ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小磯国昭内閣

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、「翼賛政治会」を解散し、「大日本政治会」が結成された日です。
 大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)3月30日に、小磯国昭内閣のもとで、翼賛政治会を解散して、新たに組織された政治結社です。本土決戦に備えて、国民糾合・国体護持・大東亜建設をうたい、総裁に南次郎(陸軍大将)、幹事長に松村謙三、総務会長に金光庸夫が就任しました。
 その結果、衆議院の所属議員は353名に上ったものの、大日本翼賛壮年団などの反発を招き、民意を下からより一層結集するという目的は達成することができず、見るべき活動をしないまま敗戦を迎え、9月7日に代議士会で解散が決議され、 9月13日に解散しています。解散後、所属議員の多くは日本進歩党の結党に参加しました。

〇翼賛政治会(よくさんせいじかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)5月20日に、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社です。1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。
 東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施します。それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。
 しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送します。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任しました。
 綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げます。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになりました。
 しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥ります。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至りました。
 その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1212年(建暦2)鴨長明が『方丈記』を書き上げる(新暦4月22日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1939年(昭和14)文部省は「大学教練振作ニ関スル件」を発して、大学での学校教練が必修化する詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1945年(昭和20)に、小磯国昭内閣により、「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」が閣議決定された日です。
 「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」(だいとしにおけるそかいきょうかようこう)は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)3月15日の小磯国昭内閣による閣議決定で、大都市における疎開を強化するためのものです。1945年(昭和20)3月10日に、アメリカ軍による東京大空襲が行われ、東京の下町が焼け野原になった5日後に出されました。
 これに基づいて、第六次の建物強制疎開が実施され、全国で66万戸が建物疎開の対象として指定されます。これは、防火区域を設定するための空地帯をつくることで、重要施設(官公署や軍事施設、軍需工場)を守るため、その周囲の民家を取り壊して空地をつくるものが主でした。
 これによって、敗戦までに実際に取り壊されたのは14,000戸となりましたが、計画の2.1%に過ぎないものとなります。
 以下に、「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」1945年(昭和20)3月15日閣議決定

一、方針

 戦局今後ノ推移ニ鑑ミ防衛並ニ食糧対策等ノ見地ヨリ急速ニ重要都市ノ徹底的人員及建物疎開ヲ決行シ国内自活自戦態勢ヲ促進ス

二、要領

(一)重要都市ニ残留セシムベキモノハ必要ナル機関及人員ニ限定シ他ハ凡テ之ヲ地方特ニ農村等ニ疎開セシメ之ガ戦力化ヲ図ル
 尚右ニ伴ヒ堅牢建築物ノ利用ニ努ムルト共ニ急速且徹底的ナル建物疎開ヲ実施シ戦時都市態勢ヲ確立ス

(二)人員疎開ハ縁故疎開、集団帰農、学童疎開、学徒ノ農村進出等及工場疎開ニ伴フ人員移駐ニ依リ之ヲ実施ス
 之ガ為各都道府県別ニ計画的割当ヲ行ヒ速急ニ之ガ受入態勢ヲ整備ス
 尚疎開ニ伴ヒ残置スベキ荷物ノ保管等ニ関シ特別ノ措置ヲ講ズ

(三)右人員疎開輸送強化ノ為非常措置ヲ講ズ

(四)以上ノ施策ハ即時実行ニ着手シ六月末日迄ニ之ガ大部ヲ完成ス

「註」今次空襲ニ依ル罹災者ハ本施策ノ方針ニ準拠シ速カニ転出セシム

   「内閣制度百年史 下」内閣制度百年史編纂委員会編より

☆太平洋戦争後半の疎開に関する閣議決定一覧

・「都市疎開実施要項」1943年(昭和18)12月21日閣議決定
 建物や人員の疎開を促進するために閣議決定されたもので、京浜、阪神、名古屋、北九州地域の重要都市に於ける疎開区域や人口疎開の対象者を定め、人口疎開政策の具体化が図られ、都市施設の地方分散がおこなわれた。

・「一般疎開促進要綱」1944年(昭和19)3月3日閣議決定
 都市部への空襲が強まる中で、「帝都疎開促進要綱」を同時に定め、人口疎開は府県別受入割当数の決定、老幼者・要保護者の縁故による「引取り」の実施を定めるなど具体的な促進を図ったものでした。

・「老幼者妊婦等ノ疎開実施要綱」1944年(昭和19)11月7日閣議決定
 戦局の悪化に伴う都市部の空襲に備え、老人、子供、妊婦等を地方疎開させ、人員の被害を最小限に止めるためのものです。

