ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:室町幕府

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 今日は、室町時代の1399年(応永6)に、大内義弘が足利義滿に反して堺で挙兵し、応永の乱が始まった日ですが、新暦では11月26日となります。
 応永の乱(おうえいのらん)は、有力な守護大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱でした。大内義弘は6ヵ国(周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉)の守護を兼ね、対朝鮮貿易によって富を蓄え、守護大名の中で最大の勢力を誇って、室町幕府第三代将軍足利義満と対抗します。
 一方、南北朝合一に成功した義満は幕府権力の安定・絶対化を図ろうとして、有力守護への抑圧と服従を強要し、そのチャンスを狙っていました。1396年(応永6)の渋川満頼の九州探題就任以降、九州では動乱が生じており、義満は、義弘が九州へ赴いたのを好機ととらえ、挑発を開始します。
 その中で、九州での動乱平定後も義弘が容易に上洛せず、当時、義満と対立していた鎌倉公方足利満兼と結び対抗しました。10月13日に、義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、義満の政治を批判、満兼の御教書を奉じ討伐の意志を明らかにします。
 これに対し、10月28日に、義満は義弘討伐を命じる治罰御教書を出して、応永の乱が始まり、11月8日に義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えました。11月14日に義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じます。
 11月29日には、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始しましたが勝敗は決しませんでした。そこで、12月21日に、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し、弟弘茂は下り、乱は終結したものの、防長2ヵ国守護職は弘茂に安堵されています。
 翌年3月に、鎌倉公方満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪しました。これによって、大内氏の力をそぎ、守護大名に対する将軍権力が確立したとされています。

〇応永の乱関係略年表

<応永6年(1399年)>
・10月13日 大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させる
・10月27日 足利義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣する
・10月28日 足利義満は大内義弘討伐を命じる治罰御教書を出す(応永の乱の始まり)
・11月8日 足利義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構える
・11月14日 足利義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じる
・11月29日 幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始するが勝敗は決せず
・12月21日 幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し,弟弘茂は下り,乱は終結する

<応永7年(1400年)>
・3月 鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪する

☆足利義満(あしかが よしみつ)とは?

 室町時代の室町幕府第3代将軍です。1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
 1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
 管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。
 1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
 一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
 しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1861年(文久元)江戸幕府が種痘所を西洋医学所と改称、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となる詳細
1876年(明治9)萩の乱がおきる詳細
1882年(明治15)田鎖式速記の考案者・田鎖綱紀が東京で日本初の速記講習会を開催する(速記記念日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
1956年(昭和31)大阪府大阪市浪速区に現在の通天閣(二代目)が完成する詳細
1962年(昭和37)小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日詳細
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 今日は、室町時代の1480年(文明12)に、元関白・一條兼良が室町幕府第9代将軍足利義尚に治政論書『樵談治要』を呈上した日ですが、新暦では9月2日となります。
 『樵談治要』(しょうだんちよう)は、元関白・一条兼良が室町幕府第9代将軍足利義尚の求めに応じ、1480年(文明12年7月28日)に奉じた政治の要道を説いた教訓書(全1巻)です。
 神をうやまふべき事、佛法をたとぶべき事、諸國の守護たる人廉直を先とすべき事、訴訟の奉行人其仁を選ばるべき事、近習者をえらばるべき事、足がるといふ者長く停止せらるべき事、簾中より政務ををこなはるゝ事、天下主領の人かならず威勢有べき事の8ヶ条からなっています。当時の政治・社会の実情や貴族の世相観がうかがえる好史料とされてきました。
 以下に、『樵談治要』の原文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇一條兼良(いちじょう かねら/かねよし)とは?

 室町時代の公卿・古典学者です。1402年(応永9年5月7日)に、関白だった父・一条経嗣(つねつぐ)の子(母は東坊城秀長の娘)として生まれましたが、名は「かねら」とも呼ばれてきました。
 1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
 しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きます。その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。
 学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。
 ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、室町幕府第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。
 1480年(文明12)には、足利義尚に治政論書『樵談治要』を呈上しています。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等、多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなりました。

一條兼良著『樵談治要』

     後成恩寺關白兼良公
 
一神をうやまふべき事。

我國は神國也。天つちひらけて後。天神七代地神五代あひつぎ給ひて。よろづのことわざをはじめ給へり。又君臣上下をのをの神の苗裔にあらずといふことなし。是によりて百官の次第をたつるには神祇官を第一とせり。又議定はじめ評定始といふことにも。先神社の修造。祭祀の興行をもはらさだめらる。これみな神をうやまふゆへ也。一年中のまつりは二月四日の祈年の祭より始まる。此祭は。あきつしまの中にあとをたれ給三千一百卅二座の神に御てぐらのつかひをたてらるゝ物也。其中に七百卅七座には神祇官よりこれを獻ぜらる。のこり二千三百九十五座には六十餘國の國のつかさをのをのうけたまはりて幣帛を奉る也。年中の災難をのぞき國土の豐饒をいのるによりて。祈年のまつりとは名付たる也。又此月に祈年穀の奉幣といふことあり。これは廿二社に別して幣使をたてられて。旱水風損のうれへなく。五穀不熟なからん事をいのり奉る祭なり。五穀は人民のいのちなり。たれの人か是をかろくせむや。廿二社のうち。石淸水吉田祇園北野の四社は延喜式の神名帳にのらざる社たるによりて。式外の神と申也。もとは其數さだまらざりしを後朱雀院六十九代の御宇長曆三年八月に廿二社にさだめられて後は不增不减也。昔は太極殿に行幸有て。その使を發遣せられしかども。太極殿なきによりて。神祇官にてをこなはるゝなり。其後諸社の祭をのをの上卿弁など參向してとりをこなふ。その所々月日支干などは年中行事にみえたるべし。中にも六月十二月の月次の祭。九月十一日の例幣。十一月の新嘗會は。四度の幣といひて。伊勢太神宮へ王氏。卜部。中臣。忌部の四姓のつかひをたてられて。とりわき兼日の御神事など有て嚴重の祭也。代々の聖主はいづれも我御身のためとはおもひ給はず。万民のためにかくのごとき祭などをさだめさせ給へる也。神明も由緖なき祭をばうけたまはず。天子は百神の主也と申せば。日本國の神祇はみな一人につかさどり給ふ。次には天下主領の大將軍をまもり給べし。諸國の神社は又その國の國司守護地頭に屬し給へるによりて。祈年祭の二千餘座をば國司につけらるゝ也。又神は我子孫の祭をとりわきうけ給ふによりて。諸社の祭の使には神の御子孫をたづねもちひらるゝなり。石淸水の使には源家の人。春日の使には藤氏。北野へは菅氏をもちひらる。其人なき時は他姓をもさゝるゝ也。八所御靈と申はむかし謀叛をおこしてその心ざしをとげず。あるひは又何事にてもうらみをふくめる人の靈をまつられたる社なり。これらは和光垂迹の神明にてはましまさゞる也。もろこしに神といふはおほくは先祖の靈をまつりて神といふ。御靈などのごとき也。かくのごとき神のたゝりをなすことあらば。いかにもその子孫尋て。官位をもさづけ。祭のことをなさしむべきよし。橘の博覽が擬潛夫論といふものにかけり。鬼は歸する所あればすなはち癘をなさずといへり。もろこしの事なれど。鄭の國に良霄といふ物あり。つみせられて死にき。その靈疫癘となりて人民をそこなひしとき。子產といふ智惠の者ありて。良霄が子に官をさづけて祭のことをつかさどらしめしかば。それよりのちは人をころすことやみ侍り。又神の詫宣といふ事昔はつねに有けるにや。弘仁嵯峨三年九月の官符に恠異の事は聖人語らず。妖言の罪は法制かろきにあらず。神宣はいちじるく其しるしあらはれたることにあらずは。國司言上すべからざるよしさだめられ侍り。是は御こかんなぎなどのするわざなるによて也。次に神社修理の事退轉有べからず。太神宮は諸國の役夫工米をもて廿一年にかならず造替遷宮の事あり。其外諸社の造營は。ねぎ神主等。小破の時修理をいたすべし。万一大風若は炎上など有て大營に及ばゝ。その由を注進せしめば。先例にまかせてさた有べし。弘仁三年の官符には有封の社の神戶の百姓をもて無封の社の修理をいたすべきよしみえたり。有封無封といふは。神領のあるとなきとをいふ也。近代は諸國の祭事衰微せるによりて。有封の社の造營猶もてなりがたかるべし。いはんや無封の神社においてをや。抑この十餘年は天下のみだれによりて。神社の荒廢たぐひなく。祭祀の陵遲法に過たり。國のまさにおこらんとする時は。神明くだりて其德をかゞ鑑む。國のまさにほろびんとする時も。神又くだりて其惡をみるといへり。神いかり民そむかば。何をもてかよく久しからむともいへり。かるがゆへに國司守護などは別に私のいのりなどをしては益なきこと也。かぎり有國役などを嚴密に成敗して。昔より有つけたる神社の修理。祭祀の退轉せるを申をこなひ侍らば。君には奉公の忠となり。神には歸敬の誠をあらはすべし。おほやけわたくし淸淨の心ざしをさきとして。如在の祀をもはらにせば。陰陽不測の神明もいかでか黍稷かうばしきにあらざることはりをうけたまはざらんや。

