
『おらが春』(おらがはる)は、俳人小林一茶の俳諧俳文集で、江戸時代後期の1819年(文政2年12月29日)に成立し、一茶没後25年たった1852年(嘉永5)に刊行されました。一茶が数え年57歳の元旦から歳末までの見聞・感想等を、長女さとの死を中心に発句を交えて記し、挿絵を加えたものたものです。
21の章段からなり、発句を交えて日記風に記していて、一茶の晩年の円熟境を示す代表作とされてきました。信州の白井一之が山岸梅塵家伝来の真跡を譲られて、逸淵序と四山人・西馬の跋を添えで刊行しています。
書名の『おらが春』は著者の命名ではなく、巻頭の一文中にある発句「めでたさも中くらゐなりおらが春」により刊行者が名づけたものでした。
以下に、『おらが春』(抜粋)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
21の章段からなり、発句を交えて日記風に記していて、一茶の晩年の円熟境を示す代表作とされてきました。信州の白井一之が山岸梅塵家伝来の真跡を譲られて、逸淵序と四山人・西馬の跋を添えで刊行しています。
書名の『おらが春』は著者の命名ではなく、巻頭の一文中にある発句「めでたさも中くらゐなりおらが春」により刊行者が名づけたものでした。
以下に、『おらが春』(抜粋)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇小林一茶著『おらが春』(抜粋)
普甲寺上人の話
昔、たんごの国普甲寺(ふこうじ)といふ所に深く浄土をねがふ上人ありけり。としの始(はじめ)は世間祝ひごとしてさゞめけば、我もせんとて、大卅日(おおみそか)の夜、ひとりつかふ小法師(こぼうし)に手紙したゝめ渡して、翌(あす)の暁にしかじかせよと、きといひをしへて、本堂へとまりにやりぬ。小法師は元日の旦(あした)、いまだ隅み隅みは小闇(おぐら)きに、初烏(はつがらす)の声とおなじく、がばと起おきて、教へのごとく表門(おもてもん)を丁々(ちようちよう)と敲(たた)けば、内より「いづこより」と問ふ時、「西方弥陀仏(さいほうみだぶつ)より年始の使僧(つかいそう)に候」と答ふるよりはやく、上人裸足にておどり出で、門の扉を左右へさつと開(ひら)きて、小法師を上坐に請(しよう)じて、きのふの手紙をとりてうやうやしくいただきて読(よみ)ていはく、「其その世界は衆苦充満に候間(そうろうあいだ)、はやく吾国に来たるべし。聖衆(しようじゆ)出いでむかひしてまち入候」と、よみ終りて、「おゝおゝ」と泣なかれけるとかや。此この上人、みづから工(たくみ)拵(こしら)へたる悲しみに、みづからなげきつゝ、初春の浄衣を絞(しぼ)りて、したゝる涙を見て祝ふとは、物に狂ふさまながら、俗人に対して無常を演のぶルを礼とすると聞きくからに、仏門においては、いはひの骨張こつちよう)なるべけれ。それとはいさゝか替りて、おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界(きようがい)ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家(くずや)はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤(すす)はかず、雪の山路の曲まがり)形なりに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。
目出度めでたさもちう位也(くらいなり)おらが春 一茶
