ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:宝暦事件

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 江戸時代中期の1758年(宝暦8)に、神道学者・竹内式部が公家に尊皇思想を教えた為に逮捕される宝暦事件が起きた日ですが、新暦では8月27日となります。
 宝暦事件(ほうれきじけん)は、京都において、朝権回復を志す尊王論者の少壮公卿らと竹内式部が処罰された事件でした。1757年(宝暦7)に、神道学者の竹内式部が桃園天皇の近習徳大寺公城らに神書・儒書・兵学を講じて大義名分論を唱え、江戸幕府を非難します。
 その講義を受けた公卿10数人は、侍講を説いて、桃園天皇に、式部の学説にのっとった『日本書紀』を進講させました。しかし、この事が朝廷と幕府との関係悪化に発展するのを恐れた、前関白一条道香が公卿の武術稽古禁止を理由に、京都所司代に告訴します。
 その結果、翌年7月に徳大寺らの官を停め永蟄居などの処罰をして天皇の周囲から排除、また、式部は重追放となり、京都を追われ伊勢国宇治山田(現在の三重県伊勢市)へ退去しました。

〇桃園天皇(ももぞのてんのう)とは?

 第116代とされる天皇です。江戸時代中期の1741年(寛保元年2月29日)に、京都において、桜町天皇の第1皇子(母は開明門院)として生まれましたが、名は遐仁(とおひと)と言いました。
 1745年(延享2)に、女御舎子(青綺門院)の養子となり、翌年には、儲君治定され、親王宣下されています。1747年(延享4)に、元服・立太子の儀が行なわれ、父・桜町天皇の譲位により践祚され、即位礼を挙げて、第116代とされる天皇となったものの、父が院政を敷きました。
 1750年(寛延3)に、父・桜町天皇が亡くなり、親政となりましたが、1757年(宝暦7)に垂加流の神道家竹内式部に師事した徳大寺公城らの少壮公家がその神道説を天皇に進講したのをきっかけに、宝暦事件が起こり、翌年には、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰されます。性質英邁にして向学心が大せいで、漢学の造詣も深く、朝儀研究書『禁中例規御覚書』や歌集『桃園天皇御製』なども著し、1760年(宝暦10)には、玉津島社へ御製等50首を奉納していました。
 しかし、儲君英仁親王(のちの後桃園天皇)が幼少のため、代わって皇姉智子内親王(のちの後桜町天皇)の践祚を治定の上、1762年(宝暦12年7月12日)に、京都において、数え年22歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされています。

<桃園天皇の代表的な和歌>

・「神代より 世世にかはらで 君と臣の 道すなほなる 国はわがくに」(公宴御会和歌)
・「春きぬと いはねどけさは いはみのや たかつの山の かすむにぞしる」(桃園天皇宸翰三葉以下五十葉)
・「いまはまた 豐のあかりの をりに逢ひて 昔にかへす 舞姫のそで」

〇桃園天皇の主要な著作

・日記『桃園院御日記』
・朝儀研究書『禁中例規御覚書』
・歌集『桃園天皇御製』

☆桃園天皇関係略年表

・1741年(寛保元年2月29日) 京都において、桜町天皇の第1皇子(母は開明門院)として生まれる
・1745年(延享2年10月) 女御舎子(青綺門院)の養子となる
・1746年(延享3年1月) 儲君治定される
・1746年(延享3年3月) 親王宣下される
・1747年(延享4年3月) 元服・立太子の儀が行なわれる
・1747年(延享4年5月2日) 父・桜町天皇の譲位により践祚する
・1747年(延享4年9月21日) 即位礼を挙げ、第116代とされる天皇となったものの、父が院政を敷く
・1750年(寛延3年4月23日) 父・桜町天皇が亡くなり、親政となる
・1757年(宝暦7年) 垂加流の神道家竹内式部に師事した徳大寺公城らの少壮公家がその神道説を天皇に進講する(宝暦事件のきっかけ)
・1758年(宝暦8年) 宝暦事件により、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰される
・1760年(宝暦10年3月) 玉津島社へ御製等50首を奉納する
・1762年(宝暦12年7月12日) 京都において、数え年22歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

