ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:実業家

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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、実業家・国文学者・俳人角川源義の亡くなった日です。
 角川源義(かどかわ げんよし)は、大正時代の1917年(大正6)10月9日に、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれました。1930年(昭和5)に富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学し、1931年(昭和6)に中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿、1932年(昭和7)には、「草上」に投句をはじめます。
 1935年(昭和10)に中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出ましたが、1936年(昭和11)には、上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会いました。1937年(昭和12)に折口の在籍する国学院大学に入学、折口や武田祐吉、柳田國男に師事したものの、1941年(昭和16)には、臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業します。
 1942年(昭和17)に東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、東京都板橋区小竹町で角川書店を設立、1947年(昭和22)に金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加、1948年(昭和23)には、雑誌「表現」を刊行(~1949年)します。
 1949年(昭和24)に角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救い、1951年(昭和26)には、山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版しました。1952年(昭和27)に俳句総合誌「俳句」を創刊、現代俳句協会に入会し、1953年(昭和28)には、『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こします。
 1954年(昭和29)に短歌総合誌「短歌」創刊、1955年(昭和30)に角川俳句賞と角川短歌賞を設立、1956年(昭和31)に第1句集『ロダンの首』を刊行、1958年(昭和33)には、俳誌「河」を創刊・主宰しました。1961年(昭和36)に現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となり、『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)を得て、1964年(昭和39)には、国学院大学文学部講師となります。
 1967年(昭和42)に俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立、1971年(昭和46)に俳句文学館建設委員長に就任、1972年(昭和47)には、随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。1975年(昭和50)には、慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞したものの、10月27日に入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈されています。

<角川源義の代表的な句>

・「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(ロダンの首)
・「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(秋燕)
・「花あれば西行の日とおもふべし」(西行の日)
・「後の月雨に終るや足まくら」

〇角川源義の主要な著作

・論文集『悲劇文学の発生』(1942年)
・句集『ロダンの首』(1956年)
・文芸評論集『語り物文芸の発生』(1961年)
・文芸評論集『源義経』(1966年)
・句集『秋燕』(1966年)
・句集『神との宴』(1969年)
・随想集『雉子の声』(1972年)第20回日本エッセイストクラブ賞受賞
・句集『冬の虹』(1972年)
・句集『西行の日』(1975年)第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞 

