ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:将軍

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 今日は、室町時代の1408年(応永15)に、室町幕府第3代将軍足利義満の亡くなった日ですが、新暦では5月31日となります。
 足利義満(あしかが よしみつ)は、1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
 1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
 管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。
 しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。
 1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
 一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。
 さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
 しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。

〇足利義満関係略年表(日付は旧暦です)

・1358年(延文3/正平13)8月22日 室町幕府第2代将軍足利義詮の長男として、京都で生まれる
・1361年(康安元/正平16) 南軍の入京で一時赤松則祐の播磨白旗城に避難する
・1362年(康安2/正平17) 幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京する
・1366年(貞治5/正平21) 後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられる
・1367年(貞治6/正平22) 父義詮は死に臨んで10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後事を託す
・1368年(応安元/正平23) 応安半済令が出される
・1368年(応安元/正平23) 室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(応安4/建徳2)以降 今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3) 判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領とする
・1382年(弘和2/永徳2) 左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2) 開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3) 准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3) 天橋立の景勝遊覧に出かける
・1386年(元中3/至徳3) 五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2) 東国の景勝遊覧に出かける
・1389年(元中6/観応元) 安芸厳島の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行を鎮圧する
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清を鎮圧する
・1392年(元中9/明徳3) 南北朝の合一を実現する
・1394年(応永元) 子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となる
・1395年(応永2) 太政大臣を辞して出家し、道義と号する
・1397年(応永4) 北山に金閣を建てる
・1398年(応永5) 三管領・四職の制を定める
・1399年(応永6) 応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼす
・1401年(応永8) 明に入貢し、倭寇の取りしまりを約する
・1402年(応永9) 明使の詔書に「日本国王源道義」と記され、明の冊封を受ける
・1404年(応永11) 勘合貿易が始まる
・1408年(応永15)5月6日 咳病を患って、49歳で京都の北山第で急逝する
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 今日は、1550年(天文19)室町幕府第12代将軍足利義晴が亡くなった日ですが、新暦では5月20日となります。
 足利義晴は、1511年(永正8年3月5日)に、室町幕府第11代将軍の父・足利義澄、母・日野永俊の娘の長男として、近江岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれましたが、幼名は亀王丸といいました。
 生後すぐ父を失い、播磨国(現在の兵庫県)守護赤松義村の庇護の下に育ちます。1521年(大永元)末、将軍足利義稙が執政細川高国と対立して出奔後に、高国の擁立によって、将軍に就きました。
 当時は細川氏家督が幕府を壟断し、将軍にはほとんど実権がなかったとされています。しかも、1527年(大永7)に、高国が細川晴元軍に大敗したので近江に亡命し、武佐、桑実寺、朽木谷と同国の各所を転々と流寓しました。
 1532年(天文元)6月に、晴元と和睦し将軍の権限を回復したものの、一向一揆、法華一揆の戦闘と町衆の自治によって京都に入れない状態が続きます。
 やっと、1536年(天文5)に至って京都の御所に戻りましたが、1538年(天文7)以降は、再び京都と近江とを往復し安住できませんでした。
 1546年(天文15)嗣子の義藤(義輝)に将軍職を譲りますが、1549年(天文18)に三好長慶に京を追われます。そして、1550年(天文19年5月4日)に、近江国穴太(現在の滋賀県大津市)において、39歳で客死しました。

〇足利義晴関係略年表(日付は旧暦です)

・1511年(永正8)3月5日 室町幕府第11代将軍足利義澄の長男として、近江岡山城に生まれる
・1511年(永正8)8月14日 父が帰京を果たせずに同地で死去する
・1521年(大永元) 将軍足利義稙出奔後に、細川高国に擁立され、室町幕府第12第将軍に就く
・1523年(大永3) 寧波の乱が起こる
・1525年(大永5) 北室町柳原に幕府を造営する
・1526年(大永6) 細川氏の内紛が起こり、丹波の柳本賢治らが反旗を翻す
・1527年(大永7) 細川高国が細川晴元軍に大敗したので近江に亡命する
・1530年(享禄3) 従三位大納言となる
・1531年(享禄4) 細川高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する
・1532年(天文元)6月 細川晴元と和睦し将軍の権限を回復する
・1536年(天文5) 京都の御所に戻る
・1543年(天文12) ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える(鉄砲伝来)
・1546年(天文15) 嗣子の義藤(義輝)に将軍職を譲る
・1549年(天文18) 三好長慶に京を追われる
・1549年(天文18) フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来る(キリスト教伝来)
・1550年(天文19)5月4日 近江国穴太(現在の滋賀県大津市)において、39歳で客死する
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 今日は、南北朝時代の1358年(延文3/正平13)に、室町幕府初代将軍足利尊氏の亡くなった日ですが、新暦では6月7日となります。
 足利尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれ、母は上杉清子でしたが、通称は、又太郎といいました。
 1319年(元応元)に元服し、高氏と名乗り、従五位下治部大輔となり、北条久時の女登子と結婚します。1331年(元弘元/元徳3)に、父・貞氏が死去すると足利氏の家督はを継ぐことになりました。
 同年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、天皇軍討伐の幕命を受けて上洛し、それを平定後、鎌倉に帰ります。
 1333年(元弘3/正慶2)に、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上しましたが、反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼしました。
 その半月後に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は京都に帰還して、建武新政が開始され、討幕の功臣として天皇の諱の一字を賜って、尊氏と改名します。
 その後、後醍醐天皇との対立が深まり、1335年(建武2)関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定し、翌年光明天皇を擁立して、北朝を興し、南北朝時代となります。
 そして、「建武式目」を制定し、1338年(延元3/暦応元)には征夷大将軍となり、室町幕府を創始しました。
 しかし、南北朝の騒乱が続き、各地で戦闘が繰り返されます。1352年(正平7/観応3)の観応の擾乱では鎌倉へ入り、弟の足利直義を討ったりしました。
 一方、夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るため元に天龍寺船を派遣し、その利益で天龍寺を建立するなどしましたが、1358年(正平13/延文3年4月30日)に、京都において、53歳で亡くなりました。

