ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:室町幕府

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 今日は、室町時代の1401年(応永8)に、室町幕府第3代将軍足利義滿が遣明使を派遣し、日明貿易への第一歩となった日ですが、新暦では6月24日となります。
 日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本と明との間で行われた遣明船による貿易で、勘合符を使って行われたので、勘合貿易とも呼ばれてきました。明国の倭寇禁圧要求と室町幕府の貿易の利益追求を背景として、1401年(建文3)に、室町幕府第3代将軍足利義滿の朝貢使派遣で始まり、1404年(永楽2)には、明から日本にも勘合符が送られ、以後は朝貢勘合船形式(勘合貿易)となります。
 第4代将軍足利義持の時、1411年(応永18)から一時中絶しましたが、1432年(永享4)に第6代将軍足利義教が再開しました。応仁の乱(1467~77年)後は、大内氏と細川氏が貿易の利権を争いましたが、やがて大内氏が独占し、貿易の利益により巨富を蓄積したものの、大内氏滅亡により途絶えています。15世紀後半~16世紀前半にかけて、九州の博多は大内氏の遣明船派遣の拠点となって栄えました。
 輸出品は硫黄、銅などの鉱物、扇子、刀剣、漆器や屏風など、輸入品は明銭(永楽通宝)、生糸、織物、書物などとなっています。中断はあったものの、約140年間続き、明文化移植に貢献しました。

〇遣明使船の派遣(日明貿易)の推移

・1401年(応永8) 室町幕府(正使:祖阿)
・1403年(応永10) 室町幕府(正使:堅中圭密)
・1404年(応永11) 室町幕府(正使:明室梵亮)
・1405年(応永12) 室町幕府(正使:源通賢)
・1407年(応永14) 室町幕府
・1408年(応永15) 室町幕府
・1408年(応永15) 室町幕府
・1410年(応永17) 室町幕府
・1433年(永享5) 室町幕府
・1435年(永享7) 室町幕府
・1453年(享徳2) 室町幕府
・1468年(応仁2) 室町幕府・細川氏・大内氏
・1477年(文明9) 室町幕府
・1484年(文明16)室町幕府
・1495年(明応4) 室町幕府・細川氏
・1509年(永正6) 細川氏(正使:宋素卿)
・1512年(永正9) 細川氏・大内氏(正使:了庵桂悟)
・1523年(大永3) 大内氏(正使:謙道宗設)
・1523年(大永3) 細川氏(正使:鸞岡瑞佐)
・1540年(天文9) 大内氏(正使:湖心硯鼎)
・1549年(天文18) 大内氏(正使:策彦周良)

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1869年(明治2)「出版条令」が制定され、出版許可制と出版取調所が設置される(新暦6月22日)詳細
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1972年(昭和47)日本のビル火災史上最悪の惨事である千日デパート火災が起き、死者118名、負傷者81名を出す詳細
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 今日は、南北朝時代の1342年(康永元)に、室町幕府初代将軍の足利尊氏が禅寺の寺格を制定(五山制度)した日ですが、新暦では5月28日となります。
 五山制度(ござんせいど)は、13世紀初頭の中国・南宋時代の制度をまねた禅宗(臨済宗)の寺格を定めたものでした。鎌倉幕府が鎌倉の臨済宗寺院において定めたのが、最初とされます。
 鎌倉幕府の滅亡後は、鎌倉中心の五山をやめ、京都中心の五山が定められましたが、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は、天竜寺を建立し、これを五山に加えることを望みました。これに対して、北朝の光厳上皇は1341年(暦応4)に院宣を出して、尊氏に五山の決定を一任します。そして、翌年4月23日に尊氏は、五山を①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺とし、凖五山を浄智寺と定めました。
 1358年(延文3)に、第二代将軍となった足利義詮は、①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とします。さらに、第三代将軍足利義満は、1386年(至徳3年7月10日)に、五山の上に南禅寺をおき、京都五山は①天龍寺、②相国寺、③建仁寺、④東福寺、⑤万寿寺、鎌倉五山は①建長寺、②円覚寺、③寿福寺、④浄智寺、⑤浄妙寺とし、初めて京都五山優位の位次が決定されました。
 また、五山の下に十刹(じっせつ、じっさつ)が設けられ、その下に諸山を置いて、禅宗(臨済宗)の寺格制度とされます。これらの禅宗寺院を五山派と総称し、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能しました。
 また、五山文学(禅僧による漢詩文学)、五山版(禅の経典・漢詩文集の出版)などが発展し、中世文化の中心として、宋学普及の温床となり、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えています。

