ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小村寿太郎

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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、外務大臣小村寿太郎が、ロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡し、日露戦争へ向かっていった日です。
 日露戦争(にちろせんそう)は、1904年(明治37)2月10日~1905年(明治38)9月17日まで、日本と露国の間で、朝鮮(大韓帝国)・満州の支配をめぐって行われた戦争でした。日本は、1894年(明治27)から翌年にかけての日清戦争の後、朝鮮支配の確立と満州進出をめざし、ロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領し、さらに朝鮮進出を企てたため、両国の対立が激化しします。
 日本はそれに対し、1902年(明治35)1月30日に、日英同盟を締結し、日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的としました。翌年6月に元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したものの、妥協点を見いだせないままに推移します。
 とうとう、1904年(明治37)2月6日に、外務大臣小村寿太郎はロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡し、2月8日には、奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して、戦いの火ぶたが切られ、同日陸軍も朝鮮半島に上陸し、まもなく完全に制圧、2月10日に正式に、「露国に対する宣戦の詔勅」が発せらて戦線が布告されました。日本は、同年8月以降の旅順攻撃、翌年3月の奉天会戦などで有利に戦いを進めましたが、以後戦闘は膠着状態となり、5月の日本海海戦でも勝利を得たものの、戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しむこととなります。
 ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大、1905年(明治38)1月には、血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫しました。そこで、米国大統領T.ローズベルトの講和勧告をもとに、8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議が開催され、9月5日に「日露講和条約(ポーツマス条約)」調印に至ります。
 この結果、日本は朝鮮における優越権、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利、南樺太を得て、大陸進出の地歩を固めました。しかし、賠償金が獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では、内相官邸焼打ちなどの暴動(日比谷焼打事件)が発生することとなります。
 この戦争に直接参加した総兵力は108万余人、艦船31.8万t、戦費は約20億円を要し、疾病をも含めた死傷者は37万余人、喪失艦船91隻と大きなものとなりました。
 以下に、「露国に対する宣戦の詔勅」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「露国に対する宣戦の詔勅」 1904年(明治37)2月10日

露国ニ対スル宣戦ノ詔勅

天佑[1]ヲ保有シ萬世一系[2]ノ皇祚[3]ヲ踐メル[4]大日本帝國皇帝ハ忠實[5]勇武[6]ナル汝有衆[7]ニ示ス

朕[8]茲ニ露國[10]ニ對シテ戰ヲ宣ス朕[8]カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露國[10]ト交戰ノ事ニ從フヘク朕[8]カ百僚[11]有司[12]ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ其ノ權能[13]ニ應シテ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ凡ソ國際條規[14]ノ範圍ニ於テ一切ノ手段ヲ盡シ遺算[15]ナカラムコトヲ期セヨ

惟フニ文明ヲ平和ニ求メ列國ト友誼[16]ヲ篤クシテ以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ各國ノ權利利益ヲ損傷セスシテ永ク帝國ノ安全ヲ將來ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ朕[8]夙ニ[12]以テ國交ノ要義[18]ト爲シ旦暮[19]敢テ違ハサラムコトヲ期ス朕[8]カ有司[12]モ亦能ク朕[8]カ意ヲ體シテ事ニ從ヒ列國トノ關係年ヲ逐フテ益々親厚[20]ニ赴クヲ見ル今不幸ニシテ露國[10]ト釁端[21]ヲ開クニ至ル豈朕[8]カ志ナラムヤ

帝國ノ重ヲ韓國[22]ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ兩國累世[23]ノ關係ニ因ルノミナラス韓國[22]ノ存亡[24]ハ實ニ帝國安危[25]ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露國[10]ハ其ノ淸國トノ明約[26]及列國ニ對スル累次[27]ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲[28]ニ占據シ益々其ノ地歩[29]ヲ鞏固[30]ニシテ終ニ之ヲ併呑[31]セムトス若シ滿洲[28]ニシテ露國[10]ノ領有ニ歸セン乎韓國[22]ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス故ニ朕[8]ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ有司[12]ヲシテ露國[10]ニ提議[32]シ半歳ノ久シキニ亙リテ屡次[33]折衝ヲ重ネシメタルモ露國[10]ハ一モ交讓[34]ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠日[35]彌久[36]徒ニ時局ノ解決ヲ遷延[37]セシメ陽ニ平和ヲ唱道[38]シ陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈從[39]セシメムトス凡ソ露國[10]カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫モ[40]認ムルニ由ナシ露國[10]ハ既ニ帝國ノ提議[32]ヲ容レス韓國[22]ノ安全ハ方ニ危急[41]ニ瀕シ帝國ノ國利[42]ハ將ニ侵迫[43]セラレムトス事既ニ茲ニ[9]至ル帝國カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル將來ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓[44]ノ間ニ求ムルノ外ナシ朕[8]ハ汝有衆[7]ノ忠實[5]勇武[6]ナルニ倚頼[45]シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

