ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:寛政の改革

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 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、寛政の改革の一つとして、長谷川平蔵の建議により、江戸隅田川河口に無宿人の厚生施設「人足寄場」設置が認められた日ですが、新暦では4月3日となります。
 人足寄場(にんそくよせば)は、江戸幕府の寛政の改革の中で、幕臣長谷川平蔵の献策により設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設で、正式には、加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)と言います。享保時代(1716~36年)の頃より、住居も確保できない無宿者達が増加の一途を辿っており、犯罪の根源ともなっていた中で、無宿人、刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させたり、普請人足として働かせたりして、その更生を図りました。
 常陸国筑波郡上郷村や長崎、箱館、横須賀などにも設置されましたが、明治維新によって、廃止されています。

〇寛政の改革(かんせいのかいかく)とは?

 江戸時代後期の1787年(天明7)から1793年(寛政5)にかけて、江戸幕府11代将軍徳川家斉のもとで、老中松平定信が主導して行った幕政改革で、享保の改革、天保の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。天明の大飢饉による農村の疲弊により、一揆や打ちこわしが続発し、田沼時代の腐敗・失政による幕藩体制の危機的状況の回復を図ったものでした。
 享保の改革を理想として行われ、商業重視の政策を改め、農業を主とする政策を実施、士風を刷新し、思想統制・文武奨励による幕府威信の回復を特徴としています。主な内容は、倹約、備荒貯蓄の奨励の「七分金積立法」、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐令」、「風俗匡正令」、「物価引下令」、「人足寄場設置令」、「寛政異学の禁」、文武両道を奨励などでした。
 一時的に幕政は引き締まりましたが、当初期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に定信は老中を辞すことになり、頓挫します。その後もこの改革方針は、松平信明などの遺老たちにより、幕政に引き継がれることにはなりました。
 庶民は、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄しています。

<寛政の改革の主要政策>

【経済政策】

・「囲米の制」
 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に社倉・義倉を築かせ、1万石につき50石の穀物の備蓄を命じる
・「旧里帰農奨励令」
 江戸へ流入していた地方出身の農民達に旅費を支給し帰農を奨励する
・「棄捐令」
 旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じる
・猿屋町会所
 「棄捐令」によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済する
・「人足寄場設置令」
 無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した人足寄場で職業指導する
・勘定所御用達の登用
 江戸の豪商10名を登用する
・「七分金積立法」
 町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金とする
・「倹約令」
 贅沢品を取り締まる倹約の徹底を強いた

【文教政策】

・「寛政異学の禁」
 朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止する
・「処士横議の禁」
 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止し、海防学者の林子平などが処罰される
・「出版統制令」
 洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰される

【外交政策】

・ロシアの使節アダム・ラクスマンに対し、即時の通商開始を拒絶し、江戸湾、蝦夷地の海防強化を命令する

【その他】

・大奥改革に着手
 8人の上臈御年寄の老女のなかで5人が交代となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細
1877年(明治10)日本が郵便の国際機関・万国郵便連合(UPU)に加盟する(万国郵便連合加盟記念日)詳細
1917年(大正6)詩人峠三吉の誕生日詳細
1934年(昭和9)経済学者・社会運動家野呂栄太郎の命日詳細
1942年(昭和17)婦人標準服と活動衣が決定される(モンペ姿流行)詳細
1946年(昭和21)GHQより「刑事裁判権行使に関する覚書」 (SCAPIN-756) が出される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、老中主座・松平定信が朱子学以外の学問を異学として昌平坂学問所での教授を禁止(寛政異学の禁)した日ですが、新暦では7月6日となります。
 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政の改革の一環として、江戸幕府が昌平坂学問所(昌平黌)に対し、朱子学以外を異学とし、その教授を禁止したものでした。老中松平定信が林大学頭(信敬)に下命し、昌平坂学問所(昌平黌)においては正学たる朱子学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達したもので、寛政三博士(柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉)や西山拙斎の主張を入れて、朱子学の振興を図るために発せられたものです。
 当時は、伊藤仁斎、荻生徂徠などの古学派、井上金峨、片山兼山などの折衷学派、その他諸学派が次第に隆盛し、官学である朱子学は不振のため、それを擁護し、幕吏養成機関としての自覚を促すために行われましたが、諸藩の学校でも幕府の禁令ならうところが出ました。また、朱子学をもって学問吟味(=官吏登用試験)とし、1798年(寛政10)頃まで続けられます。
 これに対し、冢田大峯、豊島豊洲、亀田鵬斎、山本北山、市川鶴鳴らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称されました。
 以下に、『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分