〇五山制度の変遷

<1342年(康永元年4月23日)> 初代将軍足利尊氏制定

①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④        (京都)建仁寺
⑤        (京都)東福寺
凖(鎌倉)浄智寺

<1358年(延文3年9月)> 第二代将軍足利義詮制定

①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④        (京都)建仁寺
⑤(鎌倉)浄智寺・(京都)東福寺
     浄妙寺     万寿寺

<1386年(至徳3年7月10日)> 第三代将軍足利義満制定

上(京都)南禅寺
①(京都)天龍寺・(鎌倉)建長寺
②(京都)相国寺・(鎌倉)円覚寺
③(京都)建仁寺・(鎌倉)寿福寺
④(京都)東福寺・(鎌倉)浄智寺
⑤(京都)万寿寺・(鎌倉)浄妙寺

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 今日は、南北朝時代の元中8年/明徳2年に、守護大名一族・山名氏清・満幸が室町幕府に叛乱(明徳の乱)を起こした日ですが、新暦では1392年1月13日となります。
 明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代の1391年(元中8/明徳2)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱でした。山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放します。
 しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになりました。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立しました。
 以下に、明徳の乱のことを記した『明徳記』の一部を抜粋して、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『明徳記』より

山名満幸[1]、和泉へ馳越て[2]奥州[3]に申されけるは、『抑[4]近日京都の式法[5]何とか思召され候、只事[6]に触て此一門を亡ぼさるべき御結構[7]なり。其故は、去年は貴殿[8]・我等に仰付られて予州[9]の一跡[10]を失はる。当年は又彼等を御免[11]の上は、定て我等が讒訴[12]の所存[13]を此時彼等申開べし。さるに於ては又我等を御退治[14]の沙汰[15]に及ぶべし。所詮[16]、事体を案ずるに、当家世を取とも人驚にも侍らず、一族悉く同心[18]して分国[19]の勢を併せ方々より京都に責上[20]ば、今程誰か在京の大名の中に、味方と対揚[21]の合戦をも仕るべき。先ず京をだにも一度打随へなば、他家一族も大略[22]同心[18]こそ仕候はんずらめ。其外土岐[23]・富樫[24]を始として、近日世にせばめられ面目[25]を失者あまた侍れば、是等は最前に同意仕べし。(中略)時の儀に随ひて御旗を揚らるるの事、何の子細[27]か侍るべき』と終宵[28]かき口説[29]申されたり。

【注釈】

[1]山名満幸:やまなみつゆき=南北朝~室町時代の武将。山名師義の4男。丹後、出雲の守護。
[2]馳越て:はせこえて=馬で駈け越えてきて。
[3]奥州:おうしゅう=陸奥守山名氏清のこと。南北朝時代の武将で、山名時氏の4男。丹波、和泉、山城、但馬の守護。
[4]抑:そも=一体。さて。
[5]式法:しきほう=儀式・作法。また、定まった形式。特定のきまり。
[6]只事:ただごと=ふつうのこと。世のつねのこと。あたりまえのこと。
[7]結構:けっこう=心の中で、ある考えを作りかまえること。計画。意図。企て。
[8]貴殿:きでん=男性が目上または同等の男性に対して用いる。あなた。貴兄。貴堂。
[9]予州:よしゅう=伊予守山名時義のこと。美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護で、第3代将軍足利義満から命じられた山名氏清・満幸らの追討を受けた。
[10]一跡:いっせき=後継ぎに譲る物のすべて。遺産。転じて全財産、身代。
[11]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[12]讒訴:ざんそ=他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。
[13]所存:しょぞん=心に思う所。考え。おもわく。
[14]退治:たいじ=こらしめたり殺したりして、害を与える者がいなくなるようにする。退治する。うちほろぼす。うちたいらげる。
[15]沙汰:さた=決定したことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。
[16]所詮:しょせん=詮ずるところ。つまるところ。要するに。結局。また、こうなったからには。
[18]同心:どうしん=ともに事にあたること。仕事を手伝うこと。また、戦闘で味方すること。
[19]分国:ぶんこく=守護や大名の領国。
[20]責上:せめあげ=徹底的に責める。
[21]対揚:たいよう=ある事柄や相手に応じること。あい対すること。
[22]大略:たいりゃく=おおよそ。大体。あらまし。
[23]土岐:とき=土岐康行のことで、美濃の乱で鎮圧された。
[24]富樫:とがし=富樫詮親のことで、明徳の乱に乗じて幕府に反抗して滅ぼされた。
[25]面目:めんもく=世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
[26]最前:さいぜん=いちばん先。真っ先。
[27]子細:しさい=特別の理由。こみいったわけ。
[28]終宵:しゅうしょう=一晩中。夜通し。終夜。
[29]口説:くどく=くどくどと繰り返していう。嘆きのことばを繰り返す。しつこくいう。