御名御璽

 明治三十七年二月十日

            内閣總理大臣兼
              内  務  大  臣 伯爵 桂  太 郞
              海  軍  大  臣 男爵 山本權兵衞
              農 商 務 大 臣 男爵 淸 浦 奎 吾
              大  藏  大  臣 男爵 曾 禰 荒 助
              外  務  大  臣 男爵 小村壽太郎
              陸  軍  大  臣 寺 内 正 毅
              司  法  大  臣 波田野敬直
              遞  信  大  臣 大 浦 兼 武
              文  部  大  臣 久 保 田 讓

   「ウイキソース」より

【注釈】

[1]天佑:てんゆう=天の加護。天のたすけ。天助。
[2]萬世一系:ばんせいいっけい=永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統についていう。
[3]皇祚:こうそ=天皇の位。皇位。
[4]踐メル:ふめる=地位に就く。先人にしたがう。つらなる。
[5]忠實:ちゅうじつ=まごころをもってよくつとめること。誠実。
[6]勇武:ゆうぶ=勇ましくて強いこと。勇猛。
[7]有衆:ゆうしゅう=国民。 君主から人民を呼ぶときの語。
[8]朕:ちん=われ。天皇の自称。
[9]茲ニ:ここに=この点。この時。この場合。
[10]露國:ろこく=ロシア。
[11]百僚:ひゃくりょう=多くの官吏。もろもろのつかさ。官職にあるすべての人々。百官。
[12]有司:ゆうし=その職を行なうべき官司。また、そこに属する官人。官吏。
[13]權能:けんのう=ある事柄について権利を主張し、行使することができる能力。権限。職権。
[14]國際條規:こくさいじょうき=国際的な条約や規範。
[15]遺算:いさん=計算ちがい。 また、見込みちがい。
[16]友誼:ゆうぎ=友人としての情愛。友達のよしみ。友情。
[17]夙ニ:つとに=ずっと以前から。早くから。
[18]要義:ようぎ=重要な意義。物事の根本となることわり。大切な趣旨。
[19]旦暮:たんぼ=朝から暮までの時間。転じて、わずかの間。ちょっとの間。
[20]親厚:しんこう=きわめて親しくすること。また親切で手厚いこと。特に親しいこと。
[21]釁端:きんたん=不和のいとぐち。あらそいのもと。戦端。
[22]韓國:かんこく=ここでは大韓帝国のこと。
[23]累世:るいせい=世を重ねること。代々。累代。
[24]存亡:そんぼう=存在と滅亡。残ることとほろびること。
[25]安危:あんき=安全と危険。安全であるか、危険であるかということ。
[26]淸國トノ明約:しんこくとのめいやく=「日清講和条約」等の清国と日本との条約。
[27]累次:るいじ=たびたび。
[28]滿洲:まんしゅう=中国東北地区の遼寧・吉林・黒竜江3省の旧称。
[29]地歩:ちほ=拠って立つ所。立脚地。地盤。また、自分の立場。位置。
[30]鞏固:きょうこ=かたく、丈夫なさま。確かなさま。かたく、丈夫にすること。堅固。確固。
[31]併呑:へいどん=あわせのむこと。他の勢力を自分の勢力下に入れること。
[32]提議:ていぎ=論議や議案を提出すること。また、その提出した論議や議案。
[33]屡次:るじ=しばしば。たびたび。
[34]交讓:こうじょう=互いに譲りあうこと。互譲。
[35]曠日:こうじつ=何もしないで、むなしく日を過ごすこと。
[36]彌久:びきゅう=行為・行事などが長い期間にわたること。久しく行なわれること。長引くこと。
[37]遷延:せんえん=のびのびになること。また、のびのびにすること。
[38]唱道:しょうどう=ある思想や主張を人に先立って唱えること。
[39]屈從:くつじゅう=権力や力の強い者に、自分の意志をまげて従うこと。屈伏。
[40]毫モ:ごうも=少しも。ちっとも。
[41]危急:ききゅう=危険な事態が目前に迫っていること。危難が近づくこと。また、そのさま。
[42]國利:こくり=国家の利益。国益。
[43]侵迫:しんはく=他国の領土や権利などを不法に侵すことがさしせまること。
[44]旗鼓:きこ=軍隊。軍事。武事。
[45]倚頼:いらい=あるものによりかかって、それを頼みにすること。また、頼みとするもの。

<現代語訳>

 天の加護をもって、永久に一つの系統が続く皇位に就いてきた大日本帝国の皇帝は忠実で勇猛である、おまえたち国民に以下の事を示す。

 われはここにロシアに対して宣戦を布告する、われの陸軍・海軍はぜひとも全力を尽くしてロシアとの戦いに従事せよ。わが諸々の官吏は、ぜひとも各々その職務を統率、その職権に応じて国家の目的を達するように努力せよ。およそ国際的な条約や規範の範囲において、一切の手段を尽くし、見込み違いがないよう決意せよ。