・「空襲対策緊急強化要綱」1945年(昭和20)1月19日閣議決定
 1944年(昭和19)のアメリカ軍によるマリアナ諸島攻略により、本土空襲が強化される中で、それに対処するためのものでした。

・「工場緊急疎開要綱」1945年(昭和20)2月23日閣議決定
 戦局の状勢を考えて、計画的、系統的に工場疎開を徹底実施するものとし効果的に分散、地下移設等の方法を講ずると共に緊要工場の地域的総合自立を図り軍需生産の長期確保強化を期するものでした。

<1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲を皮切りに都市部への無差別空襲が始まる>

・「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」1945年(昭和20)3月15日閣議決定
 大都市における疎開を強化するためのもので、第六次の建物強制疎開が実施され、全国で66万戸が建物疎開の対象として指定されます。

・「都市疎開者ノ就農ニ関スル緊急措置要綱」1945年(昭和20)3月30日閣議決定
 大都市の人員疎開の要請に即応し是等疎開人口にして農村に受入るる者に付ては縁故等に依り帰農を為さしむる外左の要領に依り之が適切なる受入を行ひ積極的に其の就農の措置を講じ食糧生産の増強に寄与せしむるものとす

・「現情勢下ニ於ケル疎開応急措置要綱」1945年(昭和20)4月20日閣議決定
 人員疎開では、①老幼姙産婦病弱者(介護者を含む)、②疎開施設随伴者(地方転勤者を含む)、③集団疎開者、④前各号以外の罹災者及強制疎開立退者(但し離職者)を先づ優先的に疎開させ、それ以外の者の疎開は当分の間認めず、工場及事業場は今後他の施設に優先して疎開し、又は堅牢建築等に移転するとしたものです。

・「重要物資等の緊急疎開に関する件」1945年(昭和20)6月26日閣議決定
 戦局がたいへん厳しくなり、都市部が連日のように空襲される中で、重要物資等を緊急疎開させるようにした閣議決定です。

・「空襲激化ニ伴フ緊急防衛対策要綱」1945年(昭和20)7月10日閣議決定
 戦争遂行上必要な機関、施設、工場等の要員である都市要残留者を具体的に調査再検討し、その必要最小限度を定めると共にその要員に対し食糧住宅の供給其の他防衛上必要な措置を講じ、併せて要員絶対確保の方途を実施するものです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1875年(明治8)詩人蒲原有明の誕生日詳細
1884年(明治17)「地租条例」が公布される詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細
1914年(大正3)秋田県内陸南部を震源とする秋田仙北地震(マグニチュード7.1)が起き、大きな被害を出す詳細
1930年(昭和5)神奈川県横浜市に山下公園が開園する詳細
1958年(昭和33)劇作家・演出家・小説家・批評家久保栄の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣により、「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定され、動員学徒援護会が設置された日です。
 動員学徒援護会(どういんがくとえんごかい)は、戦時中に軍需工場などに動員された学生・生徒の業務上の災害救済や教養指導を行うために、文部省内に文部大臣を会長として設立されました。1941年(昭和16)12月8日に、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その中で、1944年(昭和19)8月23日に、「学徒勤労令」と「女子挺身隊勤労令」が公布され、学徒動員の法令上の措置が決定しました。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、動員学徒援護会を設立して、業務上の災害救済や教養指導を行ったものです。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)7月1日に、文部省外郭団体の「財団法人勤労学徒援護会」となり、昭和22年(1947)1月7日には、「財団法人学徒援護会」に名称変更し、全国の主要都市に学生相談所・学生会館を設置、学生寮・学生センターの運営、下宿・貸間・アルバイトの斡旋あっせんなどの事業を行うようになりました。

〇学徒勤労動員(がくときんろうどういん)とは?

 昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3〜5日勤労奉仕することを義務づけられます。それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになりました。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されます。その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきました。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されます。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されました。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとします。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されました。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されます。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及びました。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月11日をもって、この勅令は廃止されることになります。

☆学徒勤労動員関係略年表

<1938年(昭和13)>
・6月 文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3?5日勤労奉仕することを義務づけられる

<1939年(昭和14)>
・3月 文部省は中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時以外も随時これを行ない、正課に準じることを指示する

<1941年(昭和16)>
・2月 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」で、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出される
・8月 文部省の指示によって全国の諸学校において学校報国隊が結成される
・12月8日 太平洋戦争に突入

<1943年(昭和18)>
・6月24日 東条内閣によって、「学徒戦時動員体制確立要綱」が出され、学徒勤労が決戦教育体制として位置づけられる
・10月 「教育に関する戦時措置方策」で、年間の3分の1を勤労にあててよいこととなる