<現代語訳>

山名満幸は、和泉国へ馬で駈け越えてきて、山名氏清に言われたことは、『さて近頃の京都(室町幕府)のなされ方をどのように思われていますか、あたりまえの事にかこつけて、この一門を亡ぼそうとしている企てではないか。その理由は、去年はあなたと私たちにご命令されて山名時義の身代を失わせた。今年はまた彼等を赦免されたことに対しては、明らかに我等を陥れようとする考えであることをこの時彼等に申し開きするべきだ。その内に、また私たちをうち亡ぼすというご命令に及ぶことであろう。要するに、事体を思案するに、当家は代々人の驚にかしこまって控えるものではない、一族すべて力を合わせて領国の勢力を併せて、各方面より京都(室町幕府)を徹底的に責めたならば、今時、誰か在京の大名の中に、味方と相対する合戦をすることができようか。まず京都(室町幕府)だけでも一度打ち負かしてしまったならば、他家の一族も大方は味方してくれるのではないか。その他、土岐康行・富樫詮親をはじめとして、近頃に世間に肩身のせまい思いをさせられ面目をつぶされた者が多くあるので、これらは真っ先に同意してくれるであろう。(中略)時節に従って、錦の御旗を立てて戦を起こしとのことだが、どのような特別の理由かあったのか』と一晩中しつこく言われたことであった。

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1596年(慶長元)豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者(日本二十六聖人)が長崎で磔刑となる(新暦1597年2月5日)詳細
1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
1955年(昭和30)「原子力基本法」が公布される詳細
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 今日は、室町時代の1338年(建武5/延元3)に、南北朝が対立する中で、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に室町幕府が整った日ですが、新暦では9月24日となります。
 室町幕府(むろまちばくふ)は、1336年 (建武3年/延元元年11月7日) に、足利尊氏が建武政府を打倒し、「建武式目」を定めたところから実質的に始まり、主要政務機関である引付方、侍所、政所、問注所などが翌年にかけて稼働しはじめ、1338年(建武5年/延元3年8月11日)に尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に整ったとされてきました。最初の頃は、尊氏は北朝の光明天皇を擁し、吉野の南朝と対立しましたが、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となります。
 義満は、1378年(永和4年/天授4年)に京都室町に花の御所と呼ばれる邸宅を造ったので、一般にこの名で呼ばれるようになります。職制はだいたい鎌倉幕府を継承し、三管四職を中心とする有力守護大名の連合政権的性格が強いもので、統制力に欠け、大名の勢力争いが絶えず起こりました。
 また、土一揆などが相つぎ、応仁の乱(1467年~77年)以降著しく弱体化し、群雄割拠の戦国時代にはまったく有名無実の状態に陥ります。そして、1573年(元亀4年7月18日)に、15代将軍義昭が織田信長によって追放されて滅亡しました。
 尚、文化的には3代将軍義満の頃の北山文化、8代将軍義政の頃の東山文化と呼ばれる武家文化が展開し、対明貿易は中国の文物をもたらしたとされます。

〇室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

・初代 尊氏(たかうじ) 1338年(建武5/延元元)~1358年(延文3)
・2代 義詮(よしあきら) 1358年(延文3)~1367年(貞治6)
・3代 義満(よしみつ) 1368年(応安元)~1394年(応永元)
・4代 義持(よしもち) 1394年(応永元)~1423年(応永30)
・5代 義量(よしかず) 1423年(応永30)~1425年(応永32)
・空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)
・6代 義教(よしのり) 1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・7代 義勝(よしかつ) 1442年(嘉吉2)~1443年(嘉吉3)
・8代 義政(よしまさ) 1449年(文安6)~1473年(文明5)
・9代 義尚(よしひさ) 1473年(文明5)~1489年(長享3)
・空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)
・10代 義稙(よしたね) 1490年(延徳2)~1493年(明応2)
・11代 義澄(よしずみ) 1494年(明応3)~1508年(永正5)
・(再) 義稙(よしたね) 1508年(永正5)~1521年(大永元)
・12代 義晴(よしはる) 1521年(大永元)~1546年(天文15)
・13代 義輝(よしてる) 1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・14代 義栄(よしひで) 1568年(永禄11)~1568年(永禄11)
・15代 義昭(よしあき) 1568年(永禄11)~1573年(天正16)