 考えるに文明を平和によって発展させ、諸国と友好関係を促進することによって、東洋の治安を永遠に維持し、各国の権利や利益を損傷しないようにし、永く日本帝国の安全を将来に渡って保障されるような状態を確立していくため、われはずっと以前から国交の根本として、少しでも違わないようにと心に誓ってきた。われが官吏もまたよくわれの真意を心に留めて守るようにし、諸国との関係も年を経るに従って、さらに特に親しくなっているように見ている。今、不幸にしてロシアと戦端を開くに至ってしまったが、決してわれの本意ではない。

 日本帝国の重点を大韓帝国の保全に置いてきたのは、昨今の事ではない。これは両国の代々の関係によるだけでなく、大韓帝国の存亡は、実に日本帝国の安全に関わるところによるものである。ところが、ロシアはその清国との明約や諸国に対する度々の宣言にもかかわらず、依然として満洲を占拠し、ますますその立ち位置を強固にして、ついにはこれを自分の勢力下に入れようとしている。もし満洲がロシアの領有となってしまったなら、大韓帝国の保全は支持することができず、極東の平和もそもそも望むことができなくなってしまう。従って、われはこの機会に際し、心から妥協によって、時局を解決し、もって平和を恆久に維持することを期待し、官吏を遣わしてロシアに対して議論や提案をし、半年の永きに渡って、度々折衝を重ねさせてきた。しかし、ロシアは少しも互いに譲りあおうという精神でこれを迎えず、むなしく長引かせ、いたずらに時局の解決を延び延びにし、表では平和を唱えながら、裏では海軍・陸軍の軍備を増大し、それによって我国を屈伏させようとしてきた。そもそも、ロシアには最初から平和を好む誠意なるものを少しも認められない。ロシアは、もはや日本帝国の議論や提案に応じず、大韓帝国の安全は、間違いなく危険にさらされ、日本帝国の国益もまさに不法に侵されようとしている。事態がすでにここに至ってしまっては、日本帝国は平和的な交渉によって、希求しようとした将来の保障は、今日これを軍事によって求める外にない。われはおまえたち国民の忠実で勇猛なることを頼みとし、速やかに平和を永遠に取り戻し、それによって日本帝国の栄光を保つことを期待する。


 天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。

 朕はこの文書で、ロシアに対する戦争を行うことを布告する。朕の陸軍と海軍は、ぜひとも全力をつくしてロシアと戦ってほしい。また朕のすべての部下らは、それぞれの職務や権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段をつくして誤ちのないように心がけよ。

 朕の考えは、文明を平和的なやりかたで発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を永遠に維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。これは朕が他国と交渉する際に最も重視していることがらで、常にこうした考えに違反しないよう心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従ってさまざまな事柄を処理してきたので、外国との関係は年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。

 日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。事態は、既にここまで悪化しているのである。日本帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を得ようしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、日本帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。

☆日露戦争関係略年表

<1903年(明治36)>
・2月7日 ロシアが中国東北部からの撤兵を中止する
・4月21日 京都の山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われる
・4月 ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告する
・5月 ロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめる(龍岩浦事件)
・6月10日 戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出する(七博士建白事件)
・6月12日 アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられる
・6月23日 明治天皇臨席の御前会議に、「満韓交換論」とも言うべき対露方針が提出されて、対露交渉に臨むことが確認される
・6月24日 「日露開戦を唱える七博士意見書」の全文が「東京朝日新聞」紙上に掲載され、新聞「万朝報」紙上で幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判する
・6月30日 新聞「万朝報」に、内村鑑三の非戦論が掲載される
・7月23日 林董駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める
・8月12日 栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項を提出、中国東北部・朝鮮半島に関する交渉を開始する
・10月3日 ロシアが日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出とて交渉する
・12月30日 日本が戦争が勃発した際の清国・大韓帝国に対する方針を閣議で決定する

<1904年(明治37)>
・1月17日 週刊「平民新聞」第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・1月24日 週刊「平民新聞」第11号に、幸徳秋水の「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月4日 明治天皇臨席の御膳会議で、対露開戦が決定される  
・2月6日 日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡す
・2月7日 週刊「平民新聞」第13号に、幸徳秋水の社説「和戦を決する者」が掲載される
・2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸する
・2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲する
・2月9日 仁川沖海戦が行われる
・2月10日 日・露相互で宣戦布告が出される
・2月11日 大本営が設置される
・2月12日 清国が局外中立を宣言する
・2月14日 週刊「平民新聞」第14号に、幸徳秋水の「戦争来」・「兵士を送る」・「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月23日 大韓帝国と日韓議定書を結ぶ
・2月24日 第一次旅順口閉塞作戦実施
・3月13日 週刊「平民新聞」第18号に、幸徳秋水の社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する) が掲載される
・3月20日 週刊「平民新聞」第19号に、幸徳秋水の「戦争と小学児童」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・3月24日 週刊「平民新聞」第20号に、幸徳秋水の「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)が掲載されるが、発禁処分を受ける 
・3月27日 第二次旅順口閉塞作戦実施
・4月1日 「非常特別税法」、「煙草専売法」が公布それる
・5月1日 鴨緑江会戦が行われる
・5月8日 日本軍が遼東半島に上陸開始する
・6月20日 満州軍総司令部を設置する
・7月28日 ロシア国内でヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣が暗殺される
・8月10日 黄海海戦が行われる
・8月22日 大韓帝国と「第一次日韓協約」を結ぶ
・8月14日 蔚山沖海戦が行われる
・8月19日 第一回旅順総攻撃が行われる
・8月30日 遼陽会戦が行われる
・9月 文芸誌『明星』に、与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が掲載される
・10月 雑誌『太陽』で、大町桂月が与謝野晶子を“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難する
・10月9日 沙河会戦が行われる
・10月15日 バルチック艦隊が出航する
・11月 文芸誌『明星』に与謝野晶子の「ひらきぶみ」が掲載され、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と大町桂月に反論する
・11月26日 第二回旅順総攻撃が行われる
・12月5日 日本軍が旅順口203高地を占領する
・12月31日 第三回旅順総攻撃が行われる