826年(天長3)平安時代初期の公卿藤原冬嗣の命日(新暦8月30日)詳細
1352年(観応3)室町幕府が「観応の半済令」を発布する(新暦9月3日)詳細
1907年(明治40)日本と大韓帝国との間で、「第三次日韓協約」が調印される詳細
1927年(昭和2)小説家芥川龍之介の命日(河童忌)詳細
1950年(昭和25)琵琶湖が第一号の国定公園に指定される詳細
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momozonotennou01
 今日は、江戸時代中期の1762年(宝暦12)に、第116代の天皇とされる桃園天皇の亡くなった日ですが、新暦では8月31日となります。
 桃園天皇(ももぞのてんのう)は、1741年(寛保元年2月29日)に、京都において、桜町天皇の第1皇子(母は開明門院)として生まれましたが、名は遐仁(とおひと)と言いました。1745年(延享2)に、女御舎子(青綺門院)の養子となり、翌年には、儲君治定され、親王宣下されています。
 1747年(延享4)に、元服・立太子の儀が行なわれ、父・桜町天皇の譲位により践祚され、即位礼を挙げて、第116代とされる天皇となったものの、父が院政を敷きました。1750年(寛延3)に、父・桜町天皇が亡くなり、親政となりましたが、1757年(宝暦7)に垂加流の神道家竹内式部に師事した徳大寺公城らの少壮公家がその神道説を天皇に進講したのをきっかけに、宝暦事件が起こり、翌年には、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰されます。
 性質英邁にして向学心が大せいで、漢学の造詣も深く、朝儀研究書『禁中例規御覚書』や歌集『桃園天皇御製』なども著し、1760年(宝暦10)には、玉津島社へ御製等50首を奉納していました。しかし、儲君英仁親王(のちの後桃園天皇)が幼少のため、代わって皇姉智子内親王(のちの後桜町天皇)の践祚を治定の上、1762年(宝暦12年7月12日)に、京都において、数え年22歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされています。

<桃園天皇の代表的な和歌>

・「神代より 世世にかはらで 君と臣の 道すなほなる 国はわがくに」(公宴御会和歌)
・「春きぬと いはねどけさは いはみのや たかつの山の かすむにぞしる」(桃園天皇宸翰三葉以下五十葉)
・「いまはまた 豐のあかりの をりに逢ひて 昔にかへす 舞姫のそで」

〇桃園天皇の主要な著作

・日記『桃園院御日記』
・朝儀研究書『禁中例規御覚書』
・歌集『桃園天皇御製』

☆桃園天皇関係略年表

・1741年(寛保元年2月29日) 京都において、桜町天皇の第1皇子(母は開明門院)として生まれる
・1745年(延享2年10月) 女御舎子(青綺門院)の養子となる
・1746年(延享3年1月) 儲君治定される
・1746年(延享3年3月) 親王宣下される
・1747年(延享4年3月) 元服・立太子の儀が行なわれる
・1747年(延享4年5月2日) 父・桜町天皇の譲位により践祚する
・1747年(延享4年9月21日) 即位礼を挙げ、第116代とされる天皇となったものの、父が院政を敷く
・1750年(寛延3年4月23日) 父・桜町天皇が亡くなり、親政となる
・1757年(宝暦7年) 垂加流の神道家竹内式部に師事した徳大寺公城らの少壮公家がその神道説を天皇に進講する(宝暦事件のきっかけ)
・1758年(宝暦8年) 宝暦事件により、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰される
・1760年(宝暦10年3月) 玉津島社へ御製等50首を奉納する
・1762年(宝暦12年7月12日) 京都において、数え年22歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1303年(乾元2)律宗(真言律宗)の僧忍性の命日(新暦8月25日)詳細
1925年(大正14)東京放送局(現在のNHK放送センター)がラジオ本放送を開始する詳細
1963年(昭和38)工業整備特別地域の指定と新産業都市として指定すべき区域の内定について、閣議決定される詳細
1984年(昭和59)鳥取県の荒神谷遺跡で多数の銅剣を発見詳細
1993年(平成5)北海道南西沖地震(M7.8)が起こり、死者202人、行方不明者28人、負傷者323人を出す詳細
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tokugawaieshige01