一佛法をたとぶべき事。

それ佛法王法二なく。內典外典又一致也。そのかみは一怫の法門たりといへども。大小權實の相違によりてそのながれ八宗にわかれ侍り。いはゆる八宗は。眞言。華嚴。天台。三論。法相。俱舍。成實。律宗これなり。但俱舍をば法相に付られ。成實をば三論に兼學するによりて六宗になれり。其後淨土と禪との二をくはふれば猶八宗と稱すべし。天竺の事は。程遠ければしりがたし。唐土には今の世にたえたる宗どもおほく侍るにや。八宗の血脉いとすぢのごとくつらなりて。かたのごとくも今にのこれるはわが日本國計也。末世の佛法は有力の檀那に付囑し給ふよし釋尊の遺勅あれば。大檀那たる人は。八宗いづれをも斷絕なきやうに外護の心をはこび給ふべし。其中いづれにても心よせの宗に別して歸依あらんことは。一は宿習により一は所緣にしたがふ事なれば。ともかくも其人の心にまかすべし。さりながら華嚴。天台。三論。法相等の宗は。法門無盡にして義理深奧なれば。たやすくまなぶべきにあらず。眞言は暗誦加行もしは灌頂など。其人にあらすんば相應すべからず。律宗は一日の八齋戒をたもち。天臺の圓頓戒などをうけん事はやすけれど。誠に二百五十戒などをたもたんこと是又有がたかるべし。然るに淨土と禪との二の宗は。とりより所のたやすきにや侍らん。當世の人の此二の門にこゝろざさざるはすくなかるべし。それも人によるべきこと也。天子の位にありては。まづ仁德の行をさきにし給て。朝儀のすたれたるをおこし給。大將軍の職に居して。武道をもはらにして。万民のうれへをすくはせ給はゞ。いかなる佛法修行にもまさるべきを。あるひは坐禪工夫にいとまなきと稱し。あるひは稱名安心にひまをえざるといひて。やゝもすれば向上のまんをおこし。又本願ぼこりをなす事は大なるあやまり也。昔梁の武帝は佛法にかたぶけるあまり。大同寺に行幸ありてみづから經を講じ給しかば。其世の群臣も君の心ざしをうけて。苦空無常の觀をなしゝかば。天より花ふりさまざまの奇瑞なども有しかど。文武の道をすて侍しゆへに。侯景といふ臣ひまをうかゞひ。兵をおこし都をかこみしかば。武帝はのがるゝはかりごとをうしなひ。つゐにやまひを感じて崩じ給へり。唐の大宗はかゝる前蹤をかゞみ給ひて。たとひ佛法をこのむとも。先國をしづめ民をやすんじてのこと也とて。もはら政道をさきとせられしかば。貞觀のまつりごとといひて。目出たきためしに申つたへ。唐の世は三百年にをよびて天下をたもち侍り。それ大悲の菩薩は衆生にかはりて苦をうけんとせいぐはんをおこし給へり。天下主領たる人。誠に不足もなき身において。政道をとりもちこれををこなはんことは。大にむづかしきことなれど。たれにゆづるべきことにもあらざれば。つとにおき夜半にいねて万民のうたへをきゝ。理非をけつし。其のぞみをかなふることは。地藏觀音の慈悲の誓願も。唐堯虞舜の仁德の政道も。さらに別に有べからず。是を佛法王法二なく。內典外典一致也といへり。唐の李舟が書にいはく。釋迦中國に生れなば敎を設ること周孔のごとくならん。同孔四方にむまれなば敎をまうくること釋迦の如くならん。天堂なくは則やんぬ。あらば則君子のぼらん。地獄なくは則やんぬ。あらば則小人入らんといへり。是は內典外典を和會して至極のことはりをのべたる物なるべし。又寺をつくり僧を供養する事も。無欲淸淨の心よりおこらず。民をなやまし人をむさぼらば。たゞ名聞利養の佛事にして無上菩提の善根とは成べからず。長者の万燈よりも貧女のがイ一燈はまされるといふたとへあり。聖武四十五代天皇の天平十三年に諸國に護國國分の二寺をたてられて。僧尼を安置し。金光明法花等の經をかき供養して。當國の百姓のため四時をとゝのへ。百穀の豐饒をいのり給へり。諸國の守護たらん人。かゝる所を再興せむは。昔の檀那の心にもかなひ。今のついえもさのみ有べからず。あたらしき寺をたてんよりは。古きを修造せむはその功德猶まされるよし像法决疑經にもとかれ侍るにや。さて出家のともがらもわが宗をひろめむと思ふ心ざしは有べけれど。無智愚癡の男女をすゝめ入て。はてはては徒黨をむすび。邪法ををこなひ。民業をさまたげ。濫妨をいたす事は。佛法の惡魔。王法の怨敵也。これらのともがらをばいかにもいましめらるべきこと。武道の專一也。一遍聖のやうなるたぐひは。一旦歸依渴仰すといへども。世のわづらひとはならず。それもいたるなることは佛法の正理にあらざるべし。昔の大師先德は求法のため風波の難をかへりみず。もろこし船のともづなをとき經論聖敎をわたしてもさらに是を私せず。ことこ゜とく朝庭に奉れるを。御覽有じイて則返し給はり。世にひろむべきよしの勅諚をうけて。わづかに得分とては。度者の二人三人を申うけ候しイばかり也。度者といふは今の世のやうに思ふさまに出家する事はかなはず。公方のゆるされをかうぶりて。髮をそり衣をそめしかば。我宗をも相承せしめ。又年よりて杖ともせむがため。これを申うけし也。每年人數をさだめ。ゆるされをかうぶりて。其寺につけをくをば年分度者と申也。出家をゆるさるるをもて。これを功德とも稱し。又朝恩とも思ひ侍る也。今の世にも大法會の時は度者の使とてたてらるゝは昔をわすれぬばかりにて。その實なき事なるべし。かゝるゆへに諸宗の今に繁昌せることは。ひとへに大師先德の陰德のいたす所なり。