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 今日は、南北朝時代の1367年(正平22/貞治6)に、室町幕府第2代将軍足利義詮の亡くなった日ですが、新暦では12月28日となります。
 足利義詮(あしかが よしあきら)は、1330年(元徳2年6月18日)に、室松幕府初代将軍足利尊氏の三男(母は北条久時の娘赤橋登子)として生まれましたが、幼名は千寿王と言いました。1333年(正慶2/元弘3)の元弘の乱で父・尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留されましが、鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加します。
 1335年(建武2)に従五位下に叙され、1335年(建武2)に父・尊氏が建武政府にそむき、南北朝の動乱が始ると足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守りました。1344年(興国5/康永3)に正五位下に昇叙、左馬頭に任官、1347年(正平2/貞和3)に従四位下に昇叙します。
 1349年(正平4/貞和5)に父・尊氏、高師直と叔父足利直義との間に不和が生じて観応の擾乱が始まり、直義が失脚すると講和条件に従って入京し政務を執り、参議に補任され、左近衛中将を兼任しました。1351年(正平6/観応2)に父・尊氏が直義派に対抗するために父と共に南朝に降伏(正平一統)、翌年に南朝軍は約束を破って京都に侵入、1353年(正平8)には、異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われ、神器と3上皇を伴って賀名生に逃げます。
 畿内各地を転戦し、直義方、南朝軍と京都争奪戦を展開、1356年(正平11/延文元)に従三位に昇叙、1358年(正平13/延文3)に父・尊氏が亡くなると征夷大将軍に宣下され、第2第将軍となりました。1361年(正平16/延文6)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降りましたが、1362年(正平17/貞治元)の清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命、翌年には、大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめます。
 1363年(正平18/貞治2)に権大納言に転任、大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、従二位に昇叙しました。1365年(正平20/貞治4)に三条坊門万里小路の新邸に移り、翌年に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命(貞治の変)、1367年(正平22/貞治6)には、正二位に昇叙します。
 しかし、1367年(正平22/貞治6)に幼少の嫡男・義満を細川頼之に託して、同年12月7日に、京都において、病によって数え年38歳で亡くなりました。

〇足利義詮関係略年表(日付は旧暦です)

・1330年(元徳2年6月18日) 室松幕府初代将軍足利尊氏の三男(母は北条久時の娘赤橋登子)として生まれる
・1333年(正慶2/元弘3年) 元弘の乱で父・尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留されるが、鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加する
・1335年(建武2年 4月7日) 従五位下に叙される
・1335年(建武2年) 父・尊氏が建武政府にそむき、南北朝の動乱が始ると足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守る
・1344年(興国5/康永3年3月16日) 正五位下に昇叙する
・1344年(興国5/康永3年3月18日) 左馬頭に任官する
・1347年(正平2/貞和3年12月3日) 従四位下に昇叙する
・1349年(正平4/貞和5年) 父・尊氏、高師直と叔父足利直義との間に不和が生じる
・1350年(正平5/観応元年) 観応の擾乱が始まり、執政の叔父足利直義が失脚すると講和条件に従って入京し政務を執る 
・1350年(正平5/観応元年8月22日) 参議に補任され、左近衛中将を兼任する
・1351年(正平6/観応2年8月) 父・尊氏が直義派に対抗するために父と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1353年(正平8年6月) 異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10年1月) 再び、一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 従三位に昇叙。参議左近衛中将如元
・1358年(正平13/延文3年4月) 父・尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3年12月18日) 征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2第将軍となる 
・1359年(正平14/延文4年2月4日) 武蔵守を兼任する
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平22/貞治6年) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託する
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 京都において、数え年38歳で亡くなる 
・1367年(正平22/貞治6年12月20日) 従一位左大臣が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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