<1944年(昭和19)>
・1月 「緊急学徒勤労動員方策要綱」が出され、勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられる
・2月25日 閣議において「決戦非常措置要綱」が決定される
・3月 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、勤労動員は通年実施となる
・4月 「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」で軍需工場へ動員されるようになる
・7月 文部省「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校3年以上の男子だけでなく女子学徒にも課すことを指令
・8月23日 法令上の措置として、「学徒勤労令」が公布・施行される
・8月23日 「女子挺身隊勤労令」が出される
・11月 夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令される
・12月 中等学校卒業者の勤労動員継続の措置が決まり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとなる
・12月19日 「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、動員学徒援護会が設置される

<1945年(昭和20)>
・3月 「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、一年の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられる
・5月22日 「戦時教育令」が公布される
・10月11日 「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、勅令が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(元中8/明徳2)守護大名一族・山名氏清・満幸が室町幕府に叛乱(明徳の乱)を起こす(新暦1392年1月13日)詳細
1596年(慶長元)豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者(日本二十六聖人)が長崎で磔刑となる(新暦1597年2月5日)詳細
1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
1955年(昭和30)「原子力基本法」が公布される詳細
1966年(昭和41)第21回国連総会で「第21会期国際連合総会決議2222号(宇宙条約)」が採択される詳細
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 今日は、昭和時前期の1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣により、「国内防衛方策要綱」が閣議決定された日です。
 「国内防衛方策要綱」(こくないぼうえいほうさくようこう)は、太平洋戦争後期に、戦況が悪化する中で、小磯国昭内閣によって、国内防衛態勢の確立についての緊急措置を講じた閣議決定でした。1944年(昭和19)7月にサイパン島が玉砕して、東条英機内閣に代わって小磯国昭内閣となっても、8月にグアム島が陥落する中で、本土への本格的な空襲の危機が迫ります。
 その中で、8月19日に昭和天皇臨席の第12回御前会議(御前に於ける最高戦争指導会議)において、重大時局を克服突破する戦争完遂を決定すると同時に政治決着も考慮するとし、これに基づいて、「捷号作戦」が進められ、フィリピン、台湾、南西諸島、本土、千島の防衛を強化することとされました。それを踏まえて、国内防衛態勢の確立についての緊急措置を講じたもので、①生産機関及び供給施設の防衛、②運輸通信機関の防衛、③重要都市の防衛、④其の他、⑤所要資材の5項目から成っています。
 しかし、11月24日からアメリカ軍のB-29を中心とした本格的な本土空襲が始まり、日本の主要都市は壊滅的な被害を受けることとなりました。
 以下に、「国内防衛方策要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国内防衛方策要綱」1944年(昭和19)10月16日閣議決定

一 方針

国内防衛態勢ノ確立ニ付テハ現下ノ情勢ニ鑑ミ差シ当リ特ニ肝要ナル防衛対策ノ本年内急速遂行ヲ目途トシ之ニ対スル緊急措置ヲ講ズ

二 要領

一、生産機関及供給施設ノ防衛
(一)重要生産機関及供給施設要部ノ耐弾其ノ他ノ防護施設等此ノ際特ニ防衛対策ヲ実施スベキ対象ヲ其ノ緩急度ニ従ヒ画定ス
(二)(一)ニ要スル資材ハ現有及転用資材並ニ代用資材ヲ極力活用スルモ必要最少限度ノ資材ハ此ノ際緊急措置トシテ特別ノ配当ヲ受クルモノトス(五参照)
(三)右防空対策ノ実施ハ現有及転用資材ヲ基礎トシ直ニ着手スルモノトシ、其ノ完成期限ハ本年十二月末日ヲ目途トシ各施設ニ付之ヲ定ムルモノトス
二、運輸通信機関ノ防衛
(一)重要運輸通信機関要部ノ耐弾、分散疎開其ノ他防護施設、国土防衛通信施設ノ強化等此ノ際特ニ防衛対策ヲ実施スベキ対象ヲ其ノ緩急度ニ従ヒ画定ス
(二)右防空対策ノ実施計画、所要資材及完成期限ニ付テハ生産機関ノ防衛ノ場合ニ準ズルモノトス
三、重要都市ノ防衛
(一)重要都市ニ於テハ特ニ消防防火ヲ重視スルト共ニ消防、防火、水利、防弾及待避等ノ諸施設ヲ急速ニ整備充実ス
(二)特ニ重要ナル施設及工場ノ周辺ノ建物及間引ノ疎開ハ努メテ之ガ実施ヲ図ルモノトス
四、其ノ他
(一)空襲其ノ他敵襲時ニ於ケル勤労者ノ確保ヲ図ル為従業強制、派遣及配置転換等ニ関スル勤労施策ヲ強化ス
(二)空襲其ノ他敵襲時応急輸送ノ確保ニ資スル為自動車修理用部品及非常用荷車ヲ確保ス
(三)防空救護機関ニ付公的性格ヲ更ニ明確ナラシムルト共ニ要員、設備及資材(医薬品ヲ含ム)ノ整備ヲ強化ス
五、所要資材
本件実施ノ為ニ要スル資材ハ第三、四半期ニ於テ受クベキ一般配当ノ外緊急措置トシテ特別配当スルモノトシ普通鋼鋼材ハ査察ニ依リ取得セラルベキ未稼働物資ノ中ヨリ配当シ其ノ他ノ資材ニ関シテハCヨリ捻出スルモノノ外主トシテABBxDヨリ支援スルモノトス
特別配当資材ノ数量、用途区分概ネ別表ノ如シ