一諸國の守護たる人廉直を先とすべき事。

諸國の國司は一任四ケ年に過ず。當時の守護職は昔の國司におなじといへども。子々孫々に傅て知行をいたすことは。春秋の時の十二諸侯。戰國の世の七雄にことならず。所詮賴朝の大將後白河院七十七代の勅諚として。六十六ケ國の惣追捕使に補せられしよりこのかた。守護職といふは武將の代官をうけたまはれる由にて。當代にいたるまでも其例ををはるゝうへは。はやくさだめをかれたる御法をまもり。かぎりある得分の外は。そのいろひをなさず。上には事君の節をつくし。下には撫民の仁をほどこして。廉直のほまれ當世に聞。隱德の行末代に及さば。冥慮にもかなひ。榮花を子孫につたふべきを。やゝもすれば無道をかまへ猛惡をさきとする事。かへすがへすしあんなきにあらずや。貞永後堀河の式目には或は國司領家のそせうにより。或は地頭土民の愁鬱につきて。非法のいたり顯然ならば。所帶の職をあらためられ。穩便のともがらに補すべき也。又建武後醍醐の御法には守護職は上古の吏務也。國中の治否只此職による。尤器用に補せられば。撫民の義にかなふべきかと云々。此式條のごとくならば。時にしたがひ人をえらびて其職に補せらるべきよしみえたるにや。然るに當時の躰たらく。上裁にもかゝはらず。下知にもしたがはず。ほしいまゝに權威をもて他人の所帶を押領し。富に富をかさね。欲に欲をくはふる事は。さしあたりてことかけたるゆへにはあらず。只無用の事のしたきと人かずをおほくそへんとのため成べし。もとより富貴の家にいたづらに寶をたくはへて人にほどこさぬは思出もなき事なるべし。妻子珍寳及王位とて。死ぬる時は。わがめ子もたからも位をも。一として身にそへぬ事にこそ。佛もとき給ふなれ。されば猿樂田樂のかけものにし。傾城白拍子の纏頭にあたふることは。さらに非分の事にはあらざるべし。只世のそしりをうけ。人のうらみをおふは。無理非道の押領をなすゆへ也。又人數のほしきこともたれかはねがはしからぬ事にはあらざれど。正躰なき家人に所領を多くあてをこなへば。後々は過分になりて。いさゝかも氣にあはぬ事のあれば。主をもとりかへんとす。かゝる事はまのあたりに見をよぶ事ども也。又人をたづぬるよし聞つたへて。あなたこなたよりふしぎの物どもが。一旦の給恩をむさぼらんために名字をいだすといへども。一大事にのぞみ戰塲などにおもむく時は。我先にと落うせて。折角の川に立ものはこれまれ也。木曾義仲は藩東を立し時五万騎と聞えしかども。粟津の原にて討死する時は主從二騎になれるがごとし。かるがゆへに用にもたゝぬ猛勢はかへりてあだと成ためしあり。名と利との二はいづれも人のねがふ事なれど。利は一旦の利也。名は万代の名也。武士の一命をすつるも名をおもふがゆへなるに。無理非道の惡名をば何とも思はぬは。命よりもたからは猶おしき物にや侍らん。慈鎭和尙と申人のよろづの事は道理といふ二の文字にこもりて侍ると申給へるが。我領知を人にとられじとすると人の領知ををさへてとらんとするその道理はいづ方に有べきぞや。本より欲界の衆生なれば。欲なき人は有べからず。又まよひの凡夫なれば。理に迷はぬ事は有まじけれど。これぶんざいの道理はさすがにたれもしり侍べきを。あやまりをあらためむとおもひよれる事のなきこそ。つゐには我人の不運にては侍るなれ。昔晉の代に周處といふ人のありしが。力つよくしてなす事の人のためによきこと一もなかりしが。有時人にいふやう。今年は年もゆたかなれば。たれたれもたのしみこそすらめととひければ。三害といふものいまだのぞかざればたのしむ人有べからずとこたふ。周處その三がいは何々ぞといひければ。一には南山にひたいの白き虎のありて人をくらふと。二には長橋といふはしの下に。みづちといふものの出て。人をそこなふと。三にはなんぢがふるまひをいふとこたへければ。周處此よしを聞て。すなはちつるぎをぬきもちて南山へ入て虎をほろぼし。長橋の下におりくだりてみづちをころし。をのれは俄にがくもんをして。引替善人になれるためしあれば。きのふまではあやまれる事も。一念ひるがへせば。無量の罪たちまちにほろぶることなるべし。

一訴訟の奉行人其仁を選ばるべき事。

凡奉行人は天下の公事を執行ふ職たるによりて。政道の善惡もととして是によるべし。いかにも心正直にして私を不㆑存。黑白をわきまへ。文筆に達し。理非にまかせて贔負をいたさゞらんをよき奉行とは稱すべし。是によりてあやまりあらん奉行人をばながくめしつかはるべからざるよし貞永の式目にのせられ侍り。兩方の支證をとり合せ。究决せられて。理有方へ付られたるをもとの給人として。難澁をいたさんをば別て罪科に處せらるべし。いはんや奉行人として存知ながらとりあげ披露せんは大なる越度なるべし。もし又奉行人として贔負をいたし。かたてうちになされたる公事たらば。越訴を立て申さん事。其咎有べからず。其方の奉行たる人。傍輩にかたらはされ。媚をなして理をまげんは。かへすがへす口惜かるべし。御法にも奉行をさしをきて別人に付て訴訟をいたす事をば停止せらるといへども。時にしたがひ事によるべし。いかにも內奏强緣をもてもなげき申べきことなるべし。又諸人の愁は緩怠に過たるはなし。むなしく廿ケ日を過ば庭中を出すべき制法ありといへども。理運の訴訟にいたりてはいかにも不日にこれを申さたすべし。いはんや一所懸命の地。人にさまたげられん輩においては。明日を期せざる存命也。いかでか慈悲の心をもてあはれみをたれざらんや。所詮親疎を論ぜず。理非にまかせてわたくしの賄賂にふけらず。公方の瑕瑾にならざる樣に正路にをイ申さたせん奉行人においては。別て臨時の勸賞もをこなはれて。後見の忠勤をすゝめらるべきものをや。