<1905年(明治36)>
・1月 雑誌『太陽』に、大塚楠緒子の厭戦詩「お百度詣」が掲載される
・1月1日 「非常特別税法」改正法、「塩専売法」、「相続税法」を公布する
・1月2日 旅順開城する
・1月22日 ロシア国内で血の日曜日事件が起き、各地でストライキが起きる
・1月25日 黒溝台会戦が行われる
・3月1日 奉天会戦が行われる
・5月27日 日本海海戦が行われる
・6月 ロシア国内各地で反乱・暴動が起きる(ロシア第一革命の始まり)
・6月9日 アメリカのセオドア・ルーズベルトが正式に日露両国へ講和勧告を行う
・6月14日 ロシア国内で戦艦ポチョムキンの反乱が起きる
・6月12日 ロシアが講和勧告を正式に受諾する
・7月7日 日本軍が樺太へ上陸(樺太作戦開始)する
・7月23日 ロシア国内でニコライ2世とドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ
・7月29日 日本とアメリカ間で「桂・タフト協定」が締結される
・7月31日 日本軍が樺太を占領する
・8月9日 アメリカのポーツマスで日露講和会議が始まる
・8月12日 「日英同盟」が改訂される
・8月28日 明治天皇臨席の御前会議で、日露講和成立方針が決定される
・9月1日 日露両国が休戦議定書に調印(休戦)する
・9月5日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」に調印、日本で講和に反対する日比谷焼き打ち事件が起きる
・9月6日 日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令を敷く
・9月7日 神戸で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・9月12日 横浜で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・10月 ロシア国内でゼネラル・ストライキが起きる
・10月14日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」を批准(終戦)する
・10月17日 ロシアのニコライ2世が十月詔書に署名する
・12月20日 大本営を解散する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1647年(正保4)武将・茶人・作庭家小堀政一(遠州)の命日詳細
1818年(文化15)北方探検家・著述家松浦武四郎の誕生日(新暦3月12日)詳細
1874年(明治7)明治政府が大久保・大隈両参議提出の「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定する詳細
1907年(明治40)文芸評論家亀井勝一郎の誕生日詳細
1913年(大正3)二瀬炭鉱(現在の福岡県飯塚市)でガス爆発事故があり、死者101人・負傷者7人を出す詳細
1922年(大正11)アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「ワシントン海軍軍縮条約」が締結される詳細
アメリカ合衆国のワシントンD.C.で、「九カ国条約」が締結される詳細
1930年(昭和5)藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督で映画化した「何が彼女をさうさせたか」が封切られる詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、政治家・外交官小村寿太郎の亡くなった日です。
 小村寿太郎(こむら じゅたろう)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月16日)に、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれ、1861年(文久元)には、平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになりました。成績優秀だったため、1869年(明治2)には、長崎に赴いて学び、1870年(明治3年)に上京すると翌年には藩貢進生として大学南校に学びます。
 1875年(明治8)に文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学、1880年(明治13)に同校法科を卒業、帰国後に司法省に入りました。1882年(明治15)に大審院判事となり、1884年(明治17)に外務省権少書記官に転じ、1888年(明治21)には、外務省翻訳局長になります。
 1893年(明治26)に清国公使館1等書記官となり、翌年日清間の緊張が高まると強硬論を唱え、1895年(明治28)には、駐朝鮮弁理公使となりました。1896年(明治29)に日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させ、外務次官となります。
 1898年(明治31)に駐米公使、1900年(明治33)に駐露公使、1901年(明治34)に駐清国公使となり、全権として「北清事変議定書」に調印しました。同年に第1次桂内閣の外務大臣に就任、翌年には日英同盟を締結、1905年(明治38)には、首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結びます。
 1906年(明治39)に枢密顧問官、駐英大使となり、1908年(明治41)に第2次桂内閣の外務大臣に再任され、1910年(明治43)には、韓国併合を実施しました。1911年(明治44)に米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復、侯爵となりましたが、同年8月に内閣交替で外相を辞め、11月26日には、神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなっています。

