ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小津安二郎

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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、小津安二郎監督の映画『東京物語』が封切りされた日です。
 映画『東京物語』(とうきょうものがたり)は、昭和時代中期の1953年(昭和28)11月3日に封切りされた、小津安二郎監督の松竹映画(モノクロ・スタンダード・サイズ・136分)です。脚本を野田高梧と小津安二郎が担当し、主演は、戦死した息子の嫁役の原節子、父親役の笠智衆と母親役の東山千栄子で、老夫婦の東京旅行を通じて、家族のきずなとほころび、老いや死の問題を淡々と描いた作品で、小津映画の一つの到達点を示したものでした。
 昭和28年度文化庁芸術祭参加作品で、日本内外で、非常に高い評価を得て、1953年度のキネマ旬報ベストテンでは第2位にランキングされ、第8回毎日映画コンクール女優助演賞(杉村春子)を受賞しています。また、海外での公開は1957年(昭和32)にロンドンで上映されたのが最初で、翌年に第1回サザーランド杯を受賞し、海外での小津作品の評価が高まるきっかけとなりました。
 2012年に英国映画協会の映画雑誌『Sight&Sound』が発表した史上最高の映画ベストテン(英語版)の映画監督が選ぶランキングでは第1位、2023年ではトップ100で同率第4位を記録しています。それ以前に、小津安二郎監督は、『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)でも、原と笠のコンビで名作を送り出してきました。

〇小津安二郎(おづ やすじろう)とは?

 昭和時代に活躍した、映画監督・脚本家です。明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。
 1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。
 しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。
 それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。
 1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。
 そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

☆小津安二郎監督の映画作品一覧

<サイレント映画>
・懺悔の刃(1927年)
・若人の夢(1928年)
・女房紛失(1928年)
・カボチヤ(1928年)
・引越し夫婦(1928年)
・肉体美(1928年)
・宝の山(1929年)
・学生ロマンス 若き日(1929年)
・和製喧嘩友達(1929年)
・大学は出たけれど(1929年)
・会社員生活(1929年)
・突貫小僧(1929年)
・結婚学入門(1930年)
・朗かに歩め(1930年)
・落第はしたけれど(1930年)
・その夜の妻(1930年)
・エロ神の怨霊(1930年)
・足に触つた幸運(1930年)
・お嬢さん(1930年)
・淑女と髯(1931年)
・美人哀愁(1931年)
・東京の合唱(1931年)
・春は御婦人から(1932年)
・大人の見る繪本 生れてはみたけれど(1932年)
・青春の夢いまいづこ(1932年)
・また逢ふ日まで(1932年)
・東京の女(1933年)
・非常線の女(1933年)
・出来ごころ(1933年)
・母を恋はずや(1934年)
・浮草物語(1934年)□
・箱入娘(1935年)×□
・東京の宿(1935年)□
・大学よいとこ(1936年)

<トーキー映画>
・鏡獅子(1936年) - 記録映画
・一人息子(1936年)
・淑女は何を忘れたか(1937年)
・戸田家の兄妹(1941年)
・父ありき(1942年)
・長屋紳士録(1947年)
・風の中の牝?(1948年)
・晩春(1949年)
・宗方姉妹(1950年)
・麦秋(1951年)
・お茶漬の味(1952年)
・東京物語(1953年)
・早春(1956年)
・東京暮色(1957年)
・彼岸花(1958年)
・お早よう(1959年)
・浮草(1959年)
・秋日和(1960年)
・小早川家の秋(1961年)
・秋刀魚の味(1962年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)俳人山口誓子の誕生日詳細
俳人秋元不死男の誕生日詳細
1931年(昭和6)宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の詩を書く詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「東亜新秩序の建設」(第二次近衛声明)を出す詳細
1945年(昭和20)新日本婦人同盟(会長:市川房枝)が結成される詳細
1946年(昭和21)「日本国憲法」が公布される詳細
1949年(昭和24)湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞が決定、日本人初のノーベル賞受賞となる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、小津安二郎監督の映画『晩春』が封切りされた日です。
 映画『晩春』(だんしゅん)は、昭和時代中期の1949年(昭和24)9月13日に封切りされた、小津安二郎監督の松竹映画です。原作は、広津和郎著の小説『父と娘』で、脚本を野田高梧と小津安二郎が担当し、主演は、娘役の原節子、父親役の笠智衆で、娘の結婚を巡るホームドラマを小津が初めて描いた作品でした。
 日本内外で、非常に高い評価を得て、1949年度の「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画部門で1位となり、英国映画協会(BFI)選定の2012年版「史上最高の映画」で15位に輝いています。その後、小津安二郎監督は、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)でも、原と笠のコンビで名作を送り出しています。

〇小津安二郎(おづ やすじろう)とは?

