ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:将軍

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 今日は、安土桃山時代の1597年(慶長2)に、室町幕府第15代将軍だった足利義昭の亡くなった日ですが、新暦では10月9日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。
 1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。
 その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。
 しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。
 翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。
 以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。
 1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる
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 今日は、戦国時代の1565年(永禄8)に、室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀らに攻められて自害した日ですが、新暦では6月17日となります。
 足利義輝(あしかが よしてる)は、1536年(天文5)3月10日に京都東山南禅寺で、第12代将軍だった父・足利義晴の嫡男(母は近衛尚通の娘)として生まれましたが、幼名を菊童丸と言いました。
 1546年(天文15)に、父義晴が三好長慶に追われて近江坂本に滞在中、同地で六角定頼の加冠で義藤と名乗り、第13代将軍となります。1548年(天文17)に細川晴元と和睦し、京都へ戻ったものの、翌年に細川晴元が家臣三好長慶との摂津江口の戦いで敗れたため、義晴父子は晴元とともに再び坂本へ移りました。
 1550年(天文19)に父・義晴が病没したので、家督を継ぎましたが、翌年の三好氏の近江進攻により、坂本からさらに北の山中の高島郡朽木に逃れます。1552年(天文21)に三好氏との和約ができ、入京を果たしたものの、翌年の霊山の戦で三好長慶に敗れ、再び朽木に幽居しました。
 1554年(天文23)には、従三位に昇叙し、名を義輝と改め、1558年(永禄元)に三好長慶と講和し、再度入京します。将軍の権威回復に執念を燃やし、帰京翌年には上杉景虎、斎藤義竜、織田信長らを在京させて長慶を牽制し、三好政権と小康を保ちました。
 ところが、1564年(永禄7)に三好長慶が没すると、翌年5月19日に、後嗣三好義継とその臣松永久秀に、京都武衛陣の仮御所を急襲され、数え年30歳で自害しています。

〇足利義輝関係略年表(日付は旧暦です)

・1536年(天文5年3月10日) 京都東山南禅寺で、第12代将軍足利義晴の嫡男(母は近衛尚通の娘)として生まれる
・1546年(天文15年7月27日) 従五位下に叙す
・1546年(天文15年11月19日) 正五位下に昇叙し、左馬頭に任官する
・1546年(天文15年12月19日) 元服し、義藤を名乗る
・1546年(天文15年12月20日) 従四位下、征夷大将軍の宣下を受ける
・1547年(天文16年2月17日) 参議に補任し、左近衛中将を兼任する
・1548年(天文17年6月) 細川晴元と和睦し、京都へ戻る
・1549年(天文18年6月) 細川晴元が家臣三好長慶との摂津江口の戦いで敗れたため、義晴父子は晴元とともに再び坂本へ移る
・1550年(天文19年) 東山中尾に築城して京都をうかがう
・1550年(天文19年5月4日) 父・義晴が病没したので、家督を継ぐ
・1551年(天文20年) 三好氏の近江進攻により、坂本からさらに北の山中の高島郡朽木に移る
・1552年(天文21年1月) 三好氏との和約ができ、入京を果たす
・1553年(天文22年8月) 霊山の戦で三好長慶に敗れ、近江朽木に幽居する
・1554年(天文23年2月12日) 従三位に昇叙し、名を義輝と改める
・1558年(永禄元年11月) 三好長慶と講和し入京する
・1564年(永禄7年7月) 三好長慶が没する
・1565年(永禄8年5月19日) 三好義継とその臣松永久秀に京亭を急襲され、数え年30歳で自害する
・1565年(永禄8年6月7日) 死後に従一位、左大臣を贈られる
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 今日は、室町時代の1490年(延徳2)に、室町幕府第8代将軍足利義政の亡くなった日ですが、新暦では1月27日となります。
 足利義政(あしかが よしまさ)は、1436年(永享8)1月2日に、室町幕府第6代将軍の父・足利義教の五男(母は日野重子)として生まれましたが、幼名は三春丸と言いました。
 1441年(嘉吉元)の嘉吉の乱で父・義教が赤松満祐に暗殺され、兄義勝が第7代将軍となります。しかし、1443年(嘉吉3)にの兄の急死により、わずか8歳の幼少で細川持賢、畠山持国、山名持豊ら宿老に擁立されて家督を継ぎ、将軍継嗣と定められました。
 1446年(文安3)に後花園天皇から義成(よししげ)と命名され、従五位上に叙任、1448年(文安5)に左馬頭となります。翌年には、15歳で元服して第8代将軍となり、参議・左中将を兼ねました。
 1453年(享徳2)に義政と改名、1460年(寛正元)に左大臣、1464年(寛正5)に准后宣下を受けます。当初子供がなく、同年に弟義視(よしみ)を後嗣に定めましたが、翌年に妻日野富子が義尚を生み、これを将軍にしようとして応仁の乱(1467~77年)の一因となり、執政が乱れました。
 1473年(文明5)には嫡子の義尚に将軍を譲りますが、実権は理財の才に優れた妻富子が握ります。その後、京都東山に山荘を造り、ここに慈照寺(銀閣寺)を建て、1483年(文明15)に移り住んで、東山殿と称されました。
 1485年(文明17)に出家、戦乱をよそに芸能風流を好み、文化人を庇護、茶の湯、絵画、能などを育て、いわゆる東山文化が栄える契機となります。
 1489年(延徳元)、義尚が近江陣中に没すると政務に復帰しましたが、幕政を立て直せぬまま、1490年(延徳2)1月7日、京都において、55歳で亡くなりました。

