応永の乱(おうえいのらん)は、有力な守護大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱でした。大内義弘は6ヵ国(周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉)の守護を兼ね、対朝鮮貿易によって富を蓄え、守護大名の中で最大の勢力を誇って、室町幕府第三代将軍足利義満と対抗します。
一方、南北朝合一に成功した義満は幕府権力の安定・絶対化を図ろうとして、有力守護への抑圧と服従を強要し、そのチャンスを狙っていました。1396年(応永6)の渋川満頼の九州探題就任以降、九州では動乱が生じており、義満は、義弘が九州へ赴いたのを好機ととらえ、挑発を開始します。
その中で、九州での動乱平定後も義弘が容易に上洛せず、当時、義満と対立していた鎌倉公方足利満兼と結び対抗しました。10月13日に、義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、義満の政治を批判、満兼の御教書を奉じ討伐の意志を明らかにします。
これに対し、10月28日に、義満は義弘討伐を命じる治罰御教書を出して、応永の乱が始まり、11月8日に義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えました。11月14日に義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じます。
11月29日には、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始しましたが勝敗は決しませんでした。そこで、12月21日に、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し、弟弘茂は下り、乱は終結したものの、防長2ヵ国守護職は弘茂に安堵されています。
翌年3月に、鎌倉公方満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪しました。これによって、大内氏の力をそぎ、守護大名に対する将軍権力が確立したとされています。
一方、南北朝合一に成功した義満は幕府権力の安定・絶対化を図ろうとして、有力守護への抑圧と服従を強要し、そのチャンスを狙っていました。1396年(応永6)の渋川満頼の九州探題就任以降、九州では動乱が生じており、義満は、義弘が九州へ赴いたのを好機ととらえ、挑発を開始します。
その中で、九州での動乱平定後も義弘が容易に上洛せず、当時、義満と対立していた鎌倉公方足利満兼と結び対抗しました。10月13日に、義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、義満の政治を批判、満兼の御教書を奉じ討伐の意志を明らかにします。
これに対し、10月28日に、義満は義弘討伐を命じる治罰御教書を出して、応永の乱が始まり、11月8日に義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えました。11月14日に義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じます。
11月29日には、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始しましたが勝敗は決しませんでした。そこで、12月21日に、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し、弟弘茂は下り、乱は終結したものの、防長2ヵ国守護職は弘茂に安堵されています。
翌年3月に、鎌倉公方満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪しました。これによって、大内氏の力をそぎ、守護大名に対する将軍権力が確立したとされています。
〇応永の乱関係略年表
<応永6年(1399年)>
・10月13日 大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させる
・10月27日 足利義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣する
・10月28日 足利義満は大内義弘討伐を命じる治罰御教書を出す(応永の乱の始まり)
・11月8日 足利義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構える
・11月14日 足利義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じる
・11月29日 幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始するが勝敗は決せず
・12月21日 幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し,弟弘茂は下り,乱は終結する
<応永7年(1400年)>
・3月 鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪する
☆足利義満(あしかが よしみつ)とは?
室町時代の室町幕府第3代将軍です。1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。
1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。
1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1860年(万延元) | 教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日) | 詳細 |
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1962年(昭和37) | 小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日 | 詳細 |