〇足利尊氏関係略年表(日付は旧暦です)

・1305年(嘉元3) 足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれる
・1319年(元応元) 元服して高氏と名乗り、従五位下治部大輔となる
・1319年(元応元) 北条久時の女登子と結婚する
・1331年(元弘元/元徳3)9月 父・貞氏が死去し、足利氏の家督を継ぐ
・1331年(元弘元/元徳3) 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こす(元弘の変)と、上洛して平定する
・1333年(元弘3/正慶2) 後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上する
・1333年(元弘3/正慶2)5月 反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)11月 「建武式目」を制定する
・1337年(延元2/建武4)3月 高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
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 今日は、江戸時代前期の1651年(慶安4)に、江戸幕府第三代将軍徳川家光の亡くなった日ですが、新暦では6月8日となります。
 徳川家光は、1604年(慶長9年7月17日)に、江戸幕府第二代将軍となった父・徳川秀忠の次男として、正室於江与(崇源院)を母として、江戸城内で生まれましたが、幼名は竹千代といいました。
 春日局が乳母となって育て、1620年(元和6)に正三位権大納言、続いて元服して家光と名のります。1623年(元和9)に父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて、第三代将軍となり、初めは土井利勝、酒井忠世らの補佐を得て幕政にあたりました。
 1632年(寛永9)の大御所秀忠の死後は、1635年(寛永12)「武家諸法度」を改訂して参勤交代を制度化して大名支配体制を確立、1638年(寛永15)島原の乱を平定してキリシタン取り締まりを強化、翌年にはポルトガル人追放を決定、1641年(寛永18)にはオランダ人を長崎出島に移して鎖国体制を整えるなどの“武断政治”と呼ばれる施策を実施します。
 これらによって、法制・職制・兵制などの諸制度が整い、以後200年余にわたる幕府の支配体制を確立しました。一方で、茶道・画等を嗜み、祖父家康を尊崇し、日光東照宮造営などに巨費を投じて、幕府財政窮乏の原因を作ったとも言われています。
 しかし、1651年(慶安4年4月20日)に、江戸城において、46歳で亡くなり、法号は大猷院とされ、日光山に葬られました。

〇徳川家光略年表

・1604年(慶長9) 徳川秀忠(江戸幕府第二代将軍)の次男として生まれる
・1620年(元和6) 正三位権大納言、続いて元服
・1623年(元和9) 父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて第三代将軍となる
・1623年(元和9) 摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下って輿入れする
・1623年(元和10) 諸国巡見使を派遣する
・1626年(寛永3) 再度上洛し従一位左大臣となる
・1632年(寛永9) 大御所秀忠が亡くなる
・1634年(寛永11) 三度上洛し太政大臣に任じられたが辞退する
・1635年(寛永12)「武家諸法度」を改定して初めて参勤交代の制度を定める
・1638年(寛永15) 島原の乱を平定する
・1639年(寛永16) ポルトガル船の日本渡航を禁止
・1641年(寛永18) オランダ人を長崎出島に移す
・1642年(寛永19) 寛永の大飢饉が発生する
・1643年(寛永20) 「田畑永代売買禁止令」を発布する
・1644年(寛永21) 宗門改めの制を定める
・1651年(慶安4) 江戸城において亡くなる
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 今日は、鎌倉時代前期の1199年(建久10)に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなった日ですが、新暦では2月9日となります。
 源頼朝は、1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は亡くなり、翌年に伊豆国に流されることになります。
 1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦に敗れて海路安房国に逃げのびました。しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。
 同年に、富士川の戦で平家軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。
 1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。
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