一近習者をえらばるべき事。

是は建武の十七ケ條の中にものせられ侍る題目也。其器用をえらばるべきこと尤然るべし。又黨類を結。たがひに毀譽をなす事。誠に鬪靜のもとゐ成べし。たとひ私のうらみをさしはさむといふとも。公庭において其色をあらはす事は未練のいたり成べし。さてその器用といふは事々によりて一具に定るべからず。孔子の門弟には四科をたて侍り。高祖の功臣には三傑の不同有がごとし。いかさま一には正直廉潔にしてごくしん極愼なる人をえらばるべし。二には奉公の忠節をいたして私をかへりみざる人。三には弓馬の道に達して心いさみ有人。四には和漢の才藝あらん人をよしとすべし。又よからぬ類をいはゞ。一にはうろん猛惡にして欲にふける人。二には不奉公にして人の非をいふことをこのむ。三には武藝の道につたなくして臆病第一也。四には狂言綺語をもて人にわらはるゝを面目とす。すべてよからぬ事どもをいひてはさらにがいさい涯際有べからず。但近習者とて召遣れんはいづれをも先れんみんは有べし。春の雨の草木をうるほす事大小の根莖をわかたざるがごとし。子を兒るは父にしかず。臣をみるは君にしかずと申侍れば。よきあしきに付て其心得をみ給て。正躰なき者の申事には同心あるべからず。狐狸は人をばかす物ぞとしりぬればばかされぬがごとし。次に君のあやまりましまさむ時はいさめ申を忠心[臣歟]といふ。存知しながら申入ざらんをば不忠の人といふべし。いさめ申につきては。機嫌によりてかならずいかりをなし給ふことも有べし。いかにも生涯にかへても申べき事をば申べき也。君も又いかに御意にちがふことなりとも。それを咎になさるゝ事はゆめゆめ有べからず。大事と存ずればこそ是程までは申らめと。別して後には勸賞をもをこなはるべき事也。さりながら此比の人はいかによきことなれども我心にたがふをばわろしと申。わろき事なれども我心にかなふをばよしと申侍べし。かやうならんいさめは只我心にまかせていふことなれば。國のためそのしるし有べからず。さればまづ人をよく心み給ふべき事也。昔朱雲といふ人漢の成帝をいさめし時。帝大に逆鱗ありて廷尉に仰付られ。朱雲をきられんとて引出さるゝ時。朱雲は出じとすまひし程に。取つきたる殿の檻をひきおりたり。是をのちに修理せんと申人ありしを。成帝はすべて修理すること有べからず。君のあやまり有時はかくこそいさめしものはあれと。後の人に見せてためしにせんとの給へり。あやまりまします時。いさめをいれざれば。國をも天下をもうしなふによりて。唐の太宗はいさめ申ものをことに賞し給へる也。侍從の官をば闕たるををぎぬ[な歟]ひ遺をひろふといひて。君のあやまりあり又わすれ給ふことをひそかにつげ申つかさ也。諫議大夫といふは今の宰相をいふ也。是はもはらいさめをつかさどる軄なり。昔よりかくのごとくいさめの事はなくてかなふまじき事にさだめられたる也。是は公私大小の差別こそあれ。一家のあるじたりといふともそれあやまりあらば。分々に其ひくはんにんたる人はいさむべき事なるべし。次に讒奏といふことはあさましき事に侍り。しろきをくろく。黑をば白きと申なす事。靑蠅の物をけがすにたとへ侍り。周の代に成王と申御門は周公旦とていみじき聖人にて國をおさめ侍りしを。管叔蔡叔といふあしきをとゝ二人ありて讒奏せられしかば。成王誠と覺しめして周公をしりぞけられき。其時雨風あらく。世のなかさはがしく。秋の田のみなども損じ侍りしうへ。成王の父武王の病し給ひし時。命にかはらんと周公のかき給へるちかひの言葉。金縢の書といふ物をもとめ出されて。これほどの忠有人なりけりとて。めしかへされて。讒奏したるをとゝ二人をば誅せられしかば。雨風もたちまちにやみ。田のみもおきなをれるよし申傅へ侍り。又めでたきためしに申侍る延喜の御門も時平のおとゞの讒奏によりて菅丞相の御事もいできたりし事也。鎌倉の右大將の時梶原平三景時が讒言によりてあまたの人をそんじけるとかや。さてこそ後には景時。其子景季以下同時にことごとく誅せられて。あさましき死をし侍りけるとなん。人のあしきことは何よりも讒言にて侍れば。君たる人はよくその心をえ給ふべきにこそ。

一足がるといふ者長く停止せらるべき事。

昔より天下の亂るゝことは侍れど。足がるといふことは舊記などにもしるさゞる名目也。平家のかぶろといふ事をこそめづらしきためしに申侍れ。此たびはじめて出來れる足がるは超過したる惡黨也。其故は洛中洛外の諸社。諸寺。五山十刹。公家。門跡の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所にをきては力なし。さもなき所々を打やぶり。或は火をかけて財賓をみ見さくる事は。ひとへにひる强盜といふべし。かゝるためしは先代未聞のこと也。是はしかしながら。武藝のすたるゝ所にかゝる事は出來れり。名有侍のたゝかふべき所をかれらにぬきゝせたるゆへなるべし。されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして當座の耻辱のみならず。末代までの瑕瑾を殘せるたぐひも有とぞ聞えし。いづれも主のなきものは有べからず。向後もかゝることあらば。をのをの主々にかけられて糺明あるべし。又土民商人たらば。在地におほせ付られて罪科有べき制禁ををかれば。千に一もやむ事や侍べき。さもこそ下剋上の世ならめ。外國の聞えも耻づべき事成べし。

一簾中より政務ををこなはるゝ事。

此日本國をば姬氏國といひ又倭王國と名付て。女のおさむべき國といへり。されば天照太神は始祖の陰神也。神功皇后は中興の女主たり。此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが。新羅百濟などをせめなびかして足原國をおこし給へり。目出かりし事ども也。又推古三十四代天皇も女にて。朝のまつり事を行ひ給ひし時。聖德太子は攝政し給て。十七ケ條の憲法などさだめさせ給へり。其後皇極三十六代持統四十一代元明四十三代元正四十四代孝謙四十六代の五代も皆女にて位に付。政をおさめ給へり。もろこしには呂太后と申は漢の高祖の后惠帝の母にて政をつかさどり侍り。唐の世には則天皇后と申は高宗の后中宗の母にて年久敷世をたもち侍り。宋朝に宣仁皇后と申侍りしは哲宗皇帝の母にて。簾中ながら天下の政道ををこなひ給へり。これを垂簾の政とは申侍る也。ちかくは鎌倉の右大將の北の方尼二位政子と申しは北條の四郞平の時政がむすめにて二代將軍の母なり。大將のあやまりあることをも此二位の敎訓し侍し也。大將の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有しかば。承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名共に廻文をまはし下知し侍りけり。貞觀政要と云書十卷をば菅家の爲長卿といひし人に和字にかゝせて天下の政のたすけとし侍りしも此二位尼のしわざ也。かくて光明峯寺道家の關白の末子を鎌倉へよび下し猶子にし侍りて將軍の宣旨を申なし侍り。七條の將軍賴經と申は是也。此將軍の代貞永元年に五十一ケ條の式目をさだめ侍て。今にいたるまで武家のかゞみとなれるにや。されば男女によらず天下の道理にくらからずば。政道の事。輔佐の力を合をこなひ給はん事。さらにわづらひ有べからずと覺侍り。