 昭和時代に活躍した、映画監督・脚本家です。明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。
 1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。
 しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。
 それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。
 1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。
 そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

☆小津安二郎監督の映画作品一覧

<サイレント映画>
・懺悔の刃(1927年)
・若人の夢(1928年)
・女房紛失(1928年)
・カボチヤ(1928年)
・引越し夫婦(1928年)
・肉体美(1928年)
・宝の山(1929年)
・学生ロマンス 若き日(1929年)
・和製喧嘩友達(1929年)
・大学は出たけれど(1929年)
・会社員生活(1929年)
・突貫小僧(1929年)
・結婚学入門(1930年)
・朗かに歩め(1930年)
・落第はしたけれど(1930年)
・その夜の妻(1930年)
・エロ神の怨霊(1930年)
・足に触つた幸運(1930年)
・お嬢さん(1930年)
・淑女と髯(1931年)
・美人哀愁(1931年)
・東京の合唱(1931年)
・春は御婦人から(1932年)
・大人の見る繪本 生れてはみたけれど(1932年)
・青春の夢いまいづこ(1932年)
・また逢ふ日まで(1932年)
・東京の女(1933年)
・非常線の女(1933年)
・出来ごころ(1933年)
・母を恋はずや(1934年)
・浮草物語(1934年)□
・箱入娘(1935年)×□
・東京の宿(1935年)□
・大学よいとこ(1936年)

<トーキー映画>
・鏡獅子(1936年) - 記録映画
・一人息子(1936年)
・淑女は何を忘れたか(1937年)
・戸田家の兄妹(1941年)
・父ありき(1942年)
・長屋紳士録(1947年)
・風の中の牝雞(1948年)
・晩春(1949年)
・宗方姉妹(1950年)
・麦秋(1951年)
・お茶漬の味(1952年)
・東京物語(1953年)
・早春(1956年)
・東京暮色(1957年)
・彼岸花(1958年)
・お早よう(1959年)
・浮草(1959年)
・秋日和(1960年)
・小早川家の秋(1961年)
・秋刀魚の味(1962年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1791年(寛政3)俳人で中興五傑の一人とされる加舎白雄の命日(新暦10月10日)詳細
1948年(昭和23)昭和電工事件で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕される詳細
1953年(昭和28)弁護士・社会運動家布施辰治の命日詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争)詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、映画監督・脚本家小津安二郎の亡くなった日(誕生日でもある)です。
 小津安二郎(おづ やすじろう)は、明治時代後期の1903年(明治36)12月12日に、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれました。1910年(明治43)に深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学しましたが、子供は田舎で教育した方がよいという父の教育方針と環境悪化のため、1913年(大正2)に一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住します。
 1916年(大正5)に三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送り、映画に病みつきとなり、1921年(大正10)に卒業したものの、上級学校の受験に失敗し、翌年飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となりました。しかし、映画への思いは断ち切りがたく、1923年(大正12)には上京して、松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所します。
 その後、一年間の志願兵としての入営を経て、助監督に転じ、1927年(昭和2)には、監督第一作の時代劇「懺悔の刃」を発表しました。それからも、無声映画の「大学は出たけれど」(1929年)、「落第はしたけれど」(1930年)、「東京の合唱」(1931年)、「生まれてはみたけれど」(1932年)などを監督し、小市民の悲哀を描いた映画で評価されます。
 1936年(昭和11)に、初のトーキー「一人息子」を監督したものの、翌年に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊、1939年(昭和14)に召集解除となりました。1943年(昭和18)に軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在していましたが、1945年(昭和20)にシンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送り、翌年に日本へ帰還します。
 1947年(昭和22)に戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督、1949年(昭和24)に「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞、1949年(昭和24)に「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞、1953年(昭和28)には、自身の最高傑作とされる「東京物語」を発表し、高い評価を得ました。そして、1958年(昭和33)に紫綬褒章、1959年(昭和34)に日本芸術院賞、1961年(昭和36)に芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞、1962年(昭和37)に映画人として初めて芸術院会員となるなど数々の栄誉にも輝きます。
 さらに、1963年(昭和38)にブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞しましたが、同年12月12日に東京において、60歳で亡くなりました。