〇小村寿太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年9月16日) 日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになる
・1869年(明治2年) 長崎に赴いて学ぶ
・1870年(明治3年) 上京する
・1871年(明治4年) 藩貢進生として大学南校に学ぶ
・1875年(明治8年) 文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学する
・1880年(明治13年) ハーバード大学法科を卒業、帰国後に司法省に入る
・1881年(明治14年)9月 旧幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)と結婚する
・1882年(明治15年)9月 大審院判事となる
・1884年(明治17年) 外務省権少書記官に転じる
・1885年(明治18年) 外務省翻訳局に勤務する
・1886年(明治19年)3月 外務省翻訳局次長に昇任する
・1888年(明治21年) 外務省翻訳局長に昇任する
・1893年(明治26年) 清国公使館1等書記官となる
・1894年(明治27年) 日清間の緊張が高まると強硬論を唱える
・1895年(明治28年) 駐朝鮮弁理公使となる
・1896年(明治29年)5月 朝鮮公使として日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させる
・1896年(明治29年)6月 外務次官となる
・1898年(明治31年) 駐米公使となる
・1900年(明治33年) 駐露公使となる
・1901年(明治34年) 全権として「北清事変議定書」に調印する
・1901年(明治34年) 第1次桂内閣の外務大臣に就任する
・1902年(明治35年)1月30日 日英同盟を締結する
・1902年(明治35年)2月27日 男爵となる
・1905年(明治38年) 首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結ぶ
・1906年(明治39年) 枢密顧問官、駐英大使となる
・1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 伯爵となる
・1908年(明治41年) 第2次桂内閣の外務大臣に再任される
・1910年(明治43年) 韓国併合を実施する
・1911年(明治44年) 米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復する
・1911年(明治44年)4月21日 侯爵となる
・1911年(明治44年)8月 内閣交替で外相を辞める
・1911年(明治44年)11月26日 神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細


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kaiseinichibeitsushyoukouka

 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、関税自主権を完全に回復するように改正された「日米通商航海条約」が調印(4月4日に批准書交換・公布)された日です。
 改正「日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)」は、日本とアメリカの間で結ばれた通商航海の自由と内国民待遇を原則とする条約で、日本が初めて、関税自主権を完全に回復した対等なものでした。1894年(明治27)に、江戸時代後期の1911年(安政)に締結された日本とアメリカ間の不平等条約であった「日米修好通商条約」に代えて、陸奥宗光外相の時に、「日英通商航海条約」同様に、領事裁判権の撤廃、相互最恵国待遇を認めた「日米通商航海条約」を締結しましたが、関税自主権の回復は不完全なものとなります。
 その後、日露戦争(1904~05年)を経て、日本の国際的地位向上を背景にして、小村寿太郎外相のもとで交渉を重ね、1894年(明治27年)11月22日に、関税自主権を完全に回復するように改正された「日米通商航海条約」が調印されました。そして、3月31日に批准、4月4日に批准書が交換されて公布されたものの、日本人のアメリカへの移民については、「日米紳士協約」によって制約されています。
 しかし、1939年(昭和14)7月26日に、アメリカは日本の中国侵略に抗議して条約破棄を通告、野村吉三郎外相はグルー駐日大使と暫定協定締結を試みましたが成功せず、翌年1月26日に失効しました。以後、アメリカは対日経済圧迫を強めることになり、その後の交渉も実を結ばず、1941年(昭和16)の日米開戦(太平洋戦争突入)へと至ります。
 以下に、改正「日米通商航海条約」と附屬議定書を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇改正「日米通商航海条約」1911年(明治44)2月21日調印、3月31日批准、4月4日批准書交換・公布

條約第一號

日本國皇帝陛下及亞米利加合衆國大統 領ハ幸ニ兩國民間ニ存在スル友好親善 ノ關係ヲ鞏固ナラシメムコトヲ欲シ而 シテ今後兩國間ノ通商關係ヲ律スヘキ 條規ヲ明確ニ訂立スルハ此ノ善美ナル 目的ヲ達スルニ資スヘキヲ信シ之カ為 ニ通商航海條約ヲ締結スルコトニ決定 シ因テ日本國皇帝陛下ハ亞米利加合衆 國駐剳特命全權大使従三位勳一等男爵 内田康哉ヲ亞米利加合衆國大統領ハ合 衆國國務卿「フィランダー、シー、ノックス」ヲ各 其ノ全權委員ニ任命セリ右各全權委員 ハ互ニ其ノ委任狀ヲ示シ之カ良好妥當 ナルヲ認メタル後左ノ諸條ヲ協定セリ

