
その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で、9月21日に寺内内閣は総辞職に追い込まれ、9月29日には、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われてきました。
〇米騒動関係略年表
1871年(明治4)に上京して、南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入りますが、学資に窮して退学し、翌年には費用のかからないカトリック神学校に入学します。受洗して、カトリックの神父の学僕となり苦学したものの、1879年(明治12)に、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社しました。
退社後、『大東日報』の主筆となり井上馨に知遇を得て、1882年(明治15)に外務省に採用され外務省御用掛兼務になります。1889年(明治22)には農商務省に転じ、陸奥宗光に師事するようになりました。
1892年(明治25)に一度辞職しますが、再び招かれて、外務省通商局長、外務次官、朝鮮公使を歴任します。陸奥の死を契機に、1897年(明治30)年はは官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社し翌年社長となりました。
その後、1900年(明治33)に、立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、1914年(大正3)に総裁に就任します。この間、1902年(明治35)に岩手県より立候補して衆院議員に当選し、以後没するまで連続当選を果たしました。
1918年(大正7)に米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて、最初の政党内閣を組織します。交通の整備、教育の拡張など積極政策を行ない、爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と称されました。
しかし、強硬政策が反発を買い、1921年(大正10)11月4日、65歳で東京駅において右翼青年に暗殺されます。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1874年(明治7) | 日本画家菱田春草の誕生日 | 詳細 |
| 1919年(大正8) | 法学者・憲法学者・最高裁判所判事伊藤正己の誕生日 | 詳細 |
| 1934年(昭和9) | 室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る | 詳細 |
| 1943年(昭和18) | 東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定される | 詳細 |
| 1950年(昭和25) | シャウプ使節団(第二次)の正式報告書全文(第二次シャウプ勧告)が出される | 詳細 |
| 1954年(昭和29) | 実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日 | 詳細 |
| 1961年(昭和36) | 小説家宇野浩二の命日 | 詳細 |
| 1968年(昭和43) | 小説家・評論家広津和郎の命日 | 詳細 |