〇小津安二郎監督作品一覧

・「懺悔の刃」(1927年)
・「若人の夢」(1928年)
・「女房紛失」(1928年)
・「カボチャ」(1928年)
・「引越し夫婦」(1928年)
・「肉体美」(1928年)
・「宝の山」(1929年)
・「学生ロマンス」 若き日(1929年)
・「和製喧嘩友達」(1929年)
・「大学は出たけれど」(1929年)
・「会社員生活」(1929年)
・「突貫小僧」(1929年)
・「結婚学入門」(1930年)
・「朗らかに歩め」(1930年)
・「落第はしたけれど」(1930年)
・「その夜の妻」(1930年)
・「エロ神の怨霊」(1930年)
・「足に触った幸運」(1930年)
・「お嬢さん」(1930年)
・「淑女と髭」(1931年)
・「美人哀愁」(1931年)
・「東京の合唱(コーラス)」(1931年)
・「春は御婦人から」(1932年)
・「大人の見る絵本 生れてはみたけれど」(1932年)
・「青春の夢いまいづこ」(1932年)
・「また逢ふ日まで」(1932年)
・「東京の女」(1933年)
・「非常線の女」(1933年)
・「出来ごころ」(1933年)
・「母を恋はずや」(1934年)
・「浮草物語」(1934年)
・「箱入娘」(1935年)
・「菊五郎の鏡獅子」(1935年)
・「東京の宿」(1935年)
・「大学よいとこ」(1936年)
・「一人息子」(1936年)
・「淑女は何を忘れたか」(1937年)
・「戸田家の兄妹」(1941年)
・「父ありき」(1942年)
・「長屋紳士録」(1947年)
・「風の中の牝鶏(めんどり)」(1948年)
・「晩春」(1949年)
・「宗方姉妹」(1950年)
・「麦秋」(1951年)
・「お茶漬の味」(1952年)
・「東京物語」(1953年)
・「早春」(1956年)
・「東京暮色」(1957年)
・「彼岸花」(1958年)
・「お早よう」(1959年)
・「浮草」(1959年)
・「秋日和」(1960年)
・「小早川家の秋」(1961年)
・「秋刀魚の味」(1962年)

☆小津安二郎関係略年表

・1903年(明治36)12月12日 東京市深川区万年町(現在の東京都江東区)において、商人であった父・寅之助と母・あさゑの次男として生まれる
・1910年(明治43) 深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学する
・1913年(大正2)3月 一家で小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)に移住する
・1916年(大正5) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎生活を送る
・1921年(大正10) 三重県立第四中学校(現在の宇治山田高等学校)を卒業する
・1922年(大正11) 三重県師範学校受験に失敗し、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校の代用教員となる
・1923年(大正12) 松竹蒲田撮影所へ撮影助手として入所する
・1924年(大正13)12月 東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営する
・1925年(大正14)11月 伍長で除隊となる
・1927年(昭和2) 時代劇「懴悔の刃」で監督デビューする
・1929年(昭和4) 「大学は出たけれど」を監督する
・1930年(昭和5) 「落第はしたけれど」を監督する
・1931年(昭和6) 「東京の合唱」を監督する
・1932年(昭和7) 「生まれてはみたけれど」を監督する
・1934年(昭和9)4月 父・寅之助が亡くなる
・1936年(昭和11) トーキー「一人息子」を監督する
・1937年(昭和12)9月10日 召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊する
・1939年(昭和14)7月16日 召集解除となる
・1943年(昭和18)6月 軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在する
・1945年(昭和20)8月 シンガポールで敗戦を迎え、民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送くる
・1946年(昭和21)2月 日本へ帰還する
・1947年(昭和22) 戦後第1作となる「長屋紳士録」を監督する
・1949年(昭和24) 「晩春」でキネマ旬報ベスト・テン1位、第4回毎日映画コンクール監督賞・脚本賞を受賞する
・1949年(昭和24) 「麦秋」で第2回ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール日本映画賞を受賞する
・1953年(昭和28) 「東京物語」を監督する
・1958年(昭和33) 紫綬褒章を受章する
・1959年(昭和34)2月 日本芸術院賞を受賞する
・1961年(昭和36) 芸術選奨文部大臣賞、アジア映画祭監督賞を受賞する
・1962年(昭和37) 「秋刀魚の味」を監督する
・1962年(昭和37)11月 映画人として初めて芸術院会員となる
・1963年(昭和38) ブルーリボン賞日本映画文化賞、毎日映画コンクール特別賞、NHK特別賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月12日 東京において、60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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