 寛政二庚戌年五月廿四日
   学派維持ノ儀に付申達  林大学頭[1]え
 朱学[2]の儀は、慶長以来[3]御代々御信用の御事にて、已に其方家[4]、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学[5]相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説[6]をなし、異学[7]流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学[5]衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体[8]、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此度聖堂[9]御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助[10]・岡田清助[11]儀も、右御用仰せ付られ候事[12]に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学[7]を禁じ、猶又、自門[13]に限らず他門[14]に申合せ、正学[5]講窮[15]致し、人才[16]取立て候様相心掛申すべく候事。

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]林大学頭:はやしだいがくのかみ=大学頭だった林信敬(錦峯)のこと。
[2]朱学:しゅがく=朱子学のこと。
[3]慶長以来:けいちょういらい=徳川家康が林羅山を登用した慶長10年(1605年)以来という意味。
[4]其方家:そのほういえ=林家のこと。
[5]正学:せいがく=朱子学を正学とした。
[6]世上種々新規の説:せじょうしゅしゅしんきのせつ=古学、陽明学など儒学の諸派が存在している状態を指す。
[7]異学:いがく=朱子学以外の儒学である古学派、折衷派、陽明学派などのこと。
[8]右体:みぎてい=右に述べたような。
[9]聖堂:せいどう=孔子廟のことだが、この場合はそれに付属する学問所を指す。
[10]柴野彦助:しばのひこすけ=朱子学者で寛政三博士の一人、寛政異学の禁を建議した。
[11]岡田清助:おかだせいすけ=朱子学者で寛政三博士の一人。
[12]右御用仰せ付られ候事:みぎごようおおせつけられそうろうこと=聖堂学問所の儒官として登用されたこと。
[13]自門:じもん=林家。
[14]他門:たもん=林家以外の朱子学者。
[15]講窮:こうきゅう=講義、研究。
[16]人才:じんざい=有能な人材。

<現代語訳>

 寛政2年(1790年)5月24日
   学派の維持の事について申し渡す 林大学頭へ
 朱子学の事は、慶長年間以来、将軍家代々が信用してきた学問で、すでにその方林家でも、代々右の学風を維持するよう命じられてきたのだから、怠り無く朱子学を研鑽し、門人達を養成すべきはずである。ところが近来、世間では種々の新規学説を成し、朱子学以外の儒学の学派が流行し、風俗を乱す者たちが有るのは、全く朱子学が衰微したためであろうか。はなはだよろしくないことである。その方林家門人共の中にも、右に述べたような、正統でない学問を学ぶ者が、時折有る様にも聞いているが、どのようなものであろうか。今度、聖堂学問所の取締りを厳重にするよう命令され、柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)にも、右の御用を命令されることとなったので、よくよくこの趣旨を検討し、必ず門人どもに朱子学以外を学ぶことを禁じ、なおまた林家に限らず、他の朱子学者とも相談し、朱子学を講義、研究し、有能な人材を養成するように心がけねばならないこと。

〇(参考)『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』の「寛政異学の禁」についての記述

 試学の評決は儒家へ仰渡されて、大学頭より以下柴野彦助・岡田清助・尾藤良佐等、聖堂に於て諸士の素読講釈を試みたり。されど儒家にては人物人がらはいかにもあれ、其日に当りて講釈弁書の聖教に的当したるならでは上科とせず。されば血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し。殊に去心より能き師の云事を聞覚えて、一字一句も違へず聞とりに云ふへに、儒家の評にはいつも上科にあたれり。又実学にて多年志有りて書籍にもしたしく、人がらを慎みて、然るべき勤士にも進むべき者は、おのづから己が見識も交わり、或ひは多聞に迷ふ所有りて、云所いつも儒家の評には当たらず、下等に成たり。