(別表省略)

  「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

669年(天智天皇8)政治家・藤原氏の祖藤原鎌足の命日(新暦11月14日)詳細
1279年(弘安2)『十六夜日記』の著者阿仏尼が鎌倉に向けて京を出立する(新暦11月21日)詳細
1945年(昭和20)GHQが「映画企業に対する日本政府の統制の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-146)を出す詳細
国連食糧農業機関(FAO)が設立される詳細
1970年(昭和45)物理学者坂田昌一の命日詳細
1981年(昭和56)北炭夕張炭鉱(夕張新鉱)でガス噴出事故が起こり、死者93人、負傷者39人を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、小磯国昭内閣が、本土決戦に備えて一億総武装を唱え、最高戦争指導会議の設置を決定(翌日発足)した日です。
 最高戦争指導者会議(さいこうせんそうしどうしゃかいぎ)は、太平洋戦争末期に、戦争指導の基本政策の策定、政治、戦術の調整にあたった最高戦争指導機関でした。東条英機内閣が倒れた後、1944年(昭和19)7月22日に成立した小磯国昭内閣によって、それまでの大本営政府連絡会議が国務と統帥の協調や陸海軍の協調を欠いていたとして、首相が強力に戦争指導に関与できる機関として設置されます。
 構成員は首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長で、必要に応じて枢密院議長や他の国務大臣、参謀次長、軍令部次長が列席し、内閣書記官長、内閣総合計画局長官、陸海軍省軍務局長4名が幹事となりました。しかし、目的とした大本営と政府との一元的な政治指導は実現せず、軍部と政府との連絡調整機関にとどまります。
 それでも、同年の独ソ和平斡旋・対重慶和平工作や翌年のポツダム宣言受諾を決定し、敗戦後の8月22日に廃止されました。尚、1945年(昭和20)6月22日には、昭和天皇も臨席した御前ニ於ケル最高戦争指導会議構成員会議が開催され、「時局収拾策・ソ連を仲介とした対米英和平」を決定しています。
 以下に、「最高戰爭指導󠄃會議ニ關スル件」1944年(昭和19)8月4日大本營政府連󠄃絡會議決定を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「最高戰爭指導󠄃會議ニ關スル件」 1944年(昭和19)8月4日大本營政府連󠄃絡會議決定

第一、方針

 最高戰爭指導󠄃會議ヲ設置シ戰爭指導󠄃ノ根本方針ノ策定及政戰兩略ノ吻合調整ニ任ス

第二、要󠄃領

一、本會議ハ宮中ニ於テ之ヲ開キ重要󠄃ナル案件ノ審議ニ當リテハ

 御親臨ヲ奏請󠄃スルモノトス

二、本會議ノ構󠄃成󠄃員ハ左ノ通󠄃リトス

 參謀總長
 軍令部總長
 內閣總理大臣
 外務大臣
 陸軍大臣
 海軍大臣
 必要󠄃ニ應シ其他ノ國務大臣、參謀次󠄄長及軍令部次󠄄長ヲ列席セシムルコトヲ得

三、本會議ニ幹事ヲ置キ內閣書記官長及陸海軍省兩軍務局長ヲ以テ之ニ充ツ

 必要󠄃ニ應シ所󠄃要󠄃ノ者ヲシテ說明ノ爲出席セシムルコトヲ得

四、本會議ニ幹事補佐ヲ置キ大本營、內閣、陸海外各省高等官中若干人ヲ以テ之ニ充ツ

 備考本會議ハ官制上ノモノトナサス

    「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(神護景雲4)第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)の命日(新暦8月28日)詳細
1830年(文政13)幕末の思想家・教育者吉田松陰の誕生日(新暦9月20日)詳細
1897年(明治30)幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎の命日詳細
1944年(昭和19)初の集団学童疎開列車が東京の上野駅を出発する詳細
1965年(昭和40)憲法・行政法学者・貴族院議員佐々木惣一の命日詳細
1992年(平成4)小説家松本清張の命日詳細
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