装を唱え、最高戦争指導会議の設置を決定(翌日発足)した日です。
 最高戦争指導者会議(さいこうせんそうしどうしゃかいぎ)は、太平洋戦争末期に、戦争指導の基本政策の策定、政治、戦術の調整にあたった最高戦争指導機関でした。東条英機内閣が倒れた後、1944年(昭和19)7月22日に成立した小磯国昭内閣によって、それまでの大本営政府連絡会議が国務と統帥の協調や陸海軍の協調を欠いていたとして、首相が強力に戦争指導に関与できる機関として設置されます。
 構成員は首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長で、必要に応じて枢密院議長や他の国務大臣、参謀次長、軍令部次長が列席し、内閣書記官長、内閣総合計画局長官、陸海軍省軍務局長4名が幹事となりました。しかし、目的とした大本営と政府との一元的な政治指導は実現せず、軍部と政府との連絡調整機関にとどまります。
 それでも、同年の独ソ和平斡旋・対重慶和平工作や翌年のポツダム宣言受諾を決定し、敗戦後の8月22日に廃止されました。尚、1945年(昭和20)6月22日には、昭和天皇も臨席した御前ニ於ケル最高戦争指導会議構成員会議が開催され、「時局収拾策・ソ連を仲介とした対米英和平」を決定しています。
 以下に、「最高戰爭指導󠄃會議ニ關スル件」1944年(昭和19)8月4日大本營政府連󠄃絡會議決定を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「最高戰爭指導󠄃會議ニ關スル件」 1944年(昭和19)8月4日大本營政府連󠄃絡會議決定

第一、方針

 最高戰爭指導󠄃會議ヲ設置シ戰爭指導󠄃ノ根本方針ノ策定及政戰兩略ノ吻合調整ニ任ス

第二、要󠄃領

一、本會議ハ宮中ニ於テ之ヲ開キ重要󠄃ナル案件ノ審議ニ當リテハ

 御親臨ヲ奏請󠄃スルモノトス

二、本會議ノ構󠄃成󠄃員ハ左ノ通󠄃リトス

 參謀總長
 軍令部總長
 內閣總理大臣
 外務大臣
 陸軍大臣
 海軍大臣
 必要󠄃ニ應シ其他ノ國務大臣、參謀次󠄄長及軍令部次󠄄長ヲ列席セシムルコトヲ得

三、本會議ニ幹事ヲ置キ內閣書記官長及陸海軍省兩軍務局長ヲ以テ之ニ充ツ

 必要󠄃ニ應シ所󠄃要󠄃ノ者ヲシテ說明ノ爲出席セシムルコトヲ得

四、本會議ニ幹事補佐ヲ置キ大本營、內閣、陸海外各省高等官中若干人ヲ以テ之ニ充ツ

 備考本會議ハ官制上ノモノトナサス

    「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(神護景雲4)第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)の命日(新暦8月28日)詳細
1830年(文政13)幕末の思想家・教育者吉田松陰の誕生日(新暦9月20日)詳細
1897年(明治30)幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎の命日詳細
1944年(昭和19)初の集団学童疎開列車が東京の上野駅を出発する詳細
1965年(昭和40)憲法・行政法学者・貴族院議員佐々木惣一の命日詳細
1992年(平成4)小説家松本清張の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、小磯国昭内閣により、「空襲対策緊急強化要綱」が閣議決定された日です。
 「空襲対策緊急強化要綱」(くうしゅうたいさくきんきゅうきょうかようこう)は、1944年(昭和19)のアメリカ軍によるマリアナ諸島攻略により、本土空襲が強化される中で、それに対処するためにの小磯国昭内閣による閣議決定でした。同年11月に、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は、同月23日からマリアナ諸島からの出撃命令を出し、そこからの初空襲は翌24日となります。
 当初は東京、名古屋の工業地帯を主目標としましたが、徐々に市街地にも拡大し、太平洋岸の各都市に広がっていきました。その中で、空襲がますます熾烈化しようとする情勢に鑑みて、国土防衛の強化を期し既定の諸方策を完遂徹底すると共に、この緊急施策措置が出されます。
 その内容は、①都市疎開の強化、②戦時緊要人員の残留確保、③堅牢建築物の利用統制、④防空消防力の強化、⑤防空土木施設の追加整備、⑥罹災者対策の強化などとなっていました。しかし、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲、同月12日の名古屋大空襲などいっそう空襲が強まり、同月17日の硫黄島陥落により、4月7日以降は硫黄島配備の飛行機も空襲に加わるようになって頻繁化し、主要都市は焦土と化すことになります。
 以下に、「空襲対策緊急強化要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「空襲対策緊急強化要綱」1945年(昭和20)1月19日閣議決定