 今日は、江戸時代中期の1761年(宝暦11)に、江戸幕府第9代将軍徳川家重の亡くなった日ですが、新暦では7月13日となります。
 徳川家重(とくがわ いえしげ)は、1711年(正徳元年12月21日)に、江戸赤坂の紀州藩邸で、紀州徳川家第5代藩主徳川吉宗(のちの第8代将軍)の長男(母は側室・大久保氏)として生まれましたが、幼名は長福丸と言いました。1716年(享保元年8月13日)に、父・吉宗が江戸幕府代8代将軍となり、江戸城へ入ります。
 1724年(享保9)に将軍後継者となり、1725年(享保10)には、従二位・権大納言に叙任され、元服して家重と名乗りました。1737年(元文2)に長男・竹千代(のちの第10代将軍家治)が生まれ、1745年(延享2)には、次男・萬二郎(のちの清水徳川家の初代当主)が生まれます。
 生来虚弱のうえ、さらに健康を害して、言語も不明瞭となりましたが、父・吉宗の隠居により、同年11月2日に、正二位・内大臣に昇叙転任し、江戸幕府第9代将軍となりました。しかし、父が大御所として実権を握り続けます。
 1751年(寛延4)に、父・吉宗が亡くなると、独自の政策として、1753年(宝暦3)に薩摩藩に木曽川改修を命じ(宝暦治水)、翌年には「宝暦の勝手造り令」を出し、酒造統制の規制を緩和するなどしました。1755年(宝暦5)の凶作がきっかけで、一揆が続発、翌年に大岡忠光を側用人に登用して、重用したものの、1758年(宝暦8)には宝暦事件が起きています。
 同年に、次男・重好に清水門内に邸地を与え(のちの清水徳川家のはじまり)、徳川姓を許し、御三卿体制を整えましたが、1760年(宝暦10)には将軍を辞し、長男(家治)が第10代将軍となり、大御所と称しました。ところが、翌年6月12日には、江戸城内において、数え年51歳で亡くなり、正一位・太政大臣が追贈されています。

〇徳川家重関係略年表(日付は旧暦です)

・1711年(正徳元年12月21日) 江戸赤坂の紀州藩邸で、紀州徳川家第5代藩主徳川吉宗(のちの第8代将軍)の長男として生まれる
・1716年(享保元年8月13日) 父・吉宗が江戸幕府代8代将軍となる
・1724年(享保9年11月15日) 将軍後継者となる
・1725年(享保10年4月9日) 従二位・権大納言に叙任。元服して家重と名乗る
・1731年(享保16年12月) 比宮増子と結婚する
・1737年(元文2年5月22日) 長男・竹千代(のちの第10代将軍家治)が生まれる
・1741年(寛保元年8月7日) 右近衛大将を兼任する
・1745年(延享2年2月15日) 次男・萬二郎(のちの清水徳川家の初代当主)が生まれる
・1745年(延享2年11月2日) 正二位・内大臣に昇叙転任し、江戸幕府第9代将軍となる
・1751年(寛延4年6月20日) 父・徳川吉宗が亡くなる
・1753年(宝暦3年) 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
・1754年(宝暦4年) 「宝暦の勝手造り令」を出し、酒造統制の規制を緩和する
・1755年(宝暦5年) 凶作がきっかけで、一揆が続発する
・1756年(宝暦6年) 大岡忠光を側用人に登用する
・1758年(宝暦8年) 宝暦事件が起こる
・1758年(宝暦8年) 次男・重好に清水門内に邸地を与える(のちの清水徳川家のはじまり)
・1760年(宝暦10年2月4日)  右大臣に転任する
・1760年(宝暦10年4月1日)  征夷大将軍を辞し、長男(家治)に家督を譲る
・1760年(宝暦10年4月26日)  側用人大岡忠光が亡くなる
・1760年(宝暦10年9月2日)  長男(家治)が第10代将軍の宣下を受ける
・1761年(宝暦11年6月12日) 江戸城において、数え年51歳で亡くなる
・1761年(宝暦11年7月24日) 贈正一位・太政大臣となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日)詳細
1910年(明治41)本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船宇高連絡船)が運航開始する詳細
1965年(昭和40)家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される詳細
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