ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:尊王攘夷運動

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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、安政五カ国条約の一つとされる「日英修好通商条約」が調印された日ですが、新暦では8月26日となります。
 「日英修好通商条約」(にちえいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、江戸時代後期の1858年(安政5年7月18日)に、イギリス代表のエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースと江戸幕府との間で調印(翌年6月12日に批准書交換)された日英両国の通商に関する条約で、安政五カ国条約の一つとされています。全24条からなり、神奈川・長崎・箱館・兵庫・新潟の開港、江戸・大坂の開市、領事裁判権、英国側の関税決定権、最恵国待遇などを規定した不平等条約でした。
 この条約に基づき、英国から駐日総領事兼外交代表として、広東領事であったオールコック(Sir Rutherford Alcock)が派遣され、高輪の東禅寺に入って、同所を仮公使館とします。本条約は、当時最強国であったイギリスとの間に結ばれたもので、日本の開国通商をめぐる条約の一つとして、近代外交史上重要なものとされてきました。

〇安政五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)とは?

 幕末の1858年(安政5)に、江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ通商条約の総称で、勅許なく調印されたため「安政の仮条約」とも呼ばれています。安政5年6月19日に、神奈川でアメリカ総領事ハリスと幕府の全権井上清直・岩瀬忠震(ただなり)とが調印した「日米修好通商条約」を嚆矢とし、「日蘭修好通商条約」は7月10日、「日露修好通商条約」は7月11日、「日英修好通商条約」は7月18日、「日仏修好通商条約」は9月3日に調印がおこなわれました。
 この一連の条約の締結により、鎖国体制を堅持していた日本は、世界資本主義の市場の一環に組みこまれることになります。これらの条約は、自由貿易を骨子として開港を規定、関税率協定制度、領事裁判権、片務的最恵国待遇の3条項は不平等なもので、のちの条約改正まで撤廃されませんでした。
 翌年から貿易が開始されると物価騰貴が起き、尊攘派による攘夷運動や幕政批判が激しくなる要因となり、安政の大獄や井伊大老の暗殺(桜田門外の変)を招くに至ります。

☆安政五カ国条約の一覧

・「日米修好通商条約」 対アメリカ合衆国 1858年(安政5年6月19日)調印
・「日蘭修好通商条約」 対オランダ  1858年(安政5年7月10日)調印
・「日露修好通商条約」 対ロシア帝国  1858年(安政5年7月11日)調印
・「日英修好通商条約」 対イギリス  1858年(安政5年7月18日)調印
・「日仏修好通商条約」 対フランス帝国  1858年(安政5年9月3日)調印

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1866年(慶応2)東洋史学者・評論家内藤湖南の誕生日(新暦8月27日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1923年(大正12)経済学者森嶋通夫の誕生日詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
1996年(平成8)薬学者・薬理学者石館守三の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まった日ですが、新暦では10月13日となります。
 安政の大獄(あんせいのたいごく)は、幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対する弾圧でした。井伊直弼が、安政の五か国条約の調印に勅許を得ず、将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対しても諸侯の意見を求めることなく専断を行ないます。
 朝廷がこの専断措置に憤激し、同年8月に水戸藩に攘夷の密勅(戊午の密勅)を下したことから、井伊の尊王攘夷派、ひいては一橋派に対する弾圧が開始されるに至りました。これにより、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とし、水戸藩主徳川斉昭父子、越前藩主松平慶永らも処罰されます。
 この事件は、尊王攘夷運動を狂熱化させ、1860年(安政7)に大老井伊直弼が江戸城外で水戸浪士等18名により暗殺された、桜田門外の変の契機となりました。

〇安政の大獄による死刑・獄死者

・吉田松陰(長州毛利大膳家臣)……安政6年10月27日斬罪
・橋本左内(越前松平慶永家臣)……安政6年10月7日斬罪
・頼三樹三郎(京都町儒者)……安政6年10月7日斬罪
・安島帯刀(水戸藩家老)……安政6年8月27日切腹
・鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣)……安政6年8月27日斬罪
・鵜飼幸吉(水戸藩家臣)……安政6年8月27日獄門
・茅根伊予之介(水戸藩士)……安政6年8月27日斬罪
・梅田雲浜(小浜藩士)……安政6年9月14日獄死
・飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)……安政6年10月7日斬罪
・日下部伊三治(薩摩藩士)……安政5年12月17日獄死
・藤井尚弼(西園寺家家臣)……安政6年9月1日獄死
・信海(僧侶、月照の弟)……獄死
・近藤正慎(清水寺成就院坊)……安政5年10月23日獄死
・中井数馬(与力)……獄死