空襲ノ愈々熾烈化セントスル情勢ニ鑑ミ国土防衛ノ一段ノ強化ヲ期シ既定諸方策ヲ完遂徹底スルト共ニ昭和二十年一月十二日閣議決定ニ係ル緊急施策措置ノ一環トシテ左ノ諸施策ヲ緊急ニ実施セントス

第一、都市疎開ノ強化
(一)人員疎開ノ強化促進
帝都其ノ他重要都市ニ於ケル人員疎開ハ老幼者姙婦等ニ重点ヲ置キ更ニ帝都ヨリ百五十万人(其ノ他ノ都市ヲ含メ三百二十万人)ノ地方転出ヲ目途トシ之ガ促進ヲ図ルト共ニ戦時緊要人員ノ転出ヲ抑制セントス
本件実施ニ当リ受入態勢ニ付一段ノ整備強化ヲ図ルト共ニ疎開残留者ノ生活ヲ確保スル為各職域又ハ地域ニ於ケル合宿ノ設備、下宿業ノ奨励等格段ノ方策ヲ講ズルモノトス
(二)衣料等ノ分散疎開保全措置ノ強化
衣料其ノ他生活必需品ノ保全措置ニ関シ之ガ縁故疎開公共団体其ノ他各職域及地域ニ於ケル受託保管竝ニ倉庫業者等ノ業務拡張等ニ付所要ノ便宜ヲ供与シ又ハ助成ヲ加フル等之ガ勧奨指導ヲ強化セントス
本件実施ニ関連シ重要都市ニ於ケル堅牢建築物ノ利用統制(後出)ヲ実施シ又重要都市ニ於ケル隣組共同格納庫整備助成ヲ実施セントス
(三)建物疎開ノ追加実施
帝都其ノ他重要都市ニ於ケル建物疎開ハ更ニ強力ニ之ヲ実施シ空地帯消防道路水利接近施設簡易貯水槽防空壕等ノ防空施設ノ造成ニ資スルト共ニ特ニ間引疎開ニ依ル空家対策ニ遺憾ナキヲ期シ帝都ニ於テ差当リ十万五千戸(其ノ他ノ地域ヲ含メ二十万戸)ノ疎開ヲ可及的速ニ完了セシムル如ク追加実施セントス

第二、戦時緊要人員ノ残留確保
帝都其ノ他重要都市ニ残留ヲ要スル戦時緊要人員ハ其ノ範囲ヲ明定シ之ガ地方転出防止ニ関シ強力ナル指導ヲ加へ職域死守ノ敢闘精神ヲ昂揚セシムルト共ニ所要ニ応ジ防空法又ハ国家総動員法ニ依リ之ガ残留ヲ確保セントス

第三、堅牢建築物ノ利用統制
帝都其ノ他重要都市ニ在ル堅牢建築物(地下施設ヲ含ム)ニシテ一定規模以上ノモノニ付其ノ利用ヲ統制シ軍需工場防空施設官公衙其ノ他戦争遂行上緊要ナル用途ニ限リ之ヲ使用セシムルコトトシ然ラザル利用者ニ対シテハ強力ナル勧奨ニ依リ又ハ所要ニ応ジ防空法又ハ国家総動員法ヲ発動シテ之ガ転用ヲ図ラントス