   第一條

両締約國ノ一方ノ臣民又ハ人民ハ他ノ 一方ノ版圖内ニ到リ、旅行シ又ハ居住シ 卸賣又ハ小賣商業ニ從事シ家屋、製造所、 倉庫及店舖ヲ所有又ハ賃借シテ之ヲ使 用シ自ラ選擇セル代理人ヲ雇使シ住居 及商業ノ目的ノ為土地ヲ賃借シ其ノ他 一般ニ商業ニ附帯シ又ハ必要ナル一切 ノ行為ヲ為スコトニ付其ノ國ノ法令ニ 遵由スルニ於テハ内國臣民又ハ人民ト 同一ノ條件ニ依リ之カ自曲ヲ享有スヘ シ
該臣民又ハ人民ハ何等ノ名義ヲ以テス ルモ内國臣民又ハ人民ノ納付シ若ハ納 付スルコトアルヘキ所ト異ナルカ或ハ 之ヨリ多額ナル課金又ハ租税ヲ徴收セ ラルルコトナカルヘシ
両締約國ノ一方ノ臣民又ハ人民ハ他ノ 一方ノ版圖内ニ於テ其ノ身體及財産ニ 對シテ常ニ保護及保障ヲ享受スヘク而 シテ内國臣民又ハ人民ト同一ノ條件ニ 服スルニ於テハ本件ニ関シ内國臣民又 ハ人民ニ許與シ若ハ許與スルコトアル ヘキ所卜同一ノ權利及特權ヲ享有スヘ シ
該臣民又ハ人民ハ他ノ一方ノ版圖内ニ 於テ常備軍夕ルト護國軍タルト民兵タ ルトヲ問ハス陸海孰レニ於テモ强制兵 役ヲ免レ且服役ノ代トシテ課セラルル 一切ノ貢納ヲ免レ又一切ノ强募公債又 ハ軍用賦歛若ハ取立金ヲ免ルヘシ

   第二條

両締約國ノ一方ノ臣民又ハ入民カ他ノ 一方ノ版圖内ニ於テ有スル家宅、倉庫、製 造所及店舗竝一切ノ附属構造物ニシテ 住居及商業ノ目的ニ使用セラルルモノ ハ侵スヘカラス右建物又ハ附属構造物 ニ付テハ法律、命令及規則ヲ以テ内國臣 民又ハ人民ニ對シテ定メタル條件及方 式ニ依ルノ外臨檢捜索ヲ為シ又ハ帳簿 書類若ハ計算書ヲ檢査點閱スルコトヲ 得ス

   第三條

両締約國ノ一方ハ他ノ一方ノ港、都市其 ノ他ノ場所ニ總領事、領事、副領事、辦理領 事及領事事務官ヲ置クコトヲ得但シ右 領事官ノ駐在ヲ認可スルニ便ナラサル 場所ニ付テハ此ノ限リ在ラス尤モ此ノ 制限ハ一切ノ他國ニ對シテモ亦均シク 之ヲ加フルニ非サレハ一方ノ締約國ニ 對シテ之ヲ加フルコトヲ得ス
右總領事、領事、副領事、辨理領事及領事事 務官ハ駐在國政府ヨリ認可状其ノ他相 當ノ證認状ヲ得タルトキハ最惠國ノ同 等領事官ニ認許セラレ又ハ今後認許セ ラルルコトアルヘキ範圍内ニ於テ相互 ノ條件ニ依リ職務ヲ執行シ竝特典及免 除ヲ享有スルノ權利ヲ有スヘシ認可状 其ノ他ノ證認状ヲ發給セル政府ハ其ノ 裁量ヲ以テ之ヲ取消スコトヲ得但シ其 ノ取消ヲ為スニ付テハ之ヲ正當ト認メ タル理由ヲ通知スヘシ

   第四條

両締約國版圖ノ間ニハ相互ニ通商及航 海ノ自由アルヘシ締約國ノ一方ノ臣民 又ハ人民ハ他ノ一方ノ版圖内ニ於テ外 國通商ノ為ニ開カレ又ハ開カルルコト アルヘキ一切ノ湯所、港及河川ニ最惠國 ノ臣民又ハ人民ト均シク船舶汲貨物ヲ 以テ自由ニ到ルコトヲ得但シ常ニ到達 國ノ國法ラ従フコトヲ要ス

   第五條

両締約國ノ一方ノ版圖内ノ生産又ハ製 造ニ係ル物品ニシテ他ノ一方ノ版圖内 ニ輸入セラルルモノニ對スル輸入税ハ 今後両國間ノ特別取極又ハ各自ノ國内 法ニ依リテ之ヲ定ムヘシ
締約國ノ孰レノ一方タリトモ他ノ一方 ノ版圖ニ輸出セラルル物品ニ對シ同様 ノ物品カ別國ニ輸出セラルルニ當リ納 付シ又ハ納付スルコトアルヘキ所ト異 ナルカ或ハ之ヨリ多額ナル何等ノ税金 又ハ課金ヲ課スルコトヲ得ス
又締約國ノ孰レノ一方タリトモ他ノ一 方ノ版圖ヨリノ物品ノ輸入又ハ該版圖 ヘノ物品ノ輸出ニ對シテハ同様ノ物品 ノ別國ヨリノ輸入又ハ別國ヘノ輸出ニ 對シテ均シク適用セラレサル何等ノ禁 止ヲ加フルコトヲ得ス但シ衞生上ノ措 置トシテ又ハ動物及有用ノ植物ヲ保護 スルノ目的ヲ以テ加フル禁止又ハ制限 ハ此ノ限ニ在ラス

