ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:小作争議

nihonnouminkumiaisouritsu01

 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、日本最初の農民組合の統一組織である日本農民組合が創立された日です。
 日本農民組合(にほんのうみんくみあい)は、1918年(大正7)の米騒動をきっかけに発展した小作争議を背景に、賀川豊彦、杉山元治郎、山上武雄らを中心に結成された日本最初の全国的農民組織でした。1922年(大正11)4月9日に兵庫県神戸市のキリスト教青年会館中集会堂に集まった、14府県の小作組合支部等の代表68名とその他支援者などを併せて約150名によって、第一回大会が開催されます。
 その中で、宣言、綱領、主張などを決め、小作料軽減、小作人組合への結集などを方針とし、組合長杉山元治郎氏外理事11名を選びました。その後、岡山県藤田村や新潟県木崎村などの小作争議を指導したのをはじめ、全国的運動を展開し、最盛時には約8万の組合員を擁します。
 そして、1925年(大正14)の普通選挙法成立に及び、無産政党組織準備機関の設置を提唱し、労働農民党設立の中心を担いました。しかし、この党の運営をめぐって右派と左派との対立が激化し、1926年(大正15)3月の第5回大会において、平野力三ら右派が脱退して全日本農民組合同盟を設立、1927年(昭和2)2月に左派による中間派の除名が行われ、中間派は全日本農民組合(全日農)を結成します。
 その後、1928年(昭和3)の三・一五事件で、思想的弾圧を受けたため、再統一の気運が高まり、同年5月に全日農と再合同して全国農民組合(全農)となりました。戦時下において解散させられましたが、太平洋戦争後の1946年(昭和21)2月に、「農地改革の根本改革」、「新農業組織の確立と発達」、「民主的農村生活と文化の建設」という綱領を掲げて、全国単一の農民組織として再結成されています。
 以下に、創立時の宣言、綱領、主張を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇日本農民組合創立宣言 1922年(大正11)4月9日

宣言

農は国の基であり、農民の宝である。日本は未だ農業国である。国民の七割は田園に居住し、またその七割は小作人である。然るに積年の陋弊は田園に充ち、土地兼併の悪風漸く現れ、田園も遂に資本主義の侵略するところとなり小作人は苦しみ、日雇人は嘆く。茲に我等農民は互助と友愛の精神を以て解放の途上に立つ我等は飽迄暴力を否定す。我等は思想の自由と、社会公益の大道に従い、真理を愛し、妥協なき解放を期せねばならぬ。即ち我等はただ農民の団結による合理的生産者結合により、資本家に対抗するより外途を持たないのである。
我等は急いではならぬ、土地の社会化も産業の自由も一瞬にして成るものではない。春蒔く種は、秋まで待たねばならぬ既に国際労働会議は農民組合の自由を保障した。我等はこの世界の大勢に従い倦むことなく歩みを続けねばならぬ。
田園に光明が漲るまでには、猶幾百回の苦難を通過せねばならぬ。苦難を知らざるものは、成功を知らざるものである。日本の農民よ団結せよ!然して田園に、山林に天与の自由を呼吸せよ、我等は公義の支配する世界を創造せんが為めに、此処に犠牲と熱愛を捧げて窮乏せる農民の解放を期す。

〇日本農民組合綱領

一、我等農民は知識を養ひ技術を研き徳性を涵養し農村生活を享楽し農村文化の完成を期す
二、我等は相愛扶助の力により相信じ相倚り農村生活の向上を期す
三、我等農民は穏健着実合理合法なる方法を以て共同の理想に到達せんことを期す

〇日本農民組合主張

主張

(一)耕地の社会化
(二)全国的農民組合の確立
(三)農業日雇労働者最低賃金保證
(四)小作立法の確立
(五)農業争議仲裁法の実施
(六)普通選挙
(七)治安警察法の改正
(八)小作人の生活安定
(九)農民補習教育の完成
(十)農民学校の普及
(十一)農村産業組合の完成
(十二)農民金融機関の確立
(十三)契約農業移民労働の廃止
(十四)農民住宅の改善
(十五)農村衛生の達成
(十六)農業保険の実施
(十七)農村婦人の向上
(十八)農民芸術の発達
(十九)理想的農村の設立
(二十)農民科学の確立
(二十一)農民生活の享楽

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

752年(天平勝宝4)奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われる(新暦5月26日)詳細
1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1


 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、「小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)された日です。
 「小作調停法(こさくちょうていほう)」は、第1次世界大戦後激化した小作争議に対処するため制定された法律でした。
 小作争議がおきた場合、当事者の申立てにより裁判所が調停をおこなう制度であり、調停が成立し、さらに裁判所が認可した場合には裁判上の和解と同等の効力をもち、調停条項の不履行には強制執行がおこなわれることとなります。また、この法律に従い、各府県に地主・小作関係の実情に通じた小作官がおかれ、小作関係の実情調査、争議の予防、また争議の和解にあたって法外調停を図るなどもしました。
 これにより調停に農民組合が介入することが困難となり、地主側は多少の譲歩で争議を解決できるとして歓迎しましたが、小作農側は終始これに反対しています。
 当初は、小作争議がまだ激化していない諸県には適用されなかったものの、1929年(昭和4)以降、沖縄県を除く全府県で施行され、小作官の法外調停を含めれば発生争議件数の半分以上が本法で調停されました。しかし、この法律は、地主的土地所有の優位を保証した明治民法を前提としていたため、小作農に不利に作用することが多かったとされます。
 当時、農民組合側は、小作農の耕作権を公認する「小作法」および小作組合の権利を認める「小作組合法」の制定を要求していましたが、地主を有力な支持基盤とする帝国議会では審議されたものの成立せず、「小作調停法」のみが制定された経緯がありました。
 本法は、何度か修正されたのち、太平洋戦争後の農地改革に伴い、1951年(昭和26)に廃止され、「民事調停法」に代わります。

〇小作農とは?