〇足利義政関係略年表(日付は旧暦です)

・1436年(永享8)1月2日 室町幕府第6代将軍の父・足利義教の五男(母は日野重子)として生まれる
・1441年(嘉吉元)6月24日 嘉吉の乱で父・義教が赤松満祐に暗殺される
・1441年(嘉吉元)11月17日 兄義勝が第7代将軍となる
・1443年(嘉吉3)7月21日 兄の義勝が死去したことにより、家督を継ぎ、将軍継嗣と定められる
・1446年(文安3) 後花園天皇から義成(よししげ)と命名され、従五位上に叙任される
・1448年(文安5) 左馬頭となる
・1449年(文安6) 15歳で元服して第8代将軍となり、参議・左中将を兼ねる
・1453年(享徳2)6月13日 義政と改名する
・1454年(享徳3) 畠山氏のお家騒動が起こり、畠山義就を京都から追い落とす
・1455年(享徳4) 享徳の乱が発生、幕府軍は鎌倉を落とし、成氏は古河に逃れて古河公方を名乗る
・1455年(康正元) 日野富子と結婚する
・1457年(長禄元)12月 長禄の変で後南朝から神璽を奪還するも、民に奪い返される
・1458年(長禄2)3月 再び神璽を奪い返す
・1458年(長禄2) 異母兄の政知を鎌倉公方として下向させる
・1458年(長禄2)8月30日 神璽を朝廷に安置する
・1458年(長禄2)10月14日 赤松政則を北加賀の守護に任命
・1460年(寛正元) 左大臣となる
・1461年(寛正2) 寛正の大飢饉が起こる
・1464年(寛正5) 准后宣下を受ける
・1464年(寛正5) 弟義視(よしみ)を後嗣に定める
・1465年(寛正6) 妻日野富子が義尚を生む
・1467年(応仁元) 応仁の乱が勃発する
・1473年(文明5) 嫡子の義尚に将軍を譲る
・1477年(文明9) 応仁の乱が終結する
・1483年(文明15) 慈照寺(銀閣寺)に移り住む
・1485年(文明17) 出家する
・1489年(延徳元) 義尚が近江陣中に没すると政務に復帰する
・1490年(延徳2)1月7日 京都において、55歳で亡くなる
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 今日は、1511年(永生8)に、室町幕府第11代将軍足利義澄(あしかが よしずみ)の亡くなった日ですが、新暦では9月6日となります。
 足利義澄は、1481年1月15日(文明12年12月15日)に、堀越公方・足利政知の次男(母は武者小路隆光の娘)として伊豆に生まれました。
 元々将軍位継承の地位にはなく、1491年(延徳3)に上洛して天竜寺塔頭香厳院の喝食(かつしき)となり、法名を清晃と名乗ります。
 1493年(明応2)3月に、室町幕府第10代将軍足利義稙が親裁権の強化を目指して河内出陣を強行したことから、管領細川政元がクーデタによって義稙を廃立する事件(明応の政変)が起きました。その後、細川政元に擁立されて清晃が足利家督になり、還俗して義遐と改名します。
 1494年(明応3)12月27日 征夷大将軍に任じられ、室町幕府第11代将軍となりました。しかし、実権は細川政元が掌握し、典型的な傀儡で、実質的な支配は畿内近国にしか及ばないことになります。
 1502年(文亀2)7月21日に義澄と改名し、翌年には従三位に叙されました。1507年(永正4)6月23日に、永正の錯乱によって、細川政元が家臣に暗殺されると幕政は混乱します。
 翌年に周防に亡命していた前将軍・義稙が大内義興に擁せられて上洛したため、義澄は近江国へ逃れて将軍職を廃されました。
 そして復帰できないまま、1511年(永正8)8月14日に、近江国水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)において、数え年32歳で病死します。