   第六條

両締約國ノ一方ノ臣民又ハ人民ハ他ノ 一方ノ版圖内ニ於テ一切ノ通過税ヲ免 除セラルヘク又庫入、獎勵金、便益及戻税 ニ関スル一切ノ事項ニ付テハ全ク内國 臣民又ハ人民ト均等ナル待遇ヲ享受ス ヘシ

   第七條

両締約國ノ一方ノ國法ニ従ヒテ既ニ設 立セラレ又ハ今後設立セラルヘキ商工 業及金融業ニ関スル有限責任其ノ他ノ 會社及組合ニシテ該國版圖内ニ住所ヲ 有スルモノハ他ノ一方ノ版圖内ニ於テ 其ノ國法ニ違反セサル限リ權利ヲ行使 シ且原告又ハ被告トシテ裁判所ニ出頭 スルコトヲ得
前項ノ規定ハ両締約國ノ一方ニ於テ設 立セラレタル會社又ハ組合カ他ノ一方 ニ於テ其ノ營業ニ従事スルヲ認許セラ ルルヤ否ヤト何等ノ関係ヲ有セスシテ 右認許ハ常ニ各當該國又ハ其ノ地方ノ 法令ニ依ルモノトス

   第八條

両締約國ノ一方ノ港ニ其ノ國ノ船舶ヲ 以テ外國ヨリ適法ニ輸入セラレ又ハ輸 入セラルルコトアルヘキ一切ノ物品ハ 他ノ一方ノ船舶ヲ以テ亦均シク該港ニ 之ヲ輸入スルコトヲ得此ノ揚合ニ於テ 右物品ノ内國船舶ニ依リテ輸入セラル ルトキ課スル所ト異ナルカ或ハ之ヨリ 多額ナル税金又ハ課金ハ如柯ナル名稱 ヲ有スルモノタリトモ之ヲ課スルコト ナシ右相互均等ノ待遇ハ該物品カ直接 ニ製産原地ヨリ到ルト其ノ他ノ外國地 方ヨリ到ルトヲ問ハス之ヲ實行スヘシ
輸出ニ関シテモ右ト同様ニ全ク均等ノ 待遇ヲ為スヘク従テ両締約國ノ一方ノ 版圖内ニ於テ該版圖内ヨリ適法ニ輸出 セラレ又ハ輸出セラルルコトアルヘキ 物品ハ其ノ輸出カ日本船舶ニ依ルト合 衆國船舶ニ依ルトヲ問ハス且其ノ仕向 先カ締約國ノ他ノ一方ノ港タルト第三 國ノ港タルトニ拘ラス之カ輸出ニ當リ 同一ノ輸出税ヲ納付シ又同一ノ獎勵金 及戻税ヲ受クヘシ

   第九條

締約國版圖内ノ港ニ於ケル船舶ノ繋留 及貨物ノ積卸ニ関スル一切ノ事項ニ付 テハ締約國ニ於テ両國ノ船舶ヲ全ク均 等ニ待遇スルノ意思ナルニ因リ締約國 ノ孰レノ一方タリトモ他ノ一方ノ船舶 ニ對シ同様ノ場合ニ均シク許與セサル 何等ノ待權ヲ自國船舶ニ許與スルコト ナカルヘシ

   第十條

日本國又ハ合衆國ノ國旗ヲ掲ケ且各本 國法ニ規定スル國籍證明書類ヲ有スル 商船ハ合衆國又ハ日本國ニ於テ之ヲ日 本船舶又ハ合衆國船舶ト認ムヘシ

   第十一條

政府、官公吏、私人、團體又ハ各種營造物ノ 名義ヲ以テ又ハ其ノ利益ノ為ニ課セラ ルル噸税、港税、水先案内料、燈臺税、檢疫費 其ノ他名稱ノ如何ニ拘ラス之ニ類似又 ハ該當スル税金ハ同様ノ場合ニ均シク 内國船舶一般ニ又ハ最惠國船舶ニ課ス ルモノニ非サレハ締約國ノ一方ノ版圖 内ノ港ニ於テ之ヲ他ノ一方ノ船舶ニ課 スルコトナシ右均等ノ待遇ハ両國ノ船 舶カ何レノ地ヨリ來リ又何レノ地ニ徃 クヲ問ハス相互ニ之ヲ實行スヘシ

   第十二條

両締約國ノ一方ノ定期郵便運送ノ任務 ニ當ル船船ハ國有タルト國家ヨリ之カ 為補助ヲ受クルモノタルトノ別ナク他 ノ一方ノ版圖内ノ港ニ於テ同様ノ最惠 國船舶ニ許與セラルル便益、特權及免除 ヲ享有スヘシ