 自らは土地をほとんどもたないで、土地所有者(地主)から借りて耕作し、小作料を支払う農民をいいます。
 明治時代前期の地租改正・松方デフレ政策を経て、自作農から没落して増えていき、1888年(明治21)には95万戸(全農家の20.6%)、1908年(明治41)には149万戸(全農家の27.6%)にまで増加し、以後も大正時代中期まで漸増したものの、その後少しました。これら農民の生活水準は低く、日本資本主義の低賃金構造を支えるものとなります。
 そして、太平洋戦争後の農地改革によって、大幅に減少し、全農家の数%にまでなりました。

〇小作争議とは?

 地主と小作農との間の小作料、耕作権などの小作関係をめぐって起こった紛争のことです。
 明治維新後、地主的土地所有が形成される過程で散発的に起こりましたが、組織的な運動形態をとるのは1900年(明治33)頃からで、明治時代末には各地で続発しました。しかし、小作争議が本格的に展開したのは、第1次世界大戦後の1920年(大正9)に勃発した経済恐慌からで、農民生活悪化に伴い、全国に広がります。
 1917年(大正6)には85件にすぎなかったものが、1920年(大正9)には408件、1926年(大正15/昭和元)には2,751件に激増しました。その中で、小作農側は、1922年(大正11)に日本農民組合を創立し、地主側は1925年(大正14)に大地主を中心に大日本地主協会を結成して対抗します。
 そして小作農側は、共同耕作、デモなどの戦術を用い、労働者や無産政党とも提携して、地主・官憲による弾圧に抵抗しました。昭和初期には弾圧強化で一時弱まりましたが、昭和恐慌による農村の疲弊によりふたたび激化し、1935~37年には年間6,000件以上の小作争議が起きます。
 ところが、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が進むと、争議の合法性は奪われ、農民組合の解散が相次ぐようになり、小作争議件数は、1941年3,308件、1942年2,756件、1943年2,424件、1944年2,160件と漸減し、衰退しました。
 特に、大阪府山田村、新潟県木崎村、香川県太田村伏石、岡山県藤田農場、秋田県阿仁前田村、岐阜県山添村、秋田県前田村、北海道雨竜村蜂須賀農場などの小作争議は著名です。

☆主要な小作争議一覧

・群馬県強戸村争議(1921~22年)
・岡山県藤田農場争議(1921~30年)
・山梨県鏡中条村争議(1922年)
・新潟県木崎村争議(1922~26年)
・大阪府山田村争議(1922~29年)
・香川県太田村伏石争議(1923年)
・熊本県郡築村争議(1924年)
・秋田県阿仁前田村争議(1925~38年)
・新潟県王番田争議(1926~30年)
・新潟県和田村争議(1926~30年)
・岐阜県山添村争議(1927年)
・北海道雨竜村蜂須賀農場争議(1929~30年)
・長野県五加村争議(1930年)
・山梨県奥野田争議(1930年)
・鳥取県箕蚊屋争議(1932年)
・栃木県阿久津争議(1931~32年)

☆小作争議件数・参加人員の推移

・1917年(大正6)    85件
・1918年(大正7)   256件
・1919年(大正8)   326件
・1920年(大正9)   408件―34,605人参加
・1921年(大正10) 1,680件―145,898人参加
・1922年(大正11) 1,578件―125,750人参加
・1923年(大正12) 1,917件―134,503人参加
・1924年(大正13) 1,532件―110,920人参加
・1925年(大正14) 2,206件―134,646人参加
・1926年(昭和元) 2,751件―151,061人参加
・1927年(昭和2)  2,052件―91,336人参加
・1928年(昭和3)  1,866件―75,136人参加
・1929年(昭和4)  2,434件―81,998人参加
・1930年(昭和5)  2,478件―58,565人参加
・1931年(昭和6)  3,419件―81,135人参加
・1932年(昭和7)  3,414件―61,499人参加
・1933年(昭和8)  4,000件―48,073人参加
・1934年(昭和9)  5,828件―121,031人参加 
・1935年(昭和10) 6,824件―111,164人参加
・1936年(昭和11) 6,804件―77,187人参加
・1937年(昭和12) 6,170件―63,246人参加
・1938年(昭和13) 4,615件―52,817人参加
・1939年(昭和14) 3,578件―25,904人参加
・1940年(昭和15) 3,165件―38,614人参加
・1941年(昭和16) 3,308件―32,289人参加
・1942年(昭和17) 2,756件―33,185人参加
・1943年(昭和18) 2,424件―17,783人参加
・1944年(昭和19) 2,160件―8,213人参加
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