☆角川源義関係略年表

・1917年(大正6)10月9日 富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市水橋)において、商家を営む父・源三郎、母・ヤイの三男として生まれる
・1930年(昭和5) 富山県立神通中学校(現在の県立富山中部高等学校)に入学する
・1931年(昭和6) 中学の校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿する
・1932年(昭和7) 「草上」に投句をはじめる
・1935年(昭和10) 中学卒業後、第四高等学校受験に失敗して受験浪人となり、勉学のために京都に出る
・1936年(昭和11) 上京して東京市立一中(東京都立九段高等学校)の補習科に通い、折口信夫の「古代研究」に出会います
・1937年(昭和12) 折口信夫の在籍する国学院大学に入学、折口信夫や武田祐吉、柳田國男に師事する
・1941年(昭和16) 臨時徴兵制度によって国学院大学国文学科を繰り上げ卒業する
・1942年(昭和17) 東亜学校教授、日本文化協会研究員となり、初めての著書『悲劇文学の発生』を刊行、城北中学校教師となる
・1945年(昭和20) 東京都板橋区小竹町で角川書店を設立する
・1947年(昭和22) 金尾梅の門の「古志」に幹部同人として参加する
・1948年(昭和23) 雑誌「表現」を刊行(~1949年)する
・1949年(昭和24) 角川文庫を創刊、合本として出版した『三太郎の日記』で、廃業寸前の角川書店を救う
・1951年(昭和26) 山本健吉の「現代俳句」を、俳句関連の書物としてはじめて角川書店から出版する
・1952年(昭和27) 俳句総合誌「俳句」創刊、現代俳句協会に入会する
・1953年(昭和28) 『昭和文学全集』(全25巻)の出版を開始し、全集物ブームを引き起こす
・1954年(昭和29) 短歌総合誌「短歌」創刊する
・1955年(昭和30) 角川俳句賞と角川短歌賞を設立する
・1956年(昭和31) 第1句集『ロダンの首』を刊行する
・1958年(昭和33) 俳誌「河」を創刊・主宰する
・1961年(昭和36) 現代俳句協会を離れ、俳人協会設立に参加、常務理事となる。『語り物文芸の発生』で文学博士(国学院大学)となる
・1964年(昭和39) 国学院大学文学部講師となる
・1967年(昭和42) 俳句の「蛇笏賞」と短歌の「迢空賞」を設立する
・1971年(昭和46) 俳句文学館建設委員長に就任する
・1972年(昭和47) 随想集『雉子の声』で第20回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1975年(昭和50) 慶応大学大学院講師、国学院大学理事となり、句集『西行の日』で第27回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、10月27日に、入院していた東京女子医大病院において、肝臓癌のために、58歳で亡くなり、正五位、勲三等を追贈される
・1979年(昭和54) 文学・歴史の学術賞「角川源義賞」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1933年(昭和8)小説家半村良の誕生日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、実業家で「電力王」とも呼ばれた福澤桃介の亡くなった日です。
 福澤桃介(ふくざわ ももすけ)は、1868年(慶應4年6月25日)に武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県比企郡吉見町荒子)の名主の末端の分家で、農業を営む父・岩崎紀一、母・サダの6人兄弟の次男として生まれました。幼い頃、一家で川越町(現在の埼玉県川越市)に移り住み、ここで提灯屋を開業、1878年(明治11)に第八十五国立銀行が設立されると、父は提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになります。川越中学校を卒業後上京して、1883年(明治16年)に福澤諭吉が開いている「慶應義塾」へと入学、1886年(明治19年)には諭吉の次女房との結婚を前提に福澤家へ養子入りして福澤姓となりました。1887年(明治20)に横浜港よりアメリカ合衆国へと向い、語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通い、さらにフィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとなります。1889年(明治22)に帰国し、房と結婚後、北海道炭礦鉄道にに入社して、北海道へ赴きました。1894年(明治27)夏に喀血して結核と診断され、北里柴三郎の病院「養生園」に入院、この頃から株式投資を始めましたが、日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期となります。1898年(明治31)に王子製紙の取締役、翌年に貿易商「丸三商会」の旗揚げなどに関わりましたが、うまくいきませんでした。1901年(明治34)に北海道炭礦鉄道に復帰し、元の重役付として勤め始め、1906年(明治39)の日露戦争後の株式投機で利益を挙げて財を成し、「成金」の一人に数えられるようになります。資金を使って、1907年に日清紡績(株)を発足させて初代専務取締役に就任、1909年(明治42)に福博電気軌道(株)を設立して社長に就任、また中部地方の名古屋電灯(株)を買収するなどいろいろな事業に関わります。翌年に名古屋電燈の常務取締役となり、木曽川水力の開発調査に着手、1912年(明治45)には千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補して当選、一期務めました。1914年(大正3)に名古屋電燈社長に就任、1918年(大正7)に木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立、翌年賤母発電所を建設しました。1919年(大正8)に名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、東海道電気鉄道を設立して社長に就任、1921年(大正10)には木曽電気興業と日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力の前身)、社長に就任しました。木曽川の電力開発を推進し、1922年(大正11)に資材運搬用として桃介橋を完成、翌年に読書第1発電所を竣工、アメリカからの資金調達を得て、1924年(大正13)に大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所を竣工させます。その他、設立や経営に関係した会社は100社に及び、女優川上貞奴との仲も知られましたが、体調を崩し、1928年(昭和3)に実業界を引退しました。1932年(昭和7)に家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居、1937年(昭和12)2月15日に東京の渋谷本邸で、数え年70歳で亡くなっています。