   第十三條

両締約國ノ沿岸貿易ハ本條約ノ規定ス ル限ニ在ラス日本國及合衆國各自ノ國 法ノ定ムル所ニ依ル但シ締約國ノ一方 ノ臣民又ハ人民ハ本件ニ関シ他ノ一方 ノ版圖内ニ於テ最惠國待遇ヲ享受スヘ キモノトス
両締約國ノ一方ノ船舶ニシテ他ノ一方 ノ版圖内ノ二箇以上ノ輸入港ヘ仕向ケ ラレタル貨物ヲ外國ニ於テ積載シタル モノハ右諸港ノ一ニ於テ其ノ貨物ノ一 部ヲ陸揚シ更ニ他ノ一港又ハ數港ニ續 航シテ其ノ地ニ貨物ノ残部ヲ陸揚スル コトヲ得但シ常ニ到達國ノ國法、税法及 税關規則ニ従フコトヲ要ス又同様ノ方 法及同一ノ制限ニ依リ締約國ノ一方ノ 船舶ハ他ノ一方ノ港ヨリ其ノ國外ニ向 ヒ發航ノ途次該國ノ數港ニ於テ貨物ヲ 船積スルコトヲ得

   第十四條

本條約ニ於テ別段ノ明文アル場合ヲ除 クノ外両締約國ハ通商及航梅ニ関スル 一切ノ事項ニ付其ノ一方カ別國ノ臣民 又ハ人民ニ現ニ許與シ又ハ今後許與ス ルコトアルヘキ一切ノ特權、恩典又ハ免 除ニシテ若シ右別國ヘ無償ニテ許與シ タルモノナルトキハ無償ニテ又若シ條 件ヲ附シテ許與シタルモノナルトキハ 同一又ハ均等ノ條件ヲ以テ之ヲ他ノ一 方ノ臣民又ハ人民ニ及ホスコトニ同意 ス

   第十五條

両締約國ノ一方ノ臣民又ハ人民ハ他ノ 一方ノ版圖内ニ於テ法定ノ手續ヲ履行 スルトキハ特許、商標及意匠ニ関シ内國 臣民又ハ人民ト同一ノ保護ヲ享受スヘ シ

   第十六條

本條約ハ其ノ實施ノ日ヨリ千八百九十 四年十一月二十二日ノ通商航海條約ニ 代ハルモノトス而シテ同日ヨリ千八百 九十四年十一月二十二日ノ通商航海條 約ハ其ノ效力ヲ失フヘシ

   第十七條

本條約ハ千九百十一年七月十七日ヨリ 實施シ十二年間又ハ両締約國ノ一方カ 他ノ一方ニ對シ本條約ヲ消滅セシムルノ 意思ヲ通告セル日ヨリ六月ノ期間ノ満 了ニ至ル迄效力ヲ有ス
右十二年ノ期間満了ノ六月前ニ両締約 國ノ孰レヨリモ本條約ヲ消滅セシムル ノ意思ヲ他ノ一方ニ通告セサルトキハ 本條約ハ締約國ノ一方カ右通告ヲ與ヘ タル日ヨリ六月ノ期間ノ満了ニ至ル迄 引續キ效力ヲ有ス

   第十八條

本條約ハ批准ヲ要ス其ノ批淮書ハ本日 ヨリ三月以内ニ成ルヘク速ニ東京ニ於 テ交換スヘシ
右證據トシテ各全權委員本條約二通ニ 署名調印ス
明治四十四年二月二十一日即西暦千九 百十一年二月二十一日華盛頓ニ於テ

      内田康哉 印

      フィランダー、シー、ノックス 印


議定書

日本帝國政府及亜米利加合衆國政府ハ 千九百十一年七月十七日ヨリ千八百九 十四年十一月二十二日ノ條約ニ代ハラ シメムカ為本日調印シタル日米通商航 海條約ノ第五條ニ関シ各其ノ全權委員 ニ由リ左ノ約定ニ同意セリ
関税ニ関スル特別取極ノ締結セラルル ニ至ル迄ハ千八百九十四年十一月二十 二日ノ條約中ニ存スル関税ニ関スル規 定ヲ維持スヘシ
右證據トシテ各全權委員ハ本議定書二 通ニ署名調印ス

明治四十四年二月二十一日即西暦千九 百十一年二月二十一日華盛頓ニ於テ

      内田康哉 印

      フィランダー、シー、ノックス 印


修正

批准前亞来利加合衆國政府ヨリ 提議シ日本帝國政府ノ同意シタ ル右條約及議定書ニ對スル修正
一、通商航海條約第五條第一項中「特別 取極」ノ文字ヲ削除シ之ニ代フルニ 「條約」ノ文字ヲ以テス因テ當該文句 ハ左ノ如クナルヘシ
   「今後両國間ノ條約又ハ各自ノ國内法ニ依リテ之ヲ定ムヘシ」

二、議定書第二項第一行中「特別取極」ノ 文字ヲ削除シ之ニ代フルニ「條約」ノ 文字ヲ以テス因テ當該文句ハ左ノ 如クナルヘシ
   「関税ニ関スル條約ノ締結セラルルニ至ル迄ハ」

  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

799年(延暦18)奈良時代から平安時代初期の貴族和気清麻呂の命日(新暦4月4日)詳細
1800年(寛政12)第120代の天皇とされる仁孝天皇の誕生日(新暦3月16日)詳細
1942年(昭和17)食糧管理法」公布される詳細
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