ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:寺内正毅内閣

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、米騒動などにより寺内正毅内閣が総辞職し、原敬を首相とする政党内閣が出現する契機となった日です。
 米騒動(こめそうどう)は、大正時代の1918年(大正7)に、米価急騰に怒った民衆が米屋等を襲った事件です。第1次世界大戦中のインフレ政策で実質賃金は低下し、さらにシベリア出兵の決定によりいっそう米買占めが行われたことと寺内内閣の米価調節失敗のために、7月以降米価は異常に暴騰しました。
 その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
 軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で、9月21日に寺内内閣は総辞職に追い込まれ、9月29日には、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われてきました。

〇米騒動関係略年表

<1918年(大正7)>
・7月 上旬から、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まる
・7月22日 昼に、富山市西三番町の富豪浅田家の施米にもれた仲間町、中長柄町ほか市内各所の細民200名が市役所に押しかける
・7月23日 富山県魚津町の漁民妻女たちが米の県外移出を差し止めるべく海岸に集まる(米騒動の始まり)
・8月3日 富山県中新川郡西水橋町(現在の富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願する
・8月5日 3日の出来事が「東京朝日新聞」、「大阪毎日新聞」で報道され、米騒動が全国に飛び火する契機となる
・8月6日 さらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となる
・8月10日 京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生することとなる
・8月11日 大阪市、神戸市に波及する
・8月12日 鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)と報道され焼き打ちに遭う
・8月13日 東京市では、日比谷公園野外音楽堂演説会に約2,000人の参加者が集まり、200人の警官が包囲、衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行ない、閣議は米穀強制買収に1,000万円限度の支出を決定する
・8月14日 民衆が浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、廉売交渉を行なう
・8月15日 軍が出動し、鎮圧活動を開始する
・8月16日 米騒動参加者は鎮圧され、総計299人が検挙され、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を公布(緊急勅令)するも発動されず
・8月17日 この頃から都市部から町や農村へ米騒動が拡散する
・8月20日 ほぼ全国へ米騒動が波及する
・8月27日 福岡県嘉穂郡鎮西村(現在の飯塚市)の八幡製鐵所二瀬中央坑の炭鉱夫たちが勤務時間中に集合し、会社に対し米価引き下げと賃金3割増を要求し、暴動に発展する
・8月28日 東京府は米価暴騰に対処し「外鮮米」を指定米商に委託して廉売する
・8月31日 米騒動の影響を受け、寺内支障は元老山縣有朋に辞意を告げる
・9月4日 福岡県大牟田市と熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)にまたがる三池炭鉱万田坑で、賃上げなどを要求した炭鉱夫が暴動を起こす
・9月5日 三池炭鉱へ陸軍(第六師団や第十八師団)が出動して鎮圧行動を行う
・9月11日 三池炭鉱暴動の終結で一連の米騒動は終わりを告げる
・9月21日 寺内正毅内閣が総辞職する
・9月29日 日本で初の本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生する

☆原敬(はら たかし)とは?