一天下主領の人かならず威勢有べき事。

人の威勢は善惡にわたるべし。道理をしれる人にははぢおそれてまことに歸伏すること有。又無理非道の人にはとがめられじとて心ならずおぢはゞかる事有。三尺の利劒は箱の中を出ざれども人是をおそれ。いかづちのこゑは百里の外に聞えてきもをけすがごとし。又猛虎は深山に有時もゝのけだ物をののきふるふ。麒麟は角のうへにしゝ有によりていきほひあれども人をやぶらず。是を聖人は威ありてたけからずとの給へり。此ゆへに武の道は威勢有を其德とす。その威勢といふは。ちかきより遠に及ぼし少事によりて大事も成就す。近をいるがせにすれば。遠き人聞傳ておそるゝ心なし。少事を指をかれば。大儀はいよいよ成事かたし。法分のさだむるところ理に當てをこなはるゝことを施行せざるを違勅の人といひて一段の罪科あるなり。人の訴詔理にまかせてかへし付らるゝ所に。この間もち付たる人。難澁を出すことあり。誠不便なる事ならば。をつてかはりの地をあてをこなはるゝとも理をば理とつけらるべし。それに猶違亂を出す事あらば。所當の罪科なくては有べからず。上裁を背上は。先出仕をとゞめ。餘の所領もあらば沒收せらるべき歟。又向後かれが申事。たとひ理有事成とも聞入給ふべからざるか。かくのごとくの制法ををかれずは。上をあなづること更にたゆべからず。又一國の守護など所勘にしたがはざらんをばいかゞはせん。凡大將軍といふは。おほやけの御かためとしてしきみの外を制し給ふべきゆるされをかうぶれる軄として。成敗有ことを違背申さむは。別して罪科に處せらるべし。代々武將の其例をもて義兵をおこし。朝敵に准じてすみやかに退治のさたに及べき事。理のをす所左右にあたはず。しからずは。はかりごとをとばりの中にめぐらして。いかにも前非を悔。承諾申やうに。うらおもてより計略有べきか。是又仁の道に有べし。それ又しからずは。私なき心をもて冥の照鑒にまかせられば。上裁を用ず雅意にまかせん强敵は。かならず自滅すること有て。俄に威勢を付奉る事。是又前蹤なきにあらず。しばらく時節到來をまたるべき歟。これらの進退よりのきは。ひとへに大將軍の所存に有べし。とかく人の申に及ばざる所也。

樵夫も王道を談ずといふは。いやしき木こりも王者のまつりごとをば語心也。今八ケ條をしるせる事は。八幡大菩薩の加護によりて大八嶋の國を治給ふべき詮要たるによりて。樵談治要とは名付侍る物なるべし。


常德院殿自筆御奧書

右此一册。一條殿御作者也。可㆑祕々々。

  文明十三年十二月六日

自㆓御方御所樣㆒被㆑下也。

  文明十四年七月五日

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「太政官布告第272号(地租改正)」と付属の「地租改正条例」が公布される詳細
1883年(明治16)日本初の私設鉄道として、日本鉄道会社の上野駅~熊谷駅間(現在の東北本線・高崎線)が開業する詳細
1907年(明治41)ロシアのサンクトペテルブルクにおいて、「日露漁業協約」が調印される詳細
1941年(昭和16)日本軍が南部仏印進駐を開始する詳細
1945年(昭和20)青森大空襲において、焼失家屋18,045戸、被災者70,166人、死者1,018人、重軽傷者は255人を出す詳細
1965年(昭和40)推理小説家江戸川乱歩の命日(乱歩忌)詳細
1989年(平成元)「緑の文明学会」・「社団法人日本公園緑地協会」が日本の都市公園100選を選ぶ詳細
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 今日は、室町時代の1467年(応仁元)に、畠山義就が上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった日ですが、新暦では2月22日となります。
 応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の1467年(応仁元)~1477年(文明9)までの約11年間にわたって継続した内乱で、応仁・文明の乱とも呼ばれてきました。足利将軍家ならびに管領畠山、斯波両氏の継嗣問題に端を発し、細川、山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって、東軍(細川勝元方)と西軍(山名宗全方)に分かれて、天下を二分する戦いが続きます。
 最初は京都を舞台に戦いが繰り広げられましたが、戦火は地方にも広がっていき、有力守護家内部における家督争いと有力守護大名間の対立も絡み合いました。1473年(文明5)に、細川勝元と山名宗全の両将が亡くなっても、まだ継続したものの、1477年(文明9年11月11日)に、大内軍が京から撤収し、終結します。
 この戦いにより、京都は焦土と化し、将軍の権威は失墜、幕府体制・荘園制は破壊され、戦国大名の領国制が大きく展開されることとなりました。
 以下に、この戦いを記した『応仁記』の冒頭の一部を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『応仁記』とは?

 室町時代後期の戦記物で、応仁の乱(1467~1477年)の原因と洛中合戦のようす、東軍細川勝元、西軍山名宗全の死に至る模様を叙述しています。作者不詳で、流布本は3巻3冊からなり、『太平記』の影響を受け、漢字片仮名交じり文で書かれました。本編は「乱前御晴之事」以下30段に分かれ、足利将軍家や管領家の内紛事情、洛中戦の状況などを詳述していて、『群書類従』合戦部に収録されています。

 巻第一
 
(1)乱前晴儀之事
(2)熊谷訴状之事
(3)若君誕生之事
(4)武衛家騒動之事附畠山之事
(5)義就・政長闘乱之事
(6)御霊合戦之事
 
 巻第二
 
(7)勝元方蜂起之事
(8)所々合戦之事
(9)一条大宮猪熊合戦之事
(10)井鳥野合戦之事
(11)焼亡之事
(12)三宝院攻落事
(13)岩倉合戦之事
(14)室町亭行幸之事
(15)今出川殿勢州下向之事
(16)相国寺炎上之事
(17)蓮池合戦附政長武勇之事
 
 巻第三
 
(18)赤松家伝之事附神璽之御事
(19)但州合戦之事
(20)醍醐山科合戦之事
(21)船岡山合戦之事
(22)相国寺塔炎上之事
(23)後花園院崩御之事
(24)今出川殿御上洛之事
(25)洛中大焼之事
(26)義視西陣ヘ御出之事付五壇法之事
(27)一条政房卿御最後之事
(28)近江越前軍之事
(29)山崎天王寺合戦之事
(30)山名入道逝去之事付漢寳嬰事

〇『応仁記』巻第一(冒頭)