第四、防空消防力ノ強化
(一)消防機関ノ要員確保
消防機関ノ完全ナル初動態勢ノ確立ヲ期スル為消防官吏特ニ消防機関要員及警防団消防部員ノ確保充実ニ付万全ノ措置ヲ講ゼントス
(二)消防器材ノ整備
焼夷弾ニ対スル隣組初期防火ノ万全ヲ期スル為四大地域等特ニ重要ナル都市ニ在リテハ一隣組ニ対シ小型腕用喞筒一台ノ目標ヲ以テ拡充整備ヲ図ラントス
更ニ反覆大空襲ニ際シ消防力ノ運用ト相俟ツテ破壊消防ノ充実強化ノ要アリ之ガ為特設消防隊竝ニ警備隊ニ対シ所要破壊器材ノ整備ヲ図ラントス

第五、防空土木施設ノ追加整備
(一)消防道路及貯水槽ノ増設
帝都其ノ他重要都市ニ於テ消防道路延長十五万米ヲ追加整備シ又今後情勢ノ推移ニ応ジ新ニ整備ヲ必要トスル都市ニ於テ小型簡易貯水槽五万個ヲ整備セントス
(二)横穴式及掩蓋式防空壕ノ増設
帝都其ノ他重要都市ニ於テ横穴式防空壕十万米及掩蓋式防空壕七万個ヲ増設シ又今後情勢ノ推移ニ応ジ新ニ整備ヲ必要トスル都市ニ於、横穴式防空壕十五万個ヲ整備セントス
右ノ外帝都ニ於テ重要施設ノ収容人員ノ収容物資ノ貯蔵等ニ充ツベキ隧道式防空施設延長八千五百米ヲ構築セントス
尚帝都以外ノ重要都市ニ付テモ情勢ノ推移ニ依リ帝都ニ準ジ之ヲ整備スルモノトス

第六、罹災者対策ノ強化
(一)罹災者避難及収容計画ノ強化
罹災者ニ対シテハ罹災地ニ於テ一応仮収容ノ上戦時災害保護法ニ依リ所要ノ応急救助ヲ為シタル後業務ノ関係上罹災地ニ残留スルヲ要スル者ヲ除クノ外努メテ短期間内ニ於テ縁故先又ハ予メ計画準備セル避難先ニ移転セシムベク指導スルモノトシ罹災者ノ収容ニ遺憾ナカラシムル為重要都市ノ存スル都府県ヲシテ空家其ノ他ノ民家ヲ予メ借上ゲ確保シ置カシムルト共ニ罹災地ニ残留ヲ要スル者ニ付テハ空家遊休建物ノ利用斡旋或ハ合宿施設ノ整備等所要ノ措置ヲ講ズルモノトス
(二)罹災者ニ対スル保護ノ強化
戦時災害保護法ニ依ル保護費ノ限度引上ゲ竝ニ保護ノ迅速化ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズルト共ニ各種法外援護事業ヲ実施シ以テ罹災保護ノ徹底強化ヲ図ルモノトス
(三)防空医療対策ノ強化
救護所及救護病院ハ防護施設ノ強化ヲ図リ医療救護ニ支障ナカラシムルト共ニ大規模空襲ニ因リ救護所、救護病院、予備救護所等ノ喪失又ハ機能ノ減退アリタル場合ニ於テハ公共団体又ハ日本医療団ニ於テ救護施設ヲ設置シ之ガ要員ハ災害ヲ蒙リタル救護機関ノ要員又ハ応援救護班ヲ活用充当スルモノトス
尚帝都其ノ他重要都市ニ開設スル救護所、救護病院ハ出来得ル限リ堅牢ナル建物又ハ地下室ニ設置セシムルモノトス
(四)生活必需物資ノ備蓄、配給ノ整備強化
(イ)政府ニ於テ現ニ実施セル生活必需備蓄物資ノ分散防護ノ徹底ヲ促進スルト共ニ出来得ル限リ備蓄物費ノ増強ニ努ムルモノトス
(ロ)非常ノ際ニ於ケル物資配給ノ円滑迅速ヲ期スル為機構要員ノ整備確保ヲ図ルモノトス