わが友魚淵といふ人の所に、天が下にたぐひなき牡丹咲きたりとて、いひつぎ、きゝ伝へて、界隈はさら也、よそ国の人も、足を労して、わざわざ見に来るもの、日々多かりき。おのれもけふ通がけに立より侍りけるに、五間ばかりに花園をしつらひ、雨覆ひの蔀など今様めかしてりゝしく、しろ・紅ゐ・紫、はなのさま透間もなく開き揃ひたり。其中に黒と黄なるは、いひしに違はず、目をおどろかす程めづらしく妙なるが、心をしづめてふたゝび花のありさまを思ふに、ばさばさとして、何となく見すぼらしく、外の花にたくらぶれば、今を盛りのたをやめの側に、むなしき屍を粧ひ立て、並べおきたるやうにて、さらさら色つやなし。是主人のわざくれに紙もて作りて、葉がくれにくゝりつけて、人を化すにぞありける。 されど腰かけ台の価をむさぼるためにもあらで、たゞ日々の群集(ぐんじゆ)に酒・茶つひやしてたのしむ主の心、おもひやられてしきりにをかしくなん。
紙屑もぼたん顏ぞよ葉がくれに 一茶
此もの、諸越の仙人に飛行自在の術ををしへ、我朝天王寺には大たゝ(か)ひに、ゆゝしき武名を殘しき。それは昔々のことにして、今此治れる御代に隨ひ、ともに和らぎつゝ、夏の夕暮せどに莚を廣げて、「福よ福よ。」と呼べば、やがて隅の藪よりのさのさ這ひよりて、人と同じく凉む、其つら魂ひ一句いひたげにぞありける、さる物から長嘯子の蟲合に、歌の判者にゑ[え]らまれしは、汝が生涯のほまれなるべし。
ゆ[い]うぜんとして山を見る蛙哉 一茶
添へ乳
去年の夏、竹植うる日のころ、憂き節しげきうき世に生まれたる娘、おろかにしてものにさとかれとて、名をさとと呼ぶ。今年誕生日祝ふころほひよりて、てうちてうちあはは、おつむてんてん、かぶりかぶり振りながら、同じ子どもの風車といふものを持てるを、しきりに欲しがりてむづかれば、とみに取らせけるを、やがてむしやむしやしやぶつて捨て、つゆほどの執念なく、ただちにほかのものに心移りて、そこらにある茶碗を打ち破りつつ、それもただちに飽きて、障子の薄紙をめりめりむしるに、「よくした、よくした。」と保むれば、まことと思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。心のうち一点の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、あとなきわざをぎ見るやうに、なかなか心の皺を伸ばしぬ。また、人の来たりて、「わんわんはどこに。」と言へば犬に指さし、「かあかあは。」と問へば鳥に指さすさま、口もとより爪先まで、愛敬こぼれて愛らしく、言はば春の初草に胡蝶の戯るるよりもやさしくなんおぼえ侍る。このをさな、仏の守りし給ひけん、逮夜の夕暮れに、持仏堂に蝋燭照らして鈴打ち鳴らせば、どこにゐてもいそがはしく這ひ寄りて、早蕨の小さき手を合はせて「なんむなんむ。」と唱ふ声、しをらしく、ゆかしく、なつかしく、殊勝なり。それにつけても、おのれ頭にはいくらの霜をいただき、額にはしわしわの波の寄せ来る齢にて、弥陀頼むすべも知らで、うかうか月日を費やすこそ、二つ子の手前もはづかしけれと思ふも、その座(*)を退けば、はや地獄の種をまきて、膝にむらがる蠅を憎み、膳をめぐる蚊をそしりつつ、あまつさへ仏の戒めし酒を飲む。折から門に月さして、いと涼しく、外に童べの踊りの声のすれば、ただちに小椀投げ捨てて、片ゐざりにゐざり出て、声を上げ手まねして、うれしげなるを見るにつけつつ、いつしかかれをも振り分け髪の丈になして、踊らせて見たらんには、二十五菩薩の管弦よりも、はるかまさりて興あるわざならんと、わが身に積もる老いを忘れて、憂さをなん晴らしける。かく日すがら、雄鹿の角のつかの間も、手足を動かさずといふことなくて、遊び疲れるものから、朝は日のたけるまで眠る。そのうちばかり母は正月と思日、飯炊き、そこら掃きかたづけて、団扇ひらひら汗を冷まして、閨に泣き声のするを目の覚むる合図と定め、手かしこく抱き起こして、裏の畑に尿やりて、乳房あてがへば、すはすは吸ひながら、胸板のあたりを打ちたたきて、にこにこ笑ひ顔を作るに、母は長々胎内の苦しびも、日々襁褓の汚らしきも、ほとほと忘れて、衣の裏の玉を得たるやうに、なでさすりて、ひとしほ喜ぶありさまなりけらし。