(1)乱前ノ晴儀[1]ノ事

応仁丁亥ノ歳[2]天下大ニ動乱シ、ソレヨリ永ク五畿七道[3]悉ク乱ル。其起ヲ尋ルニ尊氏将軍ノ七代目ノ将軍義政[4]公ノ天下ノ成敗[5]ヲ有道[6]ノ管領[7]ニ不任、タダ御台所[8]或ハ香樹院[9]或ハ春日局[10]ナド云、理非[11]ヲモ不弁、公事政道[12]ヲモ知リ給ハザル青女房[13]、比丘尼[14]達計ヒ[15]トシテ酒宴淫楽ノ紛レニ[16]申沙汰セラレ[17]、亦伊勢守貞親[18]ヤ鹿苑院ノ蔭凉軒[19]ナンドト評定セラレケレバ、今迄贔負ニ募テ[20]論人[21]ニ申与ベキ所領ヲモ、又賄賂ニ耽ル訴人ニ理ヲ付ケ[22]、又奉行所ヨリ本主安堵ヲ給レバ[23]、御台所[8]ヨリ恩賞ニ被行。此ノ如ク錯乱セシ間[24]、畠山ノ両家(義就・政長)[25]モ文安元年甲子ヨリ今年ニ至ル迄廿四年ノ間ニ、互ニ勘道ヲ蒙ル[26]事三ケ度、赦免セラルル事三ケ度ニ及ブ。何ノ不義ナク又何ノ忠モナシ[27]。之ニ依テ京童[28]ノ諺ニ、『勘道ニ科[29]ナク赦免ニ忠ナシ』ト笑ケル。又武衛両家(義敏・義廉)、ワヅカニ廿年ノ中ニ改動[30]セラルゝ事両度也、是皆伊勢守貞親[18]色ヲ好ミ、淫着[31]シ贔負セシ故也。加之大乱ノ起ルベキ瑞相[32]ニヤ。公家武家共ニ大ニ移リ、都鄙[33]遠境[34]ノ人民迄花麗[35]ヲ好ミ、諸家大営[36]、万民ノ弊[37]言語道断[38]也。之依万民憂悲苦悩[39]シテ、夏[40]ノ世ノ民ガ桀王[41]ノ妄悪[42]ヲ恨デ、此日何カ亡ン。我爾与倶ニ亡ント謳シガ如。若此時忠臣アラバ、ナドカ之ヲ諌メ奉ラザランヤ。然レドモタダ天下ハ破レバ破レヨ、世間ハ滅ババ滅バヨ、人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ他ヨリ一段瑩羹様[43]ニ振舞ント成行ケリ。五、六年ノ間、一度ノ晴儀[1]サヘユユシキ諸家ノ大儀ナルニ、此間打続キ九ヶ度迄執リ行ハレケル。先ズ一番ニ将軍家ノ大将ノ御拝賀結構、二番ニ寛政五年三月、観世[44]ガ瓦猿楽[45]、三番ニ同年七月、後土御門院[46]ノ御即位、四番に同六年三月、花頂山・若王子・大原野ノ花見ノ会、五番に同年八月、八幡ノ上掲[47]、六番に同年九月、春日御社[48]参、七番二同年十二月、大嘗会[49]、八番二文政元年三月、伊勢[50]御参宮、九番に花の御幸[51]ナリ。去レバ花御覧ノ結構ハ百味百菓ヲ以ツクリ、御前ノ御相伴衆[52]ノ筋ヲバ金ヲ以テ之ヲ展ベ、御供衆ノ筋ヲバ沈ヲ以テ之ヲ削リ、金ヲ以テ逆鰐口[53]ヲカク。此如面面粧ヲノミ刷ント奔走[54]セシマヽ、皆所領ヲ質ニ置キ、財宝ヲ沽却[55]シテ之動。諸国土民百姓ニ課役ヲカケ、段銭[56]・棟別[57]ヲ色々ノ様ヲカヘテ譴責[58]スレハ、国々ノ名主[59]・百姓ハ耕作ヲシエズ、田畠ヲ捨て乞食[60]シ、足手[61]ニマカセテモダヘ行ク。之ニ依テ萬邦[62]ノ郷里村県ハ、大半郊原[63]ト成ニケリ。鳴呼、鹿苑院殿[64]御代ニ倉役[65]四季ニカカリ、普黄院殿[66]ノ御代ニ成、一年ニ十二度カカリケル、当御代[67]臨時ノ倉役[65]トテ大嘗会[49]ノ有リシ十一月ハ九ケ度十二月八カ度也。又彼借銭ヲ破ラントテ、前代未聞徳政[68]ト云フ事ヲ此御代ニ十三カ度迄行ハレケレバ、倉方[69]モ地下方[70]ヘ皆絶ハテケリ。サレバ大乱ノ起ルベキヲ天予[71]メ示サレケルカ、寛正六年九月十三日夜亥ノ刻[72]ニ、坤方[73]ヨリ艮方[74]ヘ光ル物飛渡リケル。天地鳴動[75]シテ乾坤[76]モ忽折レ、世界モ震裂[77]スルカト覚エケル。アン浅猿シ[78]。
(後略)

 『応仁記』巻第一より

【注釈】

[1]晴儀:せいぎ=はれがましい儀式。盛儀。
[2]応仁丁亥ノ歳:おうにんていがいのとし=1467年(応仁元)のこと。
[3]五畿七道:ごきしちどう=五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)。また、日本全国の意味。 
[4]将軍義政:しょうぐんよしまさ=室町幕府第8代将軍足利義政のこと。
[5]成敗:せいばい=政治を行なうこと。政務を執ること。執政。政務。
[6]有道:うどう=正しい道にかなっていること。正道を行なうこと。徳が備わっていること。
[7]管領:かんれい=室町幕府の職名。政務の最高責任者として将軍を補佐した。
[8]御台所:みだいどころ=将軍の婦人日野富子のこと。
[9]香樹院:きょうじゅいん=当時政界で暗躍していた女性。
[10]春日局:かすがのつぼね=当時政界で暗躍していた女性。
[11]理非:りひ=道理に合うことと背くこと。
[12]公事政道:くじせいどう=裁判や政治。
[13]青女房:くじせいどう=若い女房。ここでは春日局のこと。
[14]比丘尼:びくに=尼僧。ここでは香樹院のこと。
[15]計ヒ:はからい=考え定める。計画する。
[16]酒宴淫楽ノ紛レニ:しゅえんいんらくのまぎれに=酒盛りの席上や淫らな楽しみのさなかに政務を行う。
[17]申沙汰セラレ:もうしさたせられ=訴訟の取次や判決が行われ。
[18]伊勢守貞親:もうしさたせられ=当時の政所執事伊勢貞親。
[19]鹿苑院ノ蔭凉軒:ろくおんいんのいんりょうけん=相国寺鹿苑院の寮舎。ここでは軒主の季瓊真蘂のこと。
[20]贔負ニ募テ:ひいきにつのって=気に入った者に格別に力添えをしていたのに。
[21]論人:ろんにん=被告。
[22]訴人ニ理ヲ付ケ:そにんにりをつけ=原告に道理がかなっているとこじつける。
[23]本主安堵ヲ給レバ:ほんしゅあんどをたまわれば=本主が所領の安堵を給与されると。
[24]錯乱セシ間:さくらんせしあいだ=政治が乱れていた間に。
[25]畠山ノ両家(義就・政長):はたけやまのりょうけ(よしひろ・まさなが)=三管領家の一つで、兄弟の家督相続問題が起きた。
[26]勘道ヲ蒙ル:かんどうをこうむる=譴責を受ける。勘気を蒙る。
[27]何ノ不義ナク又何ノ忠モナシ:なんのふぎなくまたなんのちゅうもなし=何の落ち度もなかったし、また何の忠節があったわけではない。
[28]京童:きょうわらんべ=京都の口さがのない者。
[29]科:とが=罪科。
[30]改動:かいどう=職や地位、また、いったん決定した事柄などをあらため動かすこと。変動。更迭。
[31]淫着:いんちゃく=淫らとなる。
[32]瑞相:ずいそう=前ぶれ。前兆。きざし。
[33]都鄙:とゆう=都会と田舎。
[34]遠境:えんきょう=遠く離れた土地、または場所。遠国。遠地。
[35]花麗:かれい=はなやかで美しいこと。はでであること。また、そのさま。
[36]大営:だいえい=規模の大きな仕事や計画。大事業。
[37]弊:へい=疲れ、おとろえること。疲弊。
[38]言語道断:ごんごどうだん=あまりひどくてことばも出ないほどであること。きわめて悪くて、何ともいいようがないこと。もってのほか。
[39]憂悲苦悩:ゆうひくのう=憂い悲しみ、苦しみ悩む。
[40]夏:か=紀元前1900年頃~紀元前1600年頃にあったとされる、史書に記された中国最古の王朝。夏后氏ともいう。
[41]桀王:けつおう=中国古代の夏王朝最後の王。姓名はじ履癸。妹喜を溺愛し,酒池肉林を楽しみ民心を失い、殷の湯王に滅ぼされたとされる。
[42]妄悪:ぼうあく=筋道がなく、でたらめであくどいこと。
[43]瑩羹様:かがやかんよう=光輝くように。きらびやかに。
[44]観世:かんぜ=能楽師。
[45]瓦猿楽:かわらさるがく=糺河原の勧進(寄付を募る)猿楽(古代~中世に盛んに行われた芸能)のこと。
[46]後土御門院:ごつちみかどいん=第103代とされる天皇(1442―1500年)で、在位は1464~1500年。
[47]八幡ノ上掲:はちまんのしょうけい=石清水八幡宮の祭事。
[48]春日御社:かすがみやしろ=奈良市春日野町、春日山の西側のふもとにある神社。
[49]大嘗会:だいじょうえ=天皇即位後の最初の新嘗祭、ここでは1465年(寛正6)の土御門天皇の時のもの。
[50]伊勢:いせ=三重県伊勢市の伊勢神宮のこと。
[51]御幸:みゆき=天皇の外出をいう。行幸(ぎょうこう)。
[52]相伴衆:しょうばんしゅう=将軍 が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。
[53]鰐口:わにぐち=神殿や仏殿の軒先などにつるす円形・中空で、下方が横長にさけている銅製の具。
[54]奔走:ほんそう=走りまわること。忙しく立ちまわること。
[55]沽却:こきゃく=物品を売り払うこと。売却。
[56]段銭:たんせん=臨時の税。田の面積一段別に銭何文宛と算定したのでこの名がある。
[57]棟別:むなべつ=家屋の棟別に賦課された臨時の税。
[58]譴責:けんせき=きびしく責めること。責めうながすこと。
[59]名主:みょうしゅ=名田 (みょうでん) の所有者。
[60]乞食:こつじき=食物や金銭を人から恵んでもらって生活すること。また、その人。
[61]足手:あして=足と手。てあし。また、からだ。
[62]萬邦:ばんぽう=多くの国。あらゆる国。万国。
[63]郊原:こうげん=野原。原野。野辺。荒地。
[64]鹿苑院殿:ろくおんいんどの=第3代将軍足利義満のこと。
[65]倉役:くらやく=土倉に対する課税。営業税。土倉役。
[66]普黄院殿:ふこういんどの=第6代将軍足利義教のこと。
[67]当御代:とうみよ=第8代将軍足利義政(院号:慈照院)のこと。
[68]徳政:とくせい=債権・債務の破棄令。
[69]倉方:くらかた=幕府御用の土倉。
[70]地下方:じげがた=幕府御用でない一般の土倉。
[71]天予:てんよ=天の啓示。
[72]亥ノ刻:いのこく=午後10時頃。
[73]坤方:ひつじさるかた=未申の方向。南西方向。
[74]艮方:うしとらかた=丑寅の方向。北東方向。
[75]鳴動:めいどう=大きな音をたててゆれ動くこと。鳴りうごくこと。また、その音響と震動。
[76]乾坤:けんこん=天と地。天地。
[77]震裂:しんれつ=地面が揺れ動き、裂けること。
[78]浅猿シ:あさまし=驚歎。興ざめ。嘆かわしい。