第七、其ノ他
(一)資材ノ割当
本件実施ニ伴フ資材ニ付テハ現下ノ情勢ニ鑑ミ努メテ早期ニ割当ヲ為スモノトス
(二)労務ノ確保
本件実施ニ伴フ労務ニ付テハ之ガ確保ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
(三)地方団体防空対策費借入金ノ元利補給
地方防空対策費ニ付テハ事態ノ必要ニ応ジ単ニ直接国庫補助ヲ為スノ方法ノミニ依ルコトナク当該地方団体借入金ニ対スル元利補給ノ方途ヲモ講ジ得ルコトトシ防空対策実施ノ敏活ヲ期スルモノトス
(四)本件ハ各項目ニ付完成期間ヲ定メ急速実施ヲ図ルモノトス
備考
工場ノ分散疎開其ノ他生産防空ニ関シテハ別途策案スルモノトス

   「国立国会図書館リサーチナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

823年(弘仁14)嵯峨天皇から空海が教王護国寺(東寺)を下賜される(新暦3月5日)詳細
1926年(大正15)共同印刷の労働組合がにストライキを決議し、争議に突入する(共同印刷争議)詳細
1946年(昭和21)GHQが極東国際軍事裁判所の設置を命令、「極東国際軍事裁判所条例」が制定される詳細
1960年(昭和35)「新日米安全保障条約」に調印する詳細
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chihousokai01

 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣により、「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」が閣議決定された日です。
 「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱(ろうようしゃにんぷとうのそかいじっしようこう)」は、戦局の悪化に伴う都市部の空襲に備え、老人、子供、妊婦等を地方疎開させ、人員の被害を最小限に止めるための措置でした。そのために、①国民学枚初等科の児童、②乳幼児、③妊婦(妊産婦手帳を有する者)、④老者(年齢65歳を超える者)、⑤長期に亘る病者又は不具癈疾者にして介護を要する者に対し、移転奨励金を支給するとしています。
 また、輸送および荷造の便宜を図り、疎開先の受入措置に配慮するなどとしました。一方で、残留者の生活措置として、合宿施設を手当てするとし、各職域に疎開手当の支給を指導するともしています。これによって、人員疎開がいっそう促進されました。
 以下に、「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」 1944年(昭和19)11月7日閣議決定

老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱 昭和19年11月7日 閣議決定

現下ノ情勢ニ鑑ミ特ニ老幼者妊婦等ノ疎開ヲ容易ナラシムル為左ノ各項ニ依リ措置スルモノトス

第一 移転奨励金ノ支給
左ニ掲グル者ノ地方転出ヲ容易ナラシムル如ク従来ノ移転奨励金ノ支給方法ヲ変更ス但シ国民学校初等科ノ児童ニ在リテハ第二学年以下ノ児童ニ対シテノミ移転奨励金ヲ支給ス
一、国民学枚初等科ノ児童
二、乳幼児
三、妊婦(妊産婦手帳ヲ有スル者)
四、老者(年齢六十五歳ヲ超ユル者)
五、長期ニ亘ル病者又ハ不具癈疾者ニシテ介護ヲ要スルモノ

第二 輸送及荷造
一、鉄道輸送ニ付テハ特ニ老幼者妊婦等ノ疎開ニ関シ便宜ヲ供与スルモノトス
二、小運送及荷造ニ付テハ学徒、輸送挺身隊等ノ協力ヲ強化ス
三、荷造用資材ニ付テハ極力手持資材ノ活用ヲ図ルト共ニ必要ナル資材ヲ確保スル如ク措置スルモノトス