 『蜑の焼藻の記』(森山孝盛著)より 
 注:森山孝盛(1738-1815年)は、のちに目付や先手鉄炮頭などを務めた旗本。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1773年(安永2)に、江戸幕府第11代将軍徳川家斉の生まれた日ですが、新暦では11月18日となります。
 徳川家斉(とくがわ いえなり)は、御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男(母は側室のお富の方)として生まれましたが、幼名は豊千代といいました。1781年(天明元)に、第10代将軍徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、家治の養子となり、将軍後継者として、江戸城西の丸に移ります。
 翌年に天明の太飢饉が始まる中で元服し、家斉と名乗り、従二位権大納言に叙任されましたが、1783年(天明3年7月)には浅間山天明大噴火が起こりました。1786年(天明6)に家治が50歳で急死し、田沼意次が失脚した翌年に、第11代将軍として宣下されますが、天明の打ちこわしが起き、世情は騒然とします。
 その中で、松平定信を老中筆頭として、寛政の改革が始まりました。1789年(寛政元)に棄捐令発布、翌年人足寄場を江戸石川島に設置、朱子学以外の学問を禁止(寛政異学の禁)など一連の改革が進められますが、思うようにはいかず、1793年(寛政5)に父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりを告げます。
 定信の引退後は親政し、右大臣・左大臣・太政大臣となり、町人文化が成熟した、いわゆる文化文政時代を現出したものの、財政窮乏化、綱紀紊乱、士風の著しい退廃を招きました。また、1804年(文化元)にロシア使節レザノフが長崎に来航するなど外圧が強まる中、1825年(文政8)には、「異国船打払令」を出しています。
 1833年(天保4)に天保の大飢饉が起き、1837年(天保8)に大坂で大塩平八郎の乱が起こる中で、次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政の実権は握りました。側室40人、子女55人を設けましたが、1841年(天保12年閏1月7日)に江戸城内において、数え年69歳で亡くなっています。

〇徳川家斉関係略年表(日付は旧暦です)

・1773年(安永2年10月5日) 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男(母は側室のお富の方)として生まれる
・1781年(天明元年閏5月18日) 第10代将軍徳川家治の養子となり、将軍後継者として、江戸城西の丸に移る
・1782年(天明2年) 天明の太飢饉が起こる
・1782年(天明2年4月3日) 元服し、家斉と名乗り、従二位権大納言に叙任される
・1783年(天明3年7月) 浅間山天明大噴火が起こる
・1786年(天明6年8月) 第10代将軍徳川家治が50歳で急死し、田沼意次が失脚する
・1787年(天明7年4月15日) 正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将を兼任、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下される
・1787年(天明7年5月) 天明の打ちこわしが起きる 
・1787年(天明7年6月) 松平定信が老中筆頭になる。 → 寛政の改革が始まる
・1789年(寛政元年) 島津重豪の娘・近衛寔子と結婚する
・1789年(寛政元年9月) 棄捐令発布される
・1790年(寛政2年2月) 人足寄場が江戸石川島に設置される
・1790年(寛政2年5月) 朱子学以外の学問が禁止される(寛政異学の禁)
・1793年(寛政5年7月) 家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わる
・1804年(文化元年9月) ロシア使節レザノフが長崎に来航する
・1816年(文化13年4月2日) 右大臣に転任する
・1817年(文化14年) 老中首座松平信明が病死する
・1818年(文政元年) 側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命する
・1822年(文政5年2月6日) 従一位左大臣に昇叙転任し、左近衛大将を兼任する
・1825年(文政8年2月) 幕府が異国船打払令を出す
・1827年(文政10年2月16日) 太政大臣に転任する
・1828年(文政11年10月) シーボルト事件が起こる
・1833年(天保4年) 天保の大飢饉が起きる
・1834年(天保5年) 水野忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる
・1837年(天保8年2月) 大坂で大塩平八郎の乱が起こる
・1837年(天保8年4月) 次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政の実権は握る
・1837年(天保8年6月) 越後柏崎で生田万の乱が起きる
・1837年(天保8年6月) モリソン号事件が起きる
・1839年(天保10年5月) 渡辺崋山、高野長英らが処罰される(蛮社の獄)
・1840年(天保11年) 清(中国)でアヘン戦争が勃発する 
・1841年(天保12年閏1月7日) 江戸城内において、数え年69歳で亡くなる


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