☆安政の大獄関係略年表(日付は旧暦です)

<1857年(安政4)>
・6月17日 老中阿部正弘が亡くなる
・10月21日 老中堀田正睦が主導し、アメリカ総領事ハリスが江戸城内で第13代将軍徳川家定に引見する

<1858年(安政5)>
・2月11日 日米条約談判が開始される
・3月20日 朝廷が条約調印勅許の件は、「三家以下諸大名の意見を更に徴した上で再び申請するよう」に宣示する
・4月23日 南紀派の老中松平忠固の後押しによって、井伊直弼が大老職に就任する
・4月24日 堀田正睦がハリスと会見し、条約調印の延期を懇請する
・6月1日 将軍の継嗣は血統の内から定めることを直弼が三家以下溜間詰諸侯に告げる
・6月19日 ハリスの要求に従って、勅許を得ないまま「日米修好通商条約」の調印がなされる
・6月23日 堀田正睦が老中を罷免される
・6月24日 徳川斉昭は子息の水戸藩主徳川慶篤・名古屋藩主徳川慶恕と共に押掛け登城して直弼の無断調印を責め、一橋慶喜・松平慶永もこれにならう
・6月25日 紀州慶福を将軍の継嗣とする旨の公表がある
・7月5日 押掛け登城した斉昭に急度慎、慶篤と慶喜に登城停止、慶恕と慶永に隠居・急度慎が命じられる
・7月6日 第13代将軍徳川家定が亡くなる
・8月8日 幕府の無断調印と尾水越三家の処罰とを責め、大老・老中らは三家・三卿・家門・列藩と群議評定して徳川家を扶助し、内を整えて外夷の侮りを受けぬようにせよとの勅諚(戊午の密勅)が水戸藩に下る
・8月10日 戊午の密勅が幕府へも下される
・9月4日 九条関白が廷臣から排斥されて内覧を辞し、関白の地位すら不安になるという事態となる
・9月7日 梅田雲浜が新任の所司代酒井忠義に捕えられる
・9月17日 江戸で元三条家家臣飯泉喜内が逮捕されたのに始まり、日下部伊三次・橋本左内らが捕えられる
・10月25日 一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、徳川慶福(家茂)が第14代将軍となる

<1859年(安政6)>
・2月17日 青蓮院宮尊融入道親王・内大臣一条忠香らを慎に処する
・3月28日 左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕に辞官を命じる
・4月22日 近衛・鷹司の二公と前関白鷹司政通・前内大臣三条実万の合わせて四公を落飾・慎に処する
・4月 萩藩に吉田松陰の江戸檻送を命じる
・5月25日 吉田松陰が江戸へ護送される
・8月27日 水戸藩家老安島帯刀が切腹、水戸藩家臣の鵜飼吉左衛門、茅根伊予之介が斬罪、鵜飼幸吉が獄門となる
・9月1日 藤井尚弼(西園寺家家臣)が獄死する
・9月14日 梅田雲浜(小浜藩士)が獄死する
・10月7日 飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)、橋本左内(越前松平慶永家臣)、頼三樹三郎(京都町儒者)が斬罪となる
・10月23日 近藤正慎(清水寺成就院坊)が獄死する
・10月27日 吉田松陰(長州毛利大膳家臣)が斬罪となる

<1860年(安政7)>
・3月3日 桜田門外の変で、水戸浪士等18名により、井伊直弼が殺害される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1827年(文政10)に、頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈された日ですが、新暦では6月15日となります。
 『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が、著した国史の史書でした。1800年(寛政12)の脱藩後の幽閉中に執筆を始め、200部余の書を参考にし、その後推敲を重ね、論賛を加え、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に完成し、5月21日に、元老中・松平定信に献呈されています。
 1836年(天保7)~1637(天保8)頃に刊行されましたが、全22巻12冊からなり、漢の司馬遷の『史記』の体裁にならい、政権が武門に帰した由来を史論をはさみつつ、源平両氏から徳川氏まで武家13氏の盛衰興亡について、漢文体で綴ったものでした。天皇から征夷大将軍に任じられた家 (源氏、新田氏、足利氏、徳川氏) の歴史を正記とし、他氏を前記、後記としています。
 史書としては必ずしも正確ではないとされますが、読者を魅了する雄勁で流麗な文章のため、幕末~明治期に広く読まれ、尊王思想で一貫していて、尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。