第三 受入措置
疎開先ニ於テハ老幼者妊婦等ノ疎開者ノ食糧其ノ他生活必需品ノ供給ヲ円滑ナラシムル如ク配意スルモノトス

第四 残留者ノ生活措置
一、家族ヲ疎開シ残留スル者ニ対シテハ各職域ニ於テ合宿施設ヲ整備セシムルモノトス
二、合宿施設ニ充ツベキ建物ノ確保ニ付斡旋ヲ図ルモノトス
三、合宿施設ニ対シテハ食糧其ノ他生活必需品ノ供給ヲ円滑ナラシムル如ク措置スルモノトス

第五 疎開手当ノ支給
現行疎開手当ノ支給ヲ各職域ニ普及セシムル如ク指導ス

備考
国民学校初等科第三学年以上ノ児童ニ付縁故疎開ヲ勧奨スルノ方針ハ従来通リ変更ナキモノトス

    「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇地方疎開とは?

 一般的には、都市部に集中する施設、人員などを地方各地に分散させることですが、太平洋戦争の末期には、大都市の防衛強化のために一連の強制的疎開政策が実施されました。
 これによって、空襲や火災などの被害を少なくするため、官庁、軍需工場、民間企業、住宅家屋、人員などを強制的に比較的安全な地方へ移動させることとなります。
 まず、1943年(昭和18)9月28日に官庁の地方疎開が閣議決定され、同年10月31日の「防空法」再改正で、民防空の定義に「分散疎開」を追加、生産疎開(工場疎開)、建物疎開、人の疎開等の条文が加えられました。そして、同年12月21日に「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、具体化されていきます。
 翌年1月26日に、内務省が「改正防空法」により、東京、名古屋の指定区域内の建築物に対して疎開命令(指定区域内の建築物の強制取壊し)を出し、3月3日には、「決戦非常措置要綱」に基づき、疎開促進の要綱が閣議決定され、軍事施設、工場、鉄道、重要道路の周辺や密集地域の建物が取り壊され、防火帯が造られていきました。
 さらに、同年6月30日に、「学童疎開促進要綱」が閣議決定され、集団的な学童疎開が促進され、7月20日には、文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市に拡大します。11月7日には、「老幼者、妊婦等の疎開実施要綱」も閣議決定され、人員疎開が促進されて、1945年(昭和20)までに、約1,000万人の住民が地方疎開しました。

☆太平洋戦争下の地方疎開に関する略年表

 <1943年(昭和18)>
・9月28日 「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる
 ・10月12日 「官庁ノ第一次地方疎開実施ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が具体化される
 ・10月31日 「防空法」再改正で、民防空の定義に「分散疎開」を追加、生産疎開、建物疎開、人の疎開等の条文が加えられる
 ・11月13日 東京都、帝都重要地帯疎開計画が発表される(防火地帯造成、重要工場付近の建物疎開、主要駅前広場造成など)
・12月21日 「都市疎開実施要綱」が閣議決定される

<1944年(昭和19)>
・1月26日 内務省が「改正防空法」により、東京、名古屋に初の疎開を命令する(指定区域内の建築物の強制取壊し)
・2月8日 横浜、川崎に防空地帯が指定される
 ・2月25日 「決戦非常措置要綱」(3月1日実施)が閣議決定される(地方への疎開の推進などの空襲対策など)
・3月3日 「決戦非常措置要綱」に基づき国民学校学童給食、空地利用、疎開促進の3要綱を閣議決定する
 ・4月10日 防空総本部が「京浜地域人員疎開の措置要綱」を決定する
 ・4月17日 東京都が第3次建物疎開の細目を決定する
 ・5月7日 東京千駄木国民学校生徒による初の都立那須戦時疎開学園が開園される
 ・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
 ・7月10日 神戸、尼崎両市の建物疎開が指定される(以後疎開指定都市続出)
・7月20日 文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市に拡大する
 ・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)
・8月24日 大阪、堺で建物疎開を実施する
 ・8月29日 重要工場に疎開命令が出される
 ・11月7日 「老幼者、妊婦等ノ疎開実施要綱」を閣議決定する

<1945年(昭和20)>
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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