<現代語訳>

(1)乱前のはれがましい儀式の事

 応仁元年丁亥(1467年)、天下は大動乱となり、それ以来、長期にわたって、日本全国は悉く乱れることとなった。その原因は、初代足利尊氏より七代目の将軍義政公が、天下の政務を徳が備わっている管領に任せず、もっぱら夫人(日野富子)や香樹院、春日局などといった、物事の道理もわきまえず、裁判や政治をも知らない若い女房や尼僧たちの考えで、酒盛りの席上や淫らな楽しみのさなかに政務を行なわせたことだ。また、伊勢守貞親や鹿苑院の蔭凉軒(季瓊真蘂)などと相談して行ったので、いままでのお気に入りの者が訴えられると訴えられた者に所領を与え、被告から賄賂をもらうと今度は被告の勝訴とするありさまだった。また、奉行所から本主が所領の安堵を給与されると、その一方で、夫人(日野富子)が恩賞として他の者に与えられるという具合であった。政治が乱れていた間に、畠山の両家(義就・政長)も、文安元年甲子(1444年)からこの年(1467年)に至るまでの24年間に、譴責を受けたことは三度、赦免されたことも三度に及んだ。何の落ち度もなかったし、また何の忠節があったわけではない。そのため京都の口さがのない者は、「勘当に当たって罪科無く、赦免に当たって忠義無し」と言って笑ったものである。また、武衛両家は、わずか20年の間に二度更迭された。これは、伊勢守貞親が色を好み淫らとなって、贔屓したためである。これに加え、大乱の起こるべき前兆であったのか、公家も武家も共におおいに対象が変わり、都会でも田舎でも遠国の人々まで華やかで美しいことを好み、諸家は大きな儀式を企て、多くの人々の疲弊はあまりひどくてことばも出ないほどであった。こうして多くの人々は憂い悲しみ、苦しみ悩み、夏の人々が桀王の筋道がなく、でたらめであくどいことを恨んで、「この世はいつか亡びるであろう。我と汝と、共に亡びよう。」と歌ったのと同じ様な状況であった。もしこの時に忠臣がいたならば諌言しないはずはなかった。しかし、天下が破れるなら破れてよい。世の中が滅びるなら滅びてよい。他人はどうでも我が身さえ富栄えれば、他人より一段ときらびやかに振舞おうという風潮となっていた。五、六年の間に一度のはれがましい儀式でさえ諸家のやっかい事なのに、この期間に続けて九回も執行された。まず一番に、将軍家の大将の御拝賀の準備。二番に、寛正5年(1464年)3月の観世の河原猿楽(糺河原の勧進猿楽)。三番に、同年7月の後土御門院の御即位。四番に、同6年(1465年)3月の花頂山・若王子・大原野の花見の会。五番に、同8月の石清水八幡宮の上卿。六番に、同年9月の春日御社参拝。七番に、同12月の大嘗会。八番に、文正元年(1466年)3月の伊勢御参宮。九番に、花の御幸である。それゆえに、花御覧の準備には百味百菓を作って、将軍に随従・相伴する人々の道筋を金で飾り、御供衆の道筋は沈香で削って、金で作った逆鰐口を掛けた。このように、人々は装いのみを調えようと走りまわったので、みな所領を質に置き、財宝を売却して、これに勤めた。諸国の土民に課役をかけ、田の面積毎の臨時税・家屋の棟別の臨時税を徴収したので、国々の名主、百姓は耕作することができず、田畑を捨てて乞食になり、その身を食いつなぐがやっとの有様となった。これによって、国々の郷里村県は、大半が荒地となってしまった。ああ、鹿苑院殿(足利義満)の御代に、土倉に対する課税が四季にかかることになり、普広院殿(足利義教)の御代になって、一年に十二度かかることになった。当代(足利義政)になっては、臨時の土倉に対する課税が、大嘗会のあった11月には9回、12月には8回もかけられた。また、借金を反古にしようと、前代未聞の債権・債務の破棄令というものをこの御代に13回も行われたので、幕府御用の土倉も幕府御用でない一般の土倉も、皆いなくなってしまった。このような有様だったので、大乱が起こることを天の啓示によって示されたのか、寛正6年(1465年)9月13日の夜、午後10時頃に、南西方向から北東方向に光る物が飛んだ。天地は鳴り動いて、天と地も裂けるかと思われた。嘆かわしいことであった。
(後略)