 明治時代から大正時代に活躍した外交官、政治家です。江戸時代後期の1856年(安政3年2月9日)に、南部藩重臣の父原直治と母リツ子の次男として、陸奥国岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市)に生れましたが、幼名は健次郎といいました。
 1871年(明治4)に上京して、南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入りますが、学資に窮して退学し、翌年には費用のかからないカトリック神学校に入学します。受洗して、カトリックの神父の学僕となり苦学したものの、1879年(明治12)に、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社しました。
 退社後、『大東日報』の主筆となり井上馨に知遇を得て、1882年(明治15)に外務省に採用され外務省御用掛兼務になります。1889年(明治22)には農商務省に転じ、陸奥宗光に師事するようになりました。
 1892年(明治25)に一度辞職しますが、再び招かれて、外務省通商局長、外務次官、朝鮮公使を歴任します。陸奥の死を契機に、1897年(明治30)年はは官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社し翌年社長となりました。
 その後、1900年(明治33)に、立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、1914年(大正3)に総裁に就任します。この間、1902年(明治35)に岩手県より立候補して衆院議員に当選し、以後没するまで連続当選を果たしました。
 1918年(大正7)に米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて、最初の政党内閣を組織します。交通の整備、教育の拡張など積極政策を行ない、爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と称されました。
 しかし、強硬政策が反発を買い、1921年(大正10)11月4日、65歳で東京駅において右翼青年に暗殺されます。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家菱田春草の誕生日詳細
1919年(大正8)法学者・憲法学者・最高裁判所判事伊藤正己の誕生日詳細
1934年(昭和9)室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定される詳細
1950年(昭和25)シャウプ使節団(第二次)の正式報告書全文(第二次シャウプ勧告)が出される詳細
1954年(昭和29)実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日詳細
1961年(昭和36)小説家宇野浩二の命日詳細
1968年(昭和43)小説家・評論家広津和郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に「軍需工業動員法」が施行された日です。
 「軍需工業動員法(ぐんじゅこうぎょうどういんほう)」は、大正時代の1918年(大正7)4月17日公布(施行は同年5月7日)された、戦時体制下で軍需生産を増強するために、国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(大正7年法律第38号)でした。1882年(明治15)8月に制定された「徴発令」(軍工廠を中心とする生産・補給体制と現存物資および人員徴発・徴用を目的)では、第一次世界大戦のような国家総力戦には対応できないとして、陸軍が主導して同法案の原案を作成、寺内正毅内閣の下で制定された統制法です。
 平時戦時にわたる大量の軍需品生産を可能とする工業動員体制を作るため、軍需品工場の国家管理、軍需生産関係会社の軍需会社指定、監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定していました。主要条項の実施が「戦時」に限定されていたため、長い間、部分的な実施にとどまっていましたが、日中戦争開始後の1937年(昭和12)9月10日に「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布、施行されてから、その全面発動が決定されています。
 しかし、日中戦争が長引くのに伴って、1938年(昭和13)4月1日に「国家総動員法」が公布(同年5月5日施行)されたことにより、これに吸収されて廃止されました。
 以下に、「軍需工業動員法」(大正7年法律第38号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇軍需工業動員法(大正7年法律第38号) 1918年(大正7)4月17日公布、同年5月7日施行

第一条 本法ニ於テ軍需品ト称スルハ左ノ各号ニ掲クルモノヲ謂フ
 一 兵器、艦艇、航空機、弾薬並軍用器具機械及物品
 二 軍用ニ供シ得ヘキ船舶、海陸聯絡輸送設備、鉄道軌道及其ノ附属設備其ノ他ノ輸送用物件
 三 軍用ニ供シ得ヘキ燃料、被服及糧秣
 四 軍用ニ供シ得ヘキ衛生材料及獣医材料
 五 軍用ニ供シ得ヘキ通信用物件
 六 前各号ニ掲クルモノノ生産又ハ修理ニ要スル材料、原料、器具機械、設備及建築材料
 七 前各号ニ掲クルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル軍用ニ供シ得ヘキ物件

第二条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品ノ生産又ハ修理ノ為必要アルトキハ左ノ各号ニ掲クル工場及事業場並其ノ附属設備ノ全部又ハ一部ヲ管理シ、使用シ又ハ収用スルコトヲ得
 一 軍需品ノ生産又ハ修理ヲ為ス工場及事業場
 二 前号ニ掲クル工場及事業場ニ要スル原料若ハ燃料ヲ生産シ又ハ電力若ハ動力ヲ発生スル工場及事業場
 三 前各号ニ掲クル工場ニ転用スルコトヲ得ル工場

第三条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品ノ生産、修理又ハ貯蔵ノ為必要アルトキハ土地並家屋倉庫其ノ他ノ工作物及其ノ附属設備ノ全部又ハ一部ヲ管理シ、使用シ又ハ収用スルコトヲ得
2 政府ハ戦時ニ際シ必要アルトキハ第一条第二号ニ掲クル物件ノ全部又ハ一部ヲ管理スルコトヲ得

第四条 前二条ノ場合ニ於テ政府ハ従業者ヲ供用セシムルコトヲ得

第五条 前三条ノ規定ニ依ル処分ニ因リ生シタル損害ハ政府之ヲ補償ス

第六条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品又ハ第二条第二号ノ原料若ハ燃料ノ譲渡、使用、消費、所持、移動若ハ輸出入ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第七条 戦時ニ際シ第一条ニ掲クル物件ニシテ徴発令中ニ規定ナキモノヲ使用又ハ収用セムトスルトキハ徴発令ノ規定ヲ準用ス

第八条 政府ハ戦時ニ際シ兵役ニ在ル者ヲ徴兵令ニ拘ラス勅令ノ定ムル所ニ依リ召集シテ軍事輸送機関又ハ第二条ノ規定ニ依リ政府ノ管理スル工場若ハ事業場ノ業務ニ従事セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ハ第二条各号ニ掲クル工場又ハ事業場ニシテ国ノ経営ニ係ルモノニ関シ之ヲ準用ス

