ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:室町幕府

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 今日は、安土桃山時代の1588年(天正16)に、室町幕府最後の将軍・足利義昭が官職を辞し、准三宮の待遇を受け、室町幕府が名目上も滅亡した日ですが、新暦では2月9日となります。
 足利 義昭】(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。
 1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。
 しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。
 同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。
 1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。
 すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。
 それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移り、室町幕府が実質的に滅ぶ
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ることで、室町幕府が名目上も滅亡する
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆室町幕府(むろまちばくふ)とは?

 足利氏が京都に開いた幕府による武家政権です。1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに幕府の発足となりました。
 しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となったのです。しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。
 その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化したのです。そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

☆室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

【初代】尊氏(たかうじ)1338年(建武5)~1358年(延文3)
・1338年 足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開く
・1341年 天龍寺船を元へ送る
・1348年 四条畷の戦いが起こる
・1350年 観応の擾乱が起こる
・1352年 観応半済令が出される

【2代】義詮(よしあきら)1358年(貞治6)~1367年(延文3) 
・1366年 貞治の変が起こる

【3代】義満(よしみつ)1368年(応安元)~1394年(応永元)
・1368年 応安半済令が出される
・1391年 明徳の乱が起こる
・1392年 南北朝が合一する

【4代】義持(よしもち)1394年(応永元)~1423年(応永30)
・1397年 義満が京都の北山に金閣寺を建てる
・1399年 応永の乱がおこる
・1404年 勘合貿易が始まる

【5代義量(よしかず)1423年(応永30)~1425年(応永32)
 空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)

【6代】義教(よしのり)1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・1428年 正長の土一揆が起こる
・1429年 播磨の土一揆が起こる
・1438年 永享の乱が起こる
・1440年 結城合戦が起こる
・1441年 赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する

【7代】義勝(よしかつ)1442年(嘉吉2)~1443年 (嘉吉3)
【8代】義政(よしまさ)1449年(文安6)~1473年(文明5)
・1467年 応仁の乱がおこる

【9代】義尚(よしひさ)1473年(文明5)~1489年(長享3)
・1485年 山城国一揆が起こる
・1488年 加賀の一向一揆が起こる
・1489年 義政が京都東山に銀閣寺を建てる
 空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)

【10代】義稙(よしたね)1490年(延徳2)~1493年(明応2)

【11代】義澄(よしずみ)1494年(明応3)~1508年(永正5)
・1495年 北条早雲が小田原城を奪取する
 (再) 義稙(よしたね)1508年(永正5)~1521年(大永元)
・1510年 朝鮮三浦の日本人が富山浦を攻略(三浦の乱)

【12代】義晴(よしはる)1521年(大永元)~1546年(天文15)
・1523年 寧波の乱が起こる
・1543年 ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える(鉄砲伝来)

【13代】義輝(よしてる)1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来る
・1550年 ポルトガル船、肥前平戸に入港する
・1553年 第4次川中島の戦いが起こる
・1555年 厳島の戦いが起こる
・1560年 桶狭間の戦いが起こる
・1567年 織田信長が美濃加納に楽市令を出す

【14代】義栄(よしひで)1568年(永禄11)~1568年(永禄11)

【15代】義昭(よしあき)1568年(永禄11)~1573年(天正16)
・1568年 織田信長の後押しで義昭が将軍に就く
・1570年 姉川の戦いが起こる
・1571年 比叡山の焼き討ちが起こる
・1572年 三方ヶ原の戦いが起こる
・1573年 織田信長に義昭が追放され、室町幕府が実質的に滅ぶ
・1588年 足利義昭が官職を辞し、准三宮の待遇を受け、室町幕府が名目上も滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1199年(建久10)鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日)詳細
1653年(承応2)町人清右衛門が建議した多摩川から江戸への導水路(玉川上水)着工が許可される(新暦2月10日)詳細
1943年(昭和18)ジャズなど英米の音楽が「敵性音楽」とされ演奏・レコード発売が禁止になる詳細
1945年(昭和20)東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す詳細
1966年(昭和41)「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家舟橋聖一の命日詳細
1992年(平成4)共和汚職事件で自民党の阿部文男衆議院議員(元北海道・沖縄開発庁長官)が逮捕される詳細
2001年(平成13)文芸評論家本多秋五の命日詳細
 
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 今日は、南北朝時代の応安元年/正平23年に、足利義満が室町幕府第3代将軍に就任した日ですが、新暦では1369年2月7日となります。
 足利義満(あしかが よしみつ)は、室町時代の室町幕府第3代将軍です。1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
 1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
 管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。
 1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
 一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
 しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。

〇室町幕府(むろまちばくふ)とは?