福澤桃介関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年(慶應4年6月25日) 名主の末端の分家で、農業を営む父・岩崎紀一、母・サダの6人兄弟の次男として生まれる
・1883年(明治16年) 慶應義塾に入学する
・1886年(明治19年)12月17日 福澤諭吉の次女「房」との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤桃介となる
・1887年(明治20年) 慶應義塾を卒業する
・1887年(明治20年)2月2月 横浜港よりアメリカ合衆国へと出発する
・1887年(明治20年)3月 アメリカへ到着し、語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通う、
・1888年(明治21年)1月 フィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとなる
・1889年(明治22年)11月15日 アメリカから横浜港に帰着する
・1889年(明治22年)12月 福澤房と結婚する
・1889年(明治22年)12月31日 北海道炭礦鉄道にに入社する
・1894年(明治27年)夏 喀血して結核と診察され、北里柴三郎の病院「養生園」に入院する
・1894年(明治27年) この頃株式投資を始めた。日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期だった
・1898年(明治31年)9月 親戚の中上川彦次郎の紹介で、王子製紙の取締役として入社する
・1899年(明治32年) 健康回復しを機に、貿易商「丸三商会」を旗揚げする
・1901年(明治34年)2月3日 義父の福澤諭吉が死去する
・1901年(明治34年)7月 北海道炭礦鉄道の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付として勤め始める
・1906年(明治39年) 日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられるようになる
・1907年(明治40年)1月 資本金1000万円で日清紡績株式会社が発足すると、初代専務取締役に就任する
・1909年(明治42年)8月 大株主となって福博電気軌道株式会社を設立して自ら社長に就任する
・1909年(明治42年) 中部地方の名古屋電灯を買収する
・1910年(明治43年) 日清紡績常務取締役を辞任して撤退、
・1910年(明治43年)5月 名古屋電燈(株)の常務取締役となり、木曽川水力の開発調査に着手する
・1912年(明治45年) 千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補し当選する
・1913年(大正2年) 名古屋電燈常務に復帰する
・1914年(大正3年) 名古屋電燈社長に就任する
・1918年(大正7年)9月 木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立する
・1918年(大正7年) 電源開発用のセメント製造を目的に名古屋セメントを設立して社長となる 
・1918年(大正7年) 「川上絹布株式会社」が設立され、貞奴は名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をする
・1919年(大正8年) 賤母発電所を築く
・1919年(大正8年)9月 名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、資本金1000万円の東海道電気鉄道を設立、社長に就任する 
・1920年(大正9年) 名古屋市東二葉町に貞奴邸が新築され、川上貞奴と同居する
・1921年(大正10年)2月 日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力の前身)、社長に就任する
・1922年(大正11年) 大同電力、読書第1発電所の資材運搬用として、木曽川に橋長248.8mの吊橋・桃介橋を完成する
・1923年(大正12年) 読書第1発電所が竣工する
・1924年(大正13年)5月13日 資金調達のため、横浜港を出向してアメリカへ向かう
・1924年(大正13年)8月23日 アメリカから帰国する
・1924年(大正13年)12月 大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所が竣工する
・1926年(大正15年)4月 大倉喜八郎の退任に伴い帝国劇場株式会社の会長に就任する
・1926年(大正15年) 大同電力、木曽川水系7カ所に水力発電所16.78万kWを開発する
・1928年(昭和3年)3月、帝国劇場会長を辞任
・1928年(昭和3年)6月6日 実業界引退を宣言する
・1932年(昭和7年) 家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居する
・1937年(昭和12年)2月15日 東京の渋谷本邸で、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細


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 今日は、江戸時代後期の1835年(天保6)に、官僚・実業家・男爵前島密の生まれた日ですが、新暦では2月4日となります。
 前島密は、近代郵便制度の創設者の一人で、1円切手の図案にもなっていました。
 1835年(天保6年1月7日)に、越後国頸城郡下池部村(現在の新潟県上越市)の豪農上野家の父助右衛門、母ていの次男として生まれ、幼名は房五郎と言います。
 1845年(弘化2)に11歳で高田藩の儒学者倉石典太の門に入り、1847年(弘化4)、13歳で江戸に出て苦学の末に医学、蘭学を学びました。
 その後、箱館で武田斐三郎の門下生となって、航海術、測量法を修得し、1865年(慶応元)薩摩藩の開成学校に英学教師として招かれます。翌年、江戸に帰って、幕臣前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗ることになりました。
 1869年(明治2)には、明治政府に出仕し、翌年に租税権正と駅逓権正を兼任し、郵便創業の建議を行います。そして、郵便制度調査のためイギリスに出張、1871年(明治4)帰国後、駅逓頭に就任して、東京~京都~大阪間に官営の郵便事業を開始しました。
 そして、郵便、切手、葉書の名称を定めるなど、近代的郵便制度の確立に尽力し、“郵便制度の父”と呼ばれるようになります。
 しかし、1881年(明治14)の政変で大隈重信らとともに政府を去り、立憲改進党の結成に参加しました。その後、1886年(明治19)には、東京専門学校(現在の早稲田大学)校長に就任し、晩年は実業界でも活動したのです。
 1902年(明治35)男爵に、1904年(明治37)年には、貴族院議員にもなりましたが、1919年(大正8)4月27日に、84歳で亡くなりました。
 尚、新潟県上越市の生家跡には、1931年(昭和6年)11月7日に「前島記念館」が建てられていて、前島密の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙や前島密の遺品、遺墨(絵や絵画)などが展示されています。
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