〇足利義澄関係略年表(日付は旧暦です)

・1480年(文明12)12月15日 堀越公方・足利政知の次男として伊豆に生まれる
・1491年(延徳3)上洛して天竜寺塔頭香厳院の喝食(かつしき)となる
・1493年(明応2)3月 明応の政変が起き第10代将軍足利義稙が廃立される
・1493年(明応2)4月28日 従五位下に叙され、元服して義遐と名乗る
・1493年(明応2)6月19日 義高と改名する
・1494年(明応3)11月24日 正五位下に叙され、左馬頭となる
・1494年(明応3)12月27日 征夷大将軍に任じられ、室町幕府第11代将軍となる
・1502年(文亀2)7月12日 従四位下に叙され、参議となり、左近衛中将を兼ねる
・1502年(文亀2)7月21日 義澄と改名する
・1503年(文亀3)1月14日 従三位に叙される
・1507年(永正4)6月23日 永正の錯乱によって、細川政元が家臣に暗殺される
・1508年(永正5)4月16日 前将軍義稙が大内義興に擁せられて上洛したため、征夷大将軍・参議・左近衛中将を解官される
・1511年(永正8)8月14日 近江国水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)において、数え年32歳で病死する
・1521年(永正18)8月12日 従一位・左大臣を追贈される
・1533年(天文2)9月12日 太政大臣を追贈される
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 今日は、江戸時代中期の1723年(享保8)に、江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗が人材登用のための「足高の制(たしだかのせい)」を制定した日ですが、新暦では7月19日となります。
 これは、いわゆる「享保の改革」の一つとして行われたもので、家禄の低い者が役高の高い役職に就いた場合に、在職中に限りその差額を支給する制度でした。微禄の者で有用な人材を登用するのに役立つと共に、世襲家禄の財政負担の増大を押える効果があったとされています。
 若年寄を除くほとんどの要職で行われ、各役職の基準石高を定め、持高がこれに及ばない場合に一定の役料が与えられました。例えば、1,920石で町奉行になった大岡忠相は、その基準高3,000石に足らない部分の1,080石の足高を受けます。
 この制度は、翌年及び、1731年(享保16)、1738年(元文3)に修正を行って制度の充実が図られ、幕末まで続きました。
 家格にとらわれない、能力主義・個人主義を導入した点において、その後の人材登用制度の重要な柱となります。

〇享保の改革とは?