第九条 政府ハ戦時ニ際シ勅令ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ在ラサル者ヲ徴用シテ前条ニ掲クル業務ニ従事セシムルコトヲ得

第十条 第二条又ハ第三条ノ規定ニ依リ収用シタル工場、事業場、土地又ハ家屋其ノ他ノ工作物及其ノ附属設備不用ニ帰シタル場合ニ於テ収用シタル時ヨリ五年内ニ払下クルトキハ旧所有者又ハ其ノ承継人ニ於テ優先ニ之ヲ買受クルコトヲ得

第十一条 政府ハ軍事上必要アルトキハ第二条各号ニ掲クル工場若ハ事業場ヲ有スル者又ハ其ノ管理者ニ対シ其ノ事業ニ使用スル設備、器具機械、従業者若ハ材料原料器具機械ノ供給者又ハ生産発生若ハ修理ノ能力若ハ数量其ノ他事業ノ状況ニ付必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十二条 政府ハ軍事上必要アルトキハ鉄道、軌道、船舶、海陸聯絡輸送設備其ノ他ノ輸送用物件ノ所有者又ハ管理者ニ対シ事輛、軌道、船舶又ハ海陸聯絡輸送設備ノ数量、構造、輸送能力、従業者其ノ他必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十三条 政府ハ軍事上必要アルトキハ軍需品又ハ第二条第二号ノ原料若ハ燃料ノ取引又ハ保管ヲ業トスル者ニ対シ其ノ取引ノ相手方、取引又ハ保管ノ数量、保管ノ設備其ノ他事業ノ状況ニ付必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十四条 政府ハ軍事上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ第二条各号ニ掲クル工場若ハ事業場ヲ有スル者又ハ前条ニ掲クル者ニシテ一定ノ資格アルモノニ対シ予算ノ範囲内ニ於テ一定ノ利益ヲ保証シ又ハ奨励金ヲ下付スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ政府ハ其ノ者ニ対シ軍需品ノ生産、修理若ハ貯蔵ヲ為サシメ又ハ軍事上必要ナル設備ヲ為サシムルコトヲ得
2 政府ハ前項ノ規定ニ依リ利益保証又ハ奨励金下付ヲ受クル事業ヲ監督シ又ハ之カ為必要ナル命令若ハ処分ヲ為スコトヲ得

第十五条 第五条ノ規定ニ依ル補償金及前条ノ利益保証又ハ奨励金ノ算定並第十条ノ規定ニ依ル払下価額ハ軍需評議会ノ決議ヲ経テ之ヲ定ム
2 軍需評議会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十六条 当該官吏又ハ吏員ハ第十一条乃至第十三条ノ規定ニ依リ報告ヲ命シ得ル事項調査ノ為又ハ第十四条ノ規定ニ依ル監督若ハ処分ヲ為ス為必要ナル場所ニ立入リ、検査ヲ為シ、調査資料ノ提供ヲ求メ又ハ従業者ニ対シ質問ヲ為スコトヲ得

第十七条 工業的発明ニ係ル物又ハ方法ニ関シ予メ政府ノ承認ヲ得タル事項又ハ設備ニ付テハ報告ヲ命シ、検査ヲ為シ、調査資料ノ提供ヲ求メ又ハ従業者ニ対シ質問ヲ為スコトヲ得ス

第十八条 利益保証又ハ奨励金ヲ受クル事業ヲ承継スル者ハ本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令之ニ依リテ為ス処分又ハ利益保証若ハ奨励金下付ニ附シタル条件ニ依ル前者ノ権利義務ヲ承継ス

第十九条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ三年以下ノ懲役又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第二条又ハ第三条ノ規定ニ依ル管理、使用又ハ収用ヲ拒ミタル者
 二 第四条ノ規定ニ依ル供用ヲ拒ミタル者
 三 第六条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者

第二十条 第十四条第一項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス
2 戦時ニ際シ前項ノ罪ヲ犯シタルトキ罰前条ニ同シ