蚕のあと数へながらに添へ乳かな 一茶
露の世
楽しみ極りて愁ひ起るは、うき世のならひなれど、いまだたのしびも半(なかば)ならざる千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑り子を、寝耳に水のおし来るごとき、あらあらしき痘(いも)の神に見込みこま)れつゝ、今、水濃(すいのう)のさなかなれば、やをら咲ける初花(はつはな)の泥雨(でいう)にしほれたるに等しく、側(そば)に見る目さへ、くるしげにぞありける。是(これ)も二三日経たれば、痘(いも)はかせぐちにて、雪解(ゆきげ)の峡土(かいつち)のほろほろ落(おつ)るやうに、瘡蓋(かさぶた)といふもの取とれれば、祝ひはやして、さん俵法師(だらぼうし)といふを作りて、笹湯(ささゆ)浴(あび)せる真似かたして、神は送り出したれど、益々(ますます)よはりて、きのふよりけふは頼みすくなく、終(つい)に六月廿一日の蕣(あさがお)の花と共に、此この世をしぼみぬ。母は死顔(しにがお)にすがりて、よゝよゝと泣(なく)もむべなるかな。この期(ご)に及んでは、行(ゆく)水のふたゝび帰らず、散(ちる)花の梢にもどらぬくひごとなどゝ、あきらめ顔しても、思ひ切(きり)がたきは恩愛のきづな也けり。
露の世は露の世ながらさりながら 一茶
二十七日晴
坊守り、朝とく起て飯を焚ける折から、東隣の園右衛門といふ者の餅搗なれば、「例之通り来たるべし。冷てはあしかりなん。ほかほか湯けぶりの立うち賞翫せよ」といふからに、今や今やと待にまちて、飯は氷りのごとく冷へ(え)て、餅はつひに来ずなりぬ。
我門へ来さうにしたり配餅 一茶
あなた任せ
他力信心他力信心と、一向に他力にちからを入いれ)て、頼み込み候輩(やから)は、つひに他力縄に縛(しばら)れて、自力地獄の炎の中へ、ぼたんとおち入いり)候。其(その)次に、かゝるきたなき土凡夫(どぼんぷ)を、うつくしき黄金(こがね)の膚になしてくだされと、阿弥陀仏に、おし誂(あつら)へに、誂(あつら)えばなしにしておいて、はや五体は仏染(じ)み成りたるやうに悪わる)すましなるも、自力の張本人たるべく候。問(とい)ていはく、いか様(よう)に心得たらんには、御流義に叶ひ侍りなん。答(こたえ)ていはく、別に小むづかしき子細は不存(ぞんぜず)候。たゞ自力他力、何のかのいふ芥(もくた)を、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生(ごしよう)の一大事は、其(その)身を如来の御前に投(なげ)出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申もうすばかり也。如斯(かくのごとく)決定(けつじよう)しての上には、「なむあみだ仏」といふ口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘(ぐも)の行ひして、人の目を霞(かす)め、世渡る雁のかりそめにも、我(わが)田へ水を引く盗み心を、ゆめゆめ持(もつ)べからず。しかる時は、あながち作り声して念仏申もうすに不及(およばず)。ねがはずとも仏は守り給ふべし。是則(これすなわち)、当流の安心(あんじん)とは申也。穴(あな)かしこ。
ともかくもあなた任せのとしの暮 一茶
〇小林一茶(こばやし いっさ)とは?
