
その講義を受けた公卿10数人は、侍講を説いて、桃園天皇に、式部の学説にのっとった『日本書紀』を進講させました。しかし、この事が朝廷と幕府との関係悪化に発展するのを恐れた、前関白一条道香が公卿の武術稽古禁止を理由に、京都所司代に告訴します。
その結果、翌年7月に徳大寺らの官を停め永蟄居などの処罰をして天皇の周囲から排除、また、式部は重追放となり、京都を追われ伊勢国宇治山田(現在の三重県伊勢市)へ退去しました。
1745年(延享2)に、女御舎子(青綺門院)の養子となり、翌年には、儲君治定され、親王宣下されています。1747年(延享4)に、元服・立太子の儀が行なわれ、父・桜町天皇の譲位により践祚され、即位礼を挙げて、第116代とされる天皇となったものの、父が院政を敷きました。
1750年(寛延3)に、父・桜町天皇が亡くなり、親政となりましたが、1757年(宝暦7)に垂加流の神道家竹内式部に師事した徳大寺公城らの少壮公家がその神道説を天皇に進講したのをきっかけに、宝暦事件が起こり、翌年には、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰されます。性質英邁にして向学心が大せいで、漢学の造詣も深く、朝儀研究書『禁中例規御覚書』や歌集『桃園天皇御製』なども著し、1760年(宝暦10)には、玉津島社へ御製等50首を奉納していました。
しかし、儲君英仁親王(のちの後桃園天皇)が幼少のため、代わって皇姉智子内親王(のちの後桜町天皇)の践祚を治定の上、1762年(宝暦12年7月12日)に、京都において、数え年22歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされています。