第二十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第八条ノ規定ニ依ル召集ニ応セス又ハ同条ノ規定ニ依ル業務ニ従事スルコトヲ拒ミタル者
 二 第九条ノ規定ニ依ル徴用ニ応セス又ハ同条ノ規定ニ依ル業務ニ従事スルコトヲ拒ミタル者
 三 第十一条乃至第十三条ノ規定ニ依リ命セラレタル報告ヲ為サス又ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者
 四 第十四条第二項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者
 五 第十六条ノ規定ニ依ル当該官吏又ハ吏員ノ職務ノ執行ヲ拒ミ妨ケ若ハ忌避シ、調査資料ノ提供ヲ為サス若ハ虚偽ノ調査資料ヲ提供シ又ハ質問ニ対シ虚偽ノ陳述ヲ為シタル者

第二十二条 当該官吏若ハ吏員又ハ其ノ職務ニ在リタル者本法ニ依ル職務ニ依リ知得シタル事業上ノ秘密ヲ漏洩シ又ハ窃用シタルトキハ二年以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス当該官吏又ハ吏員第十七条ノ規定ニ違反シタルトキ亦同シ
2 職務上前項ノ秘密ヲ知得シタル他ノ公務員又ハ公務員タリシ者其ノ秘密ヲ漏洩シ又ハ窃用シタルトキ罰前項ニ同シ

   「官報」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1073年(延久5)第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日)詳細
1703年(元禄16)大坂の竹本座で近松門左衞門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演される(新暦6月20日)詳細
1858年(安政5)伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日)詳細
1875年(明治8)日露が「樺太・千島交換条約」に調印する詳細
1936年(昭和11)第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする詳細
1988年(昭和63)文芸評論家山本健吉の命日詳細
1991年(平成3)考古学者末永雅雄の命日詳細
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリアへ出兵することが閣議決定された日です。
 シベリア出兵(しべりあしゅっぺい)は、ロシア革命の干渉を目的として、日本・イギリス・アメリカ・フランスがチェコ軍救出の名目でシベリアに出兵した事件でした。大正時代の1917年(大正6)に、ロシア十月革命が起こると連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出され、翌年1月には、イギリス・フランスは日米両国にシベリア出兵を要請してきます。日本は、居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣、また、居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかけました。その後、シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こるとアメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案し、8月2日には、日本も「シベリア出兵宣言」を発し、翌日にはアメリカも続きます。そして、日本軍はウラジオストク上陸を開始し、9月上旬にハバロフスク、10月に東シベリア一帯を占領、11月には協定兵力1万2,000をはるかにしのぐ、7万3,000の大軍を送り込みました。しかし、1919年(大正8)1月頃からシベリア各地のパルチザン活動が活発になり、10月に日本は約1万4,000の派遣軍削減を内容とする第一次減兵案を決めます。そして、秋にはコルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下し、12月には日本は派遣軍総数を約2万6,000とする第二次減兵案を決定しました。1920年(大正9)になると1月9日にアメリカが撤兵を声明、2月~5月に尼港(にこう)事件で日本軍は手痛い打撃を受け、6月には、イギリス・フランス軍は完全に退去しています。翌年になると第44帝国議会で憲政会の加藤高明総裁は、尼港事件に対する政府の責任を追及するとともに、理由のない駐兵はやめてシベリアから撤退すべきであると主張、8月から極東共和国との間で、シベリア撤兵問題を取り上げた大連会議(~翌年4月)が始まり、11月には、開催中のワシントン会議でも列国のシベリア撤兵圧力がかかりました。その中で、1922年(大正11)6月に、日本はようやくシベリア撤兵の意志を表明し、9月に北樺太撤兵問題を中心議題とする長春会議が開催されるも決裂する中で、10月には、シベリア本土からの撤兵を完了します。それまでの足掛け8年の出兵で、日本は戦費約10億円を費やし、死者は3,000人を超えるという犠牲を払いながら、なんら得るところがなかったばかりか、対外関係の悪化を招きました。以下に、寺内正毅内閣による「シベリア出兵宣言」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「シベリア出兵宣言」 1918年(大正7)8月2日閣議決定

大正七年八月二日附國務大臣連署

帝國政府ハ露國竝露國人民ニ對スル舊來ノ隣誼ヲ重ンシ、露國ノ速ニ秩序ヲ恢復シテ健全ナル發逹ヲ遂ケムコトヲ衷心切望シテ止マサル所ナリ。然ルニ近時露國ノ政情著シク混亂ニ陷リ、復タ外迫ヲ捍禦スルノ力ナキニ乘シ、中歐諸國ハ之ニ壓迫ヲ加フルコト愈々甚シク、其ノ威壓遠ク極東露領ニ浸漸シテ現ニ「チエツク、スローヴアツク」軍ノ東進ヲ阻碍シ、其ノ軍隊中ニハ多數ノ獨墺俘虜混入シ、實際ニ於テ其ノ指揮權ヲ掌握スルノ事跡顯然タルモノアリ。