 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、江戸時代中期に、その在任期間(1716~1745年)を通じて行なった諸改革で、江戸時代の三大改革の一つと言われ、その最初に行われたものです。内容は、幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制などで、具体的には以下の主要な政策が実施されました。

<享保の改革の主要政策>
・質素倹約の奨励
・定免制を施行して年貢収納の強化をはかる
・足高の制(各地位ごとに授与される給与を定め、地位についている時に元の禄高に足されて支給した)
・公事方御定書(幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集)
・目安箱の設置(施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言を集めるための投書箱)
・堂島米市場の公認
・キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入の緩和
・上げ米の制
・相対済令(金銭貸借についての訴訟を認めず当事者間の話し合いによる解決を命じたもの)
・元文の改鋳(貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳策)
・新田開発の奨励(商人など民間による新田開発を奨励)

☆「足高の制」(抄文)

 諸役人、役柄に応ぜざる小身の面々[1]、前々より御役料[2]定め置かれ下され候処、知行の高下[3]之れ有る故、今迄定め置かれ候御役料[2]にては、小身の者御奉公続き兼ね申すべく候。之れに依て、今度御吟味[4]之れ有り、役柄により其場不相応に小身にて御役勤め候者は、御役勤め候内御足高[5]仰付けられ、御役料増減[6]之れ有り、別紙の通り相極め候。此旨申し渡し可き旨、仰せ出され候。但此度の御定の外取り来り候御役料[2]は其侭下し置かれ候。
 
 五千石より内は、五千石高に成し下さる可く候。
                        御側役
                        留守居
                        大番頭
 四千石より内は、四千石高に成し下さる可く候。 
                        書院番頭
                        小姓組番頭
 三千石より内は、三千石高に成し下さる可く候。 
                        大目付
                        町奉行
                        御勘定奉行
                        百人組頭
                        小普請組支配
 二千石より内は、二千石高に成し下さる可く候。 
                        旗奉行
                        槍奉行
                        西城留守居
                        新番頭
                        作事奉行
                        普請奉行
                        小普請奉行
 一千石より内は、一千石高に成し下さる可く候。 
                        留守居番
                        目付
                        使番
                        書院番組頭
                        小姓組組頭
                        小十人頭
                        徒頭

 (以下略)

                   『御触書寛保集成』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

【注釈】
 [1]小身面々:しょうしんのめんめん=家禄、禄高の少ない者。
 [2]御役料:おんやくりょう=在職中、家禄に加増された手当のこと。
 [3]知行の高下:ちぎょうのこうげ=禄高の高い者と低い者。
 [4]御吟味:ごぎんみ=調査、検討。
 [5]其の場所不相応:そのばしょふそうおう=その役職に相応していない。
 [6]足高:たしだか=役職に応じた役高を設定し、在職中だけその基準に達しない者に不足分を支給すること。
 [7]御役料増減:おんやくりょうぞうげん=加増された手当は、家禄に応じて増減する。

<現代語訳>  

 幕府の諸役人の内、役職を勤めるのに不相応な家禄の少ない者たちには、以前から一定の役職に応じた手当が下されていたが、禄高の高い者と低い者がいるので、今まで決められていた一定の手当では、禄高の少ない者は奉公を続けていくことが困難になってきている。このため、今回よく検討され、役職に不相応な少ない家禄で勤めている者は、在職勤務中だけ役職の禄高基準に達しない不足分を支給することを命じられたので、今までの手当の家禄に応じた増減を別紙の通りに決定した。この旨を申し渡すように命じられた。ただし、今回決められた以外に支給してきた手当はそのまま下されるものとする。

 5千石に足らなくて、5千石になるように不足分をいただける者 
                               御側役
                               留守居
                               大番頭
 4千石に足らなくて、4千石になるように不足分をいただける者 
                               書院番頭
                               小姓組番頭
 3千石に足らなくて、3千石になるように不足分をいただける者 
                               大目付
                               町奉行
                               御勘定奉行
                               百人組頭
                               小普請組支配
 2千石に足らなくて、2千石になるように不足分をいただける者 
                               旗奉行
                               槍奉行
                               西城留守居
                               新番頭
                               作事奉行
                               普請奉行
                               小普請奉行
 1千石に足らなくて、1千石になるように不足分をいただける者 
                               留守居番
                               目付
                               使番
                               書院番組頭
                               小姓組組頭
                               小十人頭
                               徒頭

 (以下略)
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