☆応仁の乱関係略年表

<応仁元年(1467年)>
・1月18日 畠山義就が上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まる
・5月26日 京都市街戦が決行(上京の戦い)される
・6月3日 足利義政、牙旗を細川勝元に授ける
・6月11日 恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺される
・8月 伊勢貞藤(貞親の弟)が京から追放される
・10月3日 後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発する

<応仁2年(1468年)>
・京の洛外の主要社寺もほとんど兵火にみまわれる
・11月23日 足利義視が山名宗全の陣に投ずる

<文明元年(1469年)>
・九州の大友親繁、少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻する

<文明2年(1470年)>
・2月 大内教幸自身が反乱を起こす 
・7月頃 山城の大半が西軍の制圧下となる

<文明3年(1471年)>
・越前守護代朝倉孝景の幕府帰参は東軍の優勢を決定づける

<文明4年(1472年)>
・細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める

<文明5年(1473年)>
・3月18日 山名宗全が死去する
・5月11日 細川勝元が死去する
・12月19日 足利義政が義尚に将軍職を譲って隠居する

<文明6年(1474年)>
・4月3日 山名政豊と細川政元が講和する
・7月 富樫幸千代と富樫政親・朝倉孝景・本願寺門徒連合軍が戦う

<文明7年(1475年)>
・2月 甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命される 
・11月 斯波義廉が守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶つ

<文明8年(1476年)>
・9月 足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送くる 
・12月 足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答する

<文明9年(1477年)>
・9月 畠山義就が長期にわたり占領していた山城を退去する
・9月22日 畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、河内国に下国する
・11月3日 大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵される
・11月11日 大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の明徳2/元中8年に、武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)の山名氏清が明徳の乱の内野の合戦に敗れて、戦死した日ですが、新暦では1392年1月24日となります。
 山名氏清(やまな うじきよ)は、1344年(康永3/興国5)に、守護大名山名時氏の四男として生まれました。1371年(建徳2/応安4)に、父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承します。
 1376年(天授2/永和2)に、長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承し、不満を持ちますが、翌年には侍所頭人に任じられました。1378年(天授4/永和4)に、次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ、和泉守護にも任命されます。1382年(永徳2/弘和2)に、南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させ、1385年(至徳2/元中2)には、新たに設置された山城守護職に就任しました。
 1388年(元中5/嘉慶2)に、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利(平尾合戦)します。1389年(元中6/康応元)に、弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだものの、1390年(元中7/康応2)に、叔父満幸と共に、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討って但馬を分国に加えられ、丹波・和泉・山城・但馬の4ヶ国守護職となり、家督にも就きました。
 1391年(元中8/明徳2)に、次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、室町幕府側と対峙し、明徳の乱が始まります。しかし、1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日)に、京都の内野の合戦で大内義弘らの幕府軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死しました。
 これによって、山名氏の勢力は一挙に衰退することとなります。

〇山名氏清関係略年表(日付は旧暦です)

・1344年(康永3年/興国5年) 守護大名山名時氏の四男として生まれる
・1370年(建徳元年/応安3年) 父・山名時氏は長兄・師義に家督を譲る
・1371年(建徳2年/応安4年) 父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承する
・1376年(天授2年/永和2年) 長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承する
・1377年(天授3年/永和3年) 侍所頭人に任じられる
・1378年(天授4年/永和4年) 次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命される
・1382年(永徳2年/弘和2年閏1月) 南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1385年(至徳2年/元中2年12月) 新たに設置された山城守護職に就任する
・1388年(元中5年/嘉慶2年8月17日) 紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利する(平尾合戦)
・1389年(元中6年/康応元年) 弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継ぐ
・1390年(元中7年/康応2年3月) 氏清・満幸の叔父甥に命じて、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討たせ、氏清は但馬を分国に加えられて家督となる
・1391年(元中8年/明徳2年) 次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、明徳の乱が始まる
・1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日) 明徳の乱における京都の内野の合戦で大内義弘らの幕軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死する

☆明徳の乱(めいとくのらん)とは?

 南北朝時代の1392年1月13日(元中8/明徳2年12月19日)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱です。
 山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放しました。しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになります。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。
 これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立します。 

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2年/永徳2年閏1月) 山名氏清が南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

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 今日は、室町時代の1505年(永正2)に、室町幕府より「撰銭令」が出された日ですが、新暦では11月5日となります。
 撰銭令(えりぜにれい)は、悪銭の内、特に粗悪銭の流通禁止、及びその他の銭についても撰銭を禁止するなどの銭貨流通に関して出された法令でした。平安時代末期に始まった銭の流通は、室町・戦国時代に経済が発展すると共に、輸入中国銭の不足をきたし、私鋳銭の大量鋳造が行われるようになります。
 この中で、高利貸営業、商取引、年貢公事・反銭の銭納等で、撰銭行為による諸問題が発生するようになりました。これを回避し、銭貨流通を円滑化する為に、室町幕府、戦国大名、社寺などによって、何度もこの法令が出されています。
 その内容は、標準貨幣(中国銭)の設定、選択してよい銭とだめな銭の種別、良悪貨幣の混用の限度、良貨に対する悪貨の割引通用率などとなっていますが、なかなか効果が上がらずに推移しています。このような事態は、江戸時代に銅銭が豊富に鋳造・通用するまで続きました。
 以下に、1505年(永正2)に室町幕府発令の「撰銭令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「撰銭令」 1505年(永正2年10月10日)室町幕府発令

 定む  撰銭[1]の事(京銭[2]・打平[3]等を限る)  
右、唐銭[4]に於ては、善悪をいとはず、少瑕[5]を求めず悉く以て諸人相互いに取り用ふべし。次に悪銭売買[6]の事同じく停止の上は、彼といひ、これといひ[7]、若し違犯の輩有らば、其の身を死罪に行ひ、私宅に至りては結封[8]せらるべきの由、仰せ下さるゝ所也。よって下知くだんの如し。

 永正弐年[9]十月十日  散位 三善朝臣
            豊前守 平朝臣

   『蜷川家文書』より

【注釈】

[1]撰銭:えりぜに=貨幣を授受するとき、良貨を撰(えら)び、悪貨を排除すること。
[2]京銭:きょうせん=南京銭の略。室町時代に明から流入した粗悪銭のこと。
[3]打平:うちひらめ=品質の劣った小型の銭を槌で打って大きくた悪銭。
[4]唐銭:とうせん=中国(宋・元・明)からの渡来銭。
[5]少瑕:しょうか=わずかの傷。小さな欠点。
[6]悪銭売買:あくせんばいばい=粗悪銭を表示した以外の値段で売買する。
[7]彼といひ、これといひ:かれといい、これといい=どちらも。
[8]結封:けっぷう=封をして差し押さえる。
[9]永正弐年:えいしょうにねん=1505年。室町幕府第11代将軍足利義澄の時代。

<現代語訳>

 定む 撰銭について(京銭・打平等に限って)
右のことについて、中国(宋・元・明)からの渡来銭については、良し悪しに関係なく、わずかな傷を気にせず、すべて誰もがお互いに流通するようにせよ。次に、悪銭売買が禁止された以上、(撰銭・悪銭売買)どちらも、もし違反するものがあれば、その者は死刑とし、その私宅においては、封をして差し押さえるよう、将軍(第11代足利義澄)の命令であるので、以上のように通達する。

 永正2年(1505年)10月10日  散位 三善朝臣
               豊前守 平朝臣

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