抑々「チエツク、スローヴアツク」軍ハ夙ニ建國ノ宿志ヲ抱キ、終始聯合列强ト共同敵對スルモノナルガ故ニ、其ノ安危ノ繋ル所延イテ與國ニ影響スルコト尠シトセス。是レ聯合列强及ヒ合衆國政府カ同軍ニ對シ多大ノ同情ヲ寄與スル所以ナリ。今ヤ聯合列强ハ同軍カ西比利亞方面ニ於テ獨墺俘虜ノ爲メ著シク迫害ヲ被ムルノ報ニ接シ、空シク拱手傍觀スルコト能ハス、業ニ已ニ其ノ兵員ヲ浦盬ニ派遣シタリ。合衆國政府モ亦同ク其ノ危急ヲ認メ、帝國政府ニ提議シテ先ツ速ニ救援ノ軍隊ヲ派遣セムコトヲ以テセリ。是ニ於テカ帝國政府ハ合衆國政府ノ提議ニ應シテ其ノ友好ニ酬ヒ、且今次ノ派兵ニ於テ聯合列强ニ對シ步武ヲ齊フシテ履信ノ實ヲ擧クル爲速ニ軍旅ヲ整備シ、先ツ之ヲ浦盬ニ發遣セムトス。

叙上ノ措置ヲ取ルニ方リ、帝國政府ハ一意露國及露國人民ト恒久ノ友好關係ヲ更新セムコトヲ希圖スルヲ以テ、常ニ同國ノ領土保全ヲ尊重シ、併セテ其ノ國內政策ニ干涉セサルノ旣定主義ヲ聲明スルト共ニ、所期ノ目的ヲ逹成スルニ於テハ政治的又ハ軍事的ニ其ノ主權ヲ侵害スルコトナク速ニ撤兵スヘキコトヲ茲ニ宣言ス。

   「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より

☆シベリア出兵関係略年表

<1917年(大正6)>
・11月 ロシア十月革命が起こる
・12月 連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出される

<1918年(大正7)>
・1月 イギリス・フランスは日米両国にシベリア出兵を要請してくる
・1月 居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣する
・3月 アメリカがシベリア干渉に疑義を明らかにしたことで、対米協調を優先する立場から、日本政府は本野らの自主的出兵論をいったん退ける
・4月 居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかける
・5月 シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こる
・7月 アメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案してくる
・8月2日 日本は「シベリア出兵宣言」を発する
・8月3日 アメリカも出兵宣言を行なう
・8月12日 日本軍はウラジオストク上陸を開始する
・9月上旬 ハバロフスクを占領
・10月 東シベリア一帯を占領する
・11月 協定兵力1万2,000をはるかにしのぐ、7万3,000の大軍にふくれ上がる

<1919年(大正8)>
・1月頃 シベリア各地のパルチザン活動は活発になる
・10月 日本は約1万4,000の派遣軍削減を内容とする第一次減兵案を決める
・秋 コルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下する
・12月 日本は派遣軍総数を約2万6,000とする第二次減兵案を決定する

<1920年(大正9)>
・1月9日 アメリカが撤兵を声明する
・2月~5月 尼港(にこう)事件で日本軍は手痛い打撃を受ける
・6月 イギリス・フランス軍は完全に退去する

<1921年(大正10)>
・冬 第44帝国議会で憲政会の加藤高明総裁は、尼港事件に対する政府の責任を追及するとともに、理由のない駐兵はやめてシベリアから撤退すべきであると主張する
・8月 極東共和国との間で、シベリア撤兵問題を取り上げた大連会議が始まる(~翌年4月)
・11月 開催中のワシントン会議でも列国のシベリア撤兵圧力がかかる

<1922年(大正11)>
・6月 日本はようやくシベリア撤兵の意志を表明する
・9月 北樺太撤兵問題を中心議題とする長春会議が開催されるも決裂する
・10月 シベリア本土からの撤兵を完了する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

901年(延喜元)六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する詳細
1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1738年(元文3)俳人上島鬼貫の命日(新暦9月15日)詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細
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