江戸時代後期に活躍した俳人です。1763年(宝暦13年5月5日)に、信濃国水内郡柏原村(現在の長野県水内郡信濃町)の中農であった父・農業弥五兵衛、妻・くにの長男として生まれましたが、本名は弥太郎といいました。
3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と折り合いが悪く、15歳の頃江戸へ出て奉公します。俳諧をたしなむようになり、25歳頃には、葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に俳句を学ぶようになりました。29歳で葛飾派の執筆になり、師の死後、1792年(寛政4)から6年間、西国に俳諧修行に出、1795年(寛政7)には、撰集『旅拾遺』を刊行します。
1801年 (享和元) に父の没後、継母子と遺産を10年余り争い、1813年(文化 10)に帰郷し、遺産を2分することで解決しました。1814年(文化11)には、江戸俳壇を引退し信濃へ帰郷する一茶の江戸俳壇引退記念撰集として『三韓人』が刊行されます。
52歳で初めて結婚し、門弟のところを回ったりしていますが、4人の子どもと妻に先立たれました。後妻ゆきとも3ヶ月で離婚し、3度目の妻やをを迎えたものの、その翌年は大火で家を焼くなど不遇が続きます。
火災後は、土蔵暮らしをしていましたが、1828年(文政10年11月19日)に、三度目の中風に罹り、65歳で亡くなりました。不幸が続く中で、俗語・方言を交え、自嘲と反逆精神に基づく独自の作風を示し、発句はニ万句以上に及び、句文集『おらが春』は有名です。
死後刊行されたものも多く、明治時代以降に注目され、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳人とされるようになりました。郷里の柏原に一茶旧宅(国指定史跡)が残り、「一茶記念館」も建てられています。
3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と折り合いが悪く、15歳の頃江戸へ出て奉公します。俳諧をたしなむようになり、25歳頃には、葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に俳句を学ぶようになりました。29歳で葛飾派の執筆になり、師の死後、1792年(寛政4)から6年間、西国に俳諧修行に出、1795年(寛政7)には、撰集『旅拾遺』を刊行します。
1801年 (享和元) に父の没後、継母子と遺産を10年余り争い、1813年(文化 10)に帰郷し、遺産を2分することで解決しました。1814年(文化11)には、江戸俳壇を引退し信濃へ帰郷する一茶の江戸俳壇引退記念撰集として『三韓人』が刊行されます。
52歳で初めて結婚し、門弟のところを回ったりしていますが、4人の子どもと妻に先立たれました。後妻ゆきとも3ヶ月で離婚し、3度目の妻やをを迎えたものの、その翌年は大火で家を焼くなど不遇が続きます。
火災後は、土蔵暮らしをしていましたが、1828年(文政10年11月19日)に、三度目の中風に罹り、65歳で亡くなりました。不幸が続く中で、俗語・方言を交え、自嘲と反逆精神に基づく独自の作風を示し、発句はニ万句以上に及び、句文集『おらが春』は有名です。
死後刊行されたものも多く、明治時代以降に注目され、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳人とされるようになりました。郷里の柏原に一茶旧宅(国指定史跡)が残り、「一茶記念館」も建てられています。
<代表的な句>
・「わが星は 上総の空を うろつくか」
・「江戸じまぬ きのふしたはし 更衣(ころもがえ)」
・「我と来て 遊べや親の ない雀」
・「秋の風 乞食(こじき)は 我を見くらぶる」
・「是(これ)がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺」
・「今年から 丸まうけぞよ 娑婆遊(しゃばあそ)び」
・「花の影 寝まじ未来が 恐ろしき」
・「めでたさも 中くらいなり おらが春」
・「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
・「やれ打つな 蠅が手をすり 足をする」
・「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」
☆小林一茶の主要な作品
・紀行文『西国紀行』(1795年)
・撰集『旅拾遺』 (1795年)
・撰集『さらば笠』(1798年)
・俳諧俳文集『父の終焉日記』 (1801年)
・紀行文『草津道の記』(1809年)
・撰集『三韓人』 (1814年)
・句日記『七番日記』 (1810~18年)
・俳諧俳文集『おらが春』(1819年)