 足利氏が京都に開いた幕府による武家政権です。1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに幕府の発足となりました。
 しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となったのです。しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。
 その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化したのです。そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

☆室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

【初代】尊氏(たかうじ)1338年(建武5)~1358年(延文3)
・1338年 足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開く
・1341年 天龍寺船を元へ送る
・1348年 四条畷の戦いが起こる
・1350年 観応の擾乱が起こる
・1352年 観応半済令が出される

【2代】義詮(よしあきら)1358年(貞治6)~1367年(延文3) 
・1366年 貞治の変が起こる

【3代】義満(よしみつ)1368年(応安元)~1394年(応永元)
・1368年 応安半済令が出される
・1391年 明徳の乱が起こる
・1392年 南北朝が合一する

【4代】義持(よしもち)1394年(応永元)~1423年(応永30)
・1397年 義満が京都の北山に金閣寺を建てる
・1399年 応永の乱がおこる
・1404年 勘合貿易が始まる

【5代義量(よしかず)1423年(応永30)~1425年(応永32)
 空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)

【6代】義教(よしのり)1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・1428年 正長の土一揆が起こる
・1429年 播磨の土一揆が起こる
・1438年 永享の乱が起こる
・1440年 結城合戦が起こる
・1441年 赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する

【7代】義勝(よしかつ)1442年(嘉吉2)~1443年 (嘉吉3)
【8代】義政(よしまさ)1449年(文安6)~1473年(文明5)
・1467年 応仁の乱がおこる

【9代】義尚(よしひさ)1473年(文明5)~1489年(長享3)
・1485年 山城国一揆が起こる
・1488年 加賀の一向一揆が起こる
・1489年 義政が京都東山に銀閣寺を建てる
 空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)

【10代】義稙(よしたね)1490年(延徳2)~1493年(明応2)

【11代】義澄(よしずみ)1494年(明応3)~1508年(永正5)
・1495年 北条早雲が小田原城を奪取する
 (再) 義稙(よしたね)1508年(永正5)~1521年(大永元)
・1510年 朝鮮三浦の日本人が富山浦を攻略(三浦の乱)

【12代】義晴(よしはる)1521年(大永元)~1546年(天文15)
・1523年 寧波の乱が起こる
・1543年 ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える(鉄砲伝来)

【13代】義輝(よしてる)1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来る
・1550年 ポルトガル船、肥前平戸に入港する
・1553年 第4次川中島の戦いが起こる
・1555年 厳島の戦いが起こる
・1560年 桶狭間の戦いが起こる
・1567年 織田信長が美濃加納に楽市令を出す

【14代】義栄(よしひで)1568年(永禄11)~1568年(永禄11)

【15代】義昭(よしあき)1568年(永禄11)~1573年(天正16)
・1568年 織田信長の後押しで義昭が将軍に就く
・1570年 姉川の戦いが起こる
・1571年 比叡山の焼き討ちが起こる
・1572年 三方ヶ原の戦いが起こる
・1573年 織田信長に義昭が追放され、室町幕府が滅ぶ

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(明徳2/元中8)武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)山名氏清が明徳の乱に敗れ戦死する(新暦1392年1月24日)詳細
1867年(慶応3)小説家・評論家斎藤緑雨の誕生日(新暦1868年1月24日)詳細
1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1937年(昭和12)東京市バスが木炭バス4台を初運行する詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
1977年(昭和52)生理学者久野寧の命日詳細
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odanobunaga・ashikagayoshia
 今日は、安土桃山時代の1568年(永禄11)に、織田信長が足利義昭を奉じて入京した日ですが、新暦では10月16日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。
 1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。
 しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。
 同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月26日に信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。
 1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。
 すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。
 それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、翌年8月28日に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月26日) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆織田信長(おだ のぶなが)とは?

 戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
 1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。
 1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
 その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。
 さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。
 その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めます。しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)天文学者木村栄の命日詳細
1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
長崎県の福江大火で、家屋604戸が焼失する詳細
1968年(昭和43)厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定する詳細
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 今日は、安土桃山時代の1573年(天正16)に、宇治・槇島城に立て蘢っていた室町幕府第15代将軍・足利義昭が織田信長に降伏して京を追放され、室町幕府が事実上滅亡した日ですが、新暦では8月15日となります。
 室町幕府(むろまちばくふ)は、室町時代に、征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した、日本の武家政権です。1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに幕府の発足となりました。
 しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となったのです。その後も、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。
 それからも、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化したのです。そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

〇織田信長(おだ のぶなが)とは?

 戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
 1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。
 1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
 その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。
 さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。
 その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。

〇足利 義昭(あしかが よしあき)とは?

 室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。
 1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。
 しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。
 同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。
 1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。
 すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。
 それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

☆足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1858年(安政5)安政五カ国条約の一つとされる「日英修好通商条約」が調印される(新暦8月26日)詳細
1866年(慶応2)東洋史学者・評論家内藤湖南の誕生日(新暦8月27日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1923年(大正12)経済学者森嶋通夫の誕生日詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
1996年(平成8)薬学者・薬理学者石館守三の命日詳細
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 今日は、室町時代の1399年(応永6)に、大内義弘が足利義滿に反して堺で挙兵し、応永の乱が始まった日ですが、新暦では11月26日となります。
 応永の乱(おうえいのらん)は、有力な守護大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱でした。大内義弘は6ヵ国(周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉)の守護を兼ね、対朝鮮貿易によって富を蓄え、守護大名の中で最大の勢力を誇って、室町幕府第三代将軍足利義満と対抗します。
 一方、南北朝合一に成功した義満は幕府権力の安定・絶対化を図ろうとして、有力守護への抑圧と服従を強要し、そのチャンスを狙っていました。1396年(応永6)の渋川満頼の九州探題就任以降、九州では動乱が生じており、義満は、義弘が九州へ赴いたのを好機ととらえ、挑発を開始します。
 その中で、九州での動乱平定後も義弘が容易に上洛せず、当時、義満と対立していた鎌倉公方足利満兼と結び対抗しました。10月13日に、義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、義満の政治を批判、満兼の御教書を奉じ討伐の意志を明らかにします。
 これに対し、10月28日に、義満は義弘討伐を命じる治罰御教書を出して、応永の乱が始まり、11月8日に義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えました。11月14日に義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じます。
 11月29日には、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始しましたが勝敗は決しませんでした。そこで、12月21日に、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し、弟弘茂は下り、乱は終結したものの、防長2ヵ国守護職は弘茂に安堵されています。
 翌年3月に、鎌倉公方満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪しました。これによって、大内氏の力をそぎ、守護大名に対する将軍権力が確立したとされています。

〇応永の乱関係略年表

<応永6年(1399年)>
・10月13日 大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させる
・10月27日 足利義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣する
・10月28日 足利義満は大内義弘討伐を命じる治罰御教書を出す(応永の乱の始まり)
・11月8日 足利義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構える
・11月14日 足利義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向し、義弘は評定を開き作戦を談じる
・11月29日 幕府軍が一斉に鬨の声をあげて堺への総攻撃を開始するが勝敗は決せず
・12月21日 幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、早朝に堺へ総攻撃を開始、大内義弘は討死し,弟弘茂は下り,乱は終結する

<応永7年(1400年)>
・3月 鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪する

☆足利義満(あしかが よしみつ)とは?

 室町時代の室町幕府第3代将軍です。1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
 1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
 管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。
 1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
 一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
 しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1861年(文久元)江戸幕府が種痘所を西洋医学所と改称、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となる詳細
1876年(明治9)萩の乱がおきる詳細
1882年(明治15)田鎖式速記の考案者・田鎖綱紀が東京で日本初の速記講習会を開催する(速記記念日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
1956年(昭和31)大阪府大阪市浪速区に現在の通天閣(二代目)が完成する詳細
1962年(昭和37)小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日詳細
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