〇『日本外史』の構成

・巻一   源氏前記 平氏
・巻二   源氏正記 源氏上
・巻三   源氏正記 源氏下
・巻四   源氏後記 北条氏
・巻五   新田氏前記 楠氏
・巻六   新田氏正記 新田氏
・巻七   足利氏正記 足利氏上  
・巻八   足利氏正記 足利氏中  
・巻九   足利氏正記 足利氏下  
・巻十   足利氏後記 北条氏  
・巻十一  足利氏後記 武田氏上杉氏  
・巻十二  足利氏後記 毛利氏
・巻十三  徳川氏前記 織田氏上
・巻十四  徳川氏前記 織田氏下
・巻十五  徳川氏前記 豊臣氏上
・巻十六  徳川氏前記 豊臣氏中
・巻十七  徳川氏前記 豊臣氏下
・巻十八  徳川氏正記 徳川氏一
・巻十九  徳川氏正記 徳川氏二
・巻二十  徳川氏正記 徳川氏三
・巻二十一 徳川氏正記 徳川氏四
・巻二十二 徳川氏正記 徳川氏五

☆頼 山陽(らい さんよう)とは?

 江戸時代後期の儒学者・詩人です。1781年(安永9年12月27日)に大坂・江戸堀において、儒学者の父・頼春水、母・静子の長男として生まれましたが、幼名は久太郎(ひさたろう)と言いました。
 1781年(天明元)春水の広島藩儒登用後、しばらくして広島に移り、9歳で学問所に入学し、早くより詩文に秀でていたとされています。1797年(寛政9)には、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に学びましたが、翌年帰郷しました。
 1800年(寛政12)脱藩しますが連れ戻されて24歳まで幽閉され、この間史書執筆を志して、『日本外史』を起稿し、幕末の尊王攘夷派につよい影響をあたえます。1803年(享和3)に廃嫡のうえ、幽閉を許され、郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となりましたが、1811年(文化8) に京都洛中に私塾を開き、詩を教えました。
 1818年(文政元)に西日本の旅に出て、広く文人や儒者と交流し、詩才を発揮、帰京後は詩文の両面で活躍します。その中で、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に『日本外史』を完成させ、5月21日に元老中・松平定信に献呈しました。
 しかし、1832年(天保3年9月23日)に、京都において、肺結核により数え年53歳で亡くなっています。その後、1836年(天保7)~1637年(天保8)頃に『日本外史』が刊行されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
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 今日は、幕末の1859年(安政6)に、安政の大獄により、橋下佐内、頼三樹三郎、飯泉喜内が斬首されて日ですが、新暦では、11月1日となります。
 安政の大獄は、幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧でした。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなったのです。

〇安政の大獄による死刑・獄死者

・吉田松陰(長州毛利大膳家臣)……安政6年10月27日斬罪
・橋本左内(越前松平慶永家臣)……安政6年10月7日斬罪
・頼三樹三郎(京都町儒者)……安政6年10月7日斬罪
・安島帯刀(水戸藩家老)……安政6年8月27日切腹
・鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣)……安政6年8月27日斬罪
・鵜飼幸吉(水戸藩家臣)……安政6年8月27日獄門
・茅根伊予之介(水戸藩士)……安政6年8月27日斬罪
・梅田雲浜(小浜藩士)……安政6年9月14日獄死
・飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来)……安政6年10月7日斬罪
・日下部伊三治(薩摩藩士)……安政5年12月17日獄死
・藤井尚弼(西園寺家家臣)……安政6年9月1日獄死
・信海(僧侶、月照の弟)……獄死
・近藤正慎(清水寺成就院坊)……安政5年10月23日獄死
・中井数